2009年4月7日火曜日

Grund 1 M zu R

(p5)磯見辰典 概観ヨーロッパの統一と分裂 クリストファ・ドウソンが好んで用いる表現に従えば、近代の歴史的本質は「キリスト教世界の分裂the dividing of Christendom」にある。その中世的共同体理念の崩壊が、ネガティブな面として国際的統一の喪失と教皇権の衰微、ポジティブな面として近代国家の成立と国民的統一によって齎されたとすれば、それら全ての要素は、十五世紀ヨーロッパに起こった一連の歴史的事件を列挙しただけで、既に明白に示されると言えよう。 ローマ教会にとって、15世紀が教会大分裂Magna Scismaに一応の解決を与えたコンスタンツKonstanz公会議(1414-1418)に始まったことは象徴的である。その指導的理念である公会議至上主義Conciliarismeは、ほどなくバーゼルBasel公会議(1431-1449)の混迷を招き、ローマ教皇権の権威に深刻な打撃を与えることになった。もとより教皇権の衰微と国家的統一と言う二面は、有機的な密着を持って歴史に反映される。バーゼル公会議を背景にもち、1438年に教皇とフランス王の間で結ばれたブールジュの宗教勅令Pragmatique Sanction de Bourgesは、聖職禄保有権・裁判権、教会課税をめぐる教皇庁の全面的な譲歩であるとともに、百年戦争を通じて常備軍の編成、恒久的タイユ税の設置などを基礎に近世国家体制を形成しつつあったフランスの伝統的ガ(6)リカニズムGallicanismeの勝利であった。この宗教勅令の短命(1461年廃止)は実質的に何の影響も無い。それどころか、政治的理由で一時的にこれを廃止したルイ11世(1461-1483)は、中央集権化を推進するとともに(中略) (6)ヨーロッパ史の観点に立つとき、広大な領域と多様な民族を含む神聖ローマ帝国の存在と変遷の重要性を疑うものは無いであろう。コンスタンツ公会議で焚刑に処せられたフスJ.Husの同調者によるフス派の反乱(1419-1436)を鎮圧した後、皇帝に選出されたアルブレヒト二世(1438-1439)以来、その帝位はハプスブルク家Habsburgerによって独占される事になった。東ローマ帝国の滅亡(1453)は、トルコとの接触と言う、それまでビザンツ世界が西ヨーロッパに対して果たしていた役割を、長期間にわたってハプスブルク家に課することになった。二世紀余りにわたってトルコの侵入に脅かされながら、武力抵抗とともに、時に平和条約を締結してその脅威から脱した帝国の軍事的外交的役割は、意識するとしないに関わらず、西ヨーロッパの運命に多大の影響を与える事になる。グラナダ陥落によるカリフ王国のイベリア半島の撤退は、この帝国の存在があって更に重要性を帯びるのである。しかし、もとより神聖ローマ帝国を、その版図の広大さ、国際性事情の地位の重要さを持って、古代ローマ帝国に擬する事は出来ない。この中世の普遍的なキリスト公的理想を示す名称を持つ帝国は、その内部に近代そのものの矛盾を抱えた理念的帝国であった。前世紀、『黄金勅書Bulla Aurea』の発布(1356)が、七選帝侯による選(8)挙制を確立した時点で既に世俗的国家としての統一への希望は失われた。同時に一皇帝による両方諸国家の支配という強力な権力の存在の可能性さえ疑わしくなった。オーストリアを支配する「神聖ローマ皇帝」は、帝国全体にとっては、もう一つの称号「ローマ人の王」、更に1491年以後に加わった「ハンガリー王」としてその世俗的権力を有したのである。しかもなお神聖ローマ帝国を存続させたものは、その中世的普遍的理念であった。そして、その理念はローマ教会との結びつき無しにはありえないものなのである。しかし現実にはイタリア問題をめぐって教皇支持者と対立し、プラハではフス派の反乱を見るとともに、やがてはルターとその支持者を内部に抱える事になる。少なくとも神聖ローマ帝国が民族的国民的統一国家たり得ないことは明らかである。皇帝もまた、フランス王とは対照的に、直轄地の拡大、中央集権化という方向には向かい得ない。皇帝は如何なる意味においてもドイツ人共通の王ではなかった。それは後述する如く、16世紀のカール5世(1519-1556)の治世に於てさえ例外ではなかったのである。ドイツ統一の遅れを口にする者は、各領邦国家の分裂を固定化したものが、神聖ローマ帝国の持つ普遍的理念に他ならなかったと言う逆説的な歴史現象に気付くべきであろう。 統一の遅れは、イタリアでは全く別な意味を持っていた。皇帝派Ghibellinesと教皇はGuelfsの争いで分裂していたイタリア半島では、神聖ローマ帝国はー その野心と実際的な干渉は尚三世紀にわたって存続するとは言え - 最早その権威を失っていた。教皇領、ナポリ、シチリア王国、サヴォイ、ミラノ、モデナ公国、マントヴァその他の侯国、アスティ、ヴェネチア、ジェノア、ルッカ、フィレンツェ、サン・マリノ共和国によって分有されたイタリアの政治的統一は殆ど不可能に近かった。共和国は自由都市として構想を繰り返すとともに、そのいくつかは、後継者の為にこれを領有しようとする野望家Condottieriに身をゆだね、ナポリ、シチリア王国は、フランス、特にアラゴンの外国勢力による干渉の対象となり、教皇領ではネポティズムNepotismによる混乱が続いた。しかし、イタリア諸邦の一種の勢力均衡が時に同盟による結果を実現させる事があった。1454年から翌年にかけての(9)神聖同盟Lega Santiはー 世紀末フランスの侵入に対し皇帝、スペインを加えて結成された依存的なそれと異なり - 全イタリアに浸透する後期ルネサンス文化に対する政治的基盤を提供した。 コンスタンチノープル陥落に直面して、中世の教皇が当然抱くべき構想を十五世紀の教皇も抱いた。ニコラウス5世(1447-1455)の十字軍遠征宣言に続いてピウス2世(1458-1464)は1460年これを召集、三年後自ら指揮を執ってこれを実現する。しかしその結果は、十五世紀が最早キリスト教的ヨーロッパという共同体的意識の中に生きていない事を証明したに留まった。のみならず、相次ぐイタリアの政争の只中にある教皇座は、やがてサヴォナローラSavonarolaの痛烈な攻撃の対象となるアレクサンデル6世(1492-1503)を迎えるに至る。中世における教皇座を巡る争いは、聖俗両界を通じての教皇権の強力な実験を物語るものであった。しかし、十五世紀末の教会の危機は、教皇座が自らルネサンスの世俗文化に浸り、その文化の指導的、創造的意欲を欠いた事にある。教皇権の衰微が国民国家の成立と発展との相関関係にあるというとき、それは単に政治的な力関係を意味するのではなく、何よりも精神的、文化的領域におけるエートスの問題なのである。 以上、概観したとおり、十五世紀ヨーロッパの政治的状況は分裂と統一の錯綜の中にある。内に諸国民国家の統一、連合を抱えながらヨーロッパは、既に中世の精神共同体としての統一を喪失した。しかし分裂のあるところには常に統一への意志を見出す事が出来る。 それを政治思想に見るとすれば、イタリアの統一と安定を目指したマキャベリの思想的影響を見るべきであろう。この誤解される事の多い思想家は、絶対専制王政の理論的擁護者としてのみ理解されるが、その手段は、正反対とみなされる思想家、たとえばイギリスのピューリタン革命時の平等派Levellersを援用する事も可能だったのである。 平和思想も単に理念的平和を求めるより、むしろ、国家間の条約による平衡安定と言う構想に移行する。(中略)(10)教会による統一への志向はニコラウス・クザーヌスN. Cusanusの神学界における精神的統一、寧ろ宗教的対立を超えたヨーロッパ統一に向かうその教義を一高峰とし、すそ広く広がっていた。それは広範にわたる修道院改革によって示される。ベネディクト会、カルメル会、フランシスコ会、クララ会の会員に起こる神秘主義の傾向、シャルトルー会の内部に生まれる新しい信仰(デヴォーシオ・モデルナ)、ベギナ会による献身的な社会奉仕を通じての信仰実践、これらの多面的な運動の目指すものは一つであった。しかし、これらはヨーロッパにキリスト教による統一を齎すと言う目標を達成することは出来なかった。寧ろ、そのあるものからは - 十分な理由があってのことだが - 教会分裂を促す運動が生まれるのである。