2009年4月7日火曜日

De Astrologia 2

De Astrologia 2
 (170)フィチーノにおける占星術の地位 かくして、占星術的世界像が全体として疑問視されずに居たところでもまた、こうした世界像そのものの内部に、主観性Subjektivitaetのために新しい地位を勝ち取ろうと言った明白な努力が為されているのである。パラケルススはここで、普段は先人に対して賞賛の言葉を吐くのを惜しんでいるにもかかわらず、「最良のイタリア人医師」と呼んでいる人物の思想のみを取上げている。パラケルススがフィチーノを認めたのは、明らかにフィチーノの著作『生について』De vita三巻に関係している。フィチーノはこの著作において、医学の全体系を占星術的な基礎の上に樹立せんと試みたのである。しかし、このフィチーノの著作ですでに、あの星の光の学説は弛緩してしまっていたのである。 星の光の学説とは即ち、人間の自然的・道徳的体質Habitus全体は星の光の影響で決定される、と言う例の学説である。フィチーノによれば、各々の人間をその誕生以来「それぞれの」惑星に結び付けている絆は破り(171)去る事は出来ない。フィチーノ自身、普段に、自らのホロスコープの上昇点に現れた不吉な星の、己自身と人生行程全体に及ぼす影響について嘆いている。他の者に対して、木星が贈り物として与えている、あの人生における安逸さ、安全さは、「土星の子」であるフィチーノには拒否されていると言うのである。それにもかかわらず、占星術的運命をこのように認める事が、フィチーノにとっては自らの人生を独立して形成していく事に対する如何なる断念をも意味するものではないのである。フィチーノが運命の意志に従った際の、あの物憂い苦痛に満ちた諦念は次第に後退して、新しい、より自由な調子へと席を譲っていくのである。 人間には、自らの星を選ぶ事は許されていない。同時に、その自然的=道徳的性格、すなわち、その気質を選ぶことも許されていない――それでもこうした星によって決定された枠内においては、人間の選択は自由である。なぜなら、いずれの星もそれぞれがその固有の領界において、種々異なった、対立的でさえある生活形成Lebensgestaltungの多様性を内に宿しており、それらの最終的な決定は意志に任せているからである。土星は怠惰と不毛なくよくよした憂愁のデーモンではあるが、他方、知的な考察と内省、知性と瞑想との守護神Geniusでもある。星そのものに存するこうした対極性、これはまさに占星術体系に受け容れられ、明白に=眼に見えるような表現を与えられていたものであるが、いまやこうした対極性が人間の意志決定への道を拓くことになる。 人間の意欲とその実現の領域は、厳しく制限されているとは言え、こうした意欲の方向Richtungは制限されては居ないのである。こうした方向の目指すところが高次の力にあるか、あるいは低次の力にあるか、精神的な力にあるか、或いは感覚的な力にあるか、その可能性については惑星は無関心である。しかし、その向かうべき方向に従って、ここの生活形式は様々な形を取るだけでなく対立したものとなる。更に、生活形式のみならず、幸、不幸もまた、こうした意志の衝動に依存しているのである。同一のDerselbe惑星が人間の友人ともなり、場合によっ(172)ては人間の敵ともなりうるのである。即ち、人間が星に対してとる内的態度如何に従って、同一の星が祝福の力を齎したり、不幸の力を齎したりするのである。かくして、土星は卑しい生活を送る全ての者の敵となるが、内に宿る深遠きわまる才能を伸ばそうとする者、全霊を込めて神の瞑想に身をゆだねるもの、このような人間にとっては友人となり保護者となるというのである。  したがって、フィチーノは「惑星の子」Planetenkindschaftという思想を捨てては居ない。しかし、惑星からの自然的血統と並べて、いまやフィチーノは精神的な血統、よく言われている言葉を用いれば「選択による=惑星の=子」Wahl-Planeten-Kindshaftを知るに至るのである。何といっても、人間は一定の星の下に生まれ、生涯、その星の支配の下で過ごさねばならない。しかし、たとえそうであるとしても、その星の持つ可能性と力のうち、いずれかを選んで、それを自らのうちで発展させ豊かに完成させていくのは自由なのである。事実、人間は自らその支配を受け入れ、自らそれを促進させてもいる精神的傾向と志向に従って、あるときはある星の影響の下に入り、あるときは他の星の影響下に入る事が出来るのである。 フィチーノは、こうした方法によって、占星術の基本学説をその神学的な体系の中に樹立しようと図ったのである。フィチーノによれば、事物には三重の秩序がある。それを彼は、それぞれ摂理providentia、運命fatum,自然naturaという名称で呼んで区別する。神の摂理は精神の王国であり、運命は魂の、自然は肉体の王国である。肉体はその運動において、自然の強制の下にあり、「合理的な」魂も、それが身体と結合し、その動因として身体に内在している限り、肉体界からの絶えざる反動を被り、これによってその必然性の仲に巻き込まれる事になるが、たとえそうであるとしても――人間の内なる純粋に精神的な原理は、このような一切の制約から自らを解き放つ能力を有しているのである。 (173)人間はこのように三重の秩序の下に支配されているのであるが、しかし自らを一つの秩序から他の秩序へと移す事が出来るのであり、我々が人間の「自由」Freiheitと呼んでいるのは余暇ならぬこのことを意味しているのである。我々は、我々の精神を通して神の摂理に支配され、我々の想像力と完成を通して運命に支配され、我々の特殊な自然Naturを通して宇宙の一般的な自然に支配されているのであるが、それにも関わらず、我々は、我々の理性の力によって、我々自身の支配者nostri jurisであり、あらゆる拘束から解放されているのである。なぜなら、我々はあるときは一つの秩序を受け入れ、あるときは他の秩序を受け入れる事が出来るからである。ここにおいて、フィチーノの占星術ですら、「人間の尊厳について」のピコの演説が為された、あのフィレンツェ・アカデミーの思想世界の中に合流するのである。人間は何れの存在の秩序にあっても、その中で自らに与えた地位のみを占めるのである。人間の個々の被決定性Bestimmtheitは、究極的には自ら下した決定Bestimmungによるのである――そしてこのことは人間の自然の結果ではなく、人間の自由な行為の結果なのである――。
 ピコによる占星術批判 この問題との普段の苦闘にもかかわらず、ここでフィチーノが下した解決は単なる外見的なものに過ぎず、一つの妥協に終わったといえよう。この問題をめぐって我々が全く新しい地盤の上に立つのは、占星術に対するピコの論争文においてである。占星術の管轄区域は、ここにおいて一撃の下に粉砕されるのである。このような仕事にピコが成功した事は、一見したところ、奇妙な歴史的変則であるかの如く思われる。何としても、ピコの全学説は依然として全面的に魔術的=カバラ的な思想の下に拘束されていて、彼の自然哲学も宗教哲学もともにその支(174)配下にあったからである。ピコが哲学者としての道を歩みだしたのは900命題を弁護したときに始まるが、その900命題のうち、71ほどの命題がこうした魔術的=カバラ的な思想領域に属しており、これはピコ自身によっても特にカバラ的な結論であると指摘されているものである。 したがって、占星術史の権威の一人であるフランツ・ボルFranz Bollが、余人ならぬピコがあれほど無条件に占星術を拒否した事に対し驚きを表明しているのも理解できない事ではない。ピコの分裂した性格において力を振るっていたのは、あれほど無条件に占星術を拒否したところのあの鋭い批判衝動といったものではなく、寧ろ尚、依然として新プラトン主義的・新ピタゴラス的な神秘思想であり、しかも占星術がそれによって養われ、深められてきた一切の基本的な哲学傾向を代表するのも、まさにピコ自身であったからである。しかし――ピコの著作の精神的特質を顧慮すると――このような解放が成功した理由をボルが言うように外的な衝撃、サヴォナローラの説教の恐るべき印象に求める事は出来ない。むしろ、個々には内面的で独立した、その究極的な根拠を、当然ながら、ピコの自然観にではなく、倫理的な観念全体に有しているような諸力が作用しているのである。確かに、ピコはその形而上学、その神学、その自然哲学において、依然として過去と断ち切ることの出来ない絆で結び付けられていたのであるが、倫理学においては、ルネサンス精神そのものの最初の告知者にして開拓者の一人となるのである。ピコの占星術攻撃の文章も、こうした倫理的な人間性Humanitaetに基づくものである。「人間の尊厳について」のピコの演説を支配していた思想は、この攻撃文において、完全にして純粋な響きをとどろかせて完成する。   「人間をおいて地上には偉大なものはない。精神と魂をおいて人間には偉大なものは存しない。ここに上昇す(175)れば、お前は天をも飛び越えられよう。肉体に沈み天を見上げれば、お前はハエを目にしよう。しかも何かハエよりももっと小さな物を。」Nihil magunum in terra praeter hominem, nihil magnum in homine praeter mentem et animum, huc si ascendis, coelum transcendis, si ad corpus inclinas et coelum suspicis, muscam te vides et musca aliquid minus. このような文章で再び、真に=プラトン的な動機が甦り影響力を発揮することになる。ここで要求されているのは、一種の「超越」であるが、しかしこれは最早、如何なる意味でも空間的なraeumlichen尺度を認める事はない。なぜなら、ここで言われている超越とは、一般に空間の形式を飛び越えているからである。このような思想が一見、どれほど単純で素朴なものに思われようとも、これはヘレニズム的=新プラトン主義的な世界観、ならびにキリスト教的・中世的な世界観の基礎を成してきた基本的な前提の一つに対抗しているのである。なぜなら、これらの世界観を特徴付けているのは、彼岸モチーフ、即ちプラトン的な彼岸(「Epekeina」)を、空間的であると同時に精神的なものと受け止めている点に、しかも空間的と精神的という、これら二つの意味を互いに分かち難く絡ませているという点にあるからである。他の点では、いたるところ、ピコは折衷的な様々な思想動機の混合を示す神プラトン主義の呪縛に縛り付けられているのであるが、ここでは、こうした混合を克服し、これと鋭く境界を画するのに成功しているのである。 しかもこれによって、同時に、古代の精神的世界の全体的把握における深化と豊饒化が実現されるのである。即ち、プロティノスからプラトンへ、ヘレニズムから古典ギリシャへと遡及していく、あの長くて苦労に満ちた道程(176)への、まず最初の第一歩が踏み出されたのである。既にピコの著作の冒頭の文章からして、占星術は全体としてみれば真に=ヘラス的な、古典=ギリシャ的な思想世界においては異質なものであった、という特徴的な指摘がなされている。プラトンやアリストテレスは占星術に一言も言及した事は無く、このような軽蔑に満ちた沈黙によって、実は彼等は占星術に対し委細を極めた告発以上に有罪の宣告を下した事になる、というのである。 このような歴史的議論をした後、ピコは本来の決定的・体系的な議論に入る。この際、ピコは己の根本命題を貫徹する為に、認識の批判者とならねばならない――数学的=物理学的な因果性の形式を占星術的な因果性のそれから切り離さねばならない。占星術的な因果性の形式は、神秘的な性質を承認する事にその基礎を置いているが、数学的=物理学的因果性の形式は、経験と経験的な観察が我々に教えるもので満足する。星辰からの、何らかの神秘的な流出Ausflusseは、交感を通して各々の星に属しているものを捉えるのであるが、これは数学的=物理学的因果性にとって、天上界と地上界とを結びつける絆とは見なされない。数学的=物理学的因果性の形式は、このようなキメラ的な虚構の代わりに、むしろ観察に直接提示され、経験的に確認され証明されうる唯一の現象を取上げる。フィチーノの占星術的な自然学は、地上的=自然的な作用の一切を精神の光の放射によって制約されたものとし、その過程において、全てのものに活力を与えるプネウマ(気)が高次の世界から低次の世界へと移植されるとしているが、ピコはこうした説明を個々に否定するだけではなく、全体的に、内容上だけでなく、方法論的にも否定している。なぜなら、全ての減少はそれに固有の原理Ex propriis principiisから、即ち、それに最も近い、個別的な原理から理解されねばならないから、というのである。
 (177)因果概念の改造 しかし、我々は天上界に起因する現実の作用の全てに対して、その原因は他ならぬ光Licht と熱Waermeの力、即ち、感覚的に=示しうる、周知の現象の中に存するからである。光と熱の力こそ、天上界からの一切の影響を運ぶ車であり媒体であって、これによって、場所の上でどれほど隔たっているものでも力学的に互いに結合されるのである。ピコがここで展開しているのは一見したところ、後に例えばテレジオTelesioとかパトリッツィPatrizziにあって我々の出会うことになるはずの自然哲学的理論以外の何者でもない、と思われるかもしれない。しかし、この理論の立っている歴史的連関を見ると、ここにははるかに多くのものが蔵されているのを知るのである。なぜなら、ここで発見され、明確に定立されているのは、まさにケプラーやニュートンがそれに言及しているところの「真の原因」vera causaの概念以外の何者でもないからである。ケプラーやニュートンの帰納法に関する根本見解は、このvera causa概念に基礎を置いたものである。この際、直接の歴史的関連さえも確証されているように思われる。なぜなら、ケプラーはその最初の方法論的著作『ティコの弁明』Apologie Tychonsからして、ピコの反占星術論によっているからである。 自然現象の説明の為に、我々が純粋に概念的に考え出す原因が、何れも「正しい」というわけではない。証明しうるものとして、即ち、観察と計測によって確証されて始めて「正しい」とされるのである。ピコはこのような原理を、数学的自然科学の創始者と全く同一の明晰さをもって述べたわけではない。しかし、この原理はピコによって、至る所で内在的な判断基準として利用されることになる。これをよりどころとして、ピコは単なる空間に諸々の力が付着しているという思想を受け入れるのに反対する。ピコはこのような思想を否定する先駆者の一人となる。空間とは幾何学的な=理念的な規定であって、如何なる意味でも物理学的に=実在の規(178)定とはいえない。従って、こうした規定からは、具体的な、いかなる物理学的な作用も生じる事はないのである。 占星術が現実のものRealesと誤認して、現実的な力を付与しているのは、理念的なものではなく単に虚構なのである。占星術者は天上界の方位決定の為に線を引いたり、天上界を個々の獣帯に分かったりするが、こうした計数的思想の全装置は、占星術においては、その奇妙な実体Hypostaseのために貫徹される事が無い。そうした全装置は、悪魔的な力を与えられている一つの特殊なsui generis存在となるのである。しかしこれら全ての装置は、存在論的な意味を持つものではなく、単に記号的な意味しか持たないという事が明らかにされると、全て消滅してしまうのである。 占星術と全く同じく、本来の自然科学もまた、記号、即ち単なる符号Zeichenをもってする作業を欠かすことは出来ない。しかし自然科学にとっては、こうした記号は究極的なものではないし、ましてや独立して存在しているものでもなく、単なる思想の手段にしか過ぎないのである。――記号は減少の感覚的把握から、その原因の思想的把握へ至る過程での一段階である。しかし、このような思想的把握は空間的・時間的に分断されている存在要素間のぼんやりした相応、単なる相似関係以上のものを前提とする。実在の因果連関について云々しうるためには、我々は宇宙の特定の地点から出発した連続的な変化の系列を一歩一歩、一項一項、追跡する事が出来ねばならない。これら全ての連続的な変化を支配する統一的な法則を樹立するのに成功しなければならない。天上界の実在性のこうした形式を経験的に証明できない場合には、天上界を未来の出来事の記号として観察し、その記号の謎を解こうとしても無益である。なぜなら、天上界は実際にはそれが作用を及ぼすもののみに記号をつけるからである。「天は原因の無い物の記号である事は出来ない」non potest coelum ejus rei signum esse, cujus causa non sit. (179)こうした革新的な文章とともに、ピコは占星術の単なる批判を飛び越えて先へ出る。即ち、占星術の魔術的な記号と、数学及び数学的自然科学の記号とを鋭く切断する境界線を引くのである。これによって以後、「自然の暗号文」Chiffreschrift der Naturを数学的=物理学的な記号によって解読していくという道が拓かれるのである。数学的=物理学的記号(シンボル)は記号として理解されるが、同時に、最早精神に対して異質な力として対するのではなく、精神による固有の創造物となるのである。
天才の概念(177) しかしながら、ピコの占星術批判の究極的な根源は、こうした論理的、あるいは認識批判的な考量に存したのではない。占星術に対するピコの攻撃文に魂を吹き込んでいるパトスは、本来的な起源からすれば、思想的なものではなく、倫理的なパトスである。ピコが繰り返し占星術に対して対置させているのは、自らの倫理的唯心論の根本見解に他ならない。占星術を認める事は、事物の存在秩序というより寧ろ価値秩序Wertordnungを逆転させる事である――すなわち「物質」Materieが「精神」Geistの支配者であると宣言することである。ピコのこのような抗議は、我々が占星術とその歴史的起源の根本形式を考慮するとき、当然ながら根拠を失うように思われる。なぜなら、占星術の根本形式を特徴付けているものこそはまさに、天球は単なる質料的なもの、宇宙の塊とは決して見なされていない点に、逆に、このような塊は精神的な原理によって、即ち英知によって生命を与えられており、これによって魂を吹き込まれ、その運行が決定されるとされている点にあるからである。 すなわち、人間の運命が天上界に支配されているからといって、人間の存在が物質的な原理に結び付けられ、拘束されるというわけではない。人間存在の確固たる地位は、宇宙の隅々まで支配している英知的諸力のヒエラルヒーの中(180)において初めて決定されるのである。しかし、今やまさに、この点において「人間の尊厳について」の演説において展開された、ピコの自由概念のあの本文(テキスト)と定義とが介入してくるのである。このような自由概念が侵害されるのは――ただ単に、人間の精神が自然の因果性に支配されるときだけではない。それがいかなるものであれ、水から定めたものではないその他の決定性によって支配される場合もそうである。自らの存在を初めから完成されたものとして受け入れるのではなく、自由な決断によって自らそれを形成していくgestaltetことこそ、人間がその他の自然物に対してのみならず、「精神の王国」において、すなわち英知界において水から要求するところの優越性を特徴付けるものである。こうした自由な決断による形成は、あらゆる種類の外からの決定に矛盾する――たとえその決定が「物質的」stofflichと見なされようが、「精神的」geistigとみなされようが問題ではない。人間の純粋な創造力への信仰、この創造力の自律性への信仰、このような真に人文主義的な信仰こそ、ピコにおいて占星術を克服したものなのである。 かくて、ピコが己の命題に対する決定的な証明を見出すのは、特に占星術的世界に対して人間文化の世界を対置させたところにおいてなのである。人間文化の世界は、宇宙的諸力の生み出したものではない。それは天才の作品である。天才の中に、我々は当然ながら「非合理的な」力、宇宙的諸力の要素やその因果的な起源にそれ以上解消し得ないような力を見出す。従って、天才を承認する事によって、我々は再び理解の限界の前に立たされることになるのである。天才を認める事は、単にこうした結果を導いたに過ぎないようである。しかし、こうした限界は人間的なものであり、決して神秘的な限界ではないのである。我々はこうした限界内に留まる事が許されるのである。なぜなら、ひとたびこの限界に突き当たったならば、これによって我々は、人間存在の円周、人間的決定の円周を隅々まで踏破した事になるからである。 (181)我々は、我々自身の本質を表現しているが故に、我々にのみ理解されうる、あの究極的な根拠の傍らに立っている。これらの根拠を更に他の、これらにするものに結び付けようとする者、これらを宇宙的な力とその影響力とから「説明」erklaerenし得ると信じている者は、これらの説明をもって自らを欺いている者でしかない。我々が偉大な思想家や政治家や芸術家の作品において、それと認め、崇拝せねばならないのは、星辰の力ではなくて、人間性の力である。アリストテレスやアレクサンダーを、同時代の如何なる人々よりも高めさせ、意味と力とを彼らに与えたものは、彼等のよりよき星ではなく、より善き天才Ingeniumなのである。この天才の由って来るのは星からではない。即ち、肉体的な原因に帰せられるものではなく、全ての精神的存在の源泉であり、起源である神に直接、由来するのである。精神の奇跡は、天界のそれよりも偉大である。我々が精神の奇跡の原因を天上界の奇跡に求めようとするのは、星辰の奇跡を理解する事ではなくて、これを否定し、水平化することに他ならない。 このように、占星術的世界像を克服したのは、まず第一に経験的=自然科学的根拠ではない。観察や数学的計算の新しい方法論ではないのである。これらの方法論が完全に確立される以前に、決定的な打撃が下されていたのである。新しい自然観ではなく、人間の自己価値に関する新しい見方が、解放の本来のモチーフなのである。「フォルトゥナ」Fortunaの力に対し、「ヴィルトゥ」Virtuの力が、運命に対し、自らを確信し自らを信頼する意志が対置される。本来の、最も真実な意味で、人間の運命と名づけられるべきもの、これは上から、即ち星々から人間に流れ下ってくるのではなく、人間の内面の最も奥深きところから上昇していくのである。実際には「運命とは魂の娘」sors animae filiaであるにもかかわらず、フォルトゥナを女神にし、彼女を天上界に釘付けにしたのは、我々自身なのである。(占星術に対するケプラーの態度(182))