Marcilio Ficino(Pl) 2 (154)『プラトン神学』の20年後に書かれた、未完に終わったフィチーノの『パイドロス注解』は、前者に比べて、プラトン主義哲学をルネサンス期の幅広い文学的読者層にとって魅力あるものにした解釈学上の新機軸に富んでいる。哲学の代(155)弁者と修辞学の代弁者とが、自分が支持する学問の愛を描写する能力を議論しあう―――哲学とは「霊魂の陶冶」であり、愛は霊魂のそれ本来の目的への欲求とされている以上、この試合は一方的なものにならざるを得ないが―――という対話編を書くことで、ある程度まで、プラトン自身が強い文学的興味を保証していた。師に劣らぬアイロニーの達人であるプラトンは、修辞学を擁護する説得力の無い弁論をこしらえて弁論家リュシアスにこれを語らせ、他方、哲学を弁護するソクラテスの議論は、文学的形式・文彩からその力強さの大きな部分を汲んでいる。とりわけ比喩的表現―――分けても,人間霊魂を「有翼の汗悍馬と有翼の御者の一組」を構成する善悪二頭の不ぞろいの馬にたとえる壮大なイメージ―――がソクラテスを雄弁にするが、この事は、「ソクラテスはここで哲学的というよりは寧ろ詩的な役割を演じる」と書いている通り、フィチーノもよく理解していた。プラトンのテクストは、神との合一に至る忘我の境地にある特殊な解釈者―――愛する者、詩人、神官、予言者―――によってのみ理解され伝達されうる、キリスト教教理の秘儀を包含しているとフィチーノは信じた。ダビデ、ソロモン、オルペウスと同様に、プラトンも神と神的観念から霊感を得て、それらに動かされて『パイドロス』に含まれるような詩を書くに至ったのである。『パイドロス』でも他の対話編でも、プラトンは詩的狂気を愛の狂気に従属させているが、フィチーノは『パイドロス』を専ら詩的哲学の作品として解釈した。 新プラトン主義哲学者を対象とする独自の研究に導かれて、フィチーノは、ホメロスのような偉大な詩人を、解釈を必要とする難解な仕方で神々について教えるために自らの技芸を用いた神学者とみなす、紀元前4世紀に遡る伝統を知るに至った。ここで必要とされる解釈学は、それ自体が一種の神学と考えられるようになった。プラトン主義者ならびにストア学派が、表現されたものと意味するところとが異なる詩の中から神学的示唆を探り出そうとして努力を傾けたが、プラトンの対話編の説話的性格は、最初のうちはあるテクストのむき出しで文字通りの意味を超えたものを探すほぼ全ての解釈のことと考えられていた寓意的解釈に、プラトン学派が関心を寄せるための特に強い誘因となった。ポルピュリオスとプロクロスは熱心に寓意的解釈を実践した。『オデュッセイア』第13巻からの11行の詩句を分析したポルピュ(156)リオスの『ニンフの洞窟』が、ホメロスに応用されたこの方法の現存する最も長い例だが、同じ技法はプロティノス以降の新プラトン主義的釈義全体に浸透している。ペトラルカ、サルターティや他の初期人文主義者は、異教徒の新プラトン主義的解釈には古代文学の多神論のヴェールの下に深遠な一神論を見出すことが出来、その為に人文主義的教育における古典文学の優位を正当化する事が出来るという事実に気づき始めていた。彼らよりも遥かに深い知識を新プラトン主義について持っていたフィチーノが、プラトンの寓意的解釈を試みるのは、自然なことだった。例えば『パイドロス注解』では、この試みが大きな効果を挙げている。 対話編の冒頭で、ソクラテスはパイドロスに、アテナイの郊外、北風の神ボレアスがニンフを拉致したとされる川の岸辺の牧歌的な情景で出会う。パイドロスがこの神話について尋ねると、ソクラテスは一つのありそうな説明を語るが、すぐに、自らを知るというより重要な仕事を持つ人間には、それは時間の無駄だと切り捨ててしまう。現代の批評家の何人かはプラトンの著作のこうした細部にはさらに乏しい関心しか持たないだろうし、多数の哲学者は単なる飾り物として読み過ごしてしまうだろう。現代のある注釈者の書く所では、「こうした意味の多様さはどのような場合にも可能だから、……それらを考察するのに労力を使うのはさほど有益なことではない」という。古代の新プラトン主義者に似て、フィチーノの態度は、プラトンが書いたままのテクストに対してより大きな敬意を払った。対話編の中で3度にわたって、ソクラテスはわざわざ、自分とパイドロスが語り合うのと同時に暑い夏の空気の中で鳴くせみの声に言及するが、フィチーノは「せみについての説話は、我々がこれを寓意として扱う事を要求している」と結論する。この昆虫は、風の神ボレアスと同じく、「歌を糧にして生きる」空気中の生き物であり、ある種の生まれ変わりを経験する。それゆえ、それは音楽と再生を表し、フィチーノには空気という媒体を使う楽音に特に調和する大気中の神霊のように、地上の肉体を捨て去り、より高次の生を目指す哲学者を想起させる。せみは大気中の神霊であるから、空気、上天、火から最高位の神霊の居る星の住居に至る様々なレヴェルに住む霊的存在の位階秩序においては下位に過ぎないが、よい霊であり、(157)詩神からの影響を伝達する「歌い手及び解釈者」である。「良い神霊の下位には」とフィチーノは注記している、「悪い神霊があり、そのわなと誘惑によって……霊魂は肉体の快楽に引きとどめられ……天上の故郷……に戻れないのである」。神霊の位階秩序の齎す利益を強調していたにもかかわらず、善良なキリスト教徒として、フィチーノは、霊の領域に隠れているあしき力の存在を認めざるを得なかったのである。 フィチーノは、キリスト教に適合させるためにプラトン主義を神聖化したが、聖書にふさわしい最高の崇敬を対話編に払うことは無かったし、新プラトン主義者が原点のきわめて細い糸を手繰って彼らの寓意を織り上げた事を時折批判しても居る。しかしながら、フィチーノは、プラトン主義哲学がその深奥に一つの神学を隠していること、プラトンが神学的秘儀を隠すために寓意を用いたこと、プラトンの秘教的流儀が原因の表面上の難点は寓意的解釈学によって解決できる事に同意した。フィチーノはその新プラトン主義的解釈を、道徳的範例や響きの良い金言や雑多な文学的知識をテクストの中から探し出す人文主義者の方法に結びつけた。しかし、対話編をスコラ弁証術のふるいにかける気が無かったのと同様に、歴史学的批判によってプラトンが再構成されうるという可能性に気づくことも無かった。何よりもまず、フィチーノはプラトンを自分の信仰に役立つようにする必要があったので、彼のプラトン主義は一種のキリスト教護教論と化したのである。それは、サヴォナローラがやがてゲオルギウス・トラペズンティスの反プラトン主義を継承する事になる、また、その数年前にフィチーノがフィレンツェのある教会で行った講義がさる有力な教会人にショックを与えた世紀には、ふさわしい変形だった。この教会人いわく、「天使の家に足を踏み入れた私は、神の家とされている場所が着席した俗人の合唱隊で埋まり、祈りの場が講堂に変えられ、司祭だけに許された祭壇の座が……哲学者に与えられているのを見て、愕然とした」。フィチーノの護教論はプラトン主義に対する古くからの不満に返答した。詩的神学の作者であるプラトンは、教育的秩序に従いスコラ学者の明晰さを持って著述する事は出来なかったし、そうすべきでもなかった。プラトンは人間の理解を超えた叡智に向かって読者を動かすために書いたのである。プラトンの道(158)徳的教説を批判する人々は、存在の高次と低次の秩序、天上と地上の位階の間にある照応関係が理解できないで居る。キリスト教徒には許されない事をプラトンが容認しているように見えるとすれば、何かより高次の行為を念頭においていたのであり、我々の敬虔な懸念が低次のレベルにおいてのみ適用されることは疑い得ない。プラトンの宗教的廉直さに疑念を抱く人々は、真の神学が弁証術を超えたところにあること、そして、不明瞭にではあれ三位一体のような秘儀にさえ接近できたプラトンの能力が、彼を詩人・預言者として尊敬させるに十分である事を、想起しなければならない。 フィレンツェ人文主義の影響下にあったフィチーノは、当然、プラトンの神学がその対話編の数ある魅力の中で最大のものだと考えていた―――とはいえ、それは、新プラトン主義者の注解が示唆したようにその唯一の価値というわけではない。フィチーノの文学的教養が、修辞学、論理学、神話、アイロニー、さらにはユーモアまでも含むプラトンの才能も玩味できるように準備していた。新プラトン主義者にとっては、これらは邪魔ではないにしても、せいぜい装飾となるに過ぎないプラトンの言語表現の特徴だったのだが。その一方で、プラトンの神学への新プラトン主義者の探求が、人文主義者の格率・教訓・文献学的知見の収集癖を超えたところへと、フィチーノを導いた。フィチーノはプラトンの著作を、目的と構造において整合し、「プラトン文書」全体の意義を参照することで教説上の個別の問題点に解決を与えるような解釈方法を要求する、統一された思想の総体とみなしていた。最も広い意味で、プラトンの目標は教育的なもの、つまり、自らを浄化した後に<善>を追及する高次の生を選択するよう人々に働きかける、宗教的・道徳的指導を提供する事にあった。対話編のいずれかに読者がこの意図を見て取る事が出来ない場合には、プラトンが様々な従属的かつより明白な目的にその真の主張を適合させた事を示すために、フィチーノが幾つかの説明を補うだろう。時として、プラトンがある主題や方法を選んだのは、読者の精神の成熟度に格差があったからである。低次の理解のレヴェルに訴えかけるために、ある作品が別の作品よりも表面的な事があるが、それはより深い、しかしさほど魅力的では無い真理に読(159)者を招き寄せるための文学的なおとりだったかもしれない。おのおのの対話編がある一つの目標ないしは対象を持つと考えた新プラトン主義者とは異なり、フィチーノは全ての対話編に深遠極まりない心理の何らかのしるしを探し出そうとした。その結果、全作品の諸主題は、スコラ学の「スンマ」におけるように弁証術的にではなく、交響的または詩的に,相互に関連する事になる。 啓蒙主義以来、哲学は、人々により多くの拠りよい知識及び知の方法を、しばしばその道徳的帰結に顧慮することなく提供するという、世俗的教育に共通の責務を引き受けてきた。フィチーノの哲学には、同時代人ならば予想したように、これとは別の目的があった。つまり、ただ単に多くの事を知るのではなく賢明になるよう人々を導くこと、人々を知的により有能にするだけでなく道徳的な意味でより良い人間にすることである。その意図が道徳的・宗教的なものだった事を考えれば、フィチーノがソクラテスを狡猾な懐疑主義者の先駆ではなく、人間の知識に関する疑いによって偽ディオニュシオスの否定神学を予告した異教徒の聖人として描いたことも、驚くにあたらない。フィチーノのプラトンも、同様に、師を殺したアテナイのポリスの破産の不機嫌な批判者ではなく、天上の都市を希求する霊魂の敬虔な導き手である。ブルーニと後継者たちの翻訳以上に、対話編のフィチーノ訳はプラトンを尊重したし、その最も厄介な章句にさえ手を加えず、教説上の何を隠蔽するために上品に改竄したり歪曲したりする事はほぼ完全に避けた。しかし、注解や公害や独自の著作に表現されたフィチーノのより大きな哲学的目標は、現代のどのプラトン研究者とよりも、寧ろアウグスティヌスとの間に多くの共通点を持っている。フィチーノは、信仰に奉仕するように自分のプラトンを形成したが、それはフィチーノの理解による信仰であって、信経上の正統性や教会の司法権に完全に一致した信仰ではなかった。最も広い意味において、フィチーノは学識ある内的な霊性を説いたが、それは、宗教改革の溶鉱炉で試練を受ける前夜に於ては、信経、崇拝、教会政治の外的構造に脅威を与えるほかは無い体のものだった。より具体的に見るならば、この宗教の内面化は、自然な事に、フィチーノの嫌悪を公的典礼(もっともフィチーノは彼独自の儀式を幾つか考案した(160)が)と民衆の迷信とに向けた。しかし、彼の最も有名な非正統的教説―――実際のものであれ世評によるものであれ―――はシンクレティズム、占星術、魔術に関わるものであり、これらは全て、道徳神学上の地位はともかくとして、立派な哲学的信条と密接な関係を持っていたのである。司祭に叙階されたフィチーノは異教徒では勿論無かったが、若しシンクレティズムという言葉を、異郷神話をキリスト教に応用し、自らの存在論・宇宙論に古代の神々と神霊を取り入れることと理解するならば、フィチーノはシンクレティストと呼ばれる資格がある。合法的な自然魔術が罪深い神霊魔術へと通じる可能性があることは知っていたものの、フィチーノが精力的に占星術と自然魔術を説いた事は確実なのである。 悪い神霊が齎す危険は、最も大きな人気を博したフィチーノの著作、1489年の『生について』全3巻で主要な問題となった。この作品の第3巻「天界に従って生を整える事について」は、魔術理論を扱ったルネサンス期の論考の中で最大の影響力をふるったものである。傑出した哲学者が魔術について論述するというのは、現代の読者には奇妙なことと映るかもしれないが、フィチーノの時代の前にも後にも―――実のところ17世紀中葉に至るまで―――教育ある人間が、魔術、占星術、悪魔学など、近代初期ヨーロッパの知的活動の正常な特徴だった様々なオカルト主義を信奉するための哲学的根拠を見出そうと望んだのである。『生について』の第3巻におけるフィチーノの主な関心は、自然魔術、すなわち、植物、石、楽音、その他の自然的事物を、神霊や天使のような人格的・超自然的代理者の助けを借りることなく、特殊な力の源泉として用いる事にあった。自然魔術を使うことへの有力な支持は、アクイナスのような正統的権威が長らくその為に利用してきたアリストテレス自然学・形而上学からだけでなく、フィチーノの新しい新プラトン主義の典拠,特にプロティノス、イアンブリコス、シュネシオス、『カルデア人の神託』から燃える事が出来た。スコラ的思想家は、無害な自然魔術と断罪さるべき神霊魔術とを峻別するための比較的明確な方法を見付けていた。つまり、魔術の手続きが、知性ある霊的な行為者にのみ向けられるしるしや発信を含んでいない限り、魔術師は悪魔崇拝の罪を避けえたのである。しかし、新プラトン主義者の魔術の基礎を成す形而上学は、この決定的な区別(161)を曖昧にした。イアンブリコスは、自然的事物は存在論的位階秩序の上位にある人格的存在と密接な関係にあるために、前者を持って始まったあらゆる魔術的作業に後者が自動的に関わる事になるという記述をしている。フィチーノは『生について』に曖昧な結論を与えてこの問題点を認めたが、その最終章は、「ヘルメス文書」の『アスクレピオス』の「神を作る」箇所における降神術の記述に対するフィチーノのまことの見解に疑念を抱かせるように書かれている。フィチーノが1463年に翻訳したギリシア語の「ヘルメス文書」は魔術を主要な論題として含んでいないが、ラテン語訳の『アスクレピオス』は、魔術で引き寄せた神霊を呼び込むために作られた神像に二節を当てていた。イアンブリコスは降神術を、フィチーノが常に目指していた霊魂の上昇のために用いる他の技術と関連付けたために、また『アスクレピオス』はヘルメス・トリスメギストスの権威でこの行為を神聖化したために、フィチーノは神霊魔術へのキリスト教からの禁令との現実的な葛藤に直面する事になった。魔術理論についての彼の著作が曖昧に終わっていることも、不思議ではない。 17世紀中葉までに30以上もの版を重ねて広く読まれた『生について』全3巻は、比較的後期の作品で、1499年のフィチーノの師の10年前に出版されたが、最後の10年間にもフィチーノは旺盛な活動を行った。プロティノスの翻訳と『エンネアデス』注解は漸く1492年に現れ、1497年にはイアンブリコス、プロクロス、ポルピュリオスなどの新プラトン主義者の重要な翻訳選集が続いた。『ティマイオス』、『饗宴』、『ピレボス』、『パイドロス』、『パルメニデス』、『ソピステス』、『国家』第8巻についての7編の長い注解のうち6へんが1496年にまとめて公刊されたが、そのうちいくつかは30年前に執筆されており、二編は1484年の『プラトン全集』の中に印刷されていた。翻訳と注解だけでも、フィチーノに哲学史上の傑出した地位を保証するのに十分だっただろう。これらの影響は19世紀まで続き、数世紀にわたってフィチーノ訳のプラトンを最も重要なプラトンとする驚くべき生命の長さを示した。しかし、翻訳・注解、それにその多くが実質的に短い哲学的論考となっている書簡以外に、フィチーノは、『プラトン神学』、『生について』(162)のほかにも独自の著作を残した。例えば、1473年に叙階された後、自らの信仰をユダヤ教、イスラムに対して擁護すると同時に、プラトン主義哲学とキリスト教の啓示との一致に基づく一種の宗教的普遍主義を主張する護教論『キリスト教について』を1474年に公刊した。その他の著述は、道徳哲学、医学などの領域の様々な主題を扱っている。大部分はラテン語だが、イタリア語で書かれたものも少数ある。 著作がフィチーノの果たした仕事の最も永続的な部分だが、彼は書物を書いただけではなかった。フィレンツェにおける、また全ヨーロッパに広がる文通の相手に及ぼした、個人的影響もまた巨大なものだった。有名ではあるがさほどの裏づけを持たないのは、フィチーノがフィレンツェのプラトン・アカデミーを復興したという世評であって、その詳細な正確はいまだに不明瞭なままである。政治化ロレンツォ、哲学者ジョヴァンニ・ピコとフランチェスコ・ダ・ディアッチェト,人文主義者・詩人アンジェロ・ポリツィアーノとクリストフォロ・ランディーノのような著名な正解人・知識人は、間違いなくフィチーノと親しい間柄にあったが、しかし彼らとこの偉大なプラトン主義者との関係は、古くからフィレンツェで活動していた信心会或いは他の緩やかな集まりを除けば、正式な仕方で制度化されたものではなかったようである。元祖のアカデメイアは公式に組織された学校ではなかったとフィチーノは考えていたし、彼自身のアカデミーも,その何人かはたぶん同時にフィレンツェ大学に通っていた彼の学生たちの非公式の集会だったのだろう。確固とした制度的背景や規則的日程を持っていたようには思われない彼らの議論で何が話されたかは、殆ど判明していない。恐らく、ある意味で、フィチーノはプラトンのアカデメイアの栄光を復活させようと望んだのだろう。プロティノスはプラトンの誕生・視の記念日として11月7日を祝う事を常としていたし、フィチーノと「同胞のプラトン主義者たち」もこの大祭に1,2度集まった事があったかもしれない。フィチーノは『饗宴』注解という舞台を借りて1468年のこの祝祭を不滅のものとしたが、この出来事のフィチーノによる記述は、歴史的というよりはイデオロギー的なものだったかもしれない。いずれにせよ、フィレンツェの豊かな文化的活動において、フィチーノが(163)プラトンの仲介者として時折働いた公共または準公共の催しはこのほかにもあった。しかし、2巻の版に集めて1561年、また1576年と1641年にも出版されたフィチーノの仕事の大部分は、研究と観想の孤独な作業だったのである。幸運な事に、彼の執筆活動が新しい印刷技術の最初の揺籃期に重なっていたため、フィチーノは、生前に著作を広範囲かつ迅速に伝播することの出来たヨーロッパで最初の主要な哲学者となった。この点でも他の点においても、フィチーノの哲学的経歴はまさしくルネサンス期の産物に他ならないし、彼自身がその事を、しばしば引用される1492年の書簡で示唆している。この中で、フィチーノは印刷術の発明に言及しつつこう述べる。それを一つの理由として、 :この時代の様々な目覚しい発見を考察する者は、我々の時代が黄金時代である事を疑うことは無いだろう。というのも……それは、殆ど息絶えようとしていた自由学芸―――文法学、詩、弁論、絵画、彫刻、建築、音楽……―――を光の中につれ戻したのであり、それもフィレンツェにおいてだった……「ここで」プラトン的学問は暗闇から光明の中へと呼び戻されたのだ。: フィレンツェが15世紀に黄金時代を享受したとするなら、それが鋳造したひときわ燦然と輝く金貨こそは、フィチーノが復興させたプラトン主義の洗練された霊性だったのである。(163)
(チャールズ・B・シュミット/ブライアン・P・コーペンヘイヴァー著 榎本武文訳『ルネサンス哲学』、平凡社・2003年)