2009年4月5日日曜日

芸術作品の用途(政治的用途・享楽)

政治的用途(207) 画像による教皇権の擁護は―――特定の政策を奨励すると言う明確な意味ではなく、イメージとテクストによってある特定の政体を称揚し正当化するという漠然とした意味においてであるが―――政治的プロパガンダという主題を導入した。この時代には栄誉を称揚する図像の例が余りにたくさんあるので、何処からはじめたらよいのか―――共和制と君主制、フレスコ画のような大規模な作品とメダルの(209)ような小型の作品のどれから考察してよいのか―――分からないほどである。古代ローマの貨幣と同様、ルネサンス期のイタリアのメダルはしばしば政治的メッセージを担っている。たとえばアルフォンソ・ダラゴナは「勝利と平和を齎すもの」とかかれた肖像メダルをピサネッロに作らせている。アルフォンソの凱旋門には「敬虔で、慈悲深く、何者にも負かされない者」おいう同様の銘文が見られた。ナポリを武力で征服したばかりのこの王は,彼の新しい臣民に,彼らが従順ならば害は加えないが反抗するなら制圧すると告げているように思える。フィレンツェでは、コジモ・デ・メディチの支配の末期に、通例どおり若い女性として擬人化されたフィレンツェと「平和と共和国の自由」と言う銘を刻んだメダルが鋳造されている。ロレンツォ・イル・マニフィコの支配下では,パッツィ家陰謀事件の失敗や1480年のロレンツォのナポリからの成功裏の帰還のような、特定の事件を記念するメダルが鋳造された。彫刻家ジャン・クリストフォロ・ロマーノは、フェルディナンド・ダラゴーナとルイ12世の間に結ばれた和平を記念して、教皇ユリウス2世を「正義と平和と信仰の復興者」とたたえる銘文入りのメダルを作っている。メダルは機械的に複製できる上、比較的安価だったため、政治的メッセージを広め政体に良いイメージを与えるのに都合の良い手段であった。 公共の場所に置かれた彫像も、軍人や君主、共和国の栄光をたたえる別の方法であった。ドナテッロが制作したパドヴァの大騎馬像は、1443年に死亡したヴェネツィア共和国の傭兵隊長エラズ(211)モ・ダ・ナルニ、通称「ぶち猫」の栄誉をたたえるもので、共和国によって委嘱された。(それとは対照的に、ヴェロッキオがヴェネツィアで造った傭兵隊長バルトロメオ・コッレオーニの騎馬像は,実質的には傭兵隊長自身が支払っている。)多くのフィレンツェの彫像は政治的な意味を持っていたが、その意味はもはや直接的には明らかではない。強力な敵国(とりわけミラノ)との戦争に際して、フィレンツェ人は、自らをゴリアテを倒すダヴィデや、アッシリアの敵将ホロフェルネスの首を掻くユディト、聖ゲオルギウス(ミラノをドラゴンに見立てる)と同一視しようとした。したがってドナテッロの三つの傑作は全て共和国の理念を表明している。フィレンツェ共和国が1494年に再興されたとき、再びこの種の政治的シンボル像が登場するが、とりわけミケランジェロの偉大な『ダヴィデ像』は15世紀初期に共和国が経験した政治的危機の時代に作られたドナテッロの『ダヴィデ像』を念頭においている。ミケランジェロの『ダヴィデ像』はこのように「それを芸術作品として理解する前に当時の政治的事件の認識を要求するのである。 絵画もまた政治的意味を担った。ヴェネツィアでは、共和国政府は、その統領の公式の肖像を注文したり、ヴェネツィア軍の戦勝場面を描いた絵をパラッツォ・ドゥカーレの大評議会ホールに飾る事によって、自らの栄誉をたたえた。フィレンツェでは1494年に共和政体が復権すると、ヴェネツィアをモデルにして大評議会が創設されたが、それにともない政庁内に議場として大ホールが作られ、さらにその壁画には二つの戦争画―――アンギアーリとカッシナの戦いの図―――がレオナルドとミケラ(213)ンジェロの手によって描かれた。しかし1513年にメディチ家が復帰すると、二つの壁画は取り壊された。二人の大画家の作品の破壊は、芸術の政治的機能が当時の人々に極めて重大なものとして受け止められていた事を示している。その後トスカーナ大公のコジモ・デ・メディチは、ヴァザーリやブロンズィーノなどの画家を用いて、パラッツォ・ヴェッキオを公国の事跡を表す絵画で再装飾させ、また大公の家族の公式の肖像を描かせた。現在では判断が難しいのは、ある種の絵画が明確な政治的メッセージを持っていたのかどうかと言う問題、例えばそれらがある種の制作を主張していたのかどうかと言う問題である。人々の大きな関心を呼んだ一例として、フィレンツェのサンタ・マリア・デル・カルミネ聖堂ブランカッチ礼拝堂のマ(214)ザッチョの偉大な壁画『貢の銭』が挙げられる。主題は普通余り描かれないものである。それは「カエサルのものはカエサルへ」という明らかな道徳的箴言をあらわしているが、この絵が描かれた1425年という年には、新しい税の導入、有名なカタスト(固定資産税)導入の提案が議論されていた。それは税に対する絵画による抗議なのであろうか。それともボッティチェリの『コラの懲罰』のように、教皇権の優越性の主張なのであろうか。 絵画の政治的言及は明らかだが、その政治的な目的は良く分からない場合もある。裏切り者や謀反人のイメージの場合がそうである。例えば、1440年に、アンドレア・デル・カスターニョはフィレンツェの監獄の正面壁に,逆さづりにされた謀反人の姿を描いたと言われる。このため彼は「首吊り犯罪人のアンドレア」と言うあだ名をつけられた。1478年には、ボッティチェリがパッツィ家陰謀事件の首謀者の処刑された姿を同じ場所に描いている。1529-30年のフィレンツェ攻囲中には、アンドレア・デル・サルトが逃亡した将校の逆さづりにされた姿を同じ建物に描いている。何故こんな事が成されたのだろうか。すでに述べたように、呪術的な力で反逆者を滅ぼすためだろうか。ミラノで破産者の姿を公にさらした場合には、少なくともこの説明が当てはまるだろう。しかし当時の社会の価値体系における名誉と恥辱の重要性を考えると、これら絵は犠牲者とその家族の名誉を失墜させ、彼らを社会的に抹殺し、彼らに汚名を着せるために描かれたと言うのが、最も納得行く設営であろう。こうした説明は、文字で書かれた同様の文書の存在によっ(216)ていっそうの信憑性を帯びている。フィレンツェでは,共和国の布令官は「摘発の書」と呼ばれる共和国の敵対者を侮辱する詩文を草する義務を負っていた。 人文主義も(人文主義者が主張したように)徳ある支配者を演出したり、近年の学者が主張するように支配者への従順さや服従を促すと言う役割を担っていた。文学の政治的な説得力は非常に明白なので、ここで詳しく述べる必要もないだろう。ただ、最後の章で論じるラテン語とイタリア語による叙事詩が、支配者を彼等の先祖―――実際の、或いは想像上の―――を通じて賞賛し、彼らの支配を正当化する目的で作られた詩である事、又それらのモデルであるウェルギリウスの『アエネーイス』―――この叙事詩もアウグストゥスに良い公的イメージを与え、何人かの古典学者の意見では、ある種の彼の政策を擁護するために委嘱されたという―――と同様、政治的な意味を持っていた事を指摘すれば十分である。歴史の作品は、ルネサンスの文学理論では散文体の叙事詩と同義であったが、これもしばしば同じような目的のために使われた。統治者が人文主義者の歴史家―――ナポリのロレンツォ・ヴァッラ、ヴェネツィアのマルカントニオ・サベッリコ、大公コジモ・デ・メディチ治下のフィレンツェのベネデット・ヴァルキ―――を雇った理由はそこにあった。彼らが国家を「新しきローマ」とたたえたとしたら、彼らは「新しきリウィウス」と見なされた。いくつかの詩はいっそう明確で時事的なメッセージを担っていた。たとえば、権力を失墜した支配者の口を通じて語られた「哀歌」(父アレクサンデル6世の死によって全てを失ったチェーザレ・ボルジアや、ユリウス2性によってボローニャから放逐されたジョヴァンニ・ベンティヴォーリオ)、或いは危機に(217)陥った都市(1509年のアニャデッロの戦いでの大敗後のヴェネツィアや、1527年に皇帝軍に劫掠されたローマ)を歌った詩がそれである。ルイジ・プルチの有名な叙事詩『モルガンテ』(1478)は対トルコ十字軍の熱烈な支持者として知られる作者が、その派遣を願って書いた物と思われる。アリオストもその『狂乱のオルランド』(1516)に同じような主張を込めて、フランス軍やスペイン軍に仲間のキリスト教徒と戦わないでイスラム軍と戦え(つまりイタリアでの戦争をやめるように)と呼びかけている。 大衆を説得するために諸芸術がこぞって動員されたのは後世の人間にとっては見たり判断する材料がわずかにしか残されていない分野、つまり宮廷や都市の祝典の場合である。祝典は特定の政体の称揚や正当化といった一般的な任務を果たしただけでなく、かなり明確で極めて時事的な政治的メッセージを含んでいた。ヴェネツィアでは、豪奢な統領の行列や年一回の「海との結婚」の祭典が行われたが、最近の歴史家がヴェネツィアの擬似演劇的な形式によって設計された調和に富んだヒエラルキー社会を強調して、それを「儀式による統治」と呼んでいるのも理由が無いわけではない。時事的な内容をはらんだものとしては、ヴェネツィア(少なくともその帝国)の存在が危機に瀕したカンブレー同盟との有名な戦争の最中の1511年に、格好の例が見られる。サン・ロッコ同信会館では、寓意的な「活人画」tableau vivantの展示が行われ、その中には女性として擬人化されたヴェネツィアと共和国の主要な敵であるフランス王、それに「何故フランスはまことの信仰を拒むのか」と書かれたプラカードを持つ教皇が見られたと言う。フィレンツェ(218)では、祝典の政治的利用は,1513年のメディチ家の復権以降ますます明瞭になった。有名な例として、1515年に行われたメディチ家教皇レオ10世のフィレンツェ入場を祝う国家祭典があるが、このときには幾つもの豪華な凱旋門が仮設され、その寓意的装飾では黄金時代の回帰と言うテーマが強調されたと言う。コジモはこの分野でも芸術の政治的価値に対する鋭い自覚を示した。豪奢な演出の機会となったのは1539年に行われた彼自身とエレオノーラ・ダ・トレドとの結婚式ばかりではなかった。コジモとその家臣は、毎年行われるカーニヴァルや洗礼者聖ヨハネ(フィレンツェの守護聖人)の祭日を祝う祭典を多かれ少なかれ重視し、それを最近の研究者が「自覚的マキャヴェリズム」と呼ぶものによって利用したのである。 芸術的手段の政治的利用は15世紀よりも16世紀のほうがいっそう強まり、又自覚的になったと言う印象を受ける。教会のような統治者は、印刷術の発明によって可能になった非正統的な思想の普及に直面して、検閲と言う手段に訴えた。グィッチャルディーニの大部の『イタリア史』が、死後の1561年に出版されたときには、多くの反教会的な記述箇所が削除された。しかしこの削除を実際に行ったのはローマ教会ではなく、大公国と教皇国との親善関係を保持しようと考えたトスカーナ大公であった。積極的な面ではコジモは文化の政治的価値に対する自覚をフィレンツェ・アカデミーと美術アカデミー(アッカデミア・デル・ディセーニョ)の設立と言う形で示した。換言すれば、彼はトスカーナの「文学的首都」(言語、文学、美術(219)における優越性)をその公国の政治的首都に転換しようとしたのである。 これまで論じてきた政治的メッセージは権力者の意志を代弁するメッセージのことである。しかし様々な体制の反対者も決して沈黙していたわけではない。例えば、彼らは自分達の考えを一種の世俗的な偶像破壊によって知らしめる事が出来た。1509年のヴェネツィア軍のアニャデッロにおける敗北のあと、ベルガモやクレモナなどの従属都市の反抗は、ベネチア支配の象徴として各都市に置かれていた聖マルコのライオン像の顔を破壊すると言う形で示された。ボローニャでは、教皇ユリウス2世が死ぬと、教皇のボローニャ支配の象徴であったそのブロンズ坐像(ミケランジェロ作)がやはり打ち壊された。「落書き」graffitiはすでにイタリアの都市国家の政治の中で見逃せない位置を占めていた(年代記作者や個人の手紙にもしばしば記録されている)。これらの「落書き」を文学的に発展させた者が、15世紀以来はやった「落首」pasquinateと呼ばれる教皇や枢機卿を風刺した詩文で、古代彫刻の断片の台座に貼り付けられた。彫像のあだ名にちなんだこれらの詩は、機会あるごとに著名な文人によって書かれたが、例えばピエトロ・アレティーノがレオ10世逝去後の教皇選挙に対して書いた痛烈な落首は、彼の評判を高めるのに一役買った。(219)
享楽のための芸術(223) 最後に来るのは、今日では芸術の本来の効用と思われるもの、つまり楽しみを与えると言う効用である。芸術の遊びの側面は忘れてはならないものだが……こうした機能の重要性が増したことはこの時代の最も意味深い変化の一つである。16世紀中ごろには文人ルドヴィーコ・ドルチェが、絵画の目的は「主として楽しみを与えること」と言うまでになっている。フィレンツェの彫刻家達のカーニヴァル歌はこうした新しい機運をあらわしている。しかし歌がはっきり述べているように、彫像が持つ楽しみとは室内を美しく飾ることであった事に注意する必要がある。我々はまだ「芸術のための芸術」と言う近代的観念からは遠い所に居る。絵画に多大な関心を寄せたゴンザガ家でさえ、絵画を室内装飾と考えていた節がある。イザベラはジョヴァンニ・ベッリーニに、「書斎飾るための」絵を注文し、その息子フェデリーコは1537年にティツィアーノに宛てて、城内の新しい部屋は完成したが「この部屋のために描かれた絵だけが欠けている」と書いている。ロードス騎士団の一員サッパ・ディ・カスティリオーネは、その『覚書』で、貴族の邸は古代彫刻か、もしそれが入手できなければ(224)ドナテッロかミケランジェロの彫刻で飾るようにと忠告しているが、やがてこの忠告は広く知られるようになった。 建築でも、安息のための家、つまり田園の別送の重要性が増大した。最大の別荘建築家であったパッラーディオが述べているように、別荘は「都市の喧騒に疲れた人が英気を養い自らを慰める」場所であった。文学においても娯楽―――作者の、とりわけ読者の―――はますます協調される傾向にあった(特に前書きにおいて)。こうした変化は恐らく次第に強まる文学や美術の商品化の傾向と関係している。(224)
(ピーター・バーク著 森田義之・柴野均訳『イタリア・ルネサンスの文化と社会』、岩波書店・2000年)