教会と国家(36) (L項目カット) 哲学は、その原因および結果として、宗教改革の一部をなしていた。霊魂における恩寵の作用をめぐる神学論争と精神における観念の形成をめぐる哲学論議とが宗教的不和の溶鉱炉を書きたて、その炎は、1517年にルターと他のヴィッテンベルクの神学者たちがドイツの片隅でアカデミックな議論を始めたニ年後には、ヨーロッパ中に広がっていた。この炎に最も多くの燃料を提供した哲学者は、ウィリアム・オッカムだったが、中世後期のその他のスコラ学者―――とりわけ、リミニのグレゴリウスとガブリエル・ビール―――もはやり、その多くがアウグスティヌスの時代からキリスト教徒を悩ませてきたこれらの議論において、重要な役割を果たした。義認(義化)の教理を確立するために、キリスト教会は、救済(37)の劇に占める人間の努力と神の能力との相対的な役割を決定しなければならなかった。この仕事は、ペラギウス派を反駁した著作の中に詳しく記されている通り、アウグスティヌスの偉業の一つだった。堕落した人間性には自らを救う能力はないと考えたアウグスティヌスは、救済に必要な恩寵とは髪からの自由な無償の賜物だと主張したが、一方、アクイナスは、獲得された徳やその他の考慮と言うアリストテレス主義の概念に影響されて、神はその道徳的努力が最初の恩寵の注入と共同して作用する人々を救うだろうと考えた。スコラ的な恩寵の神学の主要な諸学説はいずれも人間の努力を入れる余地を残していた。…… ルターは、それが偽りの道徳的自由を保っている限りにおいてオッカムの神学に反対した。しかし、オッカムと彼の追随者たちは、さらに断固として神の意思が自由である事を主張したために、中世末期の神学に主主義的性格を与える事になった。原則として、神の「絶対的な能力」を制限するのは矛盾の欠如と言う論理学的限界だ(38)けなので、神を除くいかなる自然学的あるいは形而上学的配置も、神がそれを意思したという条件に依存せざるをえない。とはいうものの、神は、その「絶対的な能力」が選ぶ事の出来る無数の可能性の中からこの世界を選択した「秩序付けられた能力」によって現実に確定された、被造界の個々の特徴を解体する事はないだろうと我々は信頼する事が出来る。しかし、もし神の意思が絶対的であるのなら、人間の状態も、実際のところ全被造界も、ある程度まで不安定な状態に置かれている事になる。人間がまったく神の居のままになる事から生じる様々な帰結は、「新しい道」の認識論と形而上学に現れたが、これらの源泉も、やはり初期キリスト教時代からそれ以前にまでさかのぼる。プラトンと新プラトン主義者に影響されて、アウグスティヌスは、イデアは神の精神のうちに在るが、キリストが人間的知性の闇を照らすとき人間は個体がその影に過ぎない普遍的なイデアを知る事が出来ると教えた。アクイナスは、通常の知識に関してこの神からの証明の必要と認めず、「知性の中にはそれ以前に感覚の中になかったものは何一つない」と言う有名な章句で自らの教説を定めた。イスラムのアリストテレス学者と同様に、トマスは、感覚が捉えた固体から普遍を抽出する能動的知性を措定した。神の精神は普遍を完全な状態で包含しているが、神からの証明がない場合にも、人間の感覚的装置は個体から普遍を発見する事が出来る。アリストテレス主義によるトマス主義者は、アウグスティヌス主義によるプラトン主義者よりも感覚を信頼したが、精神が感覚の対象を直接知る事を否定する点では、アクイナスはアウグスティヌスと同じ意見だった。トマス主義者は、感覚与件を加工して、感覚的なものと観念的なものとの中間に位置する「形象」speciesと呼ばれる実態を作り出す、複雑な霊魂内の装置を要求した。「形象」は、最高位の精神的能力がそこから普遍の知識を引き出す前に、さらに加工される必要がある。オッカムはこの「形象」を捨象したし、「新しい道」は、オッカムのかみそりをふるい、実在する普遍の必要性を切り落として、個体それ自体や個物に関する言明が直接知られる事を説いた。知識は個体の経験において生じるのであり、普遍は精神と言語の外には実在しない。普遍とは、我々がそれらを考えたりそれらについて単語や名前nominaを用いて話したり(39)するときにだけ存在するものである―――こうして、中世初期・盛期のトマス主義・アウグスティヌス主義の実在論と中世後期スコラ学に広まった唯名論との対立が生じた。後者は、「新しい道」だけでなく、アウグスティヌス会の修道士たちが唱導した別個の伝統である「新アウグスティヌス学派」にもよりどころを見出した。 「新しい道」と「新アウグスティヌス学派」は、13世紀に最盛期を迎えた「古い道」の認識論的実在論を拒絶する点で一致していた。この二つの新しい運動の相違点は、知識の理論ではなく、その救済論のある側面にあった。新しいアウグスティヌス主義者たちは、彼らの守護聖人の反ペラギウス派論争からリミニのグレゴリウスを経由して伝えられた、悲観主義的人間論および決定論的で神中心の義認の図式を説いた。しかし、アウグスティヌス「学派」の救済論でさえも、いくつかの点ではガブリエル・ビールと「新しい道」に従っていた。最も重要なのは、二つのグループが共に、神の絶対的な能力と秩序付けられた能力との区別を利用して、神の救済の選択から独立した、霊魂の内部の創造された実体としての恩寵を排除した点にある。恩寵とは、救済される人間に対する神の意思の一側面に過ぎないのである。…… (40)教会が中世後期の神学の多様性と不安定性を認めた、あるいは認めざるを得なくなったよりも以前の時代には、トマ(41)ス・アクイナスが神学と形而上学との統合を提唱して勝利を収めていた。トマスは、創造されざる存在と創造された存在との明瞭に知られる関係という豊かな複合体を主張したが、この安定した関係を、ウィリアム・オッカムが、不可侵の形而上学的配置には妨げられない神の意思に依存する偶然性へと変化させた。神は明かに、我々が世界と呼んでいる事物の状態を意思し、これを保持する義務を負ったが、しかし、世界とは文字通りの意味において約束事であり、それを書き加える事が神の意にかなったが、書き記されなかったかもしれない、契約書の最後の一文なのである。したがって、オッカムの宇宙は、合理的ではなく意思的な構築物である。神は契約を結び、この契約を破ろうとは意思しない、ところが、この約束が世界をトマスが知っていたものよりも不安であいまいな場所にしてしまう。パリ大学学芸学部が14世紀中葉に「新しい道」の神学的活力を抑えようとしたとき、「古い道」の信奉者は、過去を分解する神の力のような未来の偶然性の難問について詩作をこらすことや、自らを昆虫や野菜や木材の姿にしたかもしれない神の自由といった神の位格の理論に関するばかげた推論を繰り広げることを好む論敵に相対しなければならなかった。「新しい道」は、論理学の確固たる産物としての神学への制御を強めたが、その一方で、人間の知識作用の脆弱さを強調することで思弁に対する教会の把握を弱めもした。神学のあらゆる結論は、それが仮に正しいとしても神の契約の産物である―――これは、神に関する学問の万人としての教会には厄介な考えだった。教会組織の構造それ自体が偶然的なものである。キリストは自らの教会が岩の上に築かれたといったが、中世後期の神学が、教会を、さまざまな可能性をはらんだ土台、ディオニュシオス・アレオパギテスが描写した永遠の天上的位階に根ざす形而上学的に安定した記念碑というにはいささか不安定な建造物として、明らかにしつつあるように思われた。もちろん、教会の体制を支配する司教や修道院長の多くは実在論と「古い道」のより堅固な基礎のほうを好んだが、「新しい道」は、いくつかの点で、聖職者の務めと野心的な神学論議とを覆した神秘主義的神学にはより適していた。ジャン・ジェルソンは、オッカムの批判者であり、パリ大学の総監督(総長)を務め、スコラ的討論の力をスコラ学自体に向けて使った『神秘神学』の著者だった。ジェルソンと彼の弟子ニコラ・(42)ド・クレマンジュは、スコトゥスとオッカムの晦渋さのかわりに、中傷的な申請を理解することよりもむしろ秘蹟を定め十字架にかけられて死んだ救世主を愛することを目的とする、より素朴な信仰を置こうと望んだ。ジェルソンの時代までに、スコラ学は、13世紀のアリストテレス主義者の学匠の、信仰の深みを究める理性の力への信頼を失ってしまっていた。中世後期のアリストテレス主義者は、それと知らぬうちに、「アリストテレス全体と神学との関係は暗闇と巧妙との関係に等しい」というルターの宣言を準備していたのである。 ある見方によれば、アリストテレス主義者アクイナスは信仰と理性との壮大なスコラ学的統合を成し遂げたことで賞賛に値するが、別の分析では、教皇ボニファティウス8世が302年に発した大勅書『ウナム・サンクタム』の基礎にトマス主義があったということになる。聖年1300年の二年後、そして教皇庁がアヴィニョン滞在を始めるわずか7年前に、ボニファティウスは、あらゆる世俗的・現世的権力が自らの権威に従属することを宣言したが、しかし、この世俗界の服従への教会の願望を再確認した宣言が生んだものは、200年以上後ルターがそれを再び燃え上がらせたときにも依然くすぶっていた、反聖職者的・反教会的な憎悪でしかなかった。フランス王フィリップ4世が神権政治を報じるボニファティウスに屈辱を味わわせてから1世紀以上の間、教皇たちは、歴史上で最も暗く騒々しい日々を送ったのである。教皇庁がアヴィニョンで70年間に渡って現世の栄華を極める一方で、ペトラルカのようなイタリア人はこの時期を破滅的な流刑とみなしたし、このフランスのバビロンへの捕囚の後には、ほぼ40年間に渡って、ペトロの王座(教皇位)に対する複数の要求者が現れた。この混乱を収拾するために1414-1417年にコンスタンツで開かれた大公会議には、3つの目的があった。「大分裂」(シスマ)を終結させること、異端説を根絶すること、改革の計画により腐敗への不平不満に対処することである。異論を唱えるものは処刑され、対立教皇は要求を取り下げた。しかし、1460年にピウス2世が公会議の権力に対抗して布告した大勅書『エクセクラビリス』の後に続く半世紀に及ぶ教皇権の復活の間にも、ルネサンス期の最も権勢がありかつ悪名高い教皇たちには、大した改革を行う能力がなかったか、あるいはその意思が(43)なかった。…… (43)コンスタンツ公会議は、教皇の代弁者と世俗権力の支持者との1世紀前の争論に端を発する、教会政治に関する論議を蒸し返した。とりわけ重要なのは、教皇権を支持したアエギディウス・ロマヌスとヴィテルボのヤコブス、そして、現世の権力と民衆の主権を主張するパドヴァのマルシリウス、パリのヨハネス、ジャンダンのヨハネスだった。ウィリアム・オッカムも、バイエルン公ルートヴィヒに与して教皇ヨハネス22世に対抗したが、教皇権にとってもっとも危険な思想は、マルシリウスが1324年にパリで書き、その三年後教皇ヨハネスによって異端説として断罪された、『平和の擁護者』のそれだった。ヨハネスは、ウィリアム・オッカムも1326年に破門した。ヨハネスに最も脅威を与えたのは、「キリストは教会の首長を残さなかった」というマルシリウスの首長だったが、『平和の擁護者』に含まれたより深く幅広い破壊的要素は、政治的権威とは神から民衆を通じて生じ、その後でようやく教皇や王に与えられるという原則にあった。マルシリウスによれば、民衆の主権は譲渡不可能なものである。いつでも支配者を退位させることができる臣民は、主権を委託するに過ぎない。これは、被支配民に要求された同意が彼らの主権を失わせるというアクイナスの見解に真っ向から対立していた。マルシリウスは、ルネサンス期の実際的政治における巨大な変動に伴うことになる政治理論へも、またアウグスティヌスが人間の国の上空に漂っているのを見たという神からの委任状には保護されない人工的産物としての<ポリス>というアリストテレスの古い概念へも、トマスよりも接近したのである。コンスタンツで決定された解決法を提唱したジャン・ジェルソンや他の公会議派は、マルシリウスほどには急進的ではなかった。マルシリウスの思想は、その後、宗教改革とともに起こった教会政治の変革ばかりでなく、新しいルネサンス期の政治技術から生まれた政治哲学のより大きな革新にも刺激を与えることになる。しかしながら、15世紀の半ばまでには、教会政治の狭い領域においては公会議(44)主義運動は消えてしまっていた。当時の最も独創的な精神の持ち主の一人ニコラウス・クザーヌスが、1432-33年の『普遍的和合について』で公会議の権力に示していた譲歩を1440年代になって捨て去ったことが、この運動の失敗を明らかにしている。 その一方で、世俗的秩序においては、都市・個人双方の自由の理想を生み出す別の伝統が出現していた。「書簡作成術」と「演説術」という手紙と弁論にかかわる中世の技術は、自分たちの増大する文学的手腕と拡大する古代の知識を道徳的・政治的任務に応用することをヨーロッパ人に教え、また、13世紀末から14世紀はじめにかけての北イタリアの人文主義の先駆者たちは、古代ローマの新しい知見を利用し、政争に明け暮れる当時のイタリアの自治都市で権力を握った諸侯に対抗して、市民の自由を主張し始めた。14世紀末に、フィレンツェの政情が落ち着き、都市の秩序に関する不安が和らいで、市民のよい生き方に関心が向けられると、次世代の人文主義者たちは年代記や教育的マニフェスト、そして支配者のための助言書を書いた。これらの助言書は、いくつかの基本的学説、とりわけ人工的産物としての国家や美徳と悪徳の葛藤としての政治行為というアリストテレス主義の見解を、スコラ政治哲学と共有していた。これに並行して、こうした15世紀の人文主義者は、アリストテレスの道徳哲学・政治哲学をよりよいラテン語に翻訳し始めた。また、ペトラルカの先例に倣って、英雄的弁論としての政治というキケロ的政治観を採用し、古典修辞学の道具と古代史の判例を使って、市民生活の活動的かつ博学な語彙を創造した。彼らの弁論・論考に絶えず現れる論点は、徳と運勢との永遠の対立であり、これはますます個人および都市の努力が勝利する希望へと導く仕方で解釈されるようになっていった。 しかし、15世紀の後半に、イタリアの都市の政治状況が権力を君主や門閥に集中させると、市民的人文主義の希望は色あせて言った。たとえば、フィレンツェでは、メディチ家の権勢は、1430年代から次世紀へ、さらにそれ以降も、時折共和政をはさみつつますます強力になっていった。どの時期のフィレンツェ共和政にせよ、その官僚の中で有能な一人(45)がニッコロ・マキアヴェッリだったが、そのマキアヴェッリでさえ、1512年にメディチ一族の門閥支配が復活して失職したときには、彼の最もよく知られた著作『君主論』をメディチ家の侯爵に検定したのである。徳と運勢とについての理論的考察を行っている点では、この驚くべき小品も馴染み深い主題を展開しているが、しかし、君主の徳を慣例のキリスト教的・古典的徳のリストから切り離し、支配者の行動を国家理性(国家的必要性)によってのみ制限する点で、マキアヴェッリは、キリスト教世界の根底をなす政治的原理を無効にしたのである。『君主論』で提供される<ヴィルトゥ>の助言は、主として支配者の<スタート>statoの安寧への脅威に対応するものだが、この<スタート>という単語は、もはや一人の君主の個人的「地位」を指すところにとどまってはいないものの、現代の制度に表現されている形での政体としての「国家」を意味するところまでは到達していなかったこの意味の変化は、イタリア半島の都市国家とヨーロッパ大陸のより若い国民国家が近代の国民政府の装備を備えていくのに並行して起こったのである。政治哲学におけるマキアヴェッリのもう一編の傑作『リウィウスの最初の10書に関する論考』は、これを執筆した共和国の外交官の個人的感情をよりよく反映している。マキアヴェッリは、リウィウスの初期共和制ローマの歴史から先例を抜き出して、政治的受動性、個人の強欲、傭兵隊、また他の彼らの都市の健康を脅かす危険について、フィレンツェ人に警告を発している。『論考』が君主の安全ではなく都市の自由を守ることを目指していたために、研究者は短いが扇動的な『君主論』よりもこちらの長い論考のほうに行為を示してきた。とはいえ、『論考』においてさえ、マキアヴェッリは、キリスト教自体を―――とりわけ現世から退いた禁欲的な観想者を聖化する点において―――政治的病弊の源泉として扱っている。(45)
(チャールズ・B・シュミット/ブライアン・P・コーペンヘイヴァー著 榎本武文訳『ルネサンス哲学』、平凡社・2003年)