(126)「人間の尊厳」に関するピコの弁明 ポンポナッツィのこの著作と、ヴァッラのそれとは80年以上もの歳月の隔たりがある。すなわち、前者は1520年にかかれたものであるが、後者は1436年頃のもののようである。そしてまさに、この80年の間に、ルネサンスの哲学思想はフィレンツェ・アカデミーのプラトニズムによって変質させられるのである。時間的にも体系的にも、このアカデミーの学説は、人文主義とあのパドヴァ学派に見られた後咲きのスコラ哲学との丁度中間に位置している。しかし同時に、それらの学説の形成に当たっては、フィレンツェのプラトニズムに対して与えたクザーヌスの深い影響が終始一貫して働いているのである。ローマにおける900条テーゼを弁護すべく、その序文として考えられた有名なピコの弁明は、このような思想の精神的系譜を明らかに認識せしめる。ピコは「人間の尊厳」についてのテーマをその中心に据えるが、それでもこのことによって、彼は既に古い人文主義が繰り返し形を変えて修辞的に取上げてきた一定のモチーフを受け容れたに過ぎないのである。 すでに、ジャンノッツォ・マネッティが1452年に著していた論文「人間の尊厳と優越について」De dignitate et excellentia hominisは、形式的にも思想的にもその後のピコの弁明と全く同一の型(シエーマ)に従って構成されている。マネッティは単に成った世界としての自然の世界に対して、成る世界、すなわち文化の世界を対置する。この世界においてのみ、人間精神はのびのびしたものを感じる事が出来る。即ち、人間精神の品位と自由はこの世界に示されるのである。 「これら我々の眼にそれと認められるもの、即ち、全ての家屋、全ての城塞、全ての都市、要するに世界の全ての建築物は人間によって創造されたもので、従って我々のものである。即ち、人間のものである。絵画、彫刻、技芸、学問…知識のいずれも我々のものである。……全ての発明、様々な全ての言語、それに文字も我々のものである。これら無しでは済まされぬ実用性を考えれば考えるほど、我々はこれに激しく驚かされ、息を呑まざるを得ないのである。」Nostra namque,hoc est humana, sunt, quoniam ab hominibus effecta, quae cercernuntur: omnes domus, omnia oppida, omnes urbes, omnia deniue orbis terrarum aedificia. Noatrae sunt picturae, nostrae sculpturae, nostrae sunt artes, nostrae scientiae, nostrae……sapientiae. Nostrae sunt……omnes adinventiones, nostra omnium diversarum linguarum ac variarum litterarum genera, de quarum necessariis usibus quanto magismagisque cotitamus, tanto vehementius admirari et obstupescere cogimur. このようなマネッティの文章は、本質的に古代=ストア風の思想財産に遡る事が出来るが、ピコの弁明にはこれと異なった新しい要素が加わっている。なぜならば、ピコの見解は全体としてあの、クザーヌスやその後ではフィチーノにおいて完成された小宇宙(ミクロコスモス)=モチーフの特徴的な変種と言えるからである。このモチーフによってはじめて、ピコの弁明は単なる弁論術的な見世物の境地から抜きん出ているのである。即ち、その修辞的なパトスが同時に特殊的=近代的な、思想的パトスを内に含むのである。 人間の品位はその存在にあるのではない――即ち、宇宙の構造において人間に指定されたその低位置に存するのではない。たしかに階層的な体系は世界を階段に分割し、全ての存在にそれらの階段の一つを宇宙における存在の位置として指定している。しかしこのような基本的見解をもってしては、人間の自由の意味と問題性は捉えられないのである。なぜなら人間の自由の問題は、我々が他の場合いたるところで仮定している存在Seinと(128)働きWirkenとの関係を逆転したUmkehr所に存するからである。事物世界Dingweltに妥当するのは、古くからのスコラ学的原理、すなわち「働きは存在に従う」operari sequitur esseなる原理である。人間世界においてはこれとは逆の規定が妥当するのであり、その点にこそ人間世界の本質と特異性が存するのである。ここでは、形成の仕方に一度きりの確固たる方向を指示するのは存在ではない――逆に、形成の本来の方向がまず存在を決定し措定するのである。 人間の存在はその行為から生ずる。しかも、この行為は単に意志のエネルギーの中にあって消滅してしまう事無く、その形成力全体を包括する。なぜなら、真の創造的な形成は何れも世界に対する単なる働きかけ以上のものを内包しているからである。即ち、働きかけるものdas Wirkendeが働きかけられるものGewirktenから、行為の主体がその対象から、自らを区別し、意識的にそれを対置させていくという事を前提としているのである。しかも、この対置Entgegensetzungは一定の結果を得て終結するという一回限りのプロセスではなく、常に新たに繰り返されねばならないのである。人間の存在も人間の価値も、このような対置行為に依存しているのである。――即ち、対置行為にしたがってのみ、人間の存在と価値は、静的にではなく、ダイナミックに決定され規定され得るのである。我々は存在の階層的な段梯子において、更に高く昇って行く事が出来るかもしれない。我々は天上の英知界にまで、しかり、全ての存在の神的起源に至るまで高まる事さえ可能かもしれない。我々がこうした段梯子のいずれか一つの横木に留まっている限り、そこに自由という特殊な価値を見出すことは出来ないのである。硬直した階層的な体系においては、この価値は常に他者、測りえぬもの、「非合理的なもの」Irrationalesとして現れざるを得ない。なぜなら、こうした単なる存在の秩序は純粋な生成Werdenの意味と運動を容れる余地が無いからである。 (129)こうした思想とともに――ピコの学説は全体として、一方ではアリストテレス的=スコラ学的伝統によって、他方では新プラトン的伝統によって決定されているとは言え――新しい突破口が開かれるのである。なぜならば、いまや創造Schoepfungのカテゴリも流出Emanationのカテゴリも、神と人間、人間と世界との関係を示すには十分でない事が明らかとなるからである。普通の意味での創造とは即ち、創造によって造られたものは一定の=他から限定された存在を与えられるだけでなく、同時に、一定の意欲と実現の円周も規定されるという事であり、それ以外には理解されようが無い。 しかし、人間はこのような限界を突破してしまう。人間の行為はその存在によって強制されるのではなく、原理的に、有限な範囲を越えた、常に新しい可能性を内包しているのである。これが人間性の秘密であって、このために低次の世界も英知界も人間を羨望するのである。なぜなら、人間においてのみ、あの他の至る所妥当する創造の法則、即ちその固定した型Typusが解消されているからである。 ピコの弁明の冒頭には一つの神話が語られる。――創造の最後に当たって、デーミウールゴスは創造の根拠を認識し、その美しさの故にこれを愛する事の出来る存在を生み出そうという欲望を抱く。(略)
ピコにおける人間性の理念 ブルクハルトはピコの弁明を、ルネサンスという文化時期の最も高貴なる遺言状のひとつと名づけた――事実、ここにはルネサンス期の意欲の全体、認識概念の全体が雄大な簡潔さと含蓄の深さで総括されているのである。ここにはあの両極がはっきりと相対して登場している。すなわち、ルネサンス精神に特有のあの倫理的=知的な緊張は、この両極の対立に基づいているのである。人間の意志と認識について要求されるのは、全面的な世界への献身と、全面的な世界からの区別である。意志と認識は宇宙のどの部分にも献身できる。否、献身せねばならないのである。なぜなら、人間は宇宙全体を通り抜ける事によってのみ、己自らの決定の円周を踏破できるからである。しかし世界に対してこのように完全に開かれている事は、他方、世界の中に消滅してしまう事、即ち、神秘的=汎神論的な自己=喪失を意味するものでは決して無い。なぜならば、人間の意志は何時になってもここの目的の実現によって満足される事は無いが、これを意識する事によってのみ、初めて人間の意志は人間の意志となるからであり、また人間の知識も何時になってもここの内容を知ることによって満足される事は無いが、この事を覚ったときにのみ、、初めて人間の知識は人間の知識となるからである。 かくして、宇宙全体への転換は同時に、その何れの部分にも結びつく事が無いと言う能力を内包しているのである。全面的な転換の力は、全面的な逆転換の力に相応しているのである。人間と世界、「精神」と「自然」という二元論は厳しく堅持されている。――それにもかかわらず、他方、この二元論はスコラ学的=中世的な烙印を押された絶対的な二元論にまで推し進められてはいないのである。なぜなら、両極性は絶対的なものではなく、相対的な対立であり、両極の相違は同時に、それらにおける相互的な関係を内包する事によってのみ可能となり、把握可能となるからである。 (132)ここで我々は、フィレンツェ・プラトニズムの根本概念の一つを問題にしているのである。これはフィレンツェ・プラトニズムにおける他のこれとは対立する思想規定、すなわち、絶えず強烈になっていくあの「超越」と禁欲への傾向によって完全に征服されたり、あるいは消し去られたりする事は決してなかったものである。他のどの著作を見ても、フィチーノとピコは一般に新プラトン主義的モチーフの極めて強烈な影響下にある。しかしここには、「分離」Chorismosと関与Methexisという、真にプラトン的な概念の基本的な意味が再び出現している。「超越」それ自体は「関与」を前提とし、これを要求する。また「関与」は「超越」を前提とし、これを要求する。こうした相互決定性は客観的に見た場合、なぞめかしく、矛盾に満ちたように思われるかもしれない。しかし、我々が意欲し認識する主体としての自我の性格から出発する限り、ただちに、この相互決定性は必然的・一義的に明白になる事が分かるのである。意志の自由な行為と認識の自由な行為において、単なる存在にあっては永遠に逃れ去るように思えるものが直接結合するのである。なぜなら、分離の力と結合の力は等しくこうした行為に固有のもので、こうした行為のみが最も先鋭な形で区別する事が出来、しかもこれによって区別が絶対的な分離Trennungへと崩壊する事も無いからである。 ここで再び自我と世界、主観と客観との関係が真にクザーヌス的に「反対の一致」Coincidentia oppositorumとして把握されるのであるが、更にピコが「人間の尊厳について」の演説で打ち出した思想動機の歴史的な影響を追跡していくと、このような関係は一層明白に現れてくるのである。既にピコの演説そのものの中に、我々はクザーヌス的思弁の余韻をはっきり聞き取る事が出来る。『憶測について』De conjecturisなる著作では次のように述べられている。 「人間性の統一は人間的な形で縮限されているので、この縮限の性格にしたがって、全てを包含しているのが分かる。すなわち、その統一の力は万物を取り囲み、その領界の中に包含する。そのため、全てのものは如何なるものも統一の力から逃れる事が出来ない。……すなわち、人間は神なのである。しかし絶対的ではない。なぜなら、人間であるから。従って、人間的な神なのである。沢に人間は世界でもある。しかし、縮限されているので万物ではない。なぜなら、人間であるから。要するに、人間は小宇宙なのである。あるいは人間的な世界ともいえる。それゆえに、人間性の直線それ自体はその人間的な力によって神と全世界を取り囲むのである。……それゆえ人間は人間的な神となりうるし、また人間のやり方で神となる事が出来るのである。また人間的な天使、人間的な獣、人間的なライオン、あるいは熊、あるいはその他如何なるものにもなる事が出来る。したがって、人間性の能力の中には全てのものが人間的な仕方で出現するのである。したがって、人間性の中では全てのものは人間的な形で展開されている。これは宇宙それ自体の中では宇宙的な形で展開されているのと同様である。というのも世界は人間的に現れるからである。要するに、万物それ自体は人間的な形で包含されているからである。なぜなら、人間的な神だからである。人間性は統一なのである。また、これは人間的なやり方で縮限された無限なのである。……したがって、明らかに人間性の創造活動の目的は人間性をおいて他にはないのである。なぜならば、創造に当たって、それは己の外に出て行くのではなく、その力を展開しつつ己自身へと到達するからである。何か新しいものを作り出すのではなく、展開しつつ創造する一切のものは、己自身に存在していたことを確認するのである。 Humanitatis unitas cum humaniter contracta existat, Omnia secundum hanc contractionis naturam complicare videtur. Ambit enim virtus unitatis ejus universa atque ipsa intra suae regionis terminos adeo(134) coercet, ut nihil omnium ejus aufugiat potentiam……Homo enim Deus est, sed non absolute, quoniam Homo. Humanus est igitur Deus. Homo etiam mundus est, sed non contracte omnia, quoniam Homo. Est igitur Homo [mikrokosmos] aut humanus quidem mundus. Regio igitur ipsa humanitatis Deum atque universum mundum humanali sua potentia ambit. Potest igitur homo esse humanus Deus atque deus humaniter, potest esse humanus angelus, humana bestia, humanus leo aut ursus, aut aliud quodcumque. Intra enim humanitatis potentiam omnia suo existunt modo. In humanitate igitur omnia humaniter, uti in ipso universo universaliter, explicata sunt, quoniam humanus existit mundus. Omnia denique in ipsa complicata sunt humaniter, quoniam humanus est Deus. Nam humanitas unitas est, quae est et infinitas humaniter contracta……Non ergo activae creationis humanitatis alius extat finis quam humanitas. Non enim pergit extra se dum creat, sed dum ejus explicat virtutem ad se ipsam pertingit neque quicquam novi efficit, sed cuncta quae explicando creat, in ipsa fuisse comperit.
(140)プロメテウス=モチーフ ルネサンス哲学がこうした思想を表現するのに抽象的な表現に満足せず、比喩的=象徴的な表現を追及するのは、いかにもルネサンス哲学の特殊なあり方Wesensartに一致している。ここでは当然ながら、古代のプロメテウス(141)=神話が登場するが、以後、この神話はある種の復活と精神的復興を経験することになる。プロメテウス=モチーフは既に古代哲学が再三再四関連付けたあの神話の原モチーフに属している。プラトンはプロタゴラスにおいてその比喩的な解釈を試みたし、プロティノスや新プラトン主義者も同じ試みをしている。いまやこのモチーフは、キリスト教的なアダム=モチーフと出会い、これと融合し、あるいはこれと対決し、これとの対決によってこれを内的に変形していくのである。 ブールダッハはアダム=モチーフの辿った道と発展とを仔細に追跡し、中世からルネサンスにかけての過渡期にあって、どれほどこのモチーフが実り豊かな推進的な力を発揮したかを示したのである。教会が聖書の叙述にしたがって作り上げてきた最初の人間像は今や、プラトン的=アウグスティヌス的思想と新プラトン主義的=ヘルメース的思想とがともに影響して、新しい意味を獲得する。最初の人間が精神的人間、即ちhomo Spiritualisの表現となることによって、人間の革新、再生、復活を目指す時代の精神的傾向の全てはこの形式のうちに集約されるのである。こうした転換はイギリス文学ではウィリアム・ラングランドの詩「農夫ピアス」い、ドイツ文学では1400年頃のヨハネス・フォン・ザーツの著した農夫と死との対話に明白に表現されている。ブールダッハはこの対話をドイツ文学史上最大の傑作と呼んでいるが、既にしてその想像力と強力な文章力において、今や表現を求めている新しい観念の力が知られるのである。 我々がここで扱っているのは詩であって、教説ではない。――しかし、この詩は新しい思想の息吹によってくまなく浸透され、霊感を吹き込まれたものである。しかもこの新しい思想はスコラ学的な付属品との結びつきも一切無く、いわば思想の自由な空間において我々の前に現れる。問題を投げかけ、これを展開していくのは抽象的な哲学的考察ではない。生の起源とその価値について、永遠の問いを発しているのは生そのものと言える。した(142)がって、すべての対立は単なる弁証法的な対立から劇的なものへと変わっている。対話が我々に示すのは、こうした対立そのものであって、その解決ではない。農夫と死、破壊の運命力とこの力に反抗する人間精神との闘争には、一見、決着が付かないように見える。対話の結末で、神の審判が下されるが、これによると勝利は死のものである。しかし、戦いの名誉は告白者である農夫のものとされる。「戦いは理由の無い事ではない、お前達は両人とも良く戦った。一方が告発せざるを得ないのは苦悩の為であり、他方は告発者の攻撃に答えて真理を語らざるを得ないのである。従って、告発者よ、お前には名誉を!死よ、お前には勝利を!」 しかも、この死の勝利は同時に敗北となる。なぜなら、いまや死の肉体的な力は証明され保証されたが、同時に、その精神的な力は無効とされるからである。生命の破壊、即ち、神が生命を死の手にゆだねたと言う事情は、最早この生命の無価値を意味するものではない。なぜなら、生命がたとえその存在において破壊されるとしても、破壊される事の無い価値が生命には残されているのである。その価値とは、自由な人間が己自身と世界に付与するものに他ならない。人間性そのものに対するこうした信念のうちに、人間性の再生の保証がある。この詩の比喩的な形式は、単に薄いヴェールのごとき働きしかしない。我々はこうしたヴェールを通して、はっきりと明確に偉大な芸術的形成と思想展開の道程を認める事が出来る。しかも、ここに我々は来るべきルネサンスの基本的見解をはっきりと認める事が出来るのである。 死に対する告発演説の中で、農夫は人間を最も完全なもの、素晴らしきものとして賞賛する。なぜなら、人間は神の造り給うたものの中で最も自由な被造物であるからである。ブールダッハがこの死に対する農夫の偉大な告発演説の中に、ニ世代以上もの後、人間の尊厳に関するピコの演説でものを言うあの精神を再び見出したのは正当である。「天使、悪魔、怪物、魔女、これらは神による強制存在の霊である。人間は神の創造物の中で最も価値のある、最も(143)機敏な、最も自由なものである」。この告発演説の特徴的な基本的性格を更に挙げれば、キリスト教的教義のペシミスティックな特徴を決然と排除した事、人間固有の力と神によみされる所のその善良な本性に対する揺らぐ事なき信頼のうちにペラギウス的要素が内包されている事である。 同時にまた、この告発演説はその後まもなくドイツ哲学にその概念的な表現と概念的な正当性を与える見解を先取りしているのである。人間の堕落はアダムの堕落に始まり、神の呪いによって明らかにされ、各世代を通して人間全体にいつまでも相続されていくのであるが、ベーメン出身のこの農夫の詩人はここではこのような人間性の堕落を無視している。その後、ニコラウス・クザーヌスは、ただちにこれと殆ど同じような言葉で、こうした人間の堕落の教説に反論している。 「己が最良のものからなることを知っている全ての力は、己が最良に存在している事を知っている。存在する全てのものは、己の特殊な本性に安らっている。あたかも最良のものから成り、最良の形で存在しているかのごとくである。従って、存在する全てのものに与えられた自然の賜物は、いかなるものであれ、最良のものである。……それは上方の無限の全能からのものであるから。」Omnia vis illa quae se esse cognoscit ab optimo, optime se esse cognoscit. Omne id, quod est, quiescit in specifica natura sua, ut in optima ab optimo. Datum igitur naturale qualecumque in omni eo quod est, est optimum…de sursum igitur est ab omnipotentia infinita.
(144)ルネサンスにおけるプロメテウス=モチーフの変遷 ここにいたって我々は、アダム=モチーフが内的変化を遂げた結果、これによって直接、プロメテウス=モチーフに移行することの出来る地点に立つのである。こうした移行を完成させるために、思想の内容を変える必要は全く無い。アクセントの軽い移動で十分である。人間は被造物である――しかし人間を他の全ての被造物から分かつもの、それは創造主から創造の能力そのものを与えられているという点である。人間はこの基本的な=根元の力を働かせる事によって始めて己を決定し、己の存在を完成するのである。人間を創造する芸術家としてのプロメテウス神話は、中世思想にとっても無縁ではない。即ち、テルトゥリアヌスやラクタンティウス、さらにアウグスティヌスにも繰り返し現れるのである。しかし、中世の見方は本質的にこの神話の否定的な特徴を捉えて、聖書的創造モチーフの異教的な戯画としてしか見なさないのである。したがって、こうした聖書的創造モチーフの倒錯に対しては、いっそう厳格に本来の創造モチーフを再建せんとするのである。すなわち、真のプロメテウスは――キリスト教的信仰の認め許容する限り――人間ではなく唯一の神である。「万物を創造し、土から人間を捏ね上げた唯一の神、これこそ真のプロメテウスである」Deus unicus qui universa condidit, qui hominem de humo struxit, hic est verus Prometheus. これに対しボッカチオは『神々の系譜』Genealogia deorumにおいて、プロメテウス=神話をオイヘーメリス的に解釈して創造を二重に区別する。即ち、一つは存在者としての人間の創造であり、一つはこの存在者としての人間に初めて精神的な内容を付与するという意味での創造である。こうしたボッカチオの解釈は、キリスト教的解釈に対してすでに基本的な気分の変化を意味していると言える。即ち、ボッカチオによれば、自然の手から出てきた素朴で無知な人間は、新しい創造の行為によってはじめて完成されるのである。第一の創造が肉体的な実在を(145)与えるとすれば、第二の創造はそれに特殊な形式を与えるのである。ここでは、プロメテウスは人間的な文化的英雄となっている。知識を齎し、国家的=倫理的秩序を導入した英雄であり、その天賦の能力によって人間を本来の意味において「改造」reformiertしたのである。すなわち、人間に新しい形式と本質を刻印したのである。 しかしいまやルネサンス哲学は、このモチーフのこうした解釈を越えてますます成長し、ますます決定的に形式付与の力を個々の主体の行為に移していくのである。いまや個の活動そのものが、創造者の活動、救済者の活動と並び立つのである。このような基本的見解は「キリスト教的プラトン主義」の思想世界にまで浸透する。フィチーノにおいてさえ、時折こうした英雄的な個人主義が出現するのである。フィチーノにとっても人間は創造的自然の奴隷ではない。寧ろその競争者であって、自然の仕事を完成し、改善し、純化するのである。「人間の技芸は自然が作り出すものをすべてそれ自身で作り出す。あたかも我々が自然の奴隷ではなく、競争者であるかのように」humanae artes fabricant per se ipsas quaecumque fabricat ipsa natura, quasi non servi simus naturae, sed aemuli.。(中略) (146)かくして、今やプロメテウス=モチーフはボヴィルスにとって自然哲学を精神哲学に結びつける連鎖となる事が出来る。地上的人間から天上の人間を、潜在的な人間から現実の人間を、自然から知性を生み出すことによって、賢者は、あの天上に昇り、神々から活力の源泉たる火を盗み出して来たプロメテウスに見習うのである。賢者は己自身の創造者となり支配者となる――己自身を獲得し所有するのである。これに反し、単なる「自然的」人間は、絶えず見知らぬ力に属し、その永遠の債務者に留まるのである。かくして「自然」の人間と「技芸」の人間、「第一の人間」と「第二の人間」との時間的序列は、価値の序列に踏み入れるや否や逆転する。即ち、時間的には第二の序列が価値の序列では第一位になるのである。なぜなら、人間が真に人間としての決定に至るのは、人間が自己自身にその決定を与える事によって――すなわち、ピコが弁明で表明しているように、人間がそれ自身の自由な形成者(自由裁量のある、かつ栄誉ある己自信の彫刻家にして形成者)となることによって始めて人間としての決定に達する事が出来るからであるsui ipsius quasi arbitrarius honorariusque plastes et fictor.
人間性と自立性 ついで、この思想はジョルダーノ・ブルーノにおいては、完全に当初の宗教的根拠から解放された形で、否、寧ろ意識的に宗教的根拠に背を向けた形で立ち現れてくる。ブルーノにおいて支配しているのは、英雄的なもの、タイタン神のごときものにまで高められた自我の自己主張の情熱である。超越的な存在、即ち、人間の認識能力の限界を越えて存在するものを、たとえ承認するにしても、それにもかかわらず、自我はこうした超感覚的な存在を単(147)なる恩寵の賜物として受け容れようとはしないのである。そうした賜物を与えられているものは、自分の力で神的なものの認識に達しようとするものに比べて、より大きな財宝を所有しているかもしれない――しかしこのような客体的な=財宝は自律的な努力や行為の特殊な価値に及ばないのである。なぜなら、神を把握するに当たっては、人間は神の容器、道具としてではなく、芸術家として、動因wirkende Ursacheとして神を把握せねばならないからである。かくしてブルーノは、単に敬虔に受け容れるものと己自身のうちに神的なものへの上昇の衝撃、神的なものへの飛躍の力、即ち神的なものへの「合理的な衝動」Iimpeto razionaleを感じ取る者とを区別している。 「第一の人々は己のうちにより多くの尊厳と力と効力を有している。なぜならば、彼等は神を有しているからである。第二の人々は彼等自身で、より尊厳であり、力があり、効力があり、そして神聖である。第一の人々は聖体を運ぶロバとしての尊厳であり、第二の人々は聖なる者としての尊厳である。第一の人々においては、実際に神が考えられ目撃される。神が賞賛され、崇拝され、服従される。第二の人々においては、人間性そのものの優越さが考えられ見られるのである。Gli primi hannno piu` dignita`, potesta et efficacia inse`,perche` hanno la divinita`; gli secondi son essi piu` degni, piu potenti et efficaci et son divini. Gli primi son degni come l’asino che porta li sacramenti; gli secondi come una cosa sacra. Nelli primi si considera et vede in effetto la divinita` et vede in effetto la divinita` et quella s’admira, adora et obedisce, negli secondi si considera et vede l’eccellenza della propria humanitade. ブルーノの対話編『英雄的な激情について』からのこのような文章と、ニコラウス・クザーヌスが『デ・ドクタ・(148)イグノランティア』の中で人間性humanitasの概念と理想とを定義した令の文章とを比較すれば、15,16世紀における思想運動全体を包括することになる。クザーヌスはこのような理想を宗教的な思想圏に組み入れようと試みただけでなく、彼にとってこの理想はまさにキリスト教の基礎的な教義の完成、実現を意味したのである。即ち、人間性の理念がキリストの理念と一つに合流するのである。しかし、哲学的な発展が進捗すればするほど、この結びつきは弛緩して、ついには全面的に解き放たれる事になる。ジョルダーノ・ブルーノの定式は、こうした解離を迫る諸力を特徴的にはっきりと認識せしめるのである。人間性の理想は自律性の理想を内包している。自律性の理想が強化されればされるほど、ますますこの理想は宗教的な世界を粉砕する事になる。クザーヌスやフィレンツェ・アカデミーはとりもなおさず、こうした宗教的世界に人間性概念を封じ込めようと努力したのである。(エルンスト.カッシーラー著 末吉孝州訳『ルネサンス哲学における個と宇宙』太陽出版・1999年)