2009年4月5日日曜日

Grund 3 basica Istorica intellecta p1

 第1章 ルネサンス哲学の歴史的背景(p1) 古代と中世の哲学的遺産 古代の権威は、自らの創造力を古さや先例の背後に隠すことに慣れていた思想家たちに、時として革新へと向かうための逆説的な自由を与えたのである。……ルネサンス期における哲学論議の特徴の一つは、それがたいていある遠い過去の権威、たとえば、古代アテナイの賢者または中世パリの学匠―――プラトンやアリストテレス、トマス・アクイナスやドゥンス・スコトゥス―――に言及して始まるところにある。そればかりでなく、多くの人々の考えによれば、神は大昔に単一の一元化された真理を人間に与えたのみならず、ギリシア哲学の記録、とりわけプラトンとアリストテレスの著作が原初におけるこの神的叡智の寄託の一部を保存しているとされた。……『哲学者列伝』の冒頭で―――この著作は古代から伝存した包括的な哲学史に最も近いものであり、15世紀の人文主義の重要な発見だった―――ディオゲネス・ラエルティオスが教説の究極的な一元性に歴史的証言を与えて、多くの民族が原初に同一の叡智へと至るさまざまな経路を発見したのだ(2)から、真理は一つであると示唆した。古代に由来するこの考えは、プラトン主義者であれアリストテレス主義者であれ、ルネサンス期の哲学者の間にも広く行き渡っていた。ディオゲネスはさらに、哲学とは―――その単語も概念も―――ギリシア人の発明だと説いている。ルネサンス期の思想家たちはこれに賛同したし、中世の先人たちもやはり同様だった。信仰ゆえに哲学は女王<神学>の侍女だと確信していた中世の哲学者でさえ、教父の間に哲学の妥当性とギリシア人を優先すべきだと言う主張とに対する疑念はあったものの、哲学がギリシアに由来することを承認していた。例えば、13世紀に聖人アクイナスは異教徒のギリシア人にしかるべき功績を認めたし、より世俗的なヤーコポ・ザバレッラもその三世紀後に同じ事を行った。勿論,キリスト降誕、キリスト教会の創設、膨大なキリスト教文献の蓄積がヨーロッパの宗教と文化に深遠な影響を与えたことは言うまでも無い。しかし哲学―――つまり、その中では理性と現世的関心を信仰と来世への希望から区別することの出来る、特殊な種類の真理の探求として捉えた哲学―――の最初の記録を求めるときに人々が目を向けたのは、キリスト教出現以前のギリシアから伝来した文献だった。あらゆる時代のキリスト教徒の哲学者がギリシア人を自らの出発点として選んだ。なぜなら、神の啓示に固定されていない知識の領域を形成する理性と分析との道具を作り出したのは、他ならぬギリシア人だったからである。 ローマの没落後、西ヨーロッパの知的構造は崩壊した。10世紀までには、古代の技芸・学問の色鮮やかなつづれ折は擦り切れてぼろぼろになってしまっていた。数学、天文学、医学と言った学問研究全体が、ギリシア人と彼らを模倣したローマ人とが到達したレヴェルから急激に下降した。西ヨーロッパのラテン帝国が衰微する一方で、より耐久力のあるギリシア文化はビュザンティオンで生き延び,最終的に,地中海沿岸の大部分に広がるイスラムの新しい世界へと伝播して行った。その後、11世紀から、忘れられた古代の学問が西方のキリスト教世界に再び移入され始めた。それからは、この知的な目覚めだけでなく他のさまざまな理由によってヨーロッパ文明の運勢が大きく上昇したために、ペトラ(3)ルカの用語「暗黒時代」を中世に当てはめる当の歴史家たちが、「12世紀ルネサンス」と言うことを言うのである。12世紀の学者たちは、ユダヤ教=キリスト教西ヨーロッパにギリシア=ローマの遺産を再統合して、現在も尚ヨーロッパ文明の大きな輪郭を形作っている再統一を成し遂げた―――これこそ、ルネサンス期の哲学者たちがその重要な貢献を果たした文明である。14世紀に始まる彼らの<ルネサンス>とは、12世紀に端を発する過程の、即ち継続した再生の後期段階に過ぎない。中世哲学をルネサンス哲学から切り離すことは慣例であり有益でもあるとはいえ、歴史は両者を同じ生地から仕立てたのである。この生地には継ぎ目が見えないわけではないが、ダンテの誕生からデカルトの死去に至るおおよそ4世紀を一つの統一体とする程度にはつながっている。…… 中世とルネサンス期とを隔てる慣例上の境界線は、知的歴史にとってはとりわけ人工的なものであり、「哲学」や「哲学者」と呼ばれる思想や思想家の歴史についてもやはりしかりである。ルネサンス期の哲学の中でも、最も賞賛され、最も議論の対象となる、最も典型的な大きな部分が、実際には、16世紀に隆盛を極め、その後も勢力を弱めながら影響を与えた「中世」哲学に他ならなかった。例えば、中世哲学の頂点の一つは間違いなく14世紀の論理学者が果たした全身だが、この技術的成功は、イタリアでも他の国でも、まさに人文主義者が旺盛に活躍した15世紀の間も継続した。トマス・ブラドワディーンやヘイツベリーのウィリアムの著作、またヴェネツィアのパウルスの論理学的論考は全て、16世紀に入っても印刷され、読まれ、論議の対象となったのである。さらに広い分野を例に取るならば、中世の哲学者たちがアリストテレス<注解者>と読んだアヴェロエス(イブン・ルシュド)の著作は、16世紀末に至るまで、哲学の多くの様々な領域で中心的位置づけを占め続けた。この12世紀のムーア人学者の仲介を付した数十巻に及ぶアリストテレス刊本は、16世紀イタリアで幾度となく印刷され、ヨーロッパ全域で後半に読まれ、研究された。中世スペインのイスラームとキリスト教の結節点で思想を形成したカタルーニャ人ライムンドゥス・ルルス(ラモ(4)ン・リュイ)は、ルネサンス期においても、その権威を失うことはなかった。フィレンツェとパリにおける人文主義の最盛期に、フランスやイタリアの第一線の思想家の何人かはルルスの著作に読みふけったのである。 もしルネサンス期に特徴的なところが何もなかったとしたら、それについて論じることは出来ないだろうし、重要な差異がなければ、論議は無意味なものになってしまうだろう。しかし、人文主義者を12世紀の先駆者から隔てる相違があるとしても、ルネサンス期と中世とを結びつける連続性や推移をあいまいにしてはならない。この点に注意し、ペトラルカや彼に続く人文主義者たちが「再発見」した学識を保存し豊かにするのに貢献していた中世の学者たちの必要不可欠な活動を認識した上で、我々はルネサンス哲学の特質を、それまで未知だったか部分的にしか知られていなかった、または殆ど読まれることのなかったギリシア・ローマ思想の一時典拠への関心が、新たに入手可能になった文献によって急速に増大し拡大したことと特定できるだろう。この大きな知的革新は、生活をますます都市化し、安全にし、世俗化して、現在の西ヨーロッパの特徴となっている新しい制度の多く―――その中には大学も含まれる―――を生み出した数多くの変革のひとつとして、11世紀にひっそりと始まった。こうした背景において、哲学もやはり交流し、我々自身の時代に至るまで途切れることのない成長期に入ったのである。中世中期にも哲学は知られていなかったわけではないが、それは、アウグスティヌスやボエティウスが知っていたものに比べれば影の薄い残滓に過ぎなかった。その後、古代ギリシアの新しい著作がラテン語訳で現れるようになると、エウクレイデス(ユークリッド)、ガレノス、そしてとりわけアリストテレスの著作が、ギリシア語からの直接訳、あるいはアラビア語・ヘブライ語からの間接訳で、手の届くものとなった。翻訳者たちはこの肝要な作業を、主として二つの土地で行った。古代ギリシアにおけるその源泉を反映して土着のラテン文化よりも燦然と輝く知的壮麗さを移入していたスペインである。この文化伝達のきわめて重要な主導的行為が、中世・ルネサンス哲学の基礎を定めたのである。 (5)哲学に関して第一の権威となったのはアリストテレスだった―――アリストテレスは、<哲学者>ille philosophusと呼ばれたのである。いくつかの哲学流派が古代に首位を争ったが、古代の学問がギリシア以東のキリスト教世界へ移り、さらにマホメットの後継者たちが打ち立てた新しい帝国へ、最後に12,13世紀の西ヨーロッパへと移植されたとき、その体系の幅広さと内的整合性がアリストテレスを王座につけた。紀元4,5世紀に、シリアのエデッサのネストリオス派キリスト教徒がアリストテレスや他のギリシア語著作家たちを自らの母語であるシリア語に翻訳していた。単性論派のシリア人は、後にペルシアへ移住する差異にこれらの文献を携えていき、それらの文献が、7世紀以降にギリシア語文献のより網羅的なアラビア語訳を行うための基礎となった。9世紀のイスラム化したバグダッドでは、アリストテレス、プラトン、逍遥学派の注解者たち、新プラトン主義者たちのアラビア語訳がかなり高いレヴェルに達した。イスラムの学者は、哲学と同じくらいに、あるいはそれ以上にギリシアの科学を必要としていたのであり、11世紀のモンテ・カッシーノでは、コンスタンティヌス・アフリカヌスがアラビア医学文献の先駆的なラテン語訳を果たしている。実の所,初期のヨーロッパ人アラビア学者にとっては,イスラム医学・天文学の世俗的利用の方が思弁的哲学よりも魅力的だったのである。バースのアデラルドゥス、ペトルス・ヴェネラビリスのようなキリスト教徒の学者は12世紀前半にイスラムの著述家に着目し、1150年以降、当初は科学的関心を契機として、アラビア語文献のラテン語訳が加速度的に進められた。南イタリアでは、10世紀中ごろまでにされるのに名高い実践的医学の中心地が出現していたが、12世紀中葉までにサレルノの医学者たちはアリストテレスの論理学と自然哲学を利用しており、その後のヨーロッパ哲学、とりわけイタリアの哲学にとって決定的に重要となる、医学とアリストテレス主義的自然主義との結合を行った。1200年の少し前まで、サレルノ学派は、解剖学、薬学、さらに医学「問題集」という新しいジャンルでの名声を高めていったが、その主要な業績は、有名な『アルティケラ』Articellaつまりヒッポクラテス、ガレノスや他のギリシア医学文献とイスラムの学者の注解とを組み合わせたラテン語撰文集だった。これは、医学教授が覚書や講義のため(6)に用いる指定教科書の摘要をなしていた。『アルティケラ』の重要な一部分には、アラビア語原典に由来し、アリストテレスの自然学と論理学に言及したラテン語注解を付された、ヨハンニティウスの『ガレノス医術入門』があった。 アリストテレスの「自然哲学の諸書」libri naturalesがされるのと北フランスで追随者を獲得したころには、アリストテレスとその注解者たちをラテン語訳する作業が軌道に乗っていた。12世紀のはじめに読むことが出来たのは、「古論理学」と呼ばれる、ボエティウスによる2編のアリストテレスの訳書だけだったが、1120年以降、他の三篇のボエティウスによる翻訳がヴェネツィアのヤコブスとクレモナのゲラルドゥスによる<オルガノン>の新しい部分訳に加わり、「新論理学」の摘要を形成した。ヤコブスは1136年にコンスタンティのポリスへ旅行して来たイタリアのギリシア人で、12世紀にギリシア語からのラテン語訳を行った三人の主要な翻訳者および5人の群小翻訳者のうちの一人である。二人目は、1158年にやはりギリシア語圏の東方へ旅した、カターニアのヘンリクス・アリスティップスであり、三人目が,これもシチリア人と思われる、ヨハネスと呼ばれる正体不明の学者である。続く13世紀にギリシア語から翻訳を行ったのは、オクスフォードのロバート・グロステスト、シチリアのニコラウス、メッシーナのバルトロマエウス、アルヴェルニアのドゥランドゥス、そしてとりわけ重要なのが、ムールベケのグイレルムスである。不思議なことに、ギリシア語からの翻訳がなされた後で同じテクストがアラビア語から訳されることもあったが、アラビア語からの訳書の多くはすぐに使われなくなった。12世紀には、セヴィリャのヨハネスとサレシェルのアルフレツドゥスがアラビア語から翻訳したが、彼らはトレドを本拠地に仕事をしたクレモーナのゲラルドゥスほど多産ではなかった。次世紀のミカエル・スコトゥスは、トレド、ボローニャ、シチリアを渡り歩き、1230年ころにはアヴェロエスの膨大な著作の多くを翻訳し終えていた。コルドバのアヴェロエスは1198年に死んだので、ドミニクス・グンディッサリヌスよりも長生きしたことになる。後者は、アヴェンダウト(イブン・ダーウード、またはヨハネス・ヒスパヌス)のスペイン語手稿を用いて、11世紀はじめのペルシア人アヴィセンナ(イブン・シーナー)による百科全書『治癒の書』の一部分を翻訳し、(7)ラテン語の『スフィキエンティアエ』を作った。これは、12世紀後半までに西ヨーロッパの学者に入手可能になっていた形而上学、自然学、論理学などに関するアリストテレス主義の知見の新プラトン主義的「大全」summaである。医学だけでなく哲学においても影響を与えたアヴィセンナの『医学典範』も、すぐ後にクレモーナのゲラルドゥスによりラテン語訳された。アルガゼル、アルファラビウス、アルキンディ、アヴィケブロン(イブン・ガビロール)、マイモニデス、さらに他のイスラム教徒・ユダヤ教徒哲学著作家も、同じようにラテン語に翻訳された。 アリストテレスやその注解者、またその他のギリシア語・アラビア語・ヘブライ語の典拠がこうして新たに翻訳されると、哲学用ラテン語の貧弱な語彙は恐ろしく無理を強いられることになった。ある推定によれば、中世の翻訳者はラテン語の動詞「esse(ある)」をもって30以上の異なったアラビア語の単語に対応したし、ギリシア語もまた別の難題を提供した。翻訳者は、早くからしばしば巧妙にキケロやウェルギリウスが知らなかった新しいラテン語の哲学的方言を考案して、これに応じた。ラテン語を純化しようと努めたルネサンスの人文主義者にとっては、こうした新語は絶え間ない苛立ちの種となった。……。(8)ヴェネツィアのヤコブスは、1126-50年ごろギリシア語からの最初の『形而上学』のラテン語訳を果たし、そのすぐ後に、さらに二つのギリシア語からと一つのアラビア語からの改訂訳が続いた。1272年以前に、ムールベケのグイレルムスは、ギリシア語に基づく中世最後の『形而上学』の翻訳を完成して、アクイナスがこれを利用するのに間に合わせた。12世紀末と13世紀はじめに、『二コマコス倫理学』は二回部分訳され、その後1246-47年にグロステストの全訳が出た。グロステスト、ムールベケのグイレルムス、クレモーナのゲラルドゥス、ヴェネツィアのヤコブスは、さらに、アリストテレスのほぼ全著作がラテン語訳されたこの1世紀半の間に、シンプリコス、アンモニオス、エミスティオス、アレクサンドロス、ピロポノス、エウストラティオスらによる注解の一部を西ヨーロッパの読者が読めるようにした。13世紀の終わりまでには、現在真作とされているアリストテレスの著作で欠けているのは『エウデモス倫理学』の中の数巻だけになっていた。もっとも、ムールベケのグイレルムス訳の『詩学』は殆ど読まれなかったようである。1258年から1266年の間に、『エウデモス倫理学』の第7巻は、『大倫理学』の一断片とともに、『良き運勢について』と題する編纂書に組み込まれた。この『よき運勢について』が出現した事で、ヨーロッパは現在損じするものとほぼ同じだけのアリストテレス文書を手にすることになったが、しかし、逍遥学派の運勢は全てよしというわけには行かなかった。 膨大な一時・二次文献を手に入れてみると、スコラ哲学者はすぐさま、外で待ち受けている反論は言うまでもなく、アリストテレス主義の伝統の内部にも対立と矛盾があることに気づいたのである。アルベルトゥス・マグヌスの『15の問題について』、アクイナスの『知性の単一性についてのアヴェロエス主義者論駁』、アエギディウス・ロマヌスの『哲学者達の誤謬について』といった論考の題名は、膨大な学識もやはり危険なものとなりうることを示している。パリ大学は(9)1255年にアリストテレス支持を宣言したが、1270年、さらに1277年にパリ司教が、不敬にも神の力に制限を設けようとしているように見えたアヴェロエス主義的アリストテレス主義者の唱える自然主義学説を断罪した。それ以前にも、アリストテレスに関する不安は表面化していた。1210年にパリの聖職者の委員会が、ギリシアで学んだ後自然哲学の病毒を広めようとする書物を執筆した翻訳者ディナンのダヴィドの『クアテルヌリ(小四部作)』を断罪した。……パリに派遣された教皇特使は、自然哲学に対する禁令にアリストテレスの形而上学を付け加え[たが]、……それから10-20年後には、この教会からのパニックの最初の噴出も、新しいアリストテレスが添加した好奇心の炎を消すには余りに弱かったことが明らかになった。その影響は1270年代の断罪を生き延び、それから3世紀以上もの間、活力を保ち続けたのである。アリストテレスの著作の多くは古代に散逸したが、残存した著作は、これらを熱烈に歓迎する準備の出来ていた西ヨーロッパに再登場したのだった。しかしながら「アリストテレス文書」とその付属品の読書の大部分は、そのかなり重要になる二編の作品をまだ知らなかった。1500年ごろ復活するまで少数の写本とパラフレーズでのみ伝存していた『詩学』は、文学批評への影響においてホラティウスの『詩論』をもしのぐことになる。リュケ(10)イオンから伝えられた唯一の応用科学の書物、偽アリストテレスの『力学』は、15・16世紀の間大いに注目を集め、ガリレオさえもこれに関心を寄せた。15世紀に始まる人文主義者の新たな発見が、プラトン主義やその他のギリシア哲学学派によってアリストテレスの体系を補完したり、それに朝鮮を突きつけたりしていたとはいえ、ガリレオが1610年に始めて木星の衛星を目にしたとき、依然としてアリストテレスが西ヨーロッパの哲学・科学論議の出発点だったのである。 恐らく「体系」こそが、アリストテレスの遺産の範囲と構造とを吟味する上でのキーワードだろう。この体系に参入するために、中世あるいはルネサンス期の学生は、まずアリストテレスの論理学の著作(<オルガノン>、つまり「道具」)から読み始め、明晰な施行のための規則と技術、妥当かつ説得的な議論を組み立てるための助言、そして、我々が「科学的」と呼ぶ結論へ論証的ないしは演繹的に到達するための方法を手に入れようとした。次に来るのがラテン語で「libri naturales」(自然哲学の諸書)と呼ばれる、『自然学』、『天体論』、『生成消滅論』、『気象論』、『霊魂論』といった題名を持つ著作だった。これほど頻繁にではないが、地中海東部の動物についてアリストテレスが詳細に観察したデータを満載した、動物学に関する大部な文献に学生が出会うこともあった。しかし、大方のものよりも哲学を真剣に受け取る学生であれば、『形而上学』に時間を費やしたかもしれない。これは、それ独自のカテゴリーを作り出し、署名が支持する主題に関する中世・ルネサンス期の思弁の源泉となった文献だった。アリストテレスは、政治学、倫理学、「家政学」(オイコノミカ)についての一連の著作で道徳哲学を論じたし、「文書」には、さらに他の主題に関わるいくつかの論考が含まれている。これらの書物は、中世・ルネサンス期の哲学者が読んだものの中で最も影響力のあるテクストだった。印刷術発明以前の写本での伝損の割合、そして1470年以降の印刷本の急増が、その絶大な人気と広範な伝播とを証拠立てている。ヨーロッパ全域で、また17世紀に至るまで、「アリストテレス文書」は、学問全般のとりわけ哲学の基盤をなしていた。アリストテレスの影響は大学のカリキュラムに偏在したし、そのうち哲学に隣接した領域では冠絶していた。(11)哲学においては、アリストテレスは長く指導の焦点であり続けた。
(チャールズ・B・シュミット/ブライアン・P・コーペンヘイヴァー著 榎本武文訳『ルネサンス哲学』、平凡社・2003年)