(-94)ロレンツォの外交政策は、「後になってみると、上滑りの皮相なもので、真の目標を欠いていたように思われる」(G.ブラッカー)と言われている。確かにロレンツォの野心は、自身をイタリアの政治舞台で主要な役割を果たす当事者と認めさせると言う程度に留まっていたように見受けられる。だが、それ以上のことをするのが、果たして可能であったろうか。それはまだあきらかにされてはいない。ともあれ、同時代の人は彼を是としていたようである。グイッチャルディーニは「イタリア内部列強の正確な均衡」だけがフィレンツェに繁栄をもたらしうるものであったと明言しており、また同時代の別の一人は、ロレンツォを、イタリア列強の均衡を維持する「秤」の針とみなしている。 ロレンツォ生涯の事績の中では、一般にメディチ銀行の低落が負の部分とされ、その原因はロレンツォの経営手腕の不足、あるいは少なくとも事業に対する関心の欠如に帰せられている。だが、この点についても、もっとも的確な判断を下す者は次のような指摘を忘れていない――「こうした業績不振の責任の一端はロレンツォにあるとはいえ、加えてロレンツォにも、サッセッティ(輩下の総支配人)にも、如何とも成し難い時代の趨勢があった」(ルーヴァー)。国内的、国際的な状況を公平(95)に検討してみるならば、ロレンツォとその協力者たちが事態を左右しうるはずもなかったこと、彼らの無思慮や、時として、不正とは言わぬまでも軽率な行いが、メディチ銀行衰退の原因説明として十分でないことは明らかである。銀行はロレンツォが相続した時点ですでに星雲にはなかった事実を指摘しなければなるまい。ミラノではスフォルツァ家への貸付額が巨額に過ぎたため、1470年「支店は最早自由になる手元資金を、まったく所有していなかった」(クルーラ)。リヨンでも状況がそれよりましと言うことはなく、ロレンツォの義弟である新支店長も、この支店の衰退に歯止めをかけることは出来なかった。ヴェネツィア支店は破産への一途をたどり、ナポリ支店は将来の展望もないまま細々と営業を続けていた。ロンドン支店はエドワード4世王に対する貸付の犠牲となり、王に負債の返済能力がなくなったときには、まさに破産寸前、わずかに羊毛の買い付けだけを行う一営業所の地位に転落せざるを得なくなった。シャルル豪胆王に対する巨額の貸付で危機に瀕したブリュージュ支店は、1477年、王の戦死に伴って閉鎖の事態に追い込まれた。 メディチ銀行の衰退はまた、イタリア半島の情勢にも起因していた。例えばローマ支店は、教皇シクストゥス4世のメディチ家に対する憎しみの余波をまともに蒙った。1474年、教皇は、教皇庁会計院の預金受託者としての職分を、メディチ家にとって重要な資金源となっていた明礬鉱の独占採掘権と共に取り上げ、これをパッツィ家に与えたのである。ついでパッツィ家の陰謀事件の後には、ローマ支店の資産没収、教皇庁の負債破棄を一方的に宣言する。確かにシクストゥス4世とロレンツォの和解後、1481年から状況は回復し、数年の間ローマ支店の業績も好転した。し(96)かし、減収による損失は大きく、以後ロレンツォは、ミラノ、スフォルツァ家の書記官長チッコ・シモネッタや親類縁者に対して,多額の負債を負う身となった。ロレンツォが、必要とあれば職務怠慢者や派委任者を躊躇なく処罰したことも強調しなければならない。例えば義弟のリヨン支店長ロッシである。ロレンツォはこの人物を、1485年に獄に送り、ついで87年、リヨン支店の再編と時を同じくして、再び投獄している。ロレンツォはまた、メディチ銀行総体の全面的再編成をも考えたが、1490年、総支配人サッセッティの師によって実施に移されることなく終わった。そもそも金融不振はメディチ銀行に限られたものではなかった。1470年から94年までの間に、フィレンツェの銀行家は33行から7ないし6行にまで減少している。これは、フィレンツェ資本後退の前駆症状に他ならず、それから数十年の間に、後退規模の大きさは、いっそう明確な形を取るのである。ロレンツォが何をし、何を試みようと、メディチ銀行は最早景気後退の時期に入っていたのであり、日ならずしてこれは株の暴落に変じていく。 ロレンツォは、銀行経営の面では、必要とされる全能力を上げて専心これにあたることが無かったが、その代わり国家財政の管理という点では「我が家門は都市と一体」と自ら表明したおきてに従い、共和国の公的事業と私的な業務を恋に混同しながら、徹底的に強引なやり方を押し通した。遠慮なく国庫から金を借り、間接税を我が物とした。通貨に投機し、「嫁資基金」(嫁資形成のための貯蓄基金)の資金を横領し、傭兵の俸給を差し引いた―――要するに、時として「純然たる詐欺行為」(ロション)同然の悪辣な手段を行使したのである。国有銀行である「基金」管理委員会に居たロレ(97)ンツォの腹心たちは、ロレンツォの命令に従い、ロレンツォの友人の負担は軽減、敵対者には重い負担を課するなど、破廉恥な情実行為もあえてしていた。それはロレンツォが、祖父コジモから継承した習慣であったが、後にグイッチャルディーニの厳しい非難を招くことになる。グイッチャルディーニはロレンツォの財政政策を「最大の破廉恥行為」としたのである。ロレンツォはまた、2,30年来フィレンツェを遅い、とりわけ小手工業者に打撃を与えている経済不況を克服するための努力を、なんら試みなかった。1460年から74年までの間に奢侈品の製造工房は273から84に減少する。こまごまと煩瑣な規制が自由競争の障害となり、大企業にとって有利に働いたからである。一時廃止された保護貿易策がすぐ復活したにもかかわらず、織物産業は衰退を続ける一方であった。 公正な判断の難しい問題がもう一つある。即ちロレンツォの学芸保護の姿勢についてである。賛辞に満ちた伝記が伝統となり―――ヴァザーリがパラッツォ・ヴェッキオに描いた壁画はその絵画的表現―――、ロレンツォは長い間、典型的な学芸庇護者として紹介されてきた。しかし、アンドレ・シャステルの著作は、ロレンツォの学芸保護者としての伝説は「史実の歪曲であり、それらの逐条的記述が事実と大いに異なっている」事を証明している。確かにロレンツォは、ボッティチェリ、D.ギルランダイオ、ペルジーノ、フィリッポ・リッピ、ルーカ・シニョレッリ、A・ポッライウォーロ、A.ヴェロッキオ、A.サンソヴィーノらに資金援助はした。しかし、「ロレンツォ治下のフィレンツェに、ルイ14世のそれに比較しうるような一貫した保護政策を探し求めてはなら(98)ないし、教皇ユリウス2世のような有効適切な働きかけによる庇護さえも存在しなかった」(A.シャステル)のである。 ロレンツォは、建築や工芸品(古美術品、ブロンズ像、花瓶、メダル、カメオ、宝石)に興味を持っていたが、お抱えの芸術家に必ずしも常に手当てを支給しておらず、また学芸の庇護者はロレンツォだけに限らなかった。一族のロレンツォ・ディ・ピエール=フランチェスコやジョヴァンニ・トルナブオーニ、事業の協力者F。サッセッティ、盟友であるジョヴァンニ・ルッチェラーイ、ルーカ・ピッティ、政敵ストロッツィ家やパッツィ家なども、ボッティチェリ、ギルランダイオ、L。B.アルベルティ、ブルネレスキなどの芸術家に注文を出しては仕事をさせていたのである。そしてロレンツォは、ボッティチェリ、シニョレッリ、レオナルド、サンソヴィーノ、サンガッロらが他の都市(ローマ、ヴェネツィア、ミラノ)へと転出していくのを黙過している。そのよういして、「工房の過度の四散を招きフィレンツェを枯渇させる」(A。シャステル)ことに手を貸したのであった。 結局のところ、ロレンツォが賛辞に値するのは、恐らく文人としてであろう。フィチーノ、ポリツィアーノ、ピコ・デッラ・ミランドラの弟子であり友人であったロレンツォは、若くして古典の手ほどきを受け、「地方的な、また国際的な人文主義文芸の、当時流行したあらゆる様式を学ぶと共に、そこでまた、自己の最高の詩才を発揮した」(C.ベック)。しかし、そのもてる天分の全てをもってしても、結局は二流の文人に過ぎなかったのであるが。 要するに、ロレンツォ・イル・マニフィコは、祖父コジモのような政治家としてのスケールの大きさこそ欠いていたが、その長所、短所、美徳と悪徳の全てを含めて、輝ける時代のもっとも魅力的にして豊かな人物の一人、そして1400年代のメディチ家にあっては、最も才能に恵まれた人物ということになるであろう。
1492年より1494年、ピエーロ・ディ・ロレンツォ ――― 1492年4月8日、ロレンツォ・イル・マニフィコが世を去ると,早くもそのあくる日、息子ピエーロは,若干20歳であったにもかかわらず、70人会に席を占めるよう求められた。 ピエーロは不器用で衝動的、適切な助言を与えてくれる人物を欠き、国家の事業よりは私的な快楽に傾きやすい性向があって、一族のロレンツォやジョヴァンニ―――取り巻きのみを重用してこの両人を遠ざけた―――を含め、有力者たちの反感を買った。当時フランス王シャルル8世が、アンジュー家から相続したナポリの王権を主張し、強力な軍隊を率いてナポリ王国を征服しようと目論んでいたが、この計画に直面したピエーロは、答書、王のフィレンツェ領通過を拒否したにもかかわらず(フィレンツェは正式にはナポリの同盟国であった)、1494年10月30日になると、突如としてシャルル欧の迎えに赴き、サルヅァーナ、サルヅァネッロ、ピエトラサンタ、リパフラッタ、リヴォルノ、ピサの市門の鍵を渡すことを決定したのである。ロレンツォとジョヴァンニをはじめとする政敵たちはこれに憤激して、逆にフランス王に対し、フィレンツェをピエーロのくびきから解放してくれるよう懇請する。フィレンツェの民衆も「人民と自由」を叫んで反乱に立ち上がった。ピエーロは全ての人(100)から見捨てられてフィレンツェを去り、その邸館は掠奪にゆだねられた。フランス軍は、ナポリへの進軍を再開する前の10日ほど(11月18日から28日まで)この都市を占領するが、その年の11月11日からは、フィレンツェは元の共和制に復していたのである。 メディチ家の権力崩壊は、ピエーロの人間的欠陥や軽率な行動、また政体内部の諸々の欠陥にもよるが、むしろそれ以上に全般的なイタリア情勢に起因したものと言えよう。すなわち、「愚かにして空想的な」(ドゥリュモー)シャルル8世の予期せざる侵入である。この侵入を契機に、メディチ家の人々が手中に納めたと思っていた都市にも、なお共和主義的心情の残存していたことが明らかとなったのである。そうした心情は、サヴォナローラの熱烈な説教に深く影響されたものであった。サヴォナローラはフランス王を神に使わされた人物と見、その到来がフィレンツェに純乎たる道徳性と何十年来メディチ家によって奪われてきた政治的自由を取り戻させることになろうと言っていたのである。
文学と芸術 ―――ロレンツォ・イル・マニフィコとピエーロの時代は、文化の面では孤児も時代の延長で、言うならばフィレンツェの文化芸術の最も豊穣な時代の一つであった。文芸は、マルシリオ・フィチーノ(1433-99)、ピコ・デッラ・ミランドラ(463-94)、ポリツィアーノ(1454-94)らを擁して人文主義の第二期にあった。この流れとは別に、ルイジ・プルチ(1432-84)は特にその滑稽体英雄叙事詩『モルガンテ』に民衆の心を(101)映し出している。美術の面では、コジモ時代に花開いた才能や天分の百花繚乱振りが、依然としてフィレンツェを西欧世界における芸術のメッカとしていた。彫刻家では、コジモと同世代のドナテッロ、ギベルティ、デジデリオ・ダ・セッティニャーノ、それより若いヴェロッキオ、ベネデット・ダ・マイヤーノ、アントニオ・ポライウォーロ、ルーカ・デッラ・ロッビアらを挙げれば十分であろう。絵画では、コジモの時代に活躍したフラ・アンジェリコ、フィリッポ・リッピ、アンドレア・デル・カスターニョ、ベノッツォ・ゴッツォーリ、ポライウォーロ兄弟、それに続く世代のD・ギルランダイオ、ボッティチェリ、フィリッピーノ・リッピ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、そしてきわめて若いミケランジェロを挙げるにとどめておこう。最後に建築であるが、ブルネッレスキとそれに続くジュリアーノ・ダ・マイアーノ、ジュリアーノ・ダ・サンガッロ、ベネデット・ダ・マイアーノ、シモーネ・デル・ポライウォーロ通称クロナカ、それにコジモお気に入りのミケロッツォらが、この領域でもまたフィレンツェを、人文主義者たちの言う「新しきアテネ」と成しおおせることによって、この都市に新たな景観を与えたのであった。(101)
1494年より1498年、サヴォナローラ ―――異例の人物が四年間を支配し、その間フィレンツェはこの人物の指導の下に、政治的な、と同時に狂信的な体験を経た。即ちサヴォナローラ体験である。 ピエーロが権力から失墜した当時、サヴォナローラはフィレンツェ市民にはなじみの人物と成っていた。1452年、フェッラーラに生まれたサヴォナローラは、1482年にサン・マルコのドミニコ会修道院の「読師」としてフィレンツェに来たが,醜い容貌や訛りのある言葉,粗野で魅力を書く弁舌など不利な条件を背負っていた。従って説教もなんら成功を収めることは無かったのである。フェッラーラ、ブレシア、ジェノバなどの確知に滞在した後、1490年にフィレンツェに戻ると、彼はその教義の本質部分を練り上げる。即ち教会は数々の罪を犯しているゆえに罰せられるであろう。教会はその根本から改革されなければならない。その懲罰は差し迫っているので改革は急を要するというものである。イタリアおよびフィレンツェ知識人の大半が同じような危機感を抱いていただけに、この思想はいっそう容易に受け入れられた。「この予言的熱気は、人文主義と(103)新プラトン主義の中心地であったフィレンツェではとりわけ顕著であった。人文主義は全人類にとっての大いなる目標の出現を待ち望む期待を含んでいた運動であり、新プラトン主義の哲理はサトゥルヌスの支配、黄金時代の創始を目指すものであったから」(A.ドゥニ)。そのため今やサヴォナローラの説教は大成功を収める。ロレンツォ・イル・マニフィコは、その説教によって不安と怒りに駆り立てられたが、サヴォナローラはロレンツォの意を安んじる妥協の言葉を一切口にしなかった。1491年、サヴォナローラはサン・マルコ修道院長となり、初めはこの修道院で、のちにサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂で説教を行うようになる。魅せられたような群衆を前にして、サヴォナローラはフィレンツェに間近に迫った新しい懲罰、アルプスのかなたからやってくる、そして神の怒りを伝える使いとなるであろう新たなキュロス大王の到来を予言するのであった。露骨なほどの言葉で、ロレンツォの死が間近いことまでも予言した。ロレンツォは彼に沈黙を強いようとしたが無駄であった。しかし彼を深く敬い且つ恐れる余り、死に際しては枕頭に呼んでその前に自らの罪を悔いたのである。 ロレンツォの子ピエーロとサヴォナローラの関係は友好的であった。トスカーナ地方ドミニコ会修道院の、ロンバルディア地方修道会に対する教権的独立―――サヴォナローラの尽力によって実現した―――にピエーロが好意的だったからである。しかし、シャルル8世のイタリア南下が両者の関係決裂の契機となった。1494年11月、トスカーナ地方をメディチ家のくびきから解放するようフランス王に懇請するため、サヴォナローラが使者としてピサへ赴いたのであるから、それも当然の成り行きで(104地図、105)あろう。しかし反メディチ派の期待に反して、サヴォナローラは市民全体の平和を説き、ピエーロ・カッポーニに率いられて寡頭体制を樹立しようとした支配グループの計画を妨害した。サヴォナローラが目指したのはむしろ「民衆」、すなわち中小市民層にむけて開かれた政府であった。1494年12月、市政府には手をつけず、大評議会と80人会が設置された。メディチ時代の評議会に代わるものである。大評議会は、プリオーレ、ゴンファロニエーレ、あるいは市民代表の経歴を持つ29歳以上のフィレンツェ市民から選出され,定員は500名であった。大評議会はおよそ三千名の市民グループを代表して最高の権能を保持し、成員の中から最も高位の行政職(シニョリーア、各種評議会、警固八人会)の役職者を任命した。80人会は大評議会の中から選ばれる40歳以上の委員によって構成され、上院の役割を果たす。行政府にあたる市政府には、サヴォナローラの助言に従って、16名の地区代表と12名の市民代表が加えられた。しかし、最終的な決定権を握っているのは大評議会であった。 政治的緊張を緩和するため、サヴォナローラはフィレンツェを「王たるイエス」の保護下に置く。しかし党派間の抗争はいっそう激しさを増した。一方に「灰色派」(ビージ)、と「メディチ派」(パッレスキ)、対するに「憤激派」(アッラッビアーティ)と「悪臣派」(コンパニャッチ)があって、サヴォナローラを支持する「坊頭派」(フラテスキ)―――愚弄的に「泣き虫派」(ピアニョーニ)とも呼ばれた―――は、対立する両派の間に挟まれていた。(106)深刻な経済危機は民衆の不満を募らせていたが、サヴォナローラの権威は損なわれること無く、むしろ1495年から96年にかけてその威信は頂点に達する。最も卓越した精神の持ち主たち(フィチーノ、ボッティチェリ、ミケランジェロ)らも、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂でサヴォナローラの霊感あふれる説教を聴こうとしておびただしい群衆の中に立ち混じっていた。サヴォナローラが説いたのは、富める者や専制の君主を排した新しき秩序の創造である。その新秩序防衛のために、彼は子供まで動員し5歳以上はこれを組織して、賭博者狩りや退廃者狩りへと向かわせたのである。コトはついに「虚飾の火刑」にまで及び、化粧品、俗悪な書物、猥褻な絵画、異教の彫像などが公衆の面前で焼き捨てられた。 イタリアの情勢変化が、再びフィレンツェ内部の状況を変えてゆく。1495年7月、フォルノーヴォにおけるシャルル8世の敗北とフランスへの退却は,サヴォナローラに対するフランスの支持が失われるという結果を招いた。だが、サヴォナローラの破局はむしろローマから齎される。同じ95年7月彼は教皇アレクサンデル6世から異端を告発され、職務の一時停止を申し渡され説教を禁止されたのである。それでもサヴォナローラは翌96年に説教を再開し、97年5月13日の破門以後も尚やめなかった。しかし98年に成ると聴衆の数も減り、それからはサン・マルコ修道院内だけを説教の場とするようになる。そのような立場におかれてもなお、彼は教皇の命に従うことを拒否し、教皇を罷免に追い込むための公会議開催を画策し続けた。そうした中で弟子の一人が「火の試練」に挑戦するよう敵側の人物から求められて承諾し、期日を1498年4月7日と定めた(107)が、サヴォナローラの友人たちの過失からこれが延期された。この事件をきっかけに、彼のペテンを非難告発する世論が巻き起こり、一方、都市政府は4月8日、彼の追放を決定する。サヴォナローラは世論の大勢にも都市政府にも見放されて、翌9日、サン・マルコ修道院から連行され投獄されて拷問にかけられる。5月22日、死刑宣告が下り、23日,市政庁前の広場で刑は執行された。過去からやってきたような一預言者の教導による共和主義的かつ神政政治的な統治という時代錯誤の試みに、こうして終止符が打たれる。サヴォナローラの行動は、一方には「無力な預言者」として冷笑の的にしたマキャヴェリ、他方にはむしろ彼に与えられた不名誉な死を非難してその生涯の純粋性を称揚するグイッチャルディーニらを初めとして、多く史家の意見を分かたせ続けた。
1498年より1512年、共和制 ――― サヴォナローラに勝利を納めた人々は、彼の「民衆」政治に終止符を打つ点では一致していたが、後に据えるべき政治形態については思惑を異にしていた。有力者層(オッティマーティ)(カッポーニ、グイッチャルディーニ、ピッティ、リドルフィ、ルチェッラーイ、ストロッツィ、トルナブオーニ)は「狭い」政府、すなわち寡頭制を実現しようとして、サヴォナローラの下で獲得した権力を手離すまいとする上層市民(ポポラーニ)と対立したのである。ポポラーニは大評議会と80人会において多数派を占めていたが、平和委員会10人の貴族たちとの間に軋轢を生じていた「行政権を強化し(中略)行政府により大きな安定を齎すために」(アルベルティーニ)、オッティマーティと一部のポポラーニが、1502年8月25日、ヴェネツィアの統領(ドージェ)の例に倣って「終身(108)都市国家主席(ゴンファロニエーレ)」を置くことを決定する。「終身ゴンファロニエーレ」は大評議会によって選出される年齢50歳以上の人物で、あらゆる評議会の議長となってこれに責任を負い、重罪裁判の行われる全ての法廷に出席するのである。古い家門のピエール・ソデリーニがこれに選出された。かつてはピエーロ・ディ・ロレンツォに仕えたが後に「民衆」に接近した人物で、まじめさと信仰の厚さによって評価されたためである。しかし、小心者で、難局に際してはその任に耐えぬ者であることがやがて判明する。 ピエール・ソデリーニは、まず不動産に課する累進10分の1税により、経済危機に取り組む姿勢を見せた(1499年末から1500年初頭)。そして1506年には土地課税をさらに重くした増税案を議決させる。だが、それによって収入を周辺地域(コンタード)の土地取得に投資していた土地持ちの豪商や貴族たちを敵に回す結果を招いた。 そればかりか、ソデリーニは、当時ルイ12世に代表されるフランスとの盟約に忠実であり続けると言う過ちを犯す。ルイ12世はミラノやナポリに対する権利を主張していた。ルイ12世がヴェネツィアや教皇アレクサンデル6世、ユリウス2世等の支援を得て戦いに勝利を収めている間、この同盟はフィレンツェにとって有利に働いた。フィレンツェはイタリア半島内のさまざまな戦争の局外に留まっていたが、15年戦争の後、1509年にはピサを取り戻すことが出来たのである。しかし1511年、ユリウス2世がローマ、ヴェネツィア、フェルディナンド・カトリック王(ナポリ王)、それにスイス連邦やイギリス王の支持を得て対仏神聖同盟を結んだとき、フィレンツェは(109)ソデリーニの主唱に従ってルイ12世の側につき、ユリウス2世の廃位を図る公会議を開こうとするフランス王の計画に参加した。教皇制はフィレンツェに対する祭式挙行禁止令をもってこれに答えると共に、国外追放中のメディチ家に接近する。やがてフランス軍のイタリアからの撤退に伴い、教皇はナポリ副王の軍隊をフィレンツェに差し向けることが可能となり、1512年8月29日、ナポリ軍はフィレンツェ領下のプラートを占領、プラートは恐るべき掠奪に委ねられた。臆病なソデリーニはメディチ家に空席を残したまま恐怖におびえて逃亡する。ソデリーニのこの失脚は、メディチ家支持者が数多く、しかも影響力を持って残っているフィレンツェが、イタリアを分裂させる対立抗争の外で生きようと望むのはいかに無理な相談であるかを物語っている。1506年に決定された市民軍の再編成、これは二万の歩兵を配備できるようにするはずのものであったが、それをもってしても尚、フィレンツェの軍事力が弱体に過ぎることもまた明らかになった。対ピサ戦争でも、不十分であることが判明していたこの「きわめて不完全な戦力」(ピエーリ)は、当時の大軍団との交戦を支えるには余りにも無力であった。「遅疑逡巡と名誉なき中立」(ルノーデ)の対外政策は,ソデリーニと共に終わったのである。
1512年より1527年、メディチ家の帰還 ――― フィレンツェは15年の間、メディチ家出身の二人の教皇、レオ10世(1513年から21年まで)およびクレメンス7世(1523年から27年まで)によって、直接ないし間接に統治されることになる。まず、1512年9月から翌年8(110)月までは、後にレオ10世となる枢機卿ジョヴァンニが、弟ジュリアーノに補佐されて故郷の都市を治める。1513年、教皇の座に着いたレオ10世は、彼にとって甥であり、ピエーロ・ディ・ロレンツォのコ、つまりロレンツォ・イル・マニフィコの孫にあたるロレンツォにフィレンツェの統治を委任、1478年パッツィ家の陰謀で命を落としたイル・マニフィコの弟ジュリアーノの子ジュリオを若きロレンツォの後見人に据えた。しかしロレンツォ青年は1519年、27歳で夭折、フィレンツェの支配権は、1513年に枢機卿と成ったジュリオの手へと移っていく。ジュリオは、1523年、クレメンス7世の名で教皇に即位すると、いとこジュリアーノ(元ヌムール公)の子イッポリトおよび夭折したロレンツォの子アレッサンドロの手に政権を委ねるが、彼らが若年であったため、パッセリーニ枢機卿を後見人とした。 政権の座にある人物が誰であれ、実質的に重要な決定を行い、政策の大綱を決めるのはローマであり、それもレオ10世が1513年8月、甥のロレンツォに宛てた書簡に明記してある諸原則にしたがっていた。即ち、共和政体の擬制を維持すること、信頼の置ける人物を配置して国家の諸機構を監督すること、それらの人物をも君主のみが知る一人の「腹心」の監視の下に置くこと、主要な役職は有力者(オッティマーティ)に残しながらも新人を受け入れて支配層を拡大することなど。したがってそれは「事実上、友人と支持者グループに基礎を置いた」(R.フォン・アルベルティーニ)政治であった。しかしその支配者層も、1494年以前の体制へ立ち戻ろうとする復古派(アルビッツィ、ヴェットーリ、ヴァローリ)と、ルチェッラーイ家を中心とする批判派とに分裂しており、後者は1522(111)年、反乱を企てるに至る。反政府共和派はメディチ家の帰還と共におおむね国外に追放されていたが、1513年2月に反乱を計画、実際行動に走った二名の生命が犠牲にされた。制度的には当然、各評議会(70人会、100人会をはじめコムーネの評議会も)が復活し、1494年以前の「共和制」形態に戻ったが、これらはきわめて広範な権限を持つ特別委員会(バリーア)によって統括された。1522年5月、ルチェッラーイ派の陰謀は挫折してメディチ家の威信を強化しただけに終わり、メディチ家の権勢はいまやゆるぎないもののように思われた。 メディチ家の失墜の原因となるのは、またしてもイタリア半島の情勢であった。レオ10世は、イタリア内の安定を維持してフランスやスペインの支配を避けることに心を傾け、フランソワ1世とカール5世(スペイン王としてはカルロス1世)の間で慎重にことを処した。クレメンス7世も同じ方針を継承する。しかし、1526年、フランソワ1世の提唱によって教皇、フィレンツェ、ヴェネツィア、ミラノ、イギリス、フランスを結集したコニャック同盟への加盟は、クレメンス7世の身に、カール5世の報復を招くことになった。皇帝軍はイタリアに「南下」、ローマを占領してこの都市を掠奪の下に置く(1527年5月)。その報に接してフィレンツェの共和派と反メディチ派は一斉に蜂起し、流血を伴うことなくパッセリーニ枢機卿と、メディチ家の二人の青年(イッポリトとアレッサンドロ)を追放した(同年5月16日)。(111) (中島昭和 渡部容子訳『フィレンツェ史』、白水社・1986年)