2009年4月5日日曜日

15世紀イタリアの地理的状況

 序章(3)[当時のイタリアの地理的状況] 15世紀初頭には、すでに「イタリア」という概念は存在しており、トスカナ以外の地方に住む教養ある人々の中にもトスカーナ語を理解できるものはいたが、しかしイタリアは社会的にも文化的にも一つの単位をなすものではなかった。それは単なる地理上の表現に過ぎなかった。しかし地理は社会と文化に影響を及ぼす。その地理的地位ゆえに、イタリア人たちは隣国の人々以上に商業を工業に大きな関心を払うことになった。イタリアがヨーロッパの中央に位置することや、海に囲まれているおかげで、イタリア商人達は東方と西欧の仲介者となる機会を与えられたが,一方その国土は、5分の1が山地、5分の3打丘陵地帯であったために、農業には適さなかった。それゆえジェノヴァ、ヴェネツィア、フィレンツェといったイタリア都市が13世紀の商業革命において主導権を発揮し、また1300年には約23の北部及び中部のイタリア都市が2万人以上の人口を有していたことも驚くには当たらない。都市国家は12世紀から13世紀前半に掛けて政治組織の支配的な形式であった。相対的に多数の都市人口と高度な都市自治は、世俗の知識人に異例の重要性を与えることになった。こうした前提条件や伝統を念頭に置くことなくして15-16世紀の文化的・社会的な発展を理(4)解することは困難であろう(Waley, 1969; Martines, 1979,ch.1-4; Larner, 1980)。(4)