2009年4月2日木曜日

古典レトリックの復興

古典レトリックの復興 弁論の種類と分類(55) [マックマナモンは]、ルネサンスは追悼のような機会を捉えた演示の類、即ち誇示的様式が隆盛となる事を明らかにした。この種の演説は俗なる場に限らなかった。聖なる空間でも行なわれ、例えば中世以来の説教形式に古代風が加味される事になる。…… アリストテレスのレトリケー、『弁論術』によると、弁論は法廷、審議、演示の三種類から成り立っていた。ギリシャの伝統を受け継ぐローマの弁論術、特にキ(56)ケロの『弁論家について』では、弁論家の任務は教え、喜ばせ、動かす(感動させる)ことにあり、弁論は5要素(発想、配列、惜辞、記憶、口演)に分けられた。演説の種類はアリストテレスに同じで、三種類(係争、審議、顕彰)であった。演説自体の区分は、助言、陳述、争点分割、立証、反駁、締めくくりの六通り順からなる。このような区分は、中世からルネサンスに掛けて絶大な影響を与えた『ヘレンニウスあてレトリック』に基づくものであった。同修辞学書の六区分に対し、争点分割を省き、立証と反駁の代わりに論証を置く古代論文もあった。 中世では古代と異なり、アリストテレスの『弁論術』がスコラ哲学者により道徳哲学の書として研究され、レトリックに供されなかった。またこの時代では、キケロ若年の著作『発想論』と、ヘレニズム期のテムノスのヘルマゴラスによる争点の状態理論を弁論術の範とした、先の『ヘレンニウスあてレトリック』が知られていた。……ソールズベリのジョンの『メタロギコン』に、弁論術に最も卑近な古代の教育課程の学科、レトリックの議論が無く、文法と論理学(弁証論)が詳しく扱われている事実は示唆的である。重視されたのは論理学であって、レトリックではなかった。先述のように、ジョンにも雄弁の理念はあったものの、レトリック、弁論とは結びついていなかった。 これに対し、イタリアでは中世後半の社会状況がコムーネの発展に伴って劇的に変化し、ルネサンスには……相次いで古典の発見があった。こうして理念と現実の乖離が埋まる時代が始まった。……(57)中世ビザンティンでは、デモステネスからリバニオスに至るレトリックの古典が、当地の学者達により読み次がれただけでなく、ラテン世界で知られていたレトリック手引書とは内容的に異なったものも研究され、また引用された。その中で2世紀のタルソスのヘルモゲネスに帰せられた作品群は、影響の広がりから考えて、ギリシャ中世文化の中で最右翼に属する著作集である。特に、古代ヘレニズム期のヘルマゴラスによる争点の態様理論は、このヘルモゲネスを介して大々的に発展していた。ルネサンスに入り、その理論が紹介されるに及んで、当方ビザンティン世界のレトリックが、ようやく本格的、直接的に西方ラテン世界に姿を見せ始めた。この点で、亡命ギリシャ人のゲオルギオス・トラペツンティオスの活動は注目に値し、彼の『レトリック五書』は、そのヘルモゲネス的伝統とラテンのキケロ的伝統の融合作である。 加えてルネサンスには、このゲオルギオスやエルモラオ・バルバロによるアリストテレス『弁論術』の新訳が登場した。同じアリストテレスに帰せられた『アレクサンドロスに贈る弁論術』は、改めてフィレルフォによって訳された。アリストテレスの『詩学』はジョルジョ・ヴァッラの初訳が15世紀末に現れ、これ以後大きな影響を及ぼす事になる。記述したとおり、『弁論術』は中世にも知られていたものの、レトリックの書物としては見られていなかった。興味深い事に、ベネチアの著名な印刷業者アルド・マヌツィオは、ギリシャ語による初のアリストテレス著作集を発刊したとき(1495―98)『弁論術』と新たな『詩学』をこれに含ませず、のちのギリシャ・レトリック作家の膨大な著作集(1508-09)の方に収録させた。こうしてようやく、(58)アリストテレスのレトリック関係書が適宜な場所を得た。 ……ケネディによれば、レトリックはその特徴から第一レトリックと第二レトリックに分けられ、前者には演説、弁論の類が、後者にはレトリック技法の文章(散文、詩文)作法への応用が包含される。そして第二レトリックの方は文法的要素が濃厚である。…… 文法と詩法(59) 従ってレトリックは古代とルネサンス間で大きな変貌を遂げていた事になる。マックマナモンの表現を借りれば、レトリックは中世の西方ラテン世界では書簡技法のような実践マニュアルと、詩法のような文学形式の応用となり、古典古代に持っていた「語り、説得する力」を喪失した。…… 古来、レトリックは文法と姉妹の間柄にあり、教育課程の連続した段階を表していた。帝政期ローマでは文法学校はレトリック学校の前段階を無し、重なり合うところもあるものの、前者は詩、後者は散文の教材を扱った。クインティリアヌスは文法の二重機能を正確に話す術、及び詩人の解釈と表現し、散文を弁論術教師に、詩を文法教師にゆだねた。ホラティウスの『詩学』やドナトゥスの文法書は、文法的伝統によるレトリックの代表作であった。 帝政ローマの古代から封建制の中世への時代的推移は、教師や学者のありようの著しい変化をもたらし、活動的人生に関わる弁論術教師から、教育や注釈を事とする文法学者中心の世界へと移行した。カロリング・ルネサンスは、まさに文法学者による教育的勝利となった。こうして第二レトリックの優位が決定的となる。 12世紀には、クインティリアヌスによる先の古典的分類は完全に崩れ去り、文法学者が詩のみならず散文をも教(60)える体制が一般化した。古典作家とは主としてローマの詩人の、それに弁論家・歴史家達の謂いとなった。また「12世紀ルネサンス」に明らかなように、フランスは古典研究の面で中世文化の拠点としての地位を維持した。イタリアはこの面で遅れをとった。 だが、やがて古典テキストの注釈に伺える文法的伝統がフランスからイタリアへ入り、ルネサンス・ヒューマニズムの淵源の一つとなる。この流入の時期に関しては、研究者により幅が合って、12世紀末と言うものもあれば、13世紀半ば以降とするものもある。イタリアに導入されるや、古典の模倣としての思索を活発化させ、古代への関心が高揚した。他方、フランスでは学科と古典作家の対立が起こり、学科の中の論理学が文法に変わって登場して文学研究を圧倒し、ローマの作家は小さくなって目立たなくなった。トッファニンはこの為13世紀を「ローマ不在の世紀」と読んだ。…… 散文創作に比べて、詩法は文法上の規則に従えば古典ラテンの模倣がはるかに容易であったのか、1286年ごろ、パドヴァの公証人デイ・ロヴァーティは古典の模倣詩を発表した。古典風散文の始まりは遅く、14世紀に入ってからに過ぎない。B・ウルマンの研究によれば、こうした新たな詩の創造を通して先年の休眠からさめた感覚が生まれた。これが「イタリア・ルネサンス」の開始である。14世紀の人達は、絵画よりも詩において惰眠からの覚醒に大きな意義を見出した。目覚めは古代ローマの生への回帰であり、ラテン古典の読書の始まりは創作活動に結びついた。ムッサート、ペトラルカ、ボッカチオは、この為何よりも詩人たらんとした。そして詩は我々が考えるよりはるかに多くの知恵を含み、人知・神知、人文・科学を問わず、諸々に渡る学をtotium trivium, quadrivium, philosophiam omnem humana divinaeque et omnes prorsus scientias前提とするというのが、サ(61)ルターティの主張であった。(61)(根占献一著『フィレンツェ共和国のヒューマニスト』、創文社・2005年)