2009年4月5日日曜日

芸術家と著述家 (芸術の社会的組織)

芸術の社会的組織 画家や彫刻家にとって、基本的な単位は工房bottegaであった。工房とは、多種多様な作品を共同作業によって作り出す小集団で、近代の専門化された個人主義的な美術家と著しい対照を成している。板絵や壁画専門の画家と家具装飾の画家との間に区別が設けられることもあったが、その一方でボッティチェリはカッソーネ(嫁入用の衣装箱)や旗標にも絵を描いている。フェララの画家コスメ・トゥーラは馬具や家具に絵を描き,ヴェネツィアの画家ヴィンチェンツォ・カテーナは飾り戸棚や寝台の背もたれを装飾している。16世紀になっても、ブロンズィーノはウルビーノ公のためにチェンバロのふたに絵を描いて言う。こうした幅広い内容の注文品をこなすために、工房の親方は助手や徒弟を雇う必要があった。とりわけギルランダイオやペルジーノ、ラファエロのように、大規模な仕事に携わったり、注文の多い画家の場合は、大勢の助手を雇わなければならなかった。ジョヴァンニ・ベッリーニはその長い画業生活の間に少なくとも16人の助手を雇った事が知られているが、実際にはもっと多くの助手を使っていたらしい。これらの助手は、年齢に関わり無く「ガルツォーネ」(少年)と呼ばれていたが、場合によっては特定の仕事に応じて雇われ、彼らを雇う費用をパトロンが保証することもあった。……(95)他の助手は自分の親方のために恒常的に仕事をし、[動物や文様など]それぞれの得意の分野を受け持った。……工房はしばしば家族的な事業であった。ヤコポ・ベッリーニのように、父親は息子達に技術的な訓練を施した。徒弟も恐らく家族の一員として扱われ、マンテーニャなどのように、師匠の娘と結婚することもあった。ヤコポは死ぬときに、長男のジェンティーレにその素描帖と未完成の注文仕事を託し、彼はその工房を引き(96)継いだ。……絵画作品への署名は普通「ルネサンスの個人主義」の証拠と見なされている。しかし、絵画が工房主によって署名されている場合でも、それは必ずしも彼の手で描かれた事を意味してはいない。寧ろ反対の事を意味していることもあった。つまり作品が工房の正規の製品である事を保証しているに過ぎないこともあった。 全ての独立した画家が自分自身の工房を開く事が出来たわけではない。他の小規模な親方(例えば染色職人)と同様、画家達は工房の借家や設備のための出資を分担した。かれらは普通、常に同じではなかったが、商社を運営するように、支出と収入を共同で管理した。例えばジョルジョーネはヴィンチェンツォ・カテーナと共同で仕事をした。こうした連携は病気とか注文仕事の遅延に対して保証を提供すると言う利点を持っていた。彼らは工房の中でも互いに仕事を分担していたものと思われる。 こうした共同制作の習慣は、名のあるが形が同じ作品を、一緒に或いは交代で、どのように制作したのかを理解しやすいものにしてくれる。例えばパドヴァのオヴェターリ礼拝堂では,四人の画家が組になって絵画を製作した……こうしたやり方は16世紀まで続き、……(97)共同制作のシステムは様式の意図的な個人主義に対して明らかに歯止めとなり、またそれは何故こうした個人主義がずっと後になってからしか出現しなかったのかを説明してくれる。 彫刻家の工房も画家の工房と同じように組織された。ドナテッロはミケロッツォと共同制作し、一方ガッジーニ一族やソラーリ一族は典型的な家族工房の例を提供している。彫刻作品の制作には長い時間が掛かったため、助手の必要性はいっそう大きかった。工房主は特定の注文作品の制作のために大理石の採掘を手配しなければならず、採掘がうまくいかない場合には、ミケランジェロが手紙で嘆いているように、大金が無駄になった。また出費が必要不可欠なものであったことや、支払いが実際成された事を注文主に証明することは難しい問題であった。ベルナルド・ロッセリーノの工房は仕事の内容がかなり細かく分けられた工房の一つであったが、その分業のやり方は「一見した所気ままなもの」であった。 建築は、当然ながら、いっそう大規模な組織と明確な分業によって行われた。今もヴェネツィアの大運河に見られるカ・ドーロのような比較的小さな邸館でさえ、1427年には27年の職人がそこで働いていた。大工、二種類の石工(削り工と石積み工)、運搬工、そして恐らく石工頭である。したがって共同作業の際には問題が生じた。フィラレーテがたとえたように,建築の事業はダンスに似ている。そこでは誰もが同時に協力し合わなければならない。造営作業の監督に当たった人物は、アルキテットarchitettoとかプロトマエストロprotomaestroつまり石工長と呼ばれた。二つの呼称はお(98)そらく二つの異なる役割の概念、つまり職人頭という古い観念と設計者と言う新しい観念を反映している。いずれにせよ、建築には非常に多くの管理業務が含まれていた。建物の設計の傍ら、工人を雇い、賃金を払い、石炭、砂、レンガ、木材、ロープなどを供給して配しなければならなかった。これらの仕事は全て多種多様なやり方で行われた。ヴェネツィアでは、石工の親方は三人以上の弟子を持てない規定になっていたため,建築工房は小さいものであった。大きな建物を建てる場合には、施主padroneはまず建物全体の契約を結び、次に建物の各部分について異なる幾つかの工房と下請け契約を行うのが普通であった。それとは対照的に、1520-30年代にローマのサン・ピエトロ大聖堂の造営に当たったのは大勢の人間からなる単一の工房で,そこには多くの石工や職人のほかに一人の会計係computista、二人の測量士mensuratori、一人の総務主事segretarioが含まれていた。フィラレーテは建築家と工人の間を仲介する人として代理人commissarioを推奨している。アルベルティはこのやり方を踏襲したらしく、少なくとも三人の芸術家を代理人として雇っている。…… こうした仕事の分業は、代理人に対してばかりでなく、美術史家に対しても問題を引き起こしている。特定の絵画や彫刻についても個人の分担部分を明らかにする事はかなり難しいが、建物の場合はなおさらで、特定の細部を、パトロン、建築家、代理人、石工頭ないし石工の誰が決定したの(99)かを知る事は極めて難しい。問題をさらに難しくしているのは、建築家が施工者に寸法入りの設計図を与える事がまだ習慣になっていなかったことである。大抵の指示は口頭でa boca与えられた。我々がアルベルティの設計意図を知る事が出来るのは、彼がリミニのサン・フランチェスコ聖堂の建造中この町におらず、手紙で設計図を送っていたからであり、その幾つかが残存しているからである。或るとき代理人のマッテオ・デ・パスティがいくつかの付柱の比例を変更しようとすると、アルベルティは書面でそれを中止させた。マッテオは施主のシジスモンド・マラテスタに手紙を書き、アルベルティからファサードと柱頭の図面が届き、それを全ての「石工と技師」に見せたが、この図面はアルベルティが以前に作った建物の木製模型と必ずしも一致していないため困惑している、と訴えている。「願わくは殿下が間に合ううちに来られて、ご自身の目で事態を見てくださるように」。そのやや後に、この聖堂に関係していた別の石工もシジスモンドに手紙を書き、アルベルティと天井架構の問題について話し合うためにローマに行く許可を求めている。 建築がこうした共同の事業であった事は革新への歯止めとして作用したに違いない。建築職人達は他の建築職人から訓練を受けたため彼らは伝統や技術への忠実さを学び取った。伝統から逸脱した設計を施工に移す場合、近くでうるさく監督されていないときには彼らはそれを「標準化」しようとしたらしい。つまり設計者が意図的に逸脱した伝統に設計を合致させようとしたらしい。ミラノのメディチ銀行のためのミケロッツォの設計はロンバルディアの建築職人によって地方的様式で建てられた(建物の断片は今でもスフォルツァ城内の博物館に残っている)。小さな例であるが、ブルネレ(100)スキが現場に居るときにフィレンツェの職人によって作られた柱頭と、彼が不在のときの1430年に作られた柱頭との間には、微妙だが重要な比例proportionの差異がある。 新しい建築様式の発展と新しい種類のデザイナーの台頭、つまりアルベルティのような石工としての訓練を受けていない建築家の台頭との間には、関係があるように思える。造船との類似した関係は示唆的であろう。15世紀のヴェネツィアでは、船は古参の船大工(建築における石工頭に当たる)によって設計された。しかし16世紀には、彼らの存在はアマチュアによって脅かされた。アルベルティと同じ役割を演じたのは人文主義者のヴェットール・ファウストで、彼は古代のガレー船をモデルにした船を設計した。 画家や彫刻家、石工のいっそう大きな組織の単位は同職組合guildであった(ただし建築家の組合は存在しなかった)。組合は幾つかの機能を持っていた。組合は作品の品質の基準、注文者と親方、遍歴職人、徒弟見習いとの関係を規約化した。寄付や遺贈によって金を集め、それを必要とする組合員に貸し与えた。また組合の守護聖人の祭日には、(101)宗教的儀式や行列を伴う祝祭を組織した。ミラノのようないくつかの都市では、画家たちは聖ルカ(聖母マリアの肖像を描いたと伝えられる)を守護聖人とする独自の組合を持っていた。他の都市では画家達はより大きな組合の一部をなしていた。例えばボローニャでは製紙業者の組合に属し、フィレンツェでは医師及び薬種商の組合に属していた(しかしフィレンツェの画家達はそれとは別に彼等独自の互助組合である聖ルカ同信会を持っていた)。 15世紀のパドヴァの画家組合の規約を見ると、当時の組合の活動内容が生き生きと伝わってくる。組合の役員は、会計一人、幹事二人、公証人一人、長老一人であった。組合員は組合が主催する幾つかの社会的宗教的活動に参加する義務を持っていた。年に何日か組合は「われらの旗」を押し立てて町を練り歩き、欠席者には罰金が課せられた。輪番で病気の組合員を見舞い、ざんげや聖体拝領を介助し、葬式への不参加者には罰金を課した。貧乏人やハンセン病患者には施しが為された。貧乏な組合員を救済するための措置もあった。貧しい画家は組合に作品を売る事が出来、組合の会計係がそれを「一番の高値で」売ろうとした。他(102)の都市でも組合が金を貸す例が見られる。たとえばボッティチェリはフィレンツェの聖ルカ同信会から借金をしている。パドヴァの画家組合の規約は、画家に弟子を少なくとも三年間は雇う事を義務付け、他の画家の弟子を「贈り物や甘い言葉で」勧誘してはならない、と定めている。規約には作品の品質の維持に関する条項も含まれていた。親方の資格を得るためには規定の試験を受けねばならず、作品が「偽造」されていないかどうかを見るためにも工房が査察されることもあった。作品の品質と公正な価格は、注文主との間で問題が生じた場合、別の画家達を呼んで作品の価格評価―――同業者による芸術的判断―――をさせるという習慣によっても維持された。しかし一方、組合の活動には閉鎖的な側面もあった。パドヴァの画家組合の規約は、組合員が非組合員に絵画技術に関する事を供与したり売却する事を一切禁じている。規約はまた、いかなる作品もパドヴァで売るためによそから持ち込まれてはならず、こうした「よそ者の」作品が組合の管轄地域を通過する場合には三日間だけの猶予が与えられる、と定めている。 ヴェネツィアでも組合は強い地域的閉鎖性を持っていたらしい。1506年にアルブレヒト・デューラーがヴェネツィアを訪れた際、彼はこの町の画家達の敵意と競争意識について語っている。……彼は、自分より才能の劣る画家ジャンボーノによって、単に後者がヴェネツィアの画家であるという(103)理由で、監督を受けねばならなかったらしい。 しかしフィレンツェでは、組合はそれほど大きな力を持っていなかった。フィレンツェ政府は組合が全ての画家の加入を強制する事を認めようとしなかった。ボッティチェリをはじめ何人かの画家は、その生涯の最後になって組合に加入している。その結果「他国者」の画家もフィレンツェに来て仕事をする事が出来た。都市の伝統を外部からの刺激にさらしたこうした自由な制作は、恐らくフィレンツェの文化的先導性を説明する助けとなるだろう。 著述家や人文主義者、科学者や音楽家は、組合も工房も持っていなかった。彼等の世界で組合に最も類似した組織はウニヴェルシタであった(この言葉は単純に「団体」を意味しており、当時はしばしば画家の組合をさすのに用いられた)。しかし、学生と画家見習いの類比は、確かに幾つかの点では気をそそるが、誤解を招く恐れもある。学生の大多数は教授になるために大学に行ったのではなく、教会や国家の役人になる事を目指していた。イタリアの大学組合における学生は、画家組合における徒弟見習いよりも大きな力を持っていた。例えばピサ大学では、教師の一人であった科学者ベルナルド・トルニは学生の請願のおかげで昇給を勝ち取る事が出来た。大学は教師が書物を生み出すのに適した場所ではなかった。彼らの仕事は講義をする事で、彼らの著作は余暇の産物であった。 人文主義者や科学者には大学があったかもしれないが、著述家はいかなる形の組織も持っていなかった。彼等の実際の職業は軍人や外交官、司教であり、彼らは多かれ少なかれ余暇を利用して執筆し(104)たのである。それゆえ女性にとっては画家や彫刻家になるよりも著述家になるほうがいくらか容易であった。 しかし一方には、詩だけで生計を立てる専業の詩人も居た。とはいえ私は「職業的」という近代的な用語を使う事に躊躇を感じる。というのも宮廷を渡り歩いたこれらの吟遊詩人cantastorieや即興詩人はホメロス時代のギリシアのような英雄時代にまで遡る文化のルネサンス期イタリアにおける生き残りだったからである。 言い換えれば、文学の生産は15世紀のイタリアではまだ産業ではなかったのである。文学が産業になるのは16世紀中ごろのことであり、フランスとイギリスでは18世紀になってからのことであった。他方、文学の再生産は間違いなく産業化されていた。勿論、特殊な本を必要とした人々は自分で手写したり、別の人に写本の作成を依頼したが、このような場合には何の生産組織も必要ではなかった。しかし15世紀のイタリアでは写本の生産が商業化され規格化されるようになる。筆写を受け取ったのは書籍業者stationariusと呼ばれた人たちで、当時この言葉はほんの販売業者と写本工房scriptoriumの組織者の両方を意味していた。したがって書籍業者という言葉は二つの意味を持っていた。というのも、同じ人物が出版と小売販売という二つの役割を果たしたからである。(104)
(105)ルネサンスの最も有名な書籍業者はフィレンツェのヴェスパシアーノ・ダ・ビスティッチで、彼は自分の顧客の伝記を書いた事で自らの名を不朽のものとした。これらの伝記は高度に組織された写本生産のシステムから生み出されたような印象を与え、また古代ローマ時代のキケロとその友人の「出版業者」アッティクスを想起させる。たとえば、ビスティッチは、コジモ・デ・メディチのための図書館を築くために、45人の筆写家を雇って22ヶ月で200巻の写本を完成した様子を物語っている。この場合に強い印象を与えるのは、ここの筆写家の速度ではなく、コジモというフィレンツェの無冠の支配者が一人の書籍商に200巻の本を二年以内に筆写するよう注文したという事実である。書籍の筆者はどのように組織されたのであろうか。需要の多い作品は10人か20人の筆写家によって口述に基づいて写されたが、筆写作業全体が「外注」に委ねられる事もあり、この場合、筆写家は数カ月おきに書籍商の元に立ち寄り、必要な羊皮紙と筆写すべき本を受け取っては自分の家に持ち帰って作業した。筆者家の仕事が分冊ごとの単位で支払われた臨時の仕事であった事を考えると、後者のほうが一般的だったらしい。ヴェスパシアーノは以前に公証人や僧侶であった人物を筆写家として雇っている。 15世紀中頃以降,こうした筆者の方式は、機械的に「筆写された」(初期の印刷本にはしばしば印刷の事がこのように書かれている)本の大量生産と競争しなければならなくなった。1465年、スヴェインハイムとパンナルツという二人のドイツ人の聖職者がローマから数マイル離れたスピア(106)コのベネディクトゥス会修道院に到来し、そこにイタリアで最初の印刷機を備え付けた。その二年後、彼らはローマに移住し、五年間で1万2000冊の本を生産したと推定されている。これはヴェスパシアーノなら同じ期間に1000人の筆写家を雇わなければならない分量であった。新しい印刷機械が恐るべき競争相手であったことは明らかである。15世紀末には約150台の印刷機がイタリアに存在した。…… 新しい状況に適応した筆者家もおり、彼らは自ら印刷業者に転身した。……初期の印刷本は写本と似た外観を持っており、彩色された頭文字を持つものもあった。同様に、新しく生まれた職種である印刷業者が、書籍業者にとって代わった。書籍業者と同様、印刷業者も20世紀に於てなら当然区分される本の生産と本の販売という二つの仕事を兼業しようとした。やがてそれに第3の「出版業者」という仕事が加わる。これは実際には別の人によって印刷された本を自分の名義と責任において出版する人のことである。例えば1497年にヴェネツィアで出版されたオウィディウスの『変身物語』の挿絵入り版の奥付きには「ルカントニオ・ジュンティの求めに応じて」ゾアーレ・ロッソによって印刷された、と明記されている。印刷業者は時として第4の仕事、つまり本以外の商品の販売にも携わった。結局の所、(107)この新しい商売が成功するか否かは誰にも予測が付かない状態だったのである。 印刷術の発明が文学の世界に齎した影響は多様でかつ甚大なものであった。第1に、状況に適応して再出発する準備の出来ていない筆者家や書籍業者にとっては大打撃であった。第2に、ほんの生産の飛躍的拡大は新しい職種を作り出し、創造的な著述家を支援する事になった。図書の収集が大きくなるにつれて、司書の必要性が高まった。実際、[文法学者、人文主義者、学者、哲学者などの]創造的エリートの何人かはこうした職についている。 印刷業の隆盛によるもう一つの新しい職種は校正者で、これは著述家や学者に都合の良いパート・タイムの職であった。プラティーナはローマでスヴェインハイムやパンナルツのために校正者として仕事し、人文主義者ジョルジョ・メルーラはヴェネツィアで最初に設立されたヨハン&ヴィンデリン・シュパイアーの印刷所の校正者であった。16世紀になると、印刷業者や出版業者は、著述家に書籍の編纂、翻訳、或いは執筆まで依頼するようになり、こうした新しい形態の文学のパトロネージによって、16世紀中ごろのヴェネツィアでは一群の職業的文筆家poligrafoが生み出された。この(108)職業的文筆家の中で最も有名だったのがピエトロ・アレティーノであり、彼は自分の「私的な」書簡までも売り物にした。アレティーノという太陽の周りには、小さな星が群がった。……ヴェネツィアのジョリートの印刷会社は,当時としては珍しく学問的な書物よりも大衆的な本を多く出版していたが、職業的な文筆家の利用に掛けては先駆的な存在であったといえよう。…… 音楽はその創造ではなく再創造に関して組織化されていた点で、文学と似ていた。教会は専属の合唱隊を持ち、都市は鼓笛隊とラッパ手を持ち、宮廷はその両方を持っていたが、作曲家の役割は殆ど認識されていなかった。作曲家compositoreという言葉は時折見られたが、より一般的な言葉は楽師musicoで、曲を捜索する人と演奏する人の間には区別が無かった。この当時は創造的エリートの中の49人の作曲家はいずれも音楽理論家か歌手、或いは楽器奏者と見なされていた。…… (109)芸術の生産活動の重要な特徴として、芸術家がときに応じて各地を移動したこと(あるいは移動する必要があった事)があげられる。創造的エリートの約25パーセントが数多くの旅行を行った事が知られている。一方では、画家ヤコポ・デ・バルバリのように,高い評判を得て外国から招待された人がいる。……それとは反対に、ロレンツォ・ロットのように一箇所では成功しなかったために各地を点々とした人も居る。……建築家は決して一箇所に安定する事が出来なかった。人文主義者や作曲家は画家や彫刻家よりも各地を移動する傾向が強かった。恐らく彼らの仕事がパトロンの身近にいる事を必要としたのに対し、画家や彫刻家は自分の家に居ながら作品を外国に送る事が出来たからである。…… 各地を遍歴する学者というテーマは、しばしば強調されてきたが、懐疑的な見方も出されている。……しかし創造的エリートに関しては、58対43と移動型の人文主義者の数が定住型のそれをやや凌いでいる。 印刷業者もまた広く各地を移動した。……人文主義者や印刷業者が毎年のように移動したとしたら、役者や吟遊詩人、ほんの行商人は毎日のように旅行した。画家の中にも旅をしながら仕事をしていた人物が居たらしく、15世紀のダリオ・ダ・ウーディネはある記録に「遍歴画家」pictor vagabundusと記されている。 芸術の生産活動のもう一つの重要な側面は、それらがどの程度、専業或いは非専業の仕事だったのか、どの程度アマチュア或いは専門家の仕事だったのかということである。すでに見たように、絵画や彫刻、音楽は普通専門家による専業の仕事であり「ルネサンス期イタリアにおける職業芸術家の台頭」は新旧いずれのルネサンス研究に於ても強調されてきた。一方著述は普通アマチュアの非専業の仕事であり、建築家は建築の傍ら絵画か彫刻に携わるのが普通であった。私がここで「科学者」と呼ぶのは通常「教師」か「医師」の肩書きを持つ人のことである。学者は普通教師を職とし、178人のエリート(111)著述家と人文主義者のうち少なくとも45人が大学や学校で教えたり、個人的な家庭教師を務めている。……ヴィットリーノ・ダ・フェルトレやグァリーノ・ダ・ヴェローナのような教師を天職と見なす人文主義者が居た一方で、教える事を呪うべき運命と見なした人文主義者もいた……。ローマ教会も一時的就職の重要な場所のひとつで、著述家(22人)、人文主義者(22人以上)、作曲家(20人)の他、7人の科学者、6人の画家(フラ・アンジェリコなど)、一人の建築家が雇われている。 著述家や人文主義者にとってのもう一つの一般的な就職口は書記であった。彼等の巧みな修辞の技術が高く買われたのである。[何人かの著名な人文主義者は](112)説得力に富んだ書簡を書く修辞能力を買われてフィレンツェの書記官長に任用された。……[ある詩人は]ナポリの国務長官を務めた。個人的秘書を務めた著述家も居る。…… 数は少ないが、美術家や著述家が、奇矯とは言わないまでもやや驚くような仕事に携わった例も見られる。[宿屋経営、軍人、商人、薬品と香料販売、諜報活動、肉屋経営、床屋、公証人など](113)
(ピーター・バーク著 森田義之・柴野均訳『イタリア・ルネサンスの文化と社会』、岩波書店・2000年)