Marcilio Ficino(Pl) 1 (144)ベッサリオンが『中傷者』のギリシア語本を準備し、アッチャイウォーリがアリストテレスについて書いていた頃、フィチーノはプラトンの翻訳を始めていた。1462年、世を去る二年前に、コジモはフィチーノにプラトンのギリシア語写本を与え、1463年には、それを閑居のうちに研究するための資産を付け加えた―――つまりメディチ家が別荘を構えていたカレッジ近くの農場からの収入である。しかし、メディチ家の田舎の地所に住処を得たからといって、フィチーノが都市の活動から隔離されたわけではない。相変わらず生活と仕事の大部分をフィレンツェで続けたが、もっともメディチ家からの庇護の象徴的意義と、それによって可能になった隠棲の機会とは、この時代と場所においては、明らかに意味深いものだった。不幸で混乱に満ちた10年間から回復した後で、メディチ家は、プラトン的な愛と調和の哲学を完成させるべくフィチーノに援助を提供する。シニシズムがなくとも、この取り決めに含まれたイデオロギー的要因は見て取る事が出来るのである。フィチーノの仕事は、ブルーニの世代のどの試みにも及びのつかないほどの哲学の全領域への深い献身を要求していた。加えて、それは観想的生活を兼用するとともに、市民的人文主義者が抱いていた実務的関心とは相容れない、物質的世界への禁欲的侮蔑を公言していた。しかし、アリストテレス主義者アルギ(145)ュロプロスを活動的生活の代弁者、プラトン主義者フィチーノを観想的静寂主義の預言者と見るのは,あまりにも単純すぎる。一つには、アルギュロプロスはその教育で活動主義のプロパガンダを意図したようには思われないし、さらに重要な事実として、フィチーノの観想的生活の理論が、彼の哲学を支援者である政治・経済の領域で精力的に活動するフィレンツェ人たちにとって魅力的なものにしていたという事がある。常に霊魂の上昇を促しながらも、フィチーノは観想的生活を、活動的生活を完全に否定しないままにそれを超越するよう人々を導く、人間の行為の位階秩序の最後の段階として提示した。よく生きられた活動的生活は、物質を逃れて神と合一する道のりの一歩となる。新プラトン主義の天才は、神的なものと現世的なものとの間に世界を超越する通路を開き、同時にこの世界を神性へと上昇するための足場として保持したところにあった。誰にも増してこの事を熟知していたフィチーノは、最も親密な交わりが互いの霊魂と霊魂との間にあること、それは確かに肉体の交合や物品の交易よりも親密であり、ある一人の人間の霊魂と肉体との結合よりも親密である事をフィレンツェ人たちに説いて、メディチ家に迎えられるような愛の哲学を考案した。肉体を持つ個人間の愛は、各人の神に対する愛から生まれる二次的な、しかし勝ちある産物であり、全ての霊魂は最後には神に向かって収斂する。フィチーノの同胞たる市民は、物質的努力や肉体的愉悦が究極的に霊魂の情報への飛翔に消化される限りにおいて、肉体の安逸や特定の快楽を得ようとして互いに競い合う事が出来るのである。 フィチーノは1433年にフィレンツェ近郊のフィリーネで生まれた。メディチ家の侍医だった父親は、息子も同じ仕事につかせようと考えていたらしく、フィチーノは1450年代にフィレンツェ大学で論理学、自然哲学、人文諸学科を学んだ。メディチ家に見出されるより何年も前から、フィチーノの才能は、その中にはメディチ家の政敵を含む他の庇護者たちの注目を集めていた。1450年代中ごろの最初の哲学的著作は、予想できる通り、論理学・形而上学・自然哲学の主題をスコラ学的に扱ったものだが、こうした若書きの論述にも、既にプラトンへの傾斜が表れている。1456年に書かれた『プラトン的学問への教育』は散逸したが、家族愛について書いた1455年の書簡は、偽ディオニュシオスを援用して、神的合一における霊魂の結合を描写する。フィチーノはギリシア語の(146)学習を1456年にはじめ、1457年には、観想に向かって上昇する快楽を尊重するための、また情念の位階秩序という概念を理解するための手助けとなる、ルクレティウスや他のエピクロス学は哲学の典拠を読んでいた。1460年代初めにはコジモから依頼された記念碑的事業に着手する準備が出来ており、自ら述べるところによれば、1464年の夏に、翻訳した対話編のうち10篇を死の床にあるこの大立者に読んで聞かせたという。フィチーノが翻訳したプラトンの著作は全て、少なくとも草稿の形では1460年代末に完成していたが、印刷されたのは1484年になってからで、ここには「梗概」(アルグメンタ)と称する短い注解を付し、1496年にまとめて別に交換される6つの長い注解の殆どを欠いていた。フィチーノによるラテン語訳文のほぼ半分は、多かれ少なかれ、それ以前の翻訳者、特にブルーニ、ベッサリオン、トラペズンティウスに依拠しているが、その翻訳の正確さ、プラトンの原文全体の尊重―――教説のカヒの有無に関わらず―――、そして哲学的洞察力において、フィチーノは先人を全て凌駕した。フィチーノのラテン語はプラトンの原文の意味に忠実だが、その優雅なギリシア語からはかけ離れており、フィチーノの翻訳の意図は、彼の新プラトン主義的なプラトン解釈と一体を為している。16世紀に30回以上印刷されたことを見れば、『プラトン全集』がルネサンス期に与えた衝撃の大きさを察する事が出来るだろう。 1462年、既にコジモから最初のプラトン写本を受け取っていたフィチーノの仕事を、この新しい庇護者は、より重大と考えた別の仕事で中断した。コジモは『ヘルメス選集』Corpus Hermeticum冒頭の論考14編の、14世紀のギリシア語写本を入手したのである。『ヘルメス選集』とは、実際にはキリスト起源の最初の数世紀に書かれたが、コジモ、フィチーノ,またその同時代人たちからは、モーセのすぐ後の時代に生きたと彼らの考えたエジプトの神トートをギリシア化したヘルメス・トリスメギストスの著作と信じられていた、折衷的で整合しない敬虔な哲学の雑録である。さらに重要なのは、これらの文書がヘルメスを、神的知識の異教的伝統、つまり聖書の掲示された真理に並行しこれを裏付ける、そしてエジプト起源である事がプラトンのエジプト旅行という伝説を補強している。古代神学の創始者としていたとい(147)う点である。フィチーノはすぐにこの太古の叡智の宝庫に取り掛かり、まもなくラテン語訳を作り上げたが、これは、彼が底本とした原文の欠陥を考慮に入れるならば、今なお精読に耐えるできばえを示している。なぜフィチーノとコジモが、しばらくプラトンをおいてヘルメスへと向かうのを最善と判断したかは、フィチーノが『ピマンデル、神の能力と叡智に関する書』と読んだ著作に付した序文の中で明らかにされている。 :モーセの生まれた時代に、占星術師アトラスが活躍したが,彼は自然哲学者プロメテウスの兄弟にして大メルクリウスの母方の祖父であり、大メルクリウスの孫がメルクリウス・トリスメギストゥスであった。……彼がトリスメギストゥス、すなわち、「三重に最も偉大なる」と呼ばれたのは、最大の哲学者であり、最大の神官であり、最大の王だったからである。……哲学者たちの間で最初に彼が自然学と数学の主題から神的な事柄の観想へと転じたし、また彼が大いなる叡智を持って神の威厳、神霊の位階、霊魂の転身を論じた最初の人物であった。こうして、彼は神学の始祖と呼ばれ、おるぺうすがその後に続いて、古代神学で第二の位置を占めた。アグラオペモスの後、ピュタゴラスがオルペウスの秘儀を伝授されて神学者の系譜に続き、その後に来たのがピロラオス、われ等が神のごときプラトンの教師であった。このように、6人の神学者の驚くべき系譜から、あらゆる点で調和する古代神学の単一の体系が出現したが、これは、起源をメルクリウスに遡り、神のごときプラトンとともに絶対的な完成に到達したのである。メルクリウスは神性の知識に関する書物を数多く著して……しばしば哲学者としてだけでなく預言者としても語った。……彼は、古い宗教の滅亡、新しい信仰の興隆、キリストの降誕、来るべき審判、民の復活、祝福されたものの栄光、断罪されたものの劫罰を予見したのである。: フィチーノは後に「古代神学」の系図に修正を加えて、リストの筆頭にゾロアスターを置きピロラオスをそこから省い(148)たが、この「古代神学」という観念は、フィチーノとその後2世紀のヨーロッパの知識人たちにとって強い力を放ち続けていた。フィチーノはヘルメスの14編の論考を翻訳する仕事を1463年に完了した。これらは1471年、中世に知られていた『ヘルメス選集』中の唯一の部分であるラテン語訳の『アスクレピオス』の初版の二年後に、質は悪かったが印刷された。次の1472年の印刷ではかなり改善されて、フィチーノ訳『ピマンデル』は、19世紀に至るまで、「ヘルメス文書」の最も影響力ある翻訳であり続けた。16世紀中葉までに14回版を重ね、俗語訳としてフランス語、オランダ語、スペイン語に翻訳されたが、最も重要なのが、やはり1463年に完成し、フィチーノ自身が校閲を行ったトンマーゾ・ベンチのイタリア語訳である。 「古代神学」―――これは、プレトンのゾロアスターへの賛辞に注目するよりも前の1450年代半ばに、既にフィチーノをひきつけていた―――へのフィチーノの野心は、学説史だけに関わるものではなかった。フィチーノは哲学史を、単なる思想の直線的伝達だけでなく、叡智或いは信仰、哲学或いは神学、理性或いは雄弁が人間精神の光明として興亡する、反復する闘争としても捉えていた。キリストの降誕以前には、聖書中の預言者や異教徒の賢者でさえ、神が霊感に満たされた少数の人間だけに許した叡智を完全に理解することは出来なかったが、キリスト教時代が新たな解釈の材料を人類に開示した。たとえば―――フィチーノの信じたところに拠れば―――古代の新プラトン主義者が自分たちのプラトン主義哲学の奥義を探るために、ディオニュシオス・アレオパギテスや他のキリスト教との権威を援用した場合がそれにあたる。次にアウグスティヌス、オリゲネス、他の教父たちが新プラトン主義者から学んだが、続いて中世に生じた「敬虔な哲学」pia philosophiaの終息が歴史における耳障りなリズムをまたしてもあらわにした。敬神の高揚が哲学の進歩と一致した叡智の時代には、人々は時として宗教的真理を享受したが、また時には真理が覆い隠され、哲学が宗教から分かたれた事もあった。「おお、幸福な時代よ」とフィチーノは嘆声を発する。 (149):この叡智と宗教との神的な絆を健全に保った汝らは……[だが何と]不幸なことか……分割と惨めな離別が……叡智と美との間に生じ……[そして]教育が害して卑俗なものたちにゆだねられた時代は。……私は諸君に懇願する、いまや、神の聖なる賜物たる哲学を不敬神から解放しようではないか……[そして]聖なる宗教を厭うべき無知から救うために、我々に出来る限りの事を為そうではないか。: フィチーノがこのように熱情を込めて書いたのは、「敬虔な哲学」の神から与えられた使命が人類を「学識ある信仰」へと導く事だと信じていたからである。プラトン主義的教育は人間にとって、天上のまた内なる<善>を想起する一助となるだろう、そうして、人々を活動的生活において正義へと促すとともに、観想的生活を通じて、神に於ける互いへの愛の平和と調和において人々を一つに結ぶだろう。 プラトンの翻訳を完了し『ピマンデル』の二種の刊本を世に送った後で、フィチーノは、1469年から1474年の間に、その最も長大な独自の著作、ロレンツォ・デ・メディチに献呈された『霊魂の不死性についてのプラトン神学』全18巻を書いた。第1巻第1章が早くも、不死性という主題を、フィチーノの思想における中心的論題、つまり霊魂の上昇に結び付けている。フィチーノは次のように説く。神に対する崇拝が人間を他のどの死すべきものよりも神聖に近づけるが、もしも死に人間の不死性への憧れを妨げる事を許すなら、人間は被造物の中で最も哀れなものとなり、創造者によって世界に与えられた秩序を転倒させる事になってしまう。「至福の作者」は、それほど気まぐれに自らの神意の意図を否定したり、この最も栄光ある死すべき被造物の本姓そのものを裏切るようなことはしないだろう。こう確信した上で、フィチーノは読者に勧奨する。「この地上界の足かせの鎖をすぐに解き、神を導き手としプラトンの翼に揚げられて、より自由に上天の領域へと飛翔しよう。そこで我々は即座に、幸福のうちに、我々人間の卓越性を観照するだろう」。熱烈な文章の調子とプラトン主義者への言及にもかかわらず、『プラトン神学』のこの後の霊感と内容は、古典的(150)であるのに劣らず教父的・スコラ学的でもあり、プラトン、プロティノス、プロクロスだけでなくアウグスティヌスとアクイナスにも依拠している。霊魂を不死とするためにフィチーノが提示する根拠の幾つかは中世の神学にもなじみの深いものであり、この論考の数多くの章は、霊魂の諸能力、神の諸属性、自然の秩序、哲学者の誤謬について、中世神学から材料を取っている。その他の主題は、新プラトン主義のカテゴリーをキリスト教神学に適応させるためにフィチーノが施した修正から生じた。例えば、霊魂の分解不可能性は、神的・天使的存在の下、性質的・物体的存在の上という、存在論的秩序におけるその中間的位置から導き出される。若し霊魂が死滅するなら、この位階秩序全体が崩壊してしまうだろうからである。 『プラトン神学』に表れる重要かつ明確に新プラトン主義的な要素の一つは、人間の不死性を保証し、霊魂が肉体の牢獄を逃れた後に上昇して行くであろう序列を構成する、実在の位階秩序である。理性的霊魂それ自体は、5つの位置からなる系列中の中間的位置を占めるが、その上位にある二つのレベルを、フィチーノは長大な論考の第1章で「天使的知性」と「神的太陽」と呼んだ。これら3つは全て、下位の二種の存在、物質に何らかの形態を付与する「活動的性質」とその下に横たわる「鈍い物体の塊」との上に位置する。この位階秩序の高次の階層は、プロティノスに拠れば実在の神的な部分をなす三つの「存在者」ヒュポスタシス―――<一者、知性、霊魂>―――に対応している。プロティノスは「存在者」を明確に或いは首尾一貫して整理せず、場合に応じて4つ、5つ、6つと数えたので、これらの互いに対する、また下位の事物に対する関係の詳細を補う仕事は、その後継者たち、主としてイアンブリコスとプロクロスに委ねられた。プロクロスが『神学綱要』と『プラトン神学』で最も明瞭な形而上学的青写真を示して、その5部からなる図式が、フィチーノの神―霊魂―性質―物体という系列に影響を与えた。この序列の中では、その中間的位置が霊魂に、位階秩序の上位にある天使的存在と下位にある性質との地位を弱めるような役割を認める事になった。フィチーノは、上位の<一者>および<善>と下位の<悪>および<非存在>との間に位置する存在の記述を統御する新プラトン主義の公理を受け(151)入れていた。<一者>と<善>は存在を超越する。<非存在>と<悪>は、存在する善の否定に過ぎないから、存在を持たない。これら両端の間のものは全て、ある程度善であり存在しなければならないが、しかしまたある程度、存在と非存在との様々な差異を容認して、一の多への、原因の結果への、静止の運動への、全体の部分への優越性のような原理に従って階層化された位階秩序を満たさねばならない。この最後の規則が世界において観察される個別の生物に適用されると、霊魂は霊魂を持たないものよりも高位にあるために、全体としての宇宙は霊魂を持たねばならないという結論が導き出される。実在の階層における霊魂の中間的位置から、フィチーノはさらに、同時代の人文主義者たちが道徳的・神学的、或いは文学的根拠によって頻繁に行っていた人間の尊厳の主張への、形而上学的補強材料を獲得した。フィチーノの宇宙論は概してアリストテレスとプトレマイオスの馴染み深い世界像、つまり大地を神の最も高貴な作品にふさわしい舞台である世界の中心に置く世界観を反映していた。若し人間の理性的かつ不死の霊魂が存在論的にも中心に位置するなら、形而上学が、自らが創造の商店だとする人間の自然学的主張をさらに強める事になるだろう。大宇宙と小宇宙、世界―霊魂と人間の霊魂とは、霊魂照応の対照性によって互いに影響を与えるとともに、人間が用いるために神から秩序を与えられた宇宙において不死の運命を成就するという人間の能力への楽観的見解を、共同して支持するのである。 フィチーノは、存在の位階秩序を統御する一つの規則を特に強調した。これは『プラトン神学』で次のように表現されている。 :どの類に於ても、第一のものは、類全体の始原principiumである。他の事物の始原であるものは、それに続く事物を包含している。ゆえに、その類において第一のものは、この類に属する何物も欠く事が無い。例えば、太陽が光を発する物体の間で第一のものだとするなら、それは、光のどの段階も欠く事は無い。その下位にある他の発光体、例えば星や元素は、光をその完全な充満において受け取ることは無いのだが。: (152)全ての類は一つの、また唯一つの最高位の成員を含んでおり、これが、この類の他の全成員がそこに属する原因となる―――つまり、それらがこの類を特徴付ける諸属性を所有する原因となる。神が類のこの<第一者>primumの原因であり、それが次に類の残余の原因となる。<第一者>は類の上限であり、この類の諸特徴に関しては、<第一者>は純粋で、完全で、充足している。実際のところ、<第一者>はその類の諸特徴以外にはなんら特徴を持たない。何故なら、他の属性を持ったとすれば、それはその類に関して不純になってしまうからである。<第一者>が類の上限ならば、類の下限は、その諸特徴を最も少なく帯びている。類に属することの最も小さい成員である。このような図式は、容易に、上限と下限との間の階層という概念、つまり、両端を結ぶ直線状に点のように並べられた位置、或いは類の完全さと欠如との様々な混合として互いに異なる諸元素といったものを示唆する。多くの部分的な類―――例えば自然的な種からなるそれ―――は、実在のある有限な部分を占めるが、存在のある側面を全体として含む、真や美のような普遍的類もある。フィチーノは時として神を、その類が<存在>それ自体である<第一者>と呼んでいるが、こうして神を位階秩序の限界とする事は、ある種の問題を作り出す事になる。 アウグスティヌス、プロクロス、偽ディオニュシオス、『原因論』の著者、その他多くの中世の思想家たちは、一方の端に神、もう一方の端に物質または非存在が二つの極としてあり、これら両端を基準として、存在の連続体における他の全てのものの位置が測定されるという形而上学的図式を考案していた。形而上学的階層を表現するためのこの空間的隠喩は、フィチーノが発見したときには、既に使い古された着想になっていた。フィチーノの二人の同時代人、ベッサリオン枢機卿とゲオルギウス・トラペズンティウスもこれを議論していた。プラトンが下位と被造物たる人間との間に無用の中間的な神々を大量に置いたという非難を補強するために、ゲオルギウスは、どんなものも他のものに比べてその無限の創造者のより近くにあるということは無いと論じた。ベッサリオンの返答は、創造者の能力は被造物に対して何らかの比(153)率を持たねばならない、それゆえに、創造する神は無限というよりは寧ろ完全かつ至高と考える事が出来るし、これらは存在の階層を測定する神にはふさわしい属性であるというものだった。トラペズンティウスに返答する際に、ベッサリオンはフィチーノが賞賛した二人のキリスト教の権威―――アウグスティヌスとアクイナス―――を引用したが、フィチーノもベッサリオンの見解を受け入れて、自らの著作の幾つかでこれを論じた。例えば、『プラトン神学』では、神はあらゆる<存在>の類において至高であること、存在の階層を上昇または下降すれば必ずある限界に到達するが、その上限が神である事を主張している。上限または<第一者>を欠いた類というものは、何の秩序も尺度も持たない事になるだろう。それは、精神によって知られず、欲求の対象にもならず、学知と道徳との埒外に出る事になってしまうだろう。無限の神がその被造界を測定できると結論付ける上でフィチーノが特に意を用いたのは、測定を「存在のゼロ段階」non gradus entisに限定した、ヴェネツィアのパウルスの対立する「野蛮な」見解だった。フィチーノの見解に似た或いはそれを反駁する議論は、プラトン主義者ばかりかアリストテレス主義者をも巻き込みながら、16世紀に至るまで続いたが、これらは17、18世紀の「存在の大いなる連鎖」という概念を先取りしていた。 「ある類の第一のもの」や神が測定する存在の階層に関するフィチーノの思想は中世の哲学者には良く知られていた概念を、新プラトン主義の原点の中に彼が発見した新しい観念へと結びつけたものである。『プラトン神学』の第5巻を埋める15の不死性の証明の一覧表でも、フィチーノは、プラトンと新プラトン主義者の自らの新たな解釈に、より伝統的な文献を混ぜ合わせている。次に掲げる、物質に対する霊魂の優越性の第4証明からの要約章句は、この著作全体を一貫する文体的特色を良く示しているし、スコラ学者の討論の傍らに於ても場違いには映らないだろう。 :再論しよう。無二変えられない限り、物質は現にあるところのものから変えられることは無い。然るに、自然は何物も無に変えられる事を許さない。ゆえに、物質は消滅しない。自然の女主人である自然敵地からそれ自体が消滅(154)しないことは言うまでも無い。その女主人とは自然を形成する作用的力である。それを形成する力とは、それを最初に動かすものである。運動の源泉とは理性的霊魂であり、それの侍女たちが、道具として物質を動かす諸性質である。 ラテン語原文は正確だが、単純で飾りが無い。文体はブルーニには興ざめなものだっただろうし、内容はアクイナスにとっても驚くべきものではなかっただろう。しかしながら、プラトンの『パイドロス』を入手できなかったために、トマスは、この対話編の第8節とフィチーノの第5巻冒頭での霊魂の自己運動の分析との関連には気づかなかっただろう。さらに、トマスはギリシア語を知らなかったので「霊魂は全て不死である。というのも、常に運動しているものは不死だからである」というプラトンの主張に対して、文献学的展望を持つ事が出来なかった。プラトンが使った用語「全て」はここで、一般に霊魂全体と個別にあらゆる霊魂とのどちらを指しているのだろうか。1496年に公刊されたがその数年前に書き上げられていた『パイドロス注解』で、フィチーノは、ギリシア研究の先駆者としての技量と、生涯にわたるプラトン研究の経験、なかんずくヘルメイアスなど古代の注解者の知識とを全て傾注して,この論点を取り上げた。フィチーノの下した結論は、「ソクラテスは、あらゆる霊魂が不死だと言ったのではなく、霊魂全体が不死だと言ったのである。すなわち、全体的にそして全面的に霊魂である霊魂だけが不死だとの意味である。……全ての理性的霊魂がこれにあたる」というものだった。このように、典型的な新プラトン主義の流儀で、フィチーノは、それぞれの人間霊魂の不死性を、霊魂以外のどの存在も除外する、それゆえに不死なるもの以外のどの存在も排除する種類としての霊魂全体をそれが分有すると主張する事によって、立証して見せたのである。(154)
(チャールズ・B・シュミット/ブライアン・P・コーペンヘイヴァー著 榎本武文訳『ルネサンス哲学』、平凡社・2003年)