2009年4月2日木曜日

キケロとクインティリアヌスの発見

キケロとクインティリアヌスの発見 (6)1345年、北イタリアはヴェローナの大聖堂参事会書庫で、ペトラルカはキケロの『アッティクスあて』16巻、『弟クィントゥスあて』1巻および『ブルートゥスあて』2巻からなる、大部な『書簡集』写本を発見し、まさに古代学芸の再発見としてのルネサンスを現出させた。特に最初のアッティクスあて書簡からは、従来と異なる、政治に野心を燃やす活動的人物としてのキケロがたち現れた。そこには、それまで読まれていたキケロ自身の哲学や弁論著述―――『友情論』『運命論』『神々の本性について』『義務論』『老年論』『トゥスクルム荘対談集』『発想論(旧レトリック)』、キケロ作と見られた『ヘレンニウスあてレトリック』―――から伺えるもの静かで賢明な古代人像と違って、現実政治に執拗かつ熱烈に拘泥する、喜怒哀楽のあらわな行動人の姿がった。 文献の発掘により古代に関する知識が前の時代に比べて一段と正確になり、キケロはカエサルの政敵、共和制的伝統の象徴的人間になった。こうしてキケロの読まれ方、理解の仕方が違ってきた。中世に知られていた、彼の一著作『義務論』は古代末期、聖アンブロシウスの『聖職者職務論』が示すように、修道制の鏡となった。キケロは瞑想的な哲学者増で捉えられ、人は哲学と妻の両方に仕えることはできないという成句は、修道生活の孤独な生き方を求める聖ヒエロニムスによりキケロの言に帰せられた。キケロにあててペトラルカ(7)は書く。「あなた自身もある箇所で書いているように<はかないこの世のことではなく永遠なるあの世のことを思いつつ>静かな田舎で老年を過ごし、いかなる顕職にもつかず、いかなる勝利の栄冠をも望まずカティリーナのような人物を弾劾して得意がるようなこともしなかったほうが、とりわけ哲学者にはどれほど相応しかった事でしょう。しかし今となっては全てが詮無いことです。私のキケロよ、永遠にさようなら。」 発見されたものはペトラルカのキケロに限るものではないが、もうしばらくこのローマ人に注目しよう。キケロのもう一つの重要な『親友あて書簡集』16巻は1389年ヴェルチェッリの大聖堂参事会書庫で発見された。フィレンツェにもたらされたのは、1392年九月、ミラノからのヴィスコンティ家使節のフィレンツェ訪問の折であった。そして当地の書記官長サルターティのために写本が一部作成された。彼は先と今回の両キケロ書簡集を所持する、初の人物となった。 ペトラルカよりおよそ一世代後の最重要なヒューマニストの一人がこのサルターティである。1374年……の書簡で、神のごとき人物ペトラルカの死去(同年7月19日)によりフィレンツェのみならずイタリアの、私達の時代の光が消えたと、先輩を悼む文をつづった。あわせてペトラルカの人となりを詳しく報じ、キケロのような雄弁家、ウェルギリウスのような詩人であるとともに哲学者であるとたたえてやまなかった。また叙事詩『アフリカ』が未完に終わったことを惜しんだ。書面の後半で再びその死を悼み、レトリック、自由7科、詩、歴史、文学の悲嘆するままに任せたのであった。サルターティはペトラルカの友人として『アフリカ』を完成させる夢を抱くとともに、同じくヒューマニストとして先導者の道に従い、更なる古典復興を推進させようと力を注いだ。 他方で、フィレンツェ政府書記局の役人として、サルターティは現実政治と強いかかわりを持った。それだけに、(8)キケロはペトラルカ以上によりいっそう身近な政治的人間、行動的人生の模範となった。アウルス・ゲリウスの『アッティカ夜話』によると、アテネのソロンは内乱の折、私的生活を優先するものは祖国から追放されるべきと定めた。キケロはブルートゥスやカッシウスのように、共和国の自由擁護のために奮闘した。キケロの政治的野心は非難に値しない。ペトラルカによる、野望に燃えるキケロ批判に応える為に、サルターティの弟子ヴェルジェーリオはキケロの名でかれに反論する。共和国の行政に携わり、みなの救いを仕事にする事は何よりも優先されるべきである、と。 15世紀に入ると、もう一人のフィレンツェ政府書記局の役人、サルターティの後継者ブルーニが、それまでに獲得された諸情報に基づいて、1415年に伝記『新キケロあるいはキケロ伝』(以下『キケロ伝』)を書き上げ、政治行動とヒューマニズム活動の統一をキケロの中に見た。ブルーには書く。公生活であれ、学問の領域であれ、キケロは他の人々に役立つ為に生まれてきた。人の心を捉える雄弁とローマの支配力とを結合したのはかれである。それゆえに彼はまさに祖国の父を呼ばれるばかりでなく、寧ろ我々の言葉と文字の父と呼ばれるべきである、と。 時を同じくして1416年に、ヒューマニストに不可欠な弁論の理論書、雄弁術の模範となる古典が発見される。ポッジョ・ブラッチョリーニがスイスのザンクト・ガレン修道院で、クインティリアヌスの『弁論家の教育』の完全写本と、アスコニウス・ペディアヌスによるキケロ演説5編の注釈書を見出した。この発見が当時の人々をいかに興奮させずに置かなかったかは、ポッジョ宛のブルーニ書簡が雄弁に語っている。クインティリアヌスの完全なる発見という点で、ポッジョの業績はローマを旧に戻したカミルスの仕事に匹敵する、という。ポッジョもまた、サルターティやブルーニと同様にフィレンツェ政府書記局の役人となるヒューマニストである。 クインティリアヌスのその作品は弁論術の解説書、弁論家教育の枢要であり、子供を育成する教師の為に弁論習得の教育案を提示する。社会生活を送る上でレトリックが節目ごとに大事な役割を果たすだけに、理想として完璧な雄弁家が求められ、理に適った教師が選択されなければならなかった。ロレンツォ・ヴァッラは若い時『キケロとクインティリアヌスの比較論』を著し、ラテン語教育上の導き手としては後者のほうに軍配を挙げた。15世紀における『弁論家の教育』の影響は実に甚大で、グアリーノ・ダ・ヴェローナなどの教育方針に強い示唆を与えた。その影響の跡はグアリーノのような教育専門家に限らず、例えば後に教皇となるエネア・シルヴィオ・ピッコローミニの『自由人男子の教育』や、フィレンツェ共和国の公務に邁進するマッテオ・パルミエーリの『市民生活論』に歴然と見られる。やがてクインティリアヌスの指針は、イタリアのヒューマニストの教育実践例とともにヨーロッパ各地で受け継がれた。 更に発見が続く。1421年にはキケロの5編のレトリック作品(『発想論』(キケロ作と思われていた)『ヘレンニウスあてレトリック』『ブルートゥス』『弁論家』『弁論家について』)を収めた写本が、ローディ司教ゲラルド・ランドリアーニによりその大聖堂書庫から発見された。『ブルートゥス』はそれまでは未知の作品であり、『弁論家』と『弁論家について』はそれまでと異なって完全なテキストであった。これで現存するキケロの弁論書は全て揃った事になる。『弁論家について』は若い時期の習作『発想論』と違い、多岐に渡る主題をさまざまな視点から対話形式で扱ったレトリックの傑作で、雄弁の師としてのキケロの地位は不動のものとなった。ルネサンスの人達にとり、市民の務めや(10)活動生活の意義はキケロの生き生きした表現のうちに切実な訴えとなり、自分達の、まさに直面する問題と映じた。こうしてルネサンスは、政治そのものである雄弁の勝利する時代を迎える事になる。 この結果新たに発見された、キケロのレトリック関係書やクインティリアヌスの書に対するルネサンスの関心の高さは前代の比ではなかった。その事は残された多くの注釈書によって明らかである。以前の中世においては『カティリーナ弾劾』『ピリッピカ』などは大変人気のあるキケロ演説ではあったが、それでも『友情論』『老年論』『義務論』『発想論』の人気の域には達していなかった。そもそも『発想論』は中世ではレトリック、弁論と無関係な作品として扱われた。ソールズベリのジョンの『ポリクラティクス』はキケロ演説に対する当代の関心が低かった、良い証左となろう。これは演説を求める社会的度合いが、12世紀の北フランスと15世紀のイタリアでは根本的に違った為である。…… キケロ発見の影響は別の形でも現れる。デモステネス『王冠論』のキケロ訳は失われてしまったものの、その序文にあたる『最善の弁論家の類』が、イタリアで利用可能となったのもこの頃と見られる。これは中世では殆ど広まっておらず、ペトラルカにいたっては全く知らなかったものである。そして今度はデモステネスの演説作品そのものが、ブルーニ、ヴァッラ、ゲオルギオス・トラペツンティオスなどによってギリシャ語からラテン語に訳出されていく事になる。 (根占献一著『フィレンツェ共和国のヒューマニスト』、創文社・2005年)