2009年4月2日木曜日

ヒューマニズム文化とプラトン主義文化(二様の文化)

 ヒューマニズム文化とプラトン主義文化(二様の文化)(26)公証人の活動は、ヒューマニストの出自と生業を考察する為の大事な示唆を与え、プラトン主義者の資料の幾つかは、ヒューマニズムとの関連を語っている。 ……公証人notatio, notaroの方は市民的ヒューマニズムの文化を支え、発展させた人達の記録である。当地では公証人は7大組合の一つ、裁判官と公証人の組合に所属し、市民生活上、有力な集団を形成していた。大勢の公証人が登場するが、傑出している一人はコルッチョ・サルターティである。フィチーノの方は、15世紀第2半期のプラトン主義文化の担い手に関わるさまざまな記録集となっている。彼によるギリシャの哲学者プラトンのラテン訳が印刷されて世に出たのは、1484年の事であった。…… (27)ヒューマニズムについては、これまで古典の発見、ラテン語と俗語の関係、レトリックの意義など、様々な局面に言及してきた。これに対し、プラトン主義はヒューマニズムと違い、説明を要しない自明の理の述語であるように……プラトンのラテン訳公刊に示されるように、ギリシア哲学の古典がここに復興したような印象を与えよう。……。 だが実際は、フィチーノのプラトン的伝統には、今日ではプラトン哲学に含まれないヘルメス的伝統が含まれている。更にヘルメス学では占星術や魔術が重大な要素をなし、理性的なギリシャ哲学のイメージとは随分異なっている。また注意すべきはプラトン主義やヘルメスの伝統にはフィチーノ思想の特色が伺われるけれども、サルターティがこれらにあずかり知らぬヒューマニストだったわけではなかったことである。…… 公証人文化(28)サルターティは公証人としての資格を有し、若いときはトスカーナ各地の町を方々移動した。1470年代後半から15世紀はじめに掛けてはフィレンツェ政府シニョリーアの書記官長となり、「フィレンツェの自由」libertas florentinaの論客となった。フィレンツェ生まれで無いサルターティが、その様な名誉ある地位を占める事が出来たのは、ひとえに公証人に不可欠な書簡(公文書)作成術ars dictaminisと弁論、レトリックに秀でた能力を有していたからであった。雄弁体stilus rhetoricusによる公文書簡は共和国外交に威力を発揮した。ここフィレンツェにはレトリックを行かせる場としての市民社会が存立していた。フィレンツェ国への貢献により1400年に市民権が付与されたのは、その能力に対する高い評価に基づいている。 ピッコローミニ(ピウス2世)は『ヨーロッパ誌』に記している。「フィレンツェ人の賢慮prudentiaは数ある事柄で推奨に値するのだが、とりわけ書記官長の選抜に際し、多くの都市国家が行なっているように法学で無く弁論術にかかわりがあり、フマニタス研究と呼ぶものにおいてその様に選択する場合である。果たして彼等は、正しく書き、語る術を、バルトスルやインノケンティウス(中世人をさす)でなく、キケロやクインティリアヌスが伝えている事を知っていた」。この後ピッコローミニはギリシャ語、ラテン語に通じていて、名声を上げたフィレンツェ共和国書記官長の名を列挙する。アレッツォ出身の二人,ブルーニとカルロ・マルスッピーニについで、ポッジョ・ブラッチョリーニに触れ、教皇庁秘書官として三人のローマ教皇のために書簡を作成した、と書く。そして彼等に先立ってコルッチョが居て、彼には語る力が備わっていた。我々の父祖の記憶に残るフィレンツェとの激戦の、相手国ミラノの君主ジャンガレアッツォ・ヴィスコンティは、フィ(29)レンツェの騎兵1千騎はコルッチョの書き物ほど自分を傷つけず、と繰り返し語った、と記す。 またサルターティは一目置かれた文化人として、晩年、有力市民パッラ・ストロッツィらとともにギリシャ人マヌエル・クリュソロラスをフィレンツェに招き、ギリシア語教育の基盤作りに成功した。この結果、ブルーニのようにギリシャ研究にも並々ならぬ業績を挙げるヒューマニストが出現するし、大ギリシャ学者フィチーノの師たちの世代も育ってくる事になる。…… 公証人の文化は15世紀末になっても、政府官房で衰える事は無かった。同じく公証人の出であるブラッチェージは、そつのない政務能力は当然ながら、ヒューマニスト・詩人・散文作家として活躍し、フィレンツェ書記局の文化活動の健在振りを示した。フィチーノとほぼ同時代人であり、フィチーノの談笑仲間では個性を放っていた。ブラッチェージの壮年の頃はロレンツォ・デ・メディチの時代に当たり、数々の実務をこなし、公職の栄達を成し遂げた。晩年にはサヴォナローラの支持者となったため、1498年、第二書記局局長職をおわれ、マキャヴェリにその席を譲った。公務に戻る事が出来たのは4年後である。 また公証人文化は政治世界に限らなかった。我々は、この地の芸術や聖職関係者の一族あるいは親が公証人の家系である事を知っている。レオナルドや聖アントニーノの名が直ちに浮かんでこよう。あのレオナルドの記録癖も、公証人の慣習とのかかわりを暗示していないだろうか。公証人の語源は文字通りノート、つまり覚書・メモを取る事にあるのだから、彼自身がそれを体現しているように見受けられる。ただ研究者は、この万能人よりもそのフィレンツェ大司教の場合に、書記局のヒューマニズム文化と彼自身の嗜好、また世俗雄弁と彼の説教との関連について、明瞭な証拠を添えて興味深い諸点を明らかにしてきた。 相同と相違(30)次に、プラトン主義文化を代表するフィチーノ(その師の一人は聖アントニーノであった)に関しては、まずは ビザンティン文化とフィレンツェのつながりに触れないわけには行かないであろう。クリュソローラスにつぐ、プレトンの来伊やベッサリオン、またアルギュロプーロスの移住と亡命は、フィレンツェのプラトン主義文化の動向に決定的な影響を与えたからである。彼等は、プラトン・アカデミーの成立、アリストテレスとプラトンを巡る優劣論争、そしてフィレンツェ大学におけるアリストテレス哲学口座開設などに関わるギリシャ人達であり、15世紀前半のヒューマニズム文化とは違う、同世紀後半の哲学文化の発展に少なからざる貢献をした。 フィチーノはサルターティより1世紀後の生まれで、この書記局の巨人と同様にフィレンツェの出身でない。そしてフィチーノの教養形成は法律を学んだサルターティと違い、実父が医者であった関係もあり、大学では医学を専攻した。ルネサンス時代、法学と医学のいずれが優位を占めるかの議論が好んで行なわれた。その中でフィチーノ自身は医学礼賛の発言をし、サルターティは法律の方に軍配を挙げているのは、彼ら間の学習過程の相違に求められるであろう。更に二人の出自の相違はその後の彼等の生き方に密接なかかわりがある。サルターティの父は地方の政治関係者とはいえ明確な教皇派(グエルフィ)であり、フィレンツェ政治の志向と同一である。フィレンツェでのサルターティの政治行動はこのグエルフィ色に彩られている。これに対し、フィチーノの場合は聖職の道に入った事もあり、政治的生活の実践とは無縁である。 だがこのことはフィチーノが政治に無関心であった事を意味しているわけではないし、政治的人間関係から逃れられるわけでもなかった。彼の父はメディチ家の侍医であった。先のブラッチェージとの関係で明らかなよう(31)に、書記局,詰まり行政の中枢部も彼と無縁では決してなかった。また同局の友人、またフィチーノ哲学の理解者も彼一人では勿論なかった。様々なネットワークがフィレンツェの有力市民達を種々に結び付けていた。フィチーノの説く「ソクラテス的・プラトン的愛」も、厳しい政治対立と、明日の知れぬ経済変動の社会から生まれたように思われる。それは社会的安定と心的安寧を教える概念であり、和合と秩序と平和を求めた点で、公務に多忙な同時代のヒューマニスト、パルミエーリやアッチャイウォーリと変わらないであろう。 サルターティの時代と異なり、フィチーノのフィレンツェは明白にメディチ家の指導体制下にあったが、批判勢力は常に存在し、「共和政的自由」が単なる名目に堕する事は決してなかった。15世紀前半の市民的ヒューマニズムから後半のプラトン主義への文化の推移は、メディチ家の支配力による強弱の差と関連しているのではないか、と考えられてきた。……むしろフィチーノ時代に市民的ヒューマニズムの連続性・持続性を求める事の方が、1400年代フィレンツェの歴史理解に不可欠のように思われる。(31)(根占献一著『フィレンツェ共和国のヒューマニスト』、創文社・2005年)レトリック文化(レトリックと歴史叙述) ルネサンスは、歴史的思考の根幹をキケロのレトリック書、『弁論家について』に置く時代でもあった。歴史が「時代の証人、真実を照らし出す光、記憶の命の糧、人生の師、いにしえを告げ知らせる使者」であるという一文は、好んで引用された。そのキケロはギリシャにおける歴史叙述の発展を述べながら、ローマと違って公の場での弁論から離れて、歴史記述に身を投じた雄弁な人達、ヘロドトス、トゥキュディデスなどがいた、と賛嘆する。 (24)歴史学はレトリックに近接しながら、具体的に生の範例を提供し、道徳哲学の為の好例を示す学術、学科となる。……学科、学術としての歴史学も歴史理論も実はヒューマニズムの発展の中で形成された。それに歴史記述の中の弁論、演説はレトリックを発揮するに最も似つかわしい場であった。自由の意義を説き、人の死を悼む際に、自由な中でこそ実りある生が遺憾なく発揮され、このために命を落とした人々の高徳が、それこそ表現上の綾を駆使して礼賛される。ところがその演説がしばしば作為的、否寧ろ創作的であるために非科学的、場合によっては非学問的として近代的な資料批判の立場から厳しく断罪され、ヒューマニストの歴史叙述に辛い点がつけられる。…… ……ヒューマニストの史書は古典の単なる模倣―――「模倣」も実はレトリックの範囲にある真剣且つ重要な要素であり、推奨された行為であった―――に過ぎないと一蹴され……る事がある。ブルーニの『フィレンツェ市民の歴史12巻』はそのような運命をただ負った重要な一書である。…… (25)時のフィレンツェ政府シニョリーアは、ラテン語で書かれた『フィレンツェ史』のトスカーナ語訳をドナーと・ディ・ネーリ・アッチャイウォーリに依頼した。翻訳者ドナーとは活動的、行動的ヒューマニストとして、ブルーニを市民の理想と崇敬した世代に属する。……印刷に付されたのはこの俗語版のほうであった。ラテン語版印刷は大きく遅れる[17世紀。] ……手写本の存在を忘れてはならない。ある意味では、活版印刷術の発明をもってルネサンスは始まらない。ドイツからイタリアへその機械が導入されるのが1465年であるが、手写本の時代は終わらず、数多くの写(26)本が流通した。ルネサンスにあってはこの本と印刷本の並存を認識すべきであろう。この事は、俗語と並存するラテン語のあり方と同様に根本的な史実に属する。(根占献一著『フィレンツェ共和国のヒューマニスト』、創文社・2005年)