Leon Battista Alberti (104)中世修道院の孤独な生活を比較して、家庭を持つと言う事は、新時代の知識人に課せられた、大変な価値転換と重大な決意表明を意味した。この単独生活へと誘うストア派的禁欲は若い頃からアルベルティをひきつけ続け、それゆえに彼は同時代人の中でも人一倍、人間的特質として「行動」を力説して、自分を納得させていたように思われる。そしてこの行動は彼にあっては公的・政治的活動に尽きるものではなかった。そこにこそ彼の新味があり、フィレンツェのあの時代を超え、現代においてもなお新鮮に映る特徴となっている。
教育の先進地、北イタリア アルベルティ自身は世俗の身ではなく、後に述べるように大学卒業後は聖職者であった。彼の作品で最も有名な俗語著作であり、家族の一員としての自覚、教育への配慮、そして結婚、家産管理などをとく『家族論』を著したとはいえ、一市民として妻帯し、家庭を持った事は無かった。この時代、高位聖職者を含めて珍しくは無かった私生児(105)も居なかった。だが自らは私生児であった。聖職者の身にありながら、私生児を設けた14世紀のペトラルカとはこの点で違[う]。…… 数多くの主題に筆を染めた中で、愛に関する論考も少なからずある。……徳にアルベルティの女性観や結婚観を扱っているところは有益である。それは好まれたレトリック的論題とはいえ『家族論』の著者だけに実生活との相違もあり、興味深い。…… いずれにせよ、信仰の深浅は不問に付すとも、ローマ教皇庁に書記官として使える身(106)であり、共和国の公職について政治に参加した事は一度も無かった。ブルーニのように官吏として激務をこなしたわけでもなければパルミエーリのように頻繁に対し職に就いたわけでも全く無かった。行動も著作も、市民的人文主義者である彼らの歴史叙述に見られるように、共和政的自由という観念にとらわれていなかった。勿論、ブルーニやパルミエーリと違い、その主題による本格的な歴史書も表さなかった。歴史叙述としてはローマ教皇ニコラウス5世に対する『ポルカリの陰謀』があるにすぎない。事件の中心人物ポルカリの演説を含む,いかにもレトリカルな小品である。ニコラウス5世はアルベルティの若き日の学友であり、雄弁な人文主義者として知られる。古代都市ローマの復興はこの教皇とともにアルベルティの描いた夢でもあった。 それに、彼ら市民的人文主義者に比べると、アルベルティ家は市民どころか、元来はれっきとした封建貴族の流れを汲む、大いなる一門であった。コムーネとして共和国が政治的に発展するにはコンタード(都市周辺地域)に城砦を有するこの一族は嘗て打倒されなければならなかった。誕生前に彼の一族が政争に敗れて共和国から追放されていたこともあって……1404年ジェノヴァ共和国生まれであり、なくなる日時と場所は1472年4月20日から数日間内の某日、ローマにおいてである。実父ロレンツォ(1421年死去)は銀行業に従事していた。母親はボローニャの出であった。(107)レオンという名は親が命名したわけでなく、後年の名乗りである。フィレンツェからの追放解除は漸く1428年の事であるから、前世紀末期からこの都市まで長期に及んだ事になる。 ボローニャ大学で教会法の学位を習得したのも同じ頃である。カルロという兄がおり兄弟がフィレンツェに足を踏み入れるのはこれ以後の事になろう。ボローニャ大学に移る前の教養形成も、当然ながらフィレンツェとは無関係になされた。教育の先進地である北イタリアのパドヴァで、1415年から18年にかけてまず教育を受けた。師の一人は著名ななガスパリーノ・バルジッザと目され、ラテン語とともにギリシア語を学んだ。フランチェスコ・フィレルフォの指導の下、……(108)パドヴァにはペトラルカの文学伝統が息づき、その蔵書もあった。
人文学・建築・秘書 したがって、生地ジェノヴァから始まった北イタリアでの生活は単に長かったと言うだけでなく、彼の精神と教養を鍛え上げた時期でもあった。大学卒業後間もない頃に書かれ、兄カルロに捧げられた『文学研究の有効性と不利益』は、これからフィレンツェを含む、別の社会に乗り込んでいこうとする若きアルベルティの苦悩を知る上で大切である。一族は嘗て銀行業などの経営で財を無し、フィレンツェを離れているが、相変わらず実務者の親戚が多い。彼自身はいまや法を学び、実社会での稼ぎが期待されているアルベルティ一門の一人であるが、人文学への関心は高い。学業途中で父をなくし、貧窮に苦しんだこともあるのに、好きな文学は彼をひきつけ、その意義を社会的に考察せざるを得ないのである。 なお、その後も彼の行動範囲は北イタリアと無縁ではなかった。彼の関わった建造物をフィレンツェで見る事が出来るし、それらはまた、ルネサンス建築史上意義ある建物に数えられるが、このような建造物はフィレンツェに限らなかった。今日に於ても、彼の、或いは彼と(109)かかわりのある建築物を、マントヴァでもリミニでも、あるいはトスカーナの小都市ピエンツァではルチェッライ宮殿と酷似したピッコローミニ宮殿を見る事が出来、その活動や影響がフィレンツェ市内に限定されていなかったことを雄弁に示している。 エラスムスほど行動領域が広くは無いにしても、若い頃は枢機卿ニコラ・アルベルガティやルチド・コンティの秘書として、フランス、ドイツと旅し、見聞を広めた。忘れ去られた写本を求めた旅路ではなかったにしても、この点でペトラルカの旅行を想起させる。異郷の地の風景や風物はアルベルティの体験を豊かにしたに相違ない。北イタリアはフェッラーラオ君主となるレオネッロ・デステに献呈された、俗語対話編『テオゲニウス』には見事な自然描(110)写が含まれ、印象的である。また、レオネッロに献呈された作品にはこのほか、馬の調教を扱う小品とかまた学生時代に書かれ、その13年後の1437年に改訂された喜劇作品『フィロドクセオス』とかがある。こちらは古代作品とも見まごうばかりの出来栄えであった。レオネッロは、要するにアルベルティの同時代人としてよき理解者であり、傑出したパトロンだった。
独立した個人 以上述べてきたように「市民的」人文主義者でないにしても、融通無碍に事に対処できる広範な教養の持ち主と言う、ややあいまいな人文主義者概念が可能であれば、彼は間違いなくその一人となり、典型的人物ともなろう。エラスムスのように、彼にはシニカルな傾向が強く、奇跡を伴うキリスト教信仰には感激を覚えず、時には不敬虔を疑われる。最初のローマ訪問から二年後の1432年に、教皇庁書記官となった。以後32年間在職する。そのとき上長のビアジョ・モリンから依頼され、『聖ポティトゥス伝』を著したものの、殉教者伝をつづって行く計画は熱情なく不調に終わった。 懐疑主義的傾向には「無神論者」ルキアノスがエラスムスと同様にアルベルティにも少なからぬ影響を及ぼした。またイソップ寓話への興味などもエラスムスと共通していた。ルネサンスの人文主義者たちはルキアノスの辛らつな対話とイソップの教訓に類似(111)性を覚え、それらを同一視し、一体化した。アルベルティの場合、それは百話からなる『寓話』という作品になった(1437年)。これよりやや後に、風刺性の強い大作『モムス或いは君主について』が執筆された。そこには、テレンティウスや『黄金のロバ』の作者アプレイウスの影響も看取される。 また彼ら古代の文学者とともに、「唯物論的・快楽論的合理主義者」である哲学者ルクレティウスによる自然観念も、アルベルティに相当の影響を及ぼした。異教ローマの作品が描く「事物の本性」に、キリスト教の神が聖なる自然の序列と秩序を無視して介入することはありえなかった。ボローニャで世に出た、好色な快楽主義の傑作『ヘルマフロディトゥス』の作者として高名なアントニオ・パノルミータは同時代人であり、アルベルティと同時期を同地で送っている。異教復興とともによみがえった猥雑な文化は、一面では半世俗的なルネサンス文化の特色とされる。アルベルティには身近な存在でローマ教会でともに働く、彼同様に対話形式の作品を好んだ人文主義者にポッジョ・ブラッチョリーニがいる。アルベルティ、ポンターノとともに15世紀の(112)三大対話作家に数えられるが、ポッジョなどは、さだめしパノルミータとともにその双璧であるかもしれない。
全西欧への影響 彼らに劣らずアルベルティも古代文化から強い影響を受けたが、彼個人は全体として潔癖な人物に映ずる。それは『自伝』からよくうかがい知れるような強靭な人格ゆえに、そしてストア派的な禁欲精神とシニカルで冷めた魂とが相手との距離、対象物との間隔を造るのに一役買っているために、向こう側に移動して埋没してしまうほど自制心を失うことが決してなかったためであろう。そのような性格であるからこそ近代的な遠近法(透視画法)の確立にも寄与できたのではなかろうか。この遠近法がフィレンツェ文化とアルベルティの関係を教える。マザッチョの絵画、ドナテッロの彫刻、そして特にブルネレスキの建築と遠近法を含む芸術理論には大いなる刺激を受けた。1435年にローマ教皇エウゲニウス4世とともにフィレンツェに来て、『絵画論』が生まれた。その後再びフィレンツェに住むようになったのは、公会議のため教皇がフェッラーラからここに移動した1439年以降である。最終的にローマに定住することになる1444年までがアルベルティのフィレンツェ時代である。もっとも、ローマ定住後もフィレンツェとの関係が切れていないことは、ランディーノの『カマルドリ論議』からも(113)知られる。 『家族論』第4巻は最後の友情を扱う巻を除けば、ローマで1433年ごろにすでに執筆されていたが、アルベルティ一族が語り合うという意味でフィレンツェが舞台になっているといってよいであろうし、その中身も当地の社会を考えてこそよく理解できよう。『家族論』のプロローグから、フォルトゥナ、運命に立ち向かうアルベルティの心意気が伝わってくる。追放の運命に遭遇する以前、フィレンツェで指折りの大商人一族であった人たちが経済をどのように捕らえ、また細かくは勤労の時間の使い方をどのように見ているのかが判明する。そしてきわめて世俗的な日常において、古典を読む理知的活動とその喜びもまた、一族の一人により説かれるのである。 俗語で書かれていることにも注意を向けるべきであろう。フィレンツェは俗語文学が(114)ダンテ以来発展してきた都市であり、ここには俗語日記なども商人たちによってつけられていた世界があった。古典の影響だけがすべてではなかった。当地で俗語詩での友情を謳う競争を思いついたのもアルベルティであった。叙述形式もプラトン、クセノポン、キケロなどの理想を追求する対話編であることに留意すべきであろう。風刺性の強いルキアノスだけが対話形式を好んだ人文主義者たち、特にアルベルティに独占的に影響を及ぼしたわけではなかった。 フィレンツェとの文化的紐帯を示す輝かしい逸話は、『建築論』が1485年、フィレンツェで出版されたことであろう。建築に並々ならぬ関心を有する玄人肌のロレンツォ・デ・メディチが刊行に力を貸し、ロレンツォの側近ポリツィアーノが序を寄せた。出版は無論アルベルティの没後とはいえ、執筆は世紀の半ば前から始められ、生前中に手稿本で出回っていたものであった。これにより『絵画論』などとともに全西欧に影響を与えることになる。散文作家より芸術理論家としての名声が高いのはこのためであろう。『絵画論』の俗語訳は自らがなし、『建築論』は16世紀半ばにコジモ・バルトリが訳して世に送った。これらの芸術論は昨今でも魅力ある研究対象となっている。 終の棲家となるローマに戻ったのは1443年ごろかもしれないが、定住が明瞭なのは、前述したように翌年からである。そして早速『モムスあるいは君主について』の執筆(115)が開始される。モムスはオリュンポスの神々の反英雄的存在である。ユピテルはエウゲニウス4世か、あるいはニコラウス5世か、と想定される。両人は1447年に交代した。あきらかに教皇庁を風刺する目的で表されている。神々の世界から理解を得られず、追放されるモムスはアルベルティ自身かもしれない。この書が誰に献呈されようとしたのかは不明であるが、レオネッロ・デステが本来の被献呈者と想定されている。 高貴な人物への献呈を考えずに、著作家が筆一本で生きていける時代では必ずしもなく、アルベルティのような能力あふれる個人もまたその例外ではなかった。彼はその能力ゆえに、また生活するためにローマ教皇庁の役人となったが、そうであることやフィレンツェ共和国に奉仕すること、つまり公職にあることが、もっとも公的な人間であるわけではないことを示そうとした人物であったように映ずる。他方で、彼は私的な精神空間の確率に努め、ここを立ち去るまいと決意した人物とも映ずる。その著作は読みやすくはなく、あなたの言いたいことはわかっているから、もっと簡潔に書いてほしいといいたいほど晦渋なときがある。それでもやはりそうなのか、あなたが訴えたかったこと(116)はそうだったのかと知ったときにこれほどうれしく感ずる文章も珍しい。風刺の人は権力批判をしても、権力をかさに着たりはしない。往々にしてある権力を攻撃する人ほど別の権力にしがみつき、醜態をさらけだすが、彼にはそれがみられない。晩年の『イチャルコ論』はそういう作品であり、すがすがしい。それはまさしく時代と地域を越えたアルベルティの魅力なのである。(116)
(伊藤博明編『哲学の歴史 第4巻 ルネサンス 15-16世紀』、中央公論社・2007年)