2009年4月5日日曜日
Renaissance humanism
人文主義、権威、疑い(197) 人文主義者は、ルネサンス期の哲学に三つの贈り物を与えた―――すなわち、新しい方法、新しい知識、新しい疑いである。あれほどまでに大量のギリシア・ローマの学知が復活した事は、叡智を追及する上での選択の幅が広がったこと、また歴史学、文献学、哲学がより精緻な道具になるにつれて識別がいっそう鋭くなるだろうという事を意味していた。中世の読者にとって単なる名前に過ぎなかった思想家や学派が、より豊かなアイデンティティを持って表れてきた。思想家・学派の区別が明確になればなるほど、古代人がしばしば互いに意見を違えていたという事が明らかになった。中世に於ても、単一の真理が求められたにもかかわらず、知的権威は決して一元的なものではなかった。ペトルス・アベラルドゥスは『然りと否』について書物を著したし、普遍やその他多数の論題に関する争論のために、スコラ学の討論好きは格言めいたものにまでなった。とはいえ、スコラ学者の論争癖を非難した党の人文主義者たちが発見した古い文献は、哲学的不和を増殖させ激化させたのである。プレトンが開始したプラトンとアリストテレスをめぐる論争はこうした新しい分裂の一つの側面だったし、ベッサリオンの反応は調和への共有されていた郷愁を示す印だった。アリストテレスとプラトンという古代思想の二人の巨人が比較的信頼できるギリシア語原文において明らかにされ、次に印刷により固定されて全ヨーロッパに頒布されると、融和はより困難になった。学者たちの古代についての知見が増大するにつれ、意見の不一致も数を増していった。古代思想の分裂について情報を広めた再発見された文献の一(198)つ、ディオゲネス・ラエルティオスの『哲学者列伝』は、学説誌doxography、つまり対象になる哲学者たちの間の意見doxaの変化と相違を強調する著作だったのであり、人文主義者が様々なヘレニズム気の学派―――ストア学派、エピクロス学派、アカデメイア学派などなど―――に関する知識をさらに発掘すると、学派同士の不和の深さは明白になり不安を掻き立てた。中世は、主としてアリストテレスという一人の哲学者の中で信仰と古代の理性とを結合しなければならなかったが、いまや小人を肩車する複数の巨人が現れると、歩行は危なげなものになったのである。崇敬を大きな特徴とするこの時代においては、諸権威の間の不和はスキャンダルを引き起こし、絶望を生んだ。だがそれは、現代の我々が尊重している哲学的自由を主張し、時にはその為に生命を落とすようにと、より勇気ある思想家を促す事にもなったのである。 このような大胆な精神の持ち主のおかげで、新しい批判的な性格が哲学に導入された。この変形は冒険と独創性の時代というルネサンス像を裏打ちするものだが、それに対抗する手ごわい精力もやはり活動していたのである。批判を正当化するために、近代初期の人々は、通例ある権威への反論の根拠として別の権威を持ち出す必要を感じたのであり、彼らの疑いの出発点は、古さと慣習のために崇敬された文献だった。こうして、丁度大勢の一般キリスト教徒が聖書を異なった視点から読み始めたときに聖書が無数の神学的疑いを植えつけたように、書物の文化に於ても、古典が自らを破壊する事になる種をまいたのである。近代初期の哲学を支配していたのはアリストテレスだったために、新たに開示された哲学的諸体系から最も頻繁に攻撃の標的とされたのも、アリストテレス主義の教説だった。中世に於ても、ルネサンス期に確信を切り崩したのと同一のラテン語著述家の何人かは知られていた。例えば、キケロとセネカは絶えず読まれ続けた著作家だった。しかし、古代末期に―――あるものは物理的な、あるものは文化的な―――淘汰の過程が古代文献の選別を開始して、それらを中世の読者にとって断片的な方々に散在する状態においてしまった。ルネサンス期の人文主義者は,分散した文献を再び寄せ集め,キリスト教の様々な郷里を証明するための孤立したテクストとしてではな(199)く、独自の文化的個性を備えたより大きな非キリスト教的総体の部分としてそれらが読まれる事を求めて、その潜在的破壊力を増幅したのである。古典が近代初期の文化において不和の動因として最大の力を得るためには、意図的に歴史学的な文献学という文脈の中におかれる必要があった。中世においては、その存在感があいまいかつ薄められたものだったために、古代はさほど有害なものではなかったが、なまくらな刀でも諸刃の剣となる事はある。アリストテレスを例外とすれば、古典文献は、既存の体制を補強するためにせよ攻撃するためにせよ、中世人が利用する場合にはさほど強い力を持ち得なかった。プラトンが霊魂の不死性を支持した事は誰もが知っていたが、プラトンが用いた議論の正確な構成や言い回しを引用できるものは一人も居なかったのである。その一方、オートルクールのニコラウスは、原子論について、アリストテレス主義の質料理論に対するその優越性を見て取るのに十分な知識をアリストテレスの自然学の中から獲得したが、しかし14世紀という時代にあっては、次世紀にルクレティウスとディオゲネスとともに復活する事になるより強力な弾薬が欠けていた。自然学・形而上学の諸問題に関して言えば、ニコラウスがアリストテレスの中に見て取った事柄は、彼が1347年に教皇庁から自説撤回を強制されるのに十分なだけの危険性を備えていた。 コンスタンツ公会議に出席中の1417年に、ポッジョ・ブラッチョリーニは一つの厄介な文書を発見した。すなわち、キケロの同時代人ルクレティウスの未完の教訓詩『事物の本性について』である。このラテン語の長編詩は、紀元前270年に死んだエピクロスの原子論哲学についての最も豊かな情報源である。ルクレティウスは、宗教を生む様々な恐怖を沈めるために、宇宙の本性を説明する。自然の生命循環を理解する人々は、死を恐れる事は無いだろう。自然とは虚空の中を動く原子に他ならず、人間を含めて自然界のあらゆる生物は、多様な形態と大きさを持つ原子の偶然の運動から形成された物質の塊である。ある種の組み合わせにおいては、原子は生命と感覚を生成するが、エピクロスは、人間の精神と霊魂が極めて微細な物質的粒子以上の何者でもなく、それゆえに可死的である事を示した。死は生命を完全に収束させるので、我々は死後の生を恐れるべきではない。神々は存在するが、彼らが人間を創造したのではな(200)いし、彼らは人間に対してなんらの関心も持っては居ない。我々の世界、また世界の中にある全てのものは、無における原子の偶然の遭遇から生まれた。やはり原子から作られた神々は不死であって、平成で充足しているが、若し人間の状態が物質的なものである事を本当に理解したならば、人間たちもそのようになるはずである。こうした哲学がキリスト教徒の共感を呼ぶはずは無く、ルクレティウス、ディオゲネスや他の典拠が手に入らないか知られていなかった中世には、「エピクロス主義」という呼称は最も唾棄すべき無神論的唯物論や堕落した快楽主義を指すお決まりのラベル、快楽が厳しい節制の生活において苦痛を避けることから生じると教えた哲学体系の戯画に過ぎなかった。14世紀のドミニコ会修道士が、次のような典型的描写を書き残している。 :アテナイの人エピクロスは、……数々の優れた著作を残したが……他の全ての哲学者よりも多くの誤りを犯した……なぜなら、神意を否定したからであり……神が人間に配慮しないこと……世界が永遠に存在すること……快楽が最高の善であって、霊魂が肉体とともに死滅する事を述べたからである。: 15世紀はじめまでには、人文主義者コズマ・ライモンディがエピクロスの真の見解をめぐる論争を指摘し、霊魂の快楽だけでなく肉体の快楽も霊的幸福とともに肉体的幸福を希求する正当な善であると主張する事ができるようになっていた。その後、若きフィチーノが、エピクロス学派の「快楽」をあらゆる人間が共有する一種の生命力としての神の宇宙的愛と同一視する解釈に関心を示したし、フィレルフォは肉体的快楽をそれ自体善としてたたえる文章を書いた。1469年頃までに成熟期のフィチーノは『ピレボス』の注解を完成し、その中で、叡智によって抑制され知性と意思の満足に結合された形の快楽にやはり賛意を示した。 エピクロスを無害にするためのより一般的な方法は、ルネサンス期に入ってより良く知られるようになったもう一つの(201)古代学派であるストア学派のように禁欲的な見解をこれに付与することだったが、精神の平静が両学派に共通の目標だったために、両者を宥和させようとする試みは説得力を持つ事があった。1425年頃執筆された、主として数編のキケロの著作からの摘録である、傑作とは言いがたいブルーニの『道徳哲学入門』は、善の本性についてアリストテレス主義の立場を取っていたために、次世紀を通じてアリストテレスの倫理学的著作の印刷刊本の序文としてよく利用されたが、この短い対話編の中で、ブルーニはストア学派とエピクロス学派の見解も要約している。「幸福」が最高の目的だとするアリストテレスの主張を受け入れた上で、ブルーニは次に幸福とは何かを問う。ストア学派の考えるところに拠れば、「徳だけで……幸福には十分である。投獄も、拷問も、如何なる苦痛も……幸福な生活の妨げにはなり得ない。……これが、ストア学派が通例説く種類の教説である。これが真理であるかどうか私はやや疑わしく思うが」とブルーニは付け加える、「確かにたくましく、男らしい心情である」。エピクロス学派について言えば、彼らは「快楽こそが最終的な、究極的な目的だと主張した」。しかし彼らはまた「賢者に……より大きな苦痛を避けるためには小さな苦痛に耐えるように」とも忠告しており、そのことによって「あらゆる心配を追い払って得られる精神の平静」を見出す事が出来ると説いている。ブルーニはさらに続けて、アリストテレス主義者は霊魂の良い状態として得を幸福の下位に置いたと述べている。こうした描写を聞いた後で、対話の相手は三つの道徳体系のどれも自分には良いものに思えると言い、ブルーニもそれに賛同する。「こうした教説は……生き延びてきたのだ」と彼は注釈を加える、「そして、それらは言葉の上で争っているとしても……非常に近いものである」。ストア学派はいみじくも徳を強調する。外的な肉体的善の地位をめぐるストア学派と逍遥学派との意見の相違は、主として言葉に関わるものである。幸福には快楽が必要だというエピクロス学派の主張は正しい。「彼らはみな々事を、或いはそれに近い事を言っている様に思われる、少なくとも最高の善に関しては」。宥和を訴えるブルーニの主張の要点は、三つの教説がどれも「生き延びてきた」というところにある。ブルーニの鷹揚な古典主義は、依然として古代に陶酔していた。人々がなんと言おうと、古い文献の数は多ければ多い(202)ほど良い。ブルーニはプラトンを批判したりアリストテレスを歪曲したりする事をためらわなかったのだから、勿論これは彼の従順さを誇張した言い方である。しかし、それはやはり、毎年新しい文献の発見が続いたブルーニの時代の性格を明らかにしている。文献学的に無垢な時代だったのである。(202) (チャールズ・B・シュミット/ブライアン・P・コーペンヘイヴァー著 榎本武文訳『ルネサンス哲学』、平凡社・2003年)