2009年4月5日日曜日

イタリア・ルネサンスの芸術

イタリア・ルネサンスの芸術 (22)ルネサンス期のイタリア芸術に対する19世紀の伝統的な見方は、以下のように要約する事が出来るだろう。諸芸術が繁栄し、その新しいリアリズム、世俗主義、個人主義がこぞって中世の終焉と近代世界の幕開けを告げた、と。しかしこれらの憶測は全て批評家や歴史家達から問題を投げかけられてきた。こうしたルネサンス間が生き残りうるためには、諸公式の根本的な組み換えが必要とされることになろう。 芸術がある特定の社会に於て「繁栄した」という事は、勿論その社会で他の多くの社会に於てよりも優れた作品が生み出されたと言うことであるが、この事は経験的に確証しうる領域からはみ出す問題である。中世美術がルネサンス美術より劣っていると言う事は、もはやかつてのように明白なこととは思えない。当時から現在に至るまでラファエッロは偉大な芸術家であり、アリオストは偉大な作家とみなされてきたが、ミケランジェロやマザッチョあるいはジョスカン・デ・プレに関しては,今日いかにその評価が高いとはいえ,こうした意見の一致は見られなかった。とはいっても、ルネサンス期のイタリアが芸術的な成果の「簇生した」社会であったと言う説に反対するものは殆どいないであろう。この簇生は、マザッチョから(あるいはジョットから)ティツィアーノに至る絵画、ドナテッロからミケランジェロに至る彫刻、そしてブルネレスキからパッラーディオに至る建築において最も壮観を呈している。 俗語文学の場合はいっそう難しい。ダンテとペトラルカ以後、所謂「詩なき世紀」(137(23)5-1475)が到来し、続いてポリツィアーノやアリオスト、その他多くの作家達の作品が生み出された。14世紀と16世紀はイタリアの散文の偉大な時代であるが、15世紀はそうではなかった(これは学者達がラテン語で書く事を好んだためでもある)。思想の領域では多くの卓越した人材―――アルベルティ、レオナルド、マキャヴェッリ―――が輩出し、「人文主義者」、性格には「古典研究」の教師達と定義しうる人々による大きな運動が見られた。 こうしたイタリア人の業績のうちで最も著しい空白は音楽と数学に見出される。ルネサンス期イタリアでは数多くの美しい音楽が作曲されたが、それらの大部分はネーデルラント人の作品であり、ガブリエーリやコスタンツォ・フェスタといった才能ある作曲家が出現するのは16世紀になってからのことである。数学では、有名なボローニャ学派が登場したのは16世紀後半のことであった。 芸術に於てはそれらの「繁栄」よりもむしろ革新について検討するほうがいっそう有益であろう。と言うのも革新と言う概念のほうがいっそう明確だからである。イタリアでは15-16世紀はいうまでも無く芸術における革新の時代であり、新しいジャンル、新しい様式、新しい技術の時代であった。この時代は「最初のもの」に満ち溢れている。それは最初の油絵、最初の木版画、最初の銅版画、そして最初の印刷本の時代であった(最もこれらの革新は全てドイツやネーデルラントからイタリアにもたらされたものであるが)。また線遠近法の法則が発見され芸術家達によって利用されるようになった。 芸術の諸ジャンルにおいては、新旧を分ける線をどこで引くかは技術の場合よりも難しいが、変化(24)は十分に明白である。彫刻では、自由独立彫像(free standing statue)や、とりわけ騎馬像や胸像形式の肖像の隆盛が見られる。絵画に於ても、肖像画が独立したジャンルとして登場し、それに続いて風景画や静物画が徐々に登場した。建築では、意識的な都市計画の発展―――と言うよりむしろ「発明」―――が15世紀に見られた。文学では(戯曲であれロマンスであれ)喜劇と悲劇、そして田園詩pastoralが隆盛した。音楽では、フロットラやマドリガーレという多声歌曲の形式が出現した。美術理論、文学理論、音楽理論、政治理論は、いずれもこの時代にいっそう自立性を増した。教育では、今日「人文主義」と呼ばれ、当時は「人文学研究」studia humanitatisと呼ばれたものが隆盛を見た。これは特に五つの学科、すなわち文法、修辞学、私学、歴史学、道徳学という、いずれも言語か道徳に関係する科目を重視した学問一式であった。 革新は、時には復活と看做されることもあったが、自覚されたものであった。視覚芸術の革新に関する古典的な言明は16世紀半ばの画家・歴史家ジョルジョ・ヴァザーリによるもので、彼は「野蛮人」の時代以来の三段階の神秘の理論を唱えている。この革新への誇りは、ナポリにおける彼自身の作品の事を「近代的な様式で描かれた」 lavorati modernamente最初のフレスコ画と述べている事にも見られる。彼はしばしば、彼が「ギリシア様式」と呼ぶビザンティン美術や「ドイツ様式」と呼ぶゴシック美術に対して軽蔑的な言葉を吐いている。音楽家達もまた15世紀には大きな革新が起こったと考えていた。イタリア在住のネーデルラント人ヨハンネス・デ・ティンクトリスは、14(25)70年代に書いた著作の中で、近代的作曲家moderniの登場を1430年代とし、「信じ難いことと思われるが、過去40年間に作曲された曲で、教養ある人間が聞くに値するとみなした音楽作品は一曲も無い」と付け加えている。 この過去に対する軽蔑的な態度は、ルネサンスにおいてイタリアが中心的な位置を占めたのは、一つにはイタリアの芸術家達がフランスやドイツ、イギリスの芸術家達ほどゴシック様式と密接に結びついていなかったためであった事を示唆している。革新はそれ以前に優勢を占めていた伝統が、他の地域ほど深く浸透していなかった地域においてしばしば起こる。例えば、ドイツはフランスほど啓蒙主義の影響を深く受けていなかったために、ドイツのロマン主義への以降は容易に行われた。それと同様に、15世紀のフィレンツェにおいて建築の新しい様式を発展させる事は、パリや、或いはミラノに於てよりずっと容易であったことだろう。 とはいえ、ルネサンス期のイタリア人は伝統への敬意を全く失った訳ではなかった。彼らが行った事は、近い伝統をより古い伝統の名において拒絶することであった。彼らは古典古代を憧憬するがゆえに中世の伝統を古代の伝統との断絶として攻撃した。例えば、15世紀の建築家アントニオ・フィラレーテが「近代の」建築と言うとき,それは自分が拒絶しようとしたゴシック様式の事を意味していた。彼の立場は、常にある種の悪しき習慣が確立される以前の「古き良き時代」に戻るべきだと主張した、中世末期や近世ヨーロッパの反逆者や改革者の立場に似ていた。いずれにせよ、古典古代に対する情熱はルネサンス運動の主要な特徴の一つであり、文化史家たちは、二つの(26)文化の間の親和力を伝統社会における革新を正当化する手段と解釈するにせよ、あるいは古代ローマの政治的栄光の芸術への敷衍と解釈するにせよ、それについて明らかにする必要がある。 ギリシア人やローマ人を模倣しようとするこうした傾向は建築においてとりわけ明白である。ローマの著述家ウィトルウィウスの建築論が研究され、また建築の古典的「言語」を学ぶために、すなわちそのボキャブラリーばかりでなく、異なる要素を結びつける規則である文法を学ぶために、古代建造物の計測が行われた。彫刻の場合には、胸像や騎馬像といった核心は古代のジャンルを復活させたものであった。文学の場合でも、喜劇作家がローマ人のテレンティウスやプラウトゥスを、悲劇作家がセネカを、そして叙事詩人がウェルギリウスを盛んに模倣した事は一見して明瞭である。 絵画と音楽の場合は、古典古代の手本が存在しなかったためにいっそう好奇心をそそる(今日学者達が論じているローマ絵画は18世紀或いはそれ以降に発見されたものである)。しかし具体的な手本が欠けていても文学的資料に基づく模倣は可能であった。たとえば、ボッティチェリの『誹謗』や『ヴィーナスの誕生』は、古代ギリシアの画家アペレスの失われた作品を再現しようとした絵画である。アリストテレスやホラティウスと言った古典作家達の文学批評は,「詩は絵のごとく」という原則に基づいて絵画の優秀さを判断するために利用された。ギリシア音楽がいかなるものであったかは、プラトンの『国家論』の1節やプトレマイオスの『ハルモニア論』のような古典的な音楽論に基づいて論じられた。しかしこのギリシア音楽への関(27)心は比較的遅れて16世紀に登場した。このため15世紀に音楽の「ルネサンス」が齎されたとする考えには疑問が出されている。 芸術の変化について語る当時の記述は、何が起ころうとしていたのかを理解するためには不可欠な史料であるが、他の史料と同様額面どおりに受け取る事は出来ない。概して当時の人々は古代人を模倣し近い過去とは手を切っていると主張したが、しかし実際には彼らは両方の伝統から借用し、いずれの伝統にも完全に追随した訳ではなかった。しばしば興るように、新しいものが古いものに取って代わったと言うより、寧ろ付け加えられたのである。古代の神々や女神達は、中世の聖人達をイタリア美術から追い出したのではなく、彼らと共存し相互に影響しあった。ボッティチェリのヴィーナスはその聖母と区別するのが難しいし、ミケランジェロは『最後の審判』のキリストを古代のアポロ像に基づいて形象化している。詩人のヤコポ・サンナッザーロとマルコ・ジローラモ・ヴィーダはキリストの降誕や生涯を主題とした叙事詩をウェルギリウスの『アエネーイス』の様式に倣って書いた。ルネサンスの君主は、トリスタンの中世騎士物語も古代のアイネイアースの叙事詩も同じように読んだり聞いたりしただろうし、アリオストの『狂乱のオルランド』は、ロラン(オルランド)とシャルル・マーニュの時代を舞台とした叙事詩と中世騎士物語の混成物であった。ポリツィアーノの牧歌劇『オルフェオ』はメルクリウスの入場と共に始まるが、メルクリウスは通常イタリアの聖史劇で先導役を果たした天使の位置と役割を引き継いでいる。 また一方では、人文主義の隆盛によって中世のスコラ哲学がいっそうされることも無かった(たしかに(28)人文主義者はスコラ哲学者を軽蔑する発言を行ったが)。実際、真プラトン主義者のフィチーノのようなルネサンス運動の主導的な人物は、古典哲学と同じくらい中世哲学に精通していた。フィレンツェの支配者であったロレンツォ・デ・メディチはボローニャの支配者ジョヴァンニ・ベンティヴォーリオに対して、中世末期の哲学者ジャン・ビュリダンが書いたアリストテレスの『倫理学』注解を地元の本屋で探してくれるよう書簡で頼んでいるし、レオナルド・ダ・ヴィンチもザクセンのアルベルトやアルベルトゥス・マグヌスの著作を研究していた。 リアリズム、世俗主義、個人主義の三つが一般にルネサンス期のイタリアの芸術に帰せられる特徴である。しかしこれらの三つの特徴はいずれも問題を含んでいる。「リアリズム」という言葉には、いくつかの異なる問題が含まれている。まず第一に、様々な文化圏において芸術家達は因襲的表現を捨てて「自然」や「現実」を模倣すると主張したが、それにもかかわらず彼らは慣習的な表現のシステムを利用した。第二に、「リアリズム」と言う用語は、19世紀のフランスでスタンダールの小説やクールベの絵画を指す言葉として作られたため、ルネサンスの議論の中でそれを用いる事は二つの時代の間の時代錯誤的な類似性を認めることになってしまう。第三に、この言葉には余りにも多くの意味が含まれているので、それらを識別する必要がある。それには日常的リアリズム、錯覚的リアリズム、表現的リアリズムという三種類のリアリズムに分別するのが有益であろう。 「日常的」リアリズムとは、特権的な人々の特権的な瞬間よりも、寧ろ日常生活や平凡で卑近な人々を芸術の主題として選ぶ事を指す。クールベの石割人夫や、ピーテル・デ・ホーホのオラ(29、図版。30)ンダの日常生活の光景はこの「描写の芸術」の作例である。一方、「錯覚的」リアリズムは、それが絵画ではなく現実の一部であるかのような錯覚を生み出したり生み出そうと意図する様式を指す。「表現的」リアリズムもやはり様式に関わるものだが、例えば肖像画の場合にモデルの性格を明示するために顔の形を修正したり、自然な身振りをいっそう雄弁な身振りに置き換えたりするように、内面性をよりよく表現するために外面的な現実realityに操作をくわえる事を指す。 (31)ルネサンス期のイタリアの芸術を研究する際に、これらの概念はどれくらい役に立つだろうか。例えばレオナルドの『最後の晩餐』や、ラファエロやミケランジェロの絵画の中に表現的なリアリズムを見出すことは難しい事では無い。寧ろ困難なのは、芸術作品にこうした特徴が見られない時代を探すことのほうだろう。イタリア・ルネサンスの絵画においていっそう革新的な事は(同時代のフランドル絵画に於てと同様に)背景に日常的リアリズムが見られることである。たとえばカルロ・クリヴェッリの『受胎告知』には、じゅうたん、刺繍で飾られたクッション、皿、本、その他のマリアの部屋の室内装飾が見事に描かれている。ギルランダイオの『羊飼いの礼拝』には、美術史家ハインリヒ・ヴェルフリンが述べているように、「家族の手荷物、つまり小さな酒樽と一緒に地面に置かれた使い古された鞍」が描きこまれている。細々とした事物が描かれていることに気付くことも重要だが、それらが単に背景に描かれていることにも留意する必要がある。今日、我々はこれらの細部描写を小型の風俗画とみなしたり、その種のものとして複製にする事が多い。しかし、当時の人々は風俗画と言う概念を持っておらず、日常的事物を象徴的意味を持つもの、或いは空いた空間を埋める装飾物とみなしていた可能性のほうが大きい。 当時の文学、例えば聖史劇にも、同様の日常的な事物の描写を見出すことが出来る。キリストの降誕を主題とする作者不明の劇において、羊飼いのネンチョ、ボビ、ランデッロたちは、主を礼拝しに行くときに食べ物を携帯し、それを舞台の上で食べた。しかし文学には、絵画と違って、日常的リアリズムが前景を満たしたジャンルがあった。例えばノヴェッラ(32)novellaという庶民達の生活を扱った短編小説は、14世紀のボッカチオから16世紀のバンデッロまでイタリアの人気の高い文学ジャンルであった。喜劇の中には、アンジェロ・ベオルコ通称イル・ルッツァンテ(道化師)によってパドヴァ方言で書かれ演じられた芝居のように、農民の生活を描写したものもあった。音楽もまた狩や市場の情景を再現しようと試みた。 錯覚的リアリズムの問題はいっそう難しい。ヴぁざー利からラスキンに至るまで、ルネサンスは一般に現実表現がますます正確さを増していく過程の重要な第一歩とみなされてきた。しかし、今世紀初頭にこうした考え方は(はっきりした因果関係があるわけではないが)ちょうど抽象芸術の発展と符節を合わせて挑戦を受けた。例えば、ハインリヒ・ヴェルフリンは、「美術史にとって,自然の模倣と言うものを、次第に完璧さに到達する均質な過程であるかのようにみなす粗雑な考え方は誤りである」と主張している。またアロイス・リーグルは、いっそう劇的に「あらゆる様式はもっぱら自然の忠実な表現を目指しているが、各々の様式は独自の自然の概念を持っている」と述べている。 ここで読者はルネサンスにおける線遠近法の発見が反証であると考えるかもしれないが、こうした議論でさえ、エルヴィン・パノフスキーやピエール・フランカステルといった、遠近法を単眼の視覚に基づく「象徴形式」或いは「他と同様の一組の約束事」であると主張する美術史家たちによって反駁されている。この単眼による視覚という点が、観者が片目をつけて鏡に写ったフィレンツェ洗礼堂を見る事が出来たと言うブルネレスキの有名な覗き穴付きの暗箱の重要な点である。 (33)若しこれらの主張が正しいとしたら、「ルネサンス・リアリズム」について語る事は無意味と言うことになろう。しかしながら、リーグルの人目を引く公式は、反論不能な循環論法の危険を持っている。美術家の自然観の証拠はその絵画から齎されるが、その絵画はこの同じ自然観によって解釈されているのである。それゆえ、ある種の社会は、ある種の個人と同様、見えるものの世界に特別の関心を抱くものであり、イタリア・ルネサンスもその一つであったという経験的な事実から出発する方が有益であろう。実在人物の蝋人形がしばしば等身大で作られ、当の人物の実際の衣服を着た姿で聖堂内に置かれ、ライフ・マスクやデス・マスクがたびたび製作され、そして美術家の中には人体の構造を理解するために死体を解剖するものも居た。とはいえ錯覚的リアリズムが当時の美術家たちの唯一の目的であったと言う事では無い。こうした主張が誤りである事を示すことは易しい。たとえば、パオロ・ウッチェッロはこれとはかなり異なる基準に従って彼の馬を彩色した。しかしヴァザーリはまさにこの真実らしさの欠如ゆえにウッチェッロを批判しており、第6章で扱う文献資料からは、多くの鑑賞者がこの種のリアリズムを期待し、外観の本物らしさ、或いは所謂「見えるがままの様態」と言う基準で絵画を判断していた事が分かる。 ルネサンス期のイタリア文化のもう一つの著しい特徴は、それが中世に比べて世俗的だったことである。しかしこの対比は誇張されるべきではない。統計から見ると、世俗的主題のイタリア絵画は、1420年代には約5パーセントだったのが、1520年代には約20パーセントに上昇している。この場合、「世俗化」とは少数であった世俗的絵画が幾分か増えたと言うに過ぎない。彫刻、文学、(34)音楽の場合は、数量的方法を用いる事はいっそう難しく、騎馬像や喜劇やマドリガーレなど幾つかの新しいジャンルが世俗的であったという明白な点を指摘する以上のことは難しい。 そこからさらに先へ進もうとすれば、所謂「隠された世俗化」の場合が示すように、概念の問題が込み入ってくる。例えば表向き聖ゲオルギウスや聖ヒエロニムスを主題にした絵画は、聖人への関心をますます薄めて背景への関心をますます高めるようになり、聖人は小さく扱われるようになる。こうした傾向はパトロンが実際に望んでいたことと彼らが正当と認めたこととの間に存在しうる緊張を示している。困ったことに、当時の人々は、トレント宗教会議の結果、16世紀後半のイタリアで義務づけられるようになる聖なるものと俗なる者との間の厳密な区別をおこなわなかった。構成の基準から見れば彼らは絶えず俗なる者を神聖化し聖なるものを世俗化していた。ミサは民衆歌の旋律を下地にしていた。哲学者フィチーノは「詩神musaiの司祭」を自称し、またウルビーノの宮殿には「詩神の礼拝堂」があった。神とその代理人である教皇は「ユピテル」或いは「アポロ」と呼びかけられた。エラスムス(1509年にローマを訪問)など一部の人々が非難したにもかかわらず、……こうした風潮はルネサンスを通じて存続した。しかし「世俗化」と言う言葉によってルネサンスを論じていく場合、我々は少なくともこの時代に後世のカテゴリーを当てはめている事を念頭に置かなくてはならない。 一般にルネサンス期のイタリア文化に帰せられる第3の特徴は、ブルクハルトの有名な著書で詳細に論じられている「個人主義」である。Individualismという言葉も、「リアリズム」と同様、余り(35)にも多くの意味を担うようになっている。……しかし、この事は本当に「事実」だろうか。20世紀の観察者にとって、中世絵画はルネサンス絵画よりもはるかに個々別々の作者の作品とは見えにくいかもしれないが、これは(非中国人にとって)「中国人は皆同じように見える」式の錯覚かもしれない。それはともかく、当時の人々の証言からは15-16世紀においては芸術家も公衆も個人的な様式に興味を示していた事が分かる。チェンニーノ・チェンニーニは、その『絵画術の書』の中で、画家達に「自分自身に良くあった手法を見つけるpigliare buna maniera propria per te」よう忠告している。バルダッサーレ・カスティリオーネは、完璧な宮廷人とその芸術理解に関する議論の中で、マンテーニャ、レオナルド、ラファエロ、ミケランジェロ、そしてジョルジョーネがそれぞれ「自分の様式において」nel suo stilo完璧であったと述べている。イタリアを訪れたポルトガル人の画家フランシスコ・デ・オランダは、レオナルド、ラファエロ、ティツィアーノにつて、「各人が自分自身の様式で描いている」cada um pinta por sua manieraと同様の事を述べている。文学では、古代の手本の模倣は論争の的となった。とりわけポリツィアーノのような代表的な論客は、キケロに倣って書くと言う理想に反論し、個性的な自己表現の価値を主張した。勿論、多くの古代や当世の美術家や著術家を模倣した作品は存在した。実際、模倣はごく当たり前の行為であった。世俗主義と同様、個人主義に関して重要な点は、それが支配的な傾向だったことではなく、それが相対的に新しいものであり、またそれがルネサンスと中世とを区別す(36)るものであったことである。 以上がイタリア・ルネサンス文化の表立って明らかな特徴であり、それらについてはさらに注意深く記述する必要がある。いくつかの芸術に共通する別の一般的特徴についても簡潔に触れておくべきだろう。たとえば、芸術は自立性を高めるようになり、実用的な機能から独立し、また相互にもますます独立性を強めるようになった。例えば音楽では言葉への依存度が小さくなっていった。アンドレア・ガブリエーリやマルコ・アントニオ・カヴァッツォーニのオルガン曲のような器楽曲はいっそう長くなり、また重要性を増した。彫刻は建築から、彫像は壁龕からますます独立していった。ベルトルドがロレンツォ・デ・メディチのために製作した戦闘場面の浮き彫りのように、物語を表さないと言う意味で主題を持たない彫刻さえ存在したし、また宗教的・哲学的、或いは文学的な意味とは無関係に見える絵画も僅かだが存在した。この時代の絵画や音楽において、「ファンタジア」と言う言葉が、画家や音楽化が文学的主題を図解したり伴奏するのではなく寧ろ純粋な想像力によって生み出した作品を意味するのに用いられた事は、きわめて意義深い。 この時代のイタリア文化のもう一つの一般的特徴は、諸学芸の区分の崩壊であり、異花受精である。この時代には、数多くの芸術や学問において理論と実践の間隙が狭まったが、これは多くの著名な革新の原因であり結果であった。例えば、ブルネレスキの暗箱は線遠近法の法則の発見を劇的な形でもたらしたが、それは光学理論(当時はperspectiveと呼ばれた)への貢献であると同時に(37)絵画技法への貢献でもあった。人文主義者レオン・バッティスタ・アルベルティは、理論家、数学者であると同時に実践家、建築家であり、それぞれの研究は互いに役立てられた。彼の聖堂や定款は数学的な比例の体系に基づいて建てられたが、その一方で彼は学者達に現場で作業する工人達を観察して学ぶように勧めている。レオナルドの光学や解剖学の研究はその絵画に利用された。教皇レオ10世の時代の教皇礼拝堂つき音楽家の一人で、『トスカネッラ』の名で知られる論文集の著者である僧ピエトロ・アロンのような音楽理論家は、音楽理論家と演奏者=作曲家の間の伝統的な間隙に橋渡しをした。政治思想史の分野では、一時職業的官吏であったマキャベリが、政治に関するアカデミックな思考方式―――それは理想的支配者の道徳的特性を扱った「君主の鑑」の伝統に典型的に見られる―――と実践的な思考方式―――宗教会議の記録や大志の急送公文書の中に見られる―――との間の間隙に橋渡しをした。 トスカーナにおける達成が他の地方のモデルとなったため、イタリア半島の諸地方の文化の間にあったもう一つのギャップも失われつつあった。イタリア・ルネサンスの外国での受容に先駆けて、イタリアの各地にトスカーナ・ルネサンスが導入された。フィレンツェの革新は(ロンバルディアの)カスティリオーネ・オローナにおけるマゾリーノ、パドヴァやナポリにおけるドナテッロ、ミラノにおけるレオナルドと言った具合に、フィレンツェの美術家たちの手で導入され、またトスカーナの方言はイタリア半島全域に文語として普及した。とは言え、この時代を通じてはっきりした地方的な多様性が存在し続けた。例えば、ヴェネツィアの絵画が色彩を強調したのに対して、トスカーナの絵(38、図版。39)画は形態disegnoを強調し、ロンバルディアの建築が装飾を強調したのに対し、トスカーナの建築は簡潔さを強調した。しかし、シエナやエミーリアなどの小さな芸術中心地は徐々により大きな芸術中心地の圏内に組み込まれていった。ローマは、独自の強力な芸術的伝統を欠いた都市であったが16世紀初頭には芸術パトロネージの一大中心地となり、その興隆は地方間の芸術興隆を大きく促進した。文学と同様、視覚芸術は1550年には百年ないし二百年前と比べてはるかにイタリア的な性格を強めた。(39)
(ピーター・バーク著 森田義之・柴野均訳『イタリア・ルネサンスの文化と社会』、岩波書店・2000年)