2009年4月7日火曜日

C.Firenze

フィレンツェ公会議と公会議首位主義 -東西教会一致の試みの一側面― 中村正夫(345) フィレンツェ公会議は十五世紀半ばに教皇エウジェニウス四世Eugenius IVにより開かれた、一般に東方教会との一致の公会議として知られるものである。1054年、コンスタンチノープル総大主教ミカエル・チェルラリウスMichael cerulariusと教皇レオ9世Leo IXとの間に起こった不幸な離教から1438年のフィレンツェ公会議までの400年間になされた一致の試み、そして一時的に一致がある型で成された例はあったが、いずれも不幸な結果に終わった。(346)教会大分裂、それに伴う教皇権の失墜、頭部から肢体に及ぶ醜状と悪弊に満ちた14,5世紀は、また改革思想の時代でもあった。そして「病める社会にとっての万能薬」であると、当時の少なからぬ人々により支持された改革の一案が、教会法思想の伝統に根差した公会議首位主義conciliarismus、即ち教会の一般副詞の為に全体教会tota ecclesiaたる公会議concilium generaleが教皇の行政権を制限し、それに代わって一致と改革の責任を持つという道であった。 (347)さてこの公会議と教皇の対決がきわめて大きな脅威となったのは1431年のバーゼル公会議に於てであった。これは初期において一人の司教の出席すらも得られなかった為に、教皇エウジェニウス4世Eugenius IVは五ヵ月後には会議の解散を命じた。ところが公会議は服従を否んだ。これは明らかにその初期から公会議首位主義の傾向の見られたバーゼル公会議に対する教皇の疑惑と恐れによる早まった行動であった。その際に教皇の念頭にあった今一つの事は、前教皇マルティヌス5世Martinus Vから継承した東方教会との一致の交渉についてであった。彼はバーゼル公会議の解散を命じた教書Bullaにおいて「ローマ、アンコナ、ボロニヤそしてその他の幾つかのイタリアの地が指摘され、我々(訳注、教皇自身を指す)と我々の兄弟達にとってローマが適当である事が明らかであるにもかかわらず、彼等(訳注、ギリシア人たちを指す)の航海技術と、アルプスの彼方からやって来る人々のイタリアへのより近い出入り口aditumとして……」ボロニヤを選びたいと述べ、バーゼルがギリシア人たちとの約束を果たす場所として地理的に不適格である事を暗に述べている。そして早速教皇使節としてガラトニCristoforo Garatoniをコンスタンチノープルに派遣して、一致の公会議開催について交渉を始めさせた。ガラトニはその後この面での教皇側の主役を演じるようになる。 一方教皇の解散命令に反発したバーゼル公会議派(今後バーゼル派と呼ぶ)は教皇に対抗して自らの手で同様な交渉を始めた。ここに教皇とバーゼル派が同時に自らに主催する公会議にギリシア人を招待する事を競う事になった。両者は各々公会議開催地へのギリシア人たちの旅行・滞在等の費用一切の援助と十字軍による東方救援等を約束した。そして公会議開催地としてバーゼル派はバーゼル、アヴィニョンを提案し、教皇側はフェララ、ウディネ、そしてコンスタンチノープルでも良いとさえ言った。勿論ここにはビザンチン皇帝の一致に伴う西方のコンスタンチノープルへの救援の期待があったことを忘れてはならない。バーゼル派は初期においては教皇を通じてビザンチン皇帝をバーゼルに出席せしめようとした。しかしそれが不可能である事を知ると教皇に対抗して自らの手で達成し(348)ようと試み始めた。そこでスダSuda司教アントニオAntonioらがギリシア人たちにバーゼルに出席するよう招聘するべく出発したのは、教皇が自らの情勢の不利を悟って涙を飲んでバーゼル公会議への譲歩をせざるを得なくなった頃であった(1433年12月15日、教皇のバーゼル公会議解散の教書を撤回し、バーゼルの正統性を承認した)。 アントニオらは翌年三人のギリシア使節を伴ってバーゼルに帰り一致の公会議についての交渉を始め、その結果シクット・ピア・マーテルSicut pia materに始まる教書Bullaによって同意に達した。これは三年前に教皇マルティヌスが皇帝ヨハネス8世との間で達せられた協定に基づくものであった。この中でギリシア人たちは公会議の開催される場所について「カラブリア・アンコナその他の海岸都市、ボロニヤ・ミラノあるいはイタリアの他の都市またはイタリアの外辺、ハンガリアのブダBuda、オーストリアのヴィエンナ、あるいはせいぜいサヴォイSavoy」の中の一つを要求し、更に全ての交渉における取り決めについては「教皇が教書Bullaによって明瞭なる同意を示すであろう」事をうたっている。このようにギリシア側は一致の為の公会議開催地としてバーゼルは承諾できない事、また決議の結果については教皇も同意する事を条件としている。またバーゼル派は教皇の主意見は否定するけれども教皇制そのものを廃しようとするものではなく、またバーゼルで決定された事には教皇は当然従うはずであるとの公会議首位主義の明らかな権限を示していると言えよう。1433年12月30日にフス派との間に「プラーグ協定」prager kompaktatenを結ぶのに成功したのとあわせて、当時のバーゼル派の勢いを知る事が出来る。 このようなバーゼル派の発展と比べると当時の教皇はイタリアの内政争いに権力と財産の殆どを失い、ローマから逃亡せざるを得ない状態にあり、加うるに枢機卿たちも教皇を見捨て教皇の幾度課のバーゼル派に対する抗議もこれと言った効果を生まなかった。バーゼル公会議は最早教皇の手に負いかねるものとなってしまった。エウジ(349)ェニウスの優柔不断さがこのような結果を齎したと言える。それゆえに公会議で取り上げられているものは全て教皇の意図を離れて、公会議の意のままになってしまう。このような状況において公会議首位説との争いを続けることは最早不可能であり、これを解決する方法として考えられる事は嘗てマルティヌス5世がパヴィアPavia1の公会議を無害なものとするために会場をシエナSienaに移転させた例にならって、バーゼルからどこかに公会議を移転するのが良い。そしてその為の大義名分を成したのが東方教会との(ビザンチン帝国の立場から見れば西方の救援を待機する為に差し迫った要求であった)一致の交渉であり、その為の公会議開催の場所を教皇の手の中において実現する事であった。 一方バーゼル派はというとギリシア人らとの一致の功績を教皇に譲る事は決して出来なかった。公会議は同時に二箇所で開く事は出来ない以上、バーゼルか或いはバーゼル派に有利な場所で開かれねばならず、それが出来ないならばそれはバーゼル派の破滅を意味するものであり、教皇の思う壺となるのであった。しかしバーゼル公会議によって提出された教会改革に関する数多くの提案は、もしこれが首尾一貫して実施されていたならば教会改新に大きく寄与していたに違いないものであった。しかしバーゼル公会議の発した諸教令の中多くはただひたすらに教皇の権力を削減し、公会議の行政権を拡大しようとする意図から発するものであった。バーゼル派は何かの霊に取り付かれた如く徐々に原理的問題、すなわち教会と公会議との関係の考察に熱中し続けて行った。ローマ教皇庁に対するアンナーテならびに諸税の全面的納入停止を規定し、また教皇の集金人達に対して徴収したものをバーゼルに差し出すことを命じた。そしてそのような動きが顕著にあらわれるようになったのはコンスタンチノープルにおける一致の公会議についての話し合いに成功したガラトニが、二人のギリシア人を伴って教皇の意図を伝えるべく出席したバーゼル第21会議(1535年6月9日より開催)の頃からであった。 この頃からバーゼル公会議における教皇代理チェザリーニCesariniの会議での発言力は弱まり、フランスに教(349)皇権を復帰させようとするフランス派の勢力が強くなってきた。尚この頃のバーゼル派のメンバー500人中20人が司教、他は下級聖職者か俗人である。「料理人の声は司教或いは大司教の声と同じくらいの価値を有し、そしてこの荒れ狂える烏合の衆の決定する如何なる法令も聖霊に基づくものとされている」と当時のある人は嘆いている。ちなみに第24会議においては司教20人、大修道院長13人、第25会議ではチェザリーニが公会議をフィレンツェかモデナModenaに移転して継続すると言う教皇の提案をしようとしたところ、反教皇派は人数を近隣の聖職者から駆り集めて提案を妨げ、あくまでバーゼルを主張した。第26会議にいたってチェザリーニはついに会議の司会をつかさどる事を拒絶した。このように過激化し党派化したバーゼル公会議はついにここに至って過激な多数派majoresとSicut pia materに忠実でギリシア人に同情的、したがって教皇の提案に賛成する少数派minoresとに分裂した。 以上のような動きは先ほど述べたようにガラトニの出席した第21会議頃より顕著になってきたものである。「教皇の尊厳が単に影のようなものになってしまうことを望まなかったエウジェニウスの不平は、バーゼルでの聖職者民主主義the clerical democracyの行状が全く限界を超えるようになったので正当化された。会議の多数派は追放された教皇(訳注、ローマ以外のフィレンツェその他への)に対して示されるどんな敵意も受け入れた。……彼らの真の目的はある会議でトゥールToursの司教が述べた次のような言葉によって驚くべき率直さを持って示された。即ち、我らは教皇座をイタリア人の手から奪取せざるべからず。あるいはまた教皇座を完膚なきまでにかきむしり、それがどこに存在するとしても痛痒を感ぜざるものとなすべからずと」。パストールPastorはこの有様を以上のように説明する。状況の展開に用心深かったエウジェニウスもついにSicut pia materを承認し、ついで1437年12月30日、公会議がバーゼルよりフェララへ移される事を宣言する。またバーゼルの多数派に対してはもしもそれを彼等が妨害するような事があれば、破門を持って対処する事を命じている。 (351)以上述べたように教皇にバーゼルの公会議首位主義に対する断固たる決意を取らせたのは、本来両者にとって論争の本質的な問題点でありえなかった東方教会との一致問題に関連してであった。このような解決の仕方は教皇と公会議の間に存在する本質的な問題点解決への努力を怠らせ、公会議開催の場所(東方教会側の立場への物分りのよさの見せ掛けの元に)をめぐる両者の争いとなり、いわば東方教会問題に対する主導権を獲得する事によって自らの存在を強化しようとする政治的意図があったのではなかったか。両者の決裂は教会改革に関する論争によってではなかったところに後に問題点を未解決のまま残したといえよう。その結果は教皇は教会改革を後回しにして専ら東西教会の一致を達成する事に熱意を注ぎ、一方公会議首位主義者たちは過激な離教への道をひた走り、世俗諸権力の支持をも失い自滅してしまう。このようにしてエウジェニウスが自らに課した唯一つの務めは「教会のどんな権利をも犠牲にしない」という事であり、「教会の伝統的組織を確保する」戦いには成功したと言える。しかし一つの思想の擁護者を打ち負かす事は出来ても思想そのものを打ち負かすことはまた別問題である。いまや公会議首位主義は人々が教会について考えようとする際の一つの思考様式としての地位を獲得してしまったのである。公会議首位説を本当に克服する為の唯一の道は、放置されたままの教会改革にすぐに断固として取り掛かることこれをおいて他になかったのである。教会改革はこの時こそ最も必要とされたのである。ニ(353)バーゼルに残留した多数派はその第31会議において(それはエウジェニウスが荘厳にフェララに入城した三日前の事であった)エウジェニウスの権利剥奪と停職の処分を宣言し、全聖職者は彼に従う事を禁じ、公会議に出席する権利と義務を有するものは直ちにバーゼルに赴くべき事を宣した。 一方フェララに入ったエウジェニウスは参集した聖職者達を前に、教会内の和合を試みるべき事、頭部と肢体における悪弊を改革する事が彼の望みである事を述べ、彼が今回なさざるを得なかった成り行きを短く概括した。更に彼はバーゼルの越権を抑圧する方法を案出するよう援助を頼み、彼等の態度の中に若し何らかの不適当さがあるならばそれを改めるように訓戒した。それに対し枢機卿オルシニOrsiniとラヴェンナの大司教トマスThomasが代表して教皇への忠誠を誓った。その後幾つかの会議が行われたがそれらは殆どバーゼルに対処する論議に終止した。 フィレンツェ公会議のまさにその前夜における公会議首位説の排除、そしてその後に反対宗教改革によって行われた引き締めは、ガリカニズムGallicanismそしてエピスコパリズムEpiscopalismとの相違を鋭く示すことになった。即ち、教会史のうえに何度か現れてくるところの一種の反動が、このフィレンツェ公会議にも現れたのであった。エウジェニウスの「教会の伝統的組織を確保する」事、「教会のどんな権利をも犠牲にしない」という態度は公会議首位主義に向かって示されたものであったが、その態度が今教皇によって開かれようとする一致の公会議の中においても示されようとする。特にバーゼル公会議に見られた公会議首位説とある点で共通性を有すると思われる東方教会の五頭政治Pentarkyとの対決においては、教皇は一歩も譲る事の出来ない点であった。なぜなら(354)ば教皇にとって当面の最も大きな問題は、東方教会との一致もさることながら、それを達成する事によって齎されるであろう公会議首位説に対する勝利であり、教皇権の確立であったと考えられるであろう。教皇エウジェニウスに教会一致への強い願望があったとしても、バーゼルの公会議首位主義に心を動かされないではいなかった。だから特に東方教会の五頭政治理念と対決したときに、教皇の首位権を明確に打ち出しておくことは彼のどうしてもしなければならないことであった。 教皇の首位権についてフィレンツェ公会議においてなされた決議は次のようである。「使徒の座(教皇座)ならびに教皇は、全地上にわたってその優位を保つ。教皇は、ペトロの後継者として、かつまたキリストの代理者として、全教会の頭であり、全てのキリスト教徒の父にして教師である。かかるがゆえにまた教皇は、いにしえの諸公会議の記録とカノンに従い、全教会を指導する権力を有する事を明言する」。この中「いにしえの諸公会議の記録……に従い」というつけたりについては、ラテン教会側ではこれを単なる説明的なものと解釈していたのに対して、ギリシア教会側ではこれを権限に枠をはめる意味での、制限的なものと解釈したのであった。この部分についてはエドワード・ギボンEdward Gibbonが有名な彼の著書「ローマ帝国衰亡史」Decline and Fallの中で皮肉を込めて「ギリシア人たちが名誉を汚されることなく、しかもラテン人が満足するように、進学面でバランスがわずかばかりバチカンに優勢に傾くように言葉と音節に重みをつけたのだと述べている。だからもしもこの決議が単にギリシア人との関係のみにおいて考慮されるのであるならば、この決議の価値は薄れるのである。しかし「そこに定義された教皇の位置は、だから第一にギリシア人が考慮されていたとしても、ラテン人のために定義された」のであったから、教皇はたとえその一部であろうとも首位権をそこなってはならなかったし、その宣言を広くヨーロッパに公布しなければならなかった。当時バーゼルは既に孤立化しつつあり諸国家の関心もまた離れつつあった。教皇にとって国家の背景を欠いたバーゼルなどは恐るに足らぬ存在となりつつあった。教皇はバーゼルの公会議首位主義者達に勝った(355)のである。 エウジェニウスの功績はフィレンツェにおける東方教会との一致(それは一時的であった)を達成する事により、公会議首位主義によって大きく失われた教皇権を回復することによって伝統を固守した事にあった。このような状況の下に成された東西教会の一致が一体真のものであり、また永続するものであろうか。1439年宣言されたギリシア教会との一致は「これに先立つ合同の試みを全て不成功に終わらせたあの不信の念を東方に起こさしめたのみであった」。そして不信の念とは一体何を指すのであろうか。それはむやみに自らの伝統を他に強要することである。それは一致に対する誠実さと同程度に必要条件であろう。そしてたとえエウジェニウスに一致への情熱が純粋にあったとしてももう一つの条件に欠けていたといえないだろうか。東ローマ帝国は数ヵ月後オスマン・トルコの支配下におち、バルカンおよび小アジアのキリスト教徒は彼らを救う事は出来なかったローマ教会との全ての絆を断ち、自分達の典礼と信仰への忠実さの中に、自分達の司教と修道者の周囲に結束した。当時のヨーロッパ人たちはこれに殆ど関心を持たず、教皇の十字軍の呼びかけも殆ど効果なく、ただ僅かのヒューマニスト達だけが「ホーマーの第二の死」を悲しんだのみであった。そしてこのとき東方の諸教会が拒否したが故に、教皇が統一計画を追及していた中世キリスト教世界の領域は本来西欧にあるということになった。 バーゼル公会議によって生じた不一致は、史上最後の対立教皇側の全面的屈服によって1449年終わりを告げた。しかし公会議首位主義は人の思考様式としての地位を獲得し、「やがてルターの革命がその起源においてこの首位説の上に基礎を置くこととなるのである」。