2009年4月5日日曜日

Leonard Bruni

 Leonard Bruni(92)ブルーニはフィレンツェの南東、アレッツォの生まれで、生年は1370年から75年の間と見られているが、……80年以降、同地では政争による騒乱が生じ、またミラノの侵攻を受けたこともあった。85年にはアレッツォはフィレンツェの支配下に入った。この間、有力家系の出であるブルーニは捕虜となる辛酸をなめている。軟禁状態にあったのであろう、ある城砦の部屋にフランチェスコ・ペトラルカの肖像画があった。この偉大な人文主義者を眺めながら、学問への情熱をたぎらせる経験を味わう。80年代後半、相次い(93)で両親を失った。フィレンツェに移住するのは95年頃である。97年からイタリアにやってきた東ローマ帝国のマヌエル・クリュソロラスにギリシア語を学び、この言語の達人となるきっかけを得た。クリュソロラスのイタリア来訪により、700年間失われていたギリシア文学の知識が回復される機会が訪れたため、法律の学問を捨てたとブルーニ自身が語っている。1405年からフィレンツェ定住を決める15年までの10年間、教皇庁秘書官となる。1410年から11年に掛けては一時期フィレンツェ共和国の書記官長となっている。16年にはフィレンツェ市民権を得た。27年には再びこの職に就き、なくなる44年までこの地位にあった。この間、彼はフィレンツェの有力市民同様に、主要な委員やプリオーレ職にも就いている。これは従来の書記官長には見出しがたいことであり、大変な栄進を遂げた事になる。死去したとき、当代を代表する人文主義者たち、ジャンノッツォ・マネッティ、ジャン・フランコ・ポッジョ・ブラッチョリーニ、そして同郷のカルロ・マルスッピーニが弔辞をささげた。彼の見事な墓は今日でもなお、サンタ・クローチェ(94)教会の一角で見る事が出来る。
 都市フィレンツェ領のレトリック 多忙な公務の合間を縫って活発な著述活動が続けられた。彼が市民的人文主義者と呼ばれるゆえんはここにある。彼自身の手になる著作は多く、大変な点数の手写本と印刷本の双方を誇る人気作家であった。ルネサンス以後のヨーロッパ文化の領域において、ここで扱われる三人の中では傑出した存在であったといってよい。建築・美術の分野ではアルベルティにはかなわないとしても、その他の人文学の分野では群を抜く影響の大きさをその実数は示しているのである。そのほか翻訳者としてアリストテレスやプラトンのラテン語訳も目立ち、前者では中世の翻訳に変わる新訳を提示し、後者ではフィチーノに先立つ業績を挙げる事になった。 そのようなブルーニの数ある作品の中で、近年特に注目され、議論の対象となっているものに『都市フィレンツェ頌』『イストリアのピエトロ・パオロに捧げられた対話録』『フィレンツェ市民の歴史』12巻がある。これらの作品から考えさせられる事は、ブルーニにおける古代の意義であろう。ギリシア・ラテン双方から学んだ彼は、自らが生きている時代の諸問題にどのように古典を生かす事が出来たのか。(95)まず『都市フィレンツェ頌』は、若いブルーニがレトリック作品のつもりで書いたが、晩年にはこれに関して、弁明をしなければならなかった。自由を重んずすフィレンツェ共和国の優れた政治制度や社会制度、恵まれた地理的特性など、ある意味では賞賛の限りを尽くした著作だった。いくらレトリックの演示的範囲に属しているとはいえ、いくらか度を越したと思ったのか、「歴史と賛辞は全く別々のものである。歴史は真実に従い、賛辞は真実以上に多くを褒め称える」というのである。ブルーニはこの考えをキケロに見出したかもしれないが、それは、実はさらにこのローマ人が負っていたギリシア・ヘレニズム文化の伝統に由来していた。 例えば賛辞としては、伝記体を挙げると分かりやすいであろうクセノポンの傑作『アナバシス』では出来事の中途に、説を改めてある個人の礼賛が挿入され、意識上、伝記と歴史が区別されている箇所がある。ポリュビオスは両者間の相違を明瞭に述べ、またプルタルコスは幾度と無く自分はあくまでも歴史でなく、伝記を書いていると断っている。この個人礼賛の部分を、その個人を産み育てた都市なり、その都市の国制なり(96)知的・経済的環境なりの礼賛に置き換えてみればよい。ブルーニの『都市フィレンツェ頌』は、アテナイを称えるトゥキュディデスの『戦史』の中の有名なペリクレス演説やイソクラテスの『パネギュリコス』に、直接的にはアイリオス・アリステイデスの『パナテナイコン』 に遡る形式を有している。 このように様々な前例が挙げられるとしても、ここで第二の故郷となるフィレンツェの美質を称えたいというブルーニの気持ちにはうそ偽りは無かったであろう。生地アレッツォは中世以来、教育の盛んな地であったにもかかわらず、今は見る影も無い。それにひきかえ、上昇し、イタリア半島内の政治大国となったフィレンツェ共和国は自由を高らかに唱導し、文化的繁栄期を迎えようとしていた。このような感慨は『対話録』のピエトロ・パオロ・ヴェルジェーリオ宛の「献呈の辞」で漏らされている。
『対話録』の中世文化観 次に、2巻からなる『対話録』は、対話形式の叙述という点でまず注目されなければならないだろう。古代作品にこの形式が見られることは言うまでも無いが、中世スコラ学の論述形式との大いなる相違は、これをルネサンスによる発展的産物とみなしてよい(97)であろう。そして、フィレンツェからの亡命者の子でアレッツォ生まれのペトラルカの『わが秘密』がその口火を切った作といえよう。古典を復興させた立役者としてのペトラルカの意義はブルーニたちに良く認識されていた。ただ、この作品には、古代末期のアウグスティヌスのキリスト教的訓戒が反映し、良心の呵責というきわめて個人主義的な葛藤描写を伴いながらも、ある意味では一般道徳論的筆致が貫かれている。また心の動きは激しくとも、設定されている場自体は動かず、空間を覚えさせない。 これに対し、ブルーニ作品―――『都市フィレンツェ頌』と同様に若い時代の作である―――は全く演劇的であり、世俗的であり、社会的である。対話形式はプラトンの作品にも見られるように元来芝居的であった。……言葉が行き来しなければならない。対話人物が自然や建築空間の中を動き、また別の人物が通りかかる。あるいは駆け込んでくる。ラファエロの『アテナイの学堂』というフレスコ画を想起すればよいであろう。『対話録』はキリスト教徒は全く無縁の、キケロの『弁論家について』に影響されている。最初の巻の(98)冒頭には復活祭への言及があるから、この点でキリスト教社会の話である事は間違いない。そのうえ、ある人物が七年前に死去とあるので、1401年の復活祭の季節と特定できよう。だが、議論の中身は全くこれと結びつかない。降誕祭と並ぶ大事なときであるが『対話録』の目的は宗教的でない。 何が大きな問題なのか、きわめて社会的な事柄が問題になっている。フィレンツェ社会に影響力のある俗語の著作をものした三花冠、文学者のダンテ、ペトラルカ、ボッカチオの評価が重大なのである。そして彼らの生きていた14世紀をいかに見るかが問われているのである。登場人物の一人ニッコロ・ニッコリはラテン語という古典語を重視するから、彼らの表現手段である俗語による文学をけなす。また、いま生きている自分たちの時代に比べ、彼らが文化の劣る暗闇の時代に生を享けていたという。 ところが、後半の第2巻ではこの評価を逆転させ、フィレンツェ文化の先人たちとして彼らを高く称える発言を行う。一体発言の真意は何処にあるのか。どちらがブルー二の意見なのか。否、それともいずれも彼の見解ではなく、対話と言う演劇空間の中で発言している別の人物の考えを伝えているに過ぎないのか。おまけにこれには献呈の書簡がついている。この場に居ない受取人に、対話の場に居合わせたブルーニが報告しているのに過ぎないのか。(99)このようにやや複雑な構成になっていようと、ブルーニが知ってもらいたかった事はあるであろう。それは何か。やはり一つは古典語と俗語の関係であろう。もう一つは世代間に見られる考えの相違を知らせたかったのであろう。登場人物の大物は書記官長コルッチョ・サルターティである。このとき彼は70歳、ブルーニは20歳代である。サルターティとの間の政治的見解の相違は大きかった。『対話録』内では、ダンテのカエサル評価が問題になる。『神曲』の中で僭主カエサルから共和制ローマを守ろうとしたブルータスは地獄に落とされる。このダンテをサルターティは支持する。これに対し、ニッコリは同調しない。それは、ブルーニもその自由観を考えると、同意見であったろう。
 『フィレンツェ史』の古代と中世 ブルーニには圧倒的にラテン語著述が多い。この点でニッコリと大差ない古典主義者だったかもしれない。『フィレンツェ史』を執筆するに当たり、参照した古典は結構な数に上る。ラテンからはリウィウス、サルスティウス、タキトゥス、ギリシアからはポ(100)リュビオスと枚挙に暇が無い。中世前半のギリシア語・ラテン語の書物も欠けては居ない。だが、それは彼が俗語著作を無視する態度を取った事を意味しない。数ある俗語の歴史著述、中世後半のジョヴァンニ・ヴィッラーニなどの年代記諸書も参照した。 注目すべきは、年代記にはいきなり本文に入り、狙いが何か不明のものも少なくない中、明確な意図を持って歴史を描こうとしたことである。その事は『フィレンツェ史』序に明らかである。フィレンツェ市民はミラノ公やナポリ王と戦えるほどの力強い国家力を有している。また隣国ピサ併合はローマのカルタゴ征服になぞらえられる。このような例に見られる数々の戦果と同国の発展を記述するには大いなる努力を要するが、自分はそれを試みると宣言する。全12巻の始まりと終わりは次の通りである。最初の巻は冒頭でフィレンツェの起源がスラの時代にある事が言われ、最終の第12巻では15世紀初頭のミラノとの戦いに筆を費やす。それでも第1巻ではエトルリア問題や古のローマに遡り、かなり長大な時間が扱われている。最終巻はビアンキの宗教運動の巧みな描写から始まり、1402年のジャンガレアッツォ・ヴィスコンティの急死をもって終わる。これで完成と言うわけではなかった。第1巻を除けば、他の諸巻はリウィウス風に明確に編年体の叙述を踏襲する。そして細やかな叙述となっている。『フィレンツェ史』執筆開始は、実際のところはこのミラノ公死去後大分後の事になるが、ミラノ公国との戦いはブルーニには何時までも記憶が鮮明だったのか。同書で(101)はフィレンツェ共和国はローマ共和政伝統の後継者なのである。ローマの衰退は自由を断念して皇帝に使え始めた時期に遡る。フィレンツェの起源は帝政時代で無く自由な共和政時代にある以上、ローマ帝国の消滅は悲しい出来事では無い。中世はコムーネ、自由な自治都市の勃興に必要な歴史的時間となる。中世の年代記作家のように「帝権の推移」に頼る必要は無い。これでは玉座に座るものの民族が変わるだけで、ローマ帝国は形を変えて永遠に続いて行くのである。第1巻の終末部で残忍な皇帝フェデリコ2世像が描かれ、第2巻のはじめで彼の死が言われる。ここからコムーネの更なる発展が開始される。ヴィッラーニに倣ってブルーニはその始原をシャルルマーニュ時代においている一方で、ヴィッラーニと違い、自由は一旦失われ、皇帝死去までこのコムーネは帝国の支配を甘受していたとみなす。 アレッツォでブルーニ一族が苦労していた時代の事は第3巻に、実に細かい年代描写がある。イタリアのどの都市にも見られた内紛がここアレッツォでも激しく繰り返された。それはゲルフ(グエルフィ。教皇党)やギベリン(ギベッリーニ。皇帝党)のいわばイデオロギー闘争だけでなく、社会階層の対立でもあった。1287年のそのような叙述に於ても、ブルーニは、フェデリコ亡き後ただちにフィレンツェ人が長期に及ぶ隷属から抜け出して自由を取り返し、追放されたアレッツォ人と同盟を結んだ事があったと記すのである。
18世紀市民革命の底流(102)レオナルド・ブルーニはこれらの作品からも知られるように、共和政的自由をこの上なく重んじた歴史家であり、思想家であった。彼に従えば、市民の活動的徳が自由に発揮できてこそ文化の発展もあった。ラテン文学とその研究はローマ共和政とともに発展し、キケロのときに頂点に達したと彼が言明したのは、1436年の『ペトラルカ伝』においてであった。この執筆年は後半生を捧げた『フィレンツェ史』執筆の時期と重なり合う。この伝でも彼は言う。皇帝の時代とともに自由が失われ、文化は絶えた、と。アウグストゥスは諸皇帝の中でも最も残忍でなかったが、それでも数千人のローマ市民を殺した、と。 古代ローマの歴史は、後世のヨーロッパの人々に大きく二分される政治体制のモデルを提供した。共和政と訂正がそれである。この共和政にはアテナイの民主政が食い込まれていると見る事が出来よう。フィレンツェ共和国は都市国家であり、それはギリシアではポリスに相当するとブルーニは言う。ブルーニは15世紀前半において共和主義のイデオロギーをその後の世界のためにすえたのである。アリストテレスの『政治学』は彼によって「共和(国)」respublicaと訳され、広く読まれた。フィレンツェのこの政治的伝統はやがてニッコロ・マキアヴェリによって確実に受け継がれる。(103)フィレンツェが最早共和国でなくなった後でもコムーネの発展とともに培われた偉大な伝統はフィレンツェを越えて普遍的な思想となって行く。そこではブルーニ時代の自由が一部の人のものに過ぎなかったとか、共和国は幻想だったと言う事は問題では無い。また、そのような言い方でフィレンツェの共和政的自由が近代において確かな歩みを続けていき、市民革命の18世紀を迎えるのはこの共和国があったればこそであり、そこにはまず、ブルーニが居たのである。 (伊藤博明編『哲学の歴史 第4巻 ルネサンス 15-16世紀』、中央公論社・2007年)