2009年4月7日火曜日
Intellektuelle Schaffenskraft
異教でも、反キリスト教でもない知的運動としてのルネサンス(ルネサンスに関する問題点への付言 J.M.ドミンゲス) (199)人文主義の性格は確かにルネサンス概念にとり重要なものである。ブルクハルトがきっぱりと断言するごとく「かかる人文主義が世俗的事実である」か、否かを決めるのは大切な事である。これらルネサンスを代表(200)するイタリア人の才能と近代性を主張して、このスイスの歴史家は彼らを描くのに強い個性、完全に主観的であり、懐疑的、確固とした信仰を持たず、運命論者で、罪の意識が無いなどの形容を用いている。ブルクハルトは、こうした世俗化の根拠に、古典古代と同一視されるヒューマニズムと異教の復活に変わった、15世紀の人文主義運動を、その起源として置く。ここで注意せねばならないのは、ブルクハルトがそうした問題を取り扱うときには、ためらいの態度を取ったり、弁解したりしているが、後の後継者達は彼の賢明な態度を忘れて過激化したのである。とにかく、これは、常にブルクハルトのルネサンス像の弱点の一つであろうし、実際、既に弁護の余地の無い点となった。(一)人文主義と古典古代文化に対する熱狂。古典文化の価値と、文学・芸術の様式への賛美とその復興にはなんら非難すべき点も、反キリスト教的な点もなかった。これが特に、中世後半にキリスト教の伝統全てにわたって実現された業績の頂点であったのを、我々はすでに指摘した。しかし、古代に対する誇張された熱狂というものは、(既に聖バシリウスS. Basiliusが指摘したように)ある危険を含んでいた。文学的・美術的様式の美の元には、キリスト教徒は無縁な生命の自然主義的概念が脈打っていた。理想化された古代の魅力的な幻影は、明らかに人をひきつける力を持っていた。古代世界の皮相的ヴィジョンにおいては、古代世界は人文主義者にとり、何か美しく、調和の取れた、楽しく楽天的な、今日知られているそれとは確かに違うものに見えた。事実上、古典古代に対する熱狂、また、一種の軽薄な見方によって、その結果中世世界を軽視する態度を齎す事となった。しかし当時の自然主義は、後世の自然主義の意味ではなく、単なる、習慣からの緩和、道徳や規律よりの解放を目指している。’’memento vivere’’(人生を楽しむ事)、いっそう完全に表現するなら’’credere ut decet, vivere ut libet’’(信(201)ずべきものを信じ、好むがままに生きる事)は、多くのルネサンス人の規範であった。これが明らかになるのは、当時の多くの著作家――即ち、ヴァザーリ、チェリーニCellini、マキャヴェリなど――の著作においてである。しかし、これは決してルネサンスだけの特徴的な現象ではない。ワルザーWalserは、中世に於てもルネサンスよりみだらな事があり、それは春祭や謝肉祭であった事を研究した。このヨーロッパの伝統は、豊作を祈る儀式に過ぎないもので、その後のイタリア・ルネサンスになると、ただ、古典の外面的形式だけで現れたのである。実際、メディチ家のフィレンツェがこのような騒々しく刺激的な謝肉祭を発見したのではなかった。ルネサンスの祭は中世の祭よりも多かれ少なかれ異教的であったとはいえない。だから、その地には異教的な祭りが、最早存在していた故に、両者の間には何の関係も無い。 ルネサンス人の外的行動から表現法「話し方」に移ると、古典古代作家達の模倣の流行は、人文主義を異教的な表現法というよりも、こっけいな言葉遣いに陥りやすくさせた。既にダンテは次のように、イエスの名を呼ぶ。’’O Sommo Giove, che fosti in terra per oni crocefisso’’ おお、我らがために地上で十字架に付けられた至高の神ジュピターよ)。この表現は、彼にとっては神への冒涜ではなく、ただ形式的、外的な異教徒の言葉で表現されているだけである。これは、ワルザーの言う「ことばのあや」tricks of speechであり、まさに代表的キリスト教徒の詩人であったダンテが異教徒であるとか、信仰心に欠けているとか結論しているのではない。ザマの戦いの前に、カルタゴとローマのニ神をジュピターの前にささげるペトラルカの精神もこれと同じことである。そして、このようにして、似非異教的流行には、「不滅の神々」とか、「ロレトの女神マリア」とか、聖人を「神々」扱いして、お悔やみの手紙に、死者達がオリンポスの神々と踊る為、天に昇っていったと書く、真面目な枢機卿ベッサリオンBessarionさえもが含まれている。こういった表現を真面目に受け取るのは、イタリア人文主義者の真の精神全体を害するような、歴史的時代錯誤を招く事になる。他方、ホイジンガの指摘によるとこういった表現は、12世紀(202)に既に用いられていたという事である。 結論を言えば、大部分の人文主義者は、自分が考え、またそうであると思い込みたがったほど「異教徒的」ではなかった。異教への復帰は、キリスト教の否定を代償としなければ実現されえなかった。そして、このことは何百年ものキリスト教の伝統に住んでいては、決して容易なことではなかった。異教徒的な人々は極めて少なく、まれにしかいなかったし、それほど優れてもいなかった。例えばフィレルフォFilefo、ポッジオPoggio、ポンポニオ・レトPomponio Letoなどである。彼らと比較して、ブルクハルト自ら認めざるを得なかったのは、非常に多くの「敬虔な心を持ち、しかも行者的風貌を持った人々」がいたという「奇妙な」事実であった。(ニ)無信仰はまだ15,16世紀には不可能であった。そして、敵意を持った人々に簡単に言われているように、「彼らのうち誰も、形式的哲学的無神論を宣言したり、また宣言しようともしなかった」のを認めるのは、また、このブルクハルトである。この点に関する最初の人物――確かにイタリアに良く当てはまるものである――についての著書’’Le problema de l’incroyance au XVIe siecle’’(『16世紀における無信仰の問題:ラブレーの宗教』)において、フェーブルL. Febvreは、かかる「無神論」もしくは宗教的自由思想が、一つの不可能な単なる空想であったと言う結論を下した。つまり、社会状況に従わない、如何なる人間であっても、彼は常に「その時代の人間」であるという事である。一般に認められている考え(つまり、一層極端に表現すれば、共通の偏見とか神話)を打ち砕く為には、十分に有効な理由が必要である。しかし、歴史的に15世紀にも16世紀にも信仰に対する懐疑や否定が、すくなくとも、見たところ科学的とか哲学的でありうるための科学的根拠は、まだなかった。宗教的諸問題を惹起した地理上の発見、宗教戦争、新科学、新哲学は、ヨーロッパにおいては、まだ十分に成熟してはいなかった。(203)実際、フェーブルの言葉を借りれば、「16世紀は信じたがっている時代」であり、また、ラブレーはデカルト同様「深く宗教的な人間」である。19世紀の歴史家達は、イタリアの人文主義者や芸術家達に宗教的、キリスト教的表現が豊富であると言う事実を無視する事が出来なくて、彼等の無神論とか不信仰を隠す簡単な欺瞞的方法をそこに見出すと言う、ありふれた説明法を行った。クリステラーは、人文主義者の不誠実さと言う説とともに、この新しい異教主義をも否定し、こうした解釈は、後世の歴史家達の偏見であるとともに現実を反感や狭量さでぼかしてしまう人文主義者や同時代人の悪意のせいだとしている。人文主義者自身、その著書で、敵意を持つ神学者達の非難に十分に反論した。15,16世紀のイタリアの偉大な説教師たちが一般民衆や教養階層に深い感銘を与えた事は、彼等の間にどの程度まで誠実な信仰心があったかを示すものである。サヴォナローラSavonarolaの場合は――たしかに、唯一の例ではないが――最も有名であり、きわめて深い意味を持つ。丁度15世紀末期のフィレンツェこそ、彼の宗教的説教に納得させられていたのである。そして、偉大な哲学者であり、人間の尊厳の高揚者であるピコ・デッラ・ミランドラも、柔和さと透明感の画家であるボッティチェリBotticelliも、情熱的なドミニコ会士サヴォナローラの公に認められた弟子である。ルネサンスの人間は確かに富と人生を愛した。しかし彼等は心奥では、人生、死そして死後の世界の大きな問題を考えるとき、常にその行動に何か不安なものがあるのを感じていた。そして、彼等は教会に戻り、以前の生活の許しを請うのであった。シャボーChabodは経済的なものと道徳的なものとの興味深い関係を、当時の人々が「罪」の意識によって教会の告白の秘蹟に導かれていくのを説明するために、ヴィラーニVillaniの『アレサンドラ・マチンギ・ストロッツィの手紙』(‘’Lettere di Alessandra Macinghi Strozzi’’)や『フィレンツェ史』Croniche Fiorentineを引用した。マキャベリさえ――彼の息子、ピエロPieroの書簡を信ずるなら――「彼は、死ぬまで彼とともにいた、マテオ神父Brother Matteoに告白をした」のである。そして、――ブルクハルトが断言するほどは強くないような――個性人(204)に対し、ヨーロッパのその他の国々と同じく、イタリアにおいて、まだ俗人達の行動を指導し、視覚的芸術、音楽、文学にきわめて強い影響を与える宗教的ギルドが生きていた。パストールは『教皇史』の第5巻の序説の中で、ルネサンス・イタリアの宗教的雰囲気について、きわめて印象的に描写している。しかし、宗教面では幾つかの新しい傾向が認められる。世俗化は進み続ける。一方、教皇を頂点とする、その時代の教会主義は、ボニファティウス8世Bonifatius VIII以後だんだん凋落する。ここでブルクハルトは世俗化と反キリスト教精神を証するものではない。ヨーロッパの社会経済的・政治的構造の変遷がこれを良く説明している。隠して、文化の中心は漸次聖職者から、文学者や教養のある商人層に移っていくその主体が変わるようにヴィジョンも変わるが、その内容は変わらない。象徴的な言い方をすれば、中世の大聖堂教会建築に続き、ルネサンスの別荘が建てられる。しかしこのような別荘の広間の一つには、殆ど例外なくイエスに捧げられた礼拝堂がある。つまり、ある程度世俗化はあるが、無宗教でない事は勿論である。(三)更に、ルネサンス人文主義はまさに宗教的運動である。「ルネサンスの時代の知的状況の最も重大な特徴をなすものは、本質的に世俗的であり、また根本的にキリスト教的なことである」。もっとも代表的な人文主義者の大部分が真の信仰者であった。ペトラルカについては、既に彼の精神を評価するに十分なだけ述べた。そして『ラウラLauraの死における抒情詩』の最後の部分、聖母マリアに捧げた詩は、彼の深いキリスト教的ヴィジョンを短くまとめている。ボッカチオBoccacioをこのような系列に入れるのは、いっそう困難であるよ(205)うに思われるが、事実はそうではない。イタリア以外の彼の同時代人にとって、彼はまさに道徳的哲学者として有名であった。特にその著書’’De casibus virorum illustrium’’(『偉大な人の失敗』)および’’De claris mulieribus’’(『偉大な女性について』)(1355-60)により「逆境の中でも忍耐強い学者」と考えられたボッカチオは、『デカメロン』(1353)を書いた後、驚くほど変化した。『コルバッチオ』Corbaccio(1354-55)という著作は、強調された道徳的教訓的性格を持っている。そして、彼の友人、カヴァルカンティMainardo Cavalcantiへの書簡(1373)の中で、彼の青年時代の作品『デカメロン』を放棄するようになり、更にボッカチオ自身、原稿を焼いてしまったように思われる。15世紀末、イタリア・ルネサンスが最盛期に入ると同時に、宗教精神が復活した。フィレンツェでは、コシモ・デ・メディチCosimo de Mediciが「プラトン・アカデミー」を設立し、その指導はマルシリオ・フィチーノに任された。プラトンや新プラトン学派の著作家たちの翻訳や注釈と自己自身の哲学の説明により、フィチーノは「ルネサンス哲学の形成者」と考えられる。ルネサンスの人文主義者は自分自身の哲学に欠けていたが、フィチーノの『プラトン神学』’’Theologia Platonica’’や『キリスト教信仰について』’’De Christiana Religione’’などの作品により、ルネサンス哲学が形成されたと思われる。実際、それは中世的伝統への復帰であり、しかもある程度まではスコラ哲学的思想への復帰であるが、しかし、やはりその雰囲気や表現の仕方はルネサンス的である、とバロンH.Baronは指摘する。実際、プラトンの解釈は、聖アウグスティヌスと中世のドイツ神秘主義者によって行われている。「アテネのモーゼ」といわれるプラトンを頂点とする古代知識は、キリスト教の出現をつげ、確認するものに過ぎないとフィチーノは考える。それゆえ、キリスト教とプラトン哲学の総合が行われる。人間を神化するために、知識より強力なものであるプラトン的愛の哲学は、神秘的・精神的面を強調し、16世紀の文学・芸術のみならず、ルネサンス思想に計り知れないほどの影響を及ぼした。たとえば、現世を超越した、透き通るような優美さを持つ女性の肉体的美しさ――ルネサンス後期の(206)理想――は美しい精神は、美しい肉体に宿ると言うキリスト教的・新プラトン主義的な、この憧憬から芽生えたものである。それゆえ、ミケランジェロのピエタに描かれたイエスの母は、永遠の肉体的若さを浮き彫りしているが、それはまさに腐敗させる罪から、マリアの魂が完全に守られていたからである。このような誠実な宗教観は、ルネサンスの教育家にも影響を与える。最も重要な二大人物は、ヴィトリノ・ダ・フェルトレVittorino da Feltre( 1446)、グアリノ・デ・ヴェロナGuarino de Verona (1460)である。彼等はブルクハルトが扱っているたった二人の人物で、彼等の名声は全土ばかりでなく、ドイツにまで広がり、その力も弟子入りにやって来た。そして二人とも万能で完全な人間を追及し、ギリシア・ローマ的古典とキリスト教的なもの、学問と肉体的訓練を結びつけ、それらを「たくさんの、修道院よりも厳格な、大規模な、道徳的、宗教的規則」のもとに置いた、とブルクハルトは付け加える。生徒の為の毎日のミサや毎月の聖体拝領は、これらの施設学校では生徒の一般教育のための根本的な、行いの原理である。世俗的動機、真理への愛、キリスト教的目的といったものの融合した、不可解な人物、ヴァッラは、近代キリスト教文献学の基礎を築いた。彼の『新約聖書への注釈』’’Adnotationes in Novem Testamentum’’は、原典への深い、しっかりした批判を示すものであり、ルネサンス・キリスト教神学に対する人文主義的貢献を成すもので、クリステラーが「神聖な文献学Sacred Philology」と呼ぶものを形成している。マネッティ、ポリツィアンおよびフィレンツェのプラトン・アカデミーに続いて、フィチーノと書簡の交換を行った英国人コーレットJ.Coletを通して、北方へも広がり、まだ刊行されていなかったヴァッラの『注釈』を、エラスムスが1501年に出版することになる。ルネサンスと人文主義は、人間の尊厳の高揚と言う真の根本的内容において統合されている。勿論、人間の賛美は決してルネサンスの発見ではないし、神への背信とか宗教への攻撃のようなものではない。繰り返し用いられる有名な表現、「中世の神中心主義とルネサンスの人間中心主義」は、互いに排他的なアンチ・テーゼとして、つまり中世で(207)の人間の否定、ルネサンスでの神の否定として解釈されるなら、それは誤りである。しかも、人間の尊厳に対するルネサンス独特の強調は、神の創造の計画の中では、人間が一つの素晴らしい作品であるという事に関して、完全にキリスト教の正当に則っている。こうしたことは、まさにペトラルカ、マネッティ、フィチーノから『人間の尊厳について』’’Oratio de hominis dignitate’’ (1488)を書いたピコにおけるルネサンスの典型的具体化に至るまでの人文主義者によって、しばしば表現された類似の考えである。人間の中心的位置、また宇宙や救済のドラマの中の人間の自由は、明瞭に認められるが、しかし、そのために宗教的真理は無視されなかったし、無論否定される事もなかった。人文主義者のこうした思想は、最も優秀な芸術家達の作品に生き生きとした形態で残っている。たとえば、ミケランジェロがシスティナ聖堂で描いているものは(1508-12)、ルネサンスの全ての宗教的聖画群の概要を示すものであり、そこでは人間は、天地創造から勝利者であり審判者たるイエス・キリストの再臨までの救済の歴史に組み込まれている。そして同様にラファエロは、彼独特の調和的な柔和な調子で、スタンツァ・デラ・シグナトゥラStanza della Signatura(1509-12)の中で、ルネサンスのキリスト教的世界観の真の百科全書とも言うべきものを残している。それは、「聖体の勝利」(信仰―神学)とともに、「アテネ」(思想―哲学)、「パルナッソス」(芸術―絵画)、「正義」(道徳)、「ヘリオドロスとコンスタンティヌス」(教会史)を描いた絵画である。このように、ヘレニズムとヘブライズム、自然なものと超自然なもの、古典古代的伝統とキリスト教的伝統は、14-16世紀のイタリアの最も偉大な人文主義者や芸術家の作品中では、大きな困難無しに共存し、融合している。