太陽崇拝思想と太陽中心説 伊藤和行 (211)近年のルネサンス哲学史および科学史の研究の新しい動きは、占星術、魔術、錬金術といった、従来限られた好事家しか関心を持たなかった問題が研究対象として認められ、多くの研究者の関心を集めるようになったことである。この動向の契機となったのはイェイツの『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス伝統』である。この中でイェイツはルネサンスのプラトン主義の核心をヘルメス主義に求め、さらにブルーノを経るメス主義の影響を強く受けた「ヘルメス敵魔術者」として描いて、近代的無限宇宙論の最初の提唱者という従来のブルーの像を根底から覆した。それまでブルーノの思想の中心は無限宇宙論を中心とした自然哲学と考えられており、記憶術や魔術はほとんど考察の対象にされていなかったのである。 さらにイェイツはその最終章においてヘルメス主義と科学革命の関係を論じ、「魔術によって操作される物活論的宇宙」の成立を「機械学によって操作される数学的宇宙」観を導いたものとして、科学革命の第一段階として捉えるべきだと主張している。 :「さらに17世紀の革命によって確立された機械的世界観が今度は最近の科学的知識の驚くべき発展によって凌駕されている。科学革命を二つの局面において、魔術によって操作される物活論的宇宙からなる第一の局面と、機械学「力学」によって操作される数学的宇宙からなる第2の局面において捉えることは示唆に富んでいるかもしれない。この二つの局面、両者の相互関係の探求は、17世紀の勝利だけに焦点を当てる方針よりも現代の科学によって(212)引き起こされた問題に対する歴史的アプローチとしては実り豊かな方針だろう」」: 近代科学の誕生の背景には、ヘルメス主義という「自然界とその働きに対する大きな新しい関心」、「世界に対峙する意思の新しい運動」があったというイェイツの主張は、17世紀を理性の時代と捉え、科学革命を、魔術などの非理性的な活動に対する理性の偉大な勝利の証としてみる従来の科学革命論とは真っ向から対立するものである。従来占星術や魔術はオカルト・サイエンス、偽科学として西欧近代科学という優れて理性的な活動とは対立するもの、科学革命によって一掃されたものと考えられ、科学史研究の正当な対象とはみなされてこなかった。それに対してイェイツは、占星術や魔術は、西欧近代科学の母胎として科学革命を考察する際には決して軽視できない問題であって、その歴史的探求なしでは科学革命の本質は捉えられないと論じたのだった。彼女によれば、ヘルメス主義こそがプラトン的数学主義と魔術的操作主義を結合し、自然に対する新しい態度を誕生させる原動力になったのである。 ……「ルネサンス科学におけるヘルメス伝統」……そこでの彼女の議論の要点は以下の三つにまとめられよう。:「1.太陽崇拝思想が、宇宙論の革命の中核である太陽中心説への転回を導いた。2.数秘思想における数の重視は数学的科学を導いた。3.魔術における自然への操作は実験科学を導いた。」: そしてヘルメス主義はこれら太陽崇拝思想、数秘思想、魔術における思想的基盤を構成していた。……(214)
2.コペルニクスとフィチーノ 科学革命の確信は、アリストテレス的宇宙構造の転覆と、数学的法則による自然現象の把握、そして機械論的な自然観の成立に合った。天動説に基づく伝統的な地球中心的世界構造の転覆を導いたのは、コペルニクス(1473-1543)の地動説の提唱に始まる天文学の革命である。彼は『天球の回転について』De revolutionibus orbium caelestium, 1543)において、古代・中世を通じてはじめて地動説に基づく惑星の運動理論を提示し、従来の階層的世界体系とはまったく異なる宇宙像の可能性を示唆した。その際に彼が、太陽に対して宇宙の中心という特別な場所を与える根拠として、惑星の不規則な運動の合理的な説明とともに、太陽崇拝思想に訴え、ヘルメスの名を挙げていることは周知のとおりである。 :「一方すべてのものの真ん中には太陽がとどまっている。というのはこの美しい殿堂において、この燈火をそこからすべてを同時に照らすことのできる所以外の、よりよい場所にいったい誰が置けようか。実際ある人々が世界の燈火と呼び、またある人々が精神と、さらに他の人々が支配者と呼んでいるのも不適切ではないのだから。トリスメギストスは見えうる神と、ソポクレスの『エレクトラ』は万物を見るものと呼んだ。確かに太陽は玉座に座(214)して、周りを囲む一群の星辰を支配しているかのようである」: この一説からイェイツは、太陽中心説の背景には新プラトン主義的な太陽崇拝説があったと結論している。またガレンも「コペルニクスの『天球の回転について』の自筆原稿を、筆者自身によって削除された部分も含めて読むならば、人は誰でもそこに1400年代を通じて展開された太陽文学の系列の総決算を見取らずにはいられないだろう」と述べている。 ルネサンスにおける太陽崇拝思想の第一の主張者といえば、それはプラトン主義そして『ヘルメス文書』の紹介者であるフィチーノに他ならない。彼こそ「地球中心説の可能性をすべて消去した後、太陽中心説の心理的雰囲気を創造し、太陽が中心であらねばならない「必然性」を強調する」のである。実際フィチーノは『太陽と光について』De sole et lumine, 1489)において、神の像としての太陽を賞賛し、その光を物体および精神の生命としてみなした。 :「光以上に善の本性を示しているものはない。第一に、光は可感的な類の中でももっとも純粋で卓越しているように事実思われる。第二に何者よりも円滑にかつ広範に、そして瞬間的に広がる。第3に損なうことなく万物に及び、まったく静かにそしてやさしく浸透する。第4にそれに伴う熱は万物をはぐくみ、熱し生み動かす。第5にあらゆるものに存在し内在するが、何者にも染まらず、何者とも混ざらない。同様に善自体も事物の全秩序をしのぎ、いたるところへ広がっていき、万物を慰め誘惑する。……おそらく点の霊魂の視覚自体であるか、外へ向けられたその視覚の活動であって、遠方から作用するが、天を後に残すことなく常に結びつき外のものと交わることなく、同時に視覚と触覚によって働きかける。……天を、天の国の市民を見たまえ。この事全てを明らかにするために、神によってまさに秩序付けられて明らかなものとして作られた天を。……太陽はもっともあなたに神自身を指し示すことができる。太陽はあなたに印を与えるだろう。誰が太陽が偽りだとあえて言うだろう。……そして太陽を通じて神の永劫の力と神性が示される」: (215)この一節で述べられている、その光を通じて万物に生命を与えはぐくむ太陽の姿は、コペルニクスが述べたものに他ならない。しかしフィチーノが太陽を宇宙の中心に据えているかといえば、実はそうではないのである。『太陽と光について』の第10章「太陽は最初に造られ天の中央にある」に於ては、太陽の宇宙における位置について次のように書かれている。 :「多くの天文学者は、太陽は、世界のはじめに……星辰の王として、城もしくは都のごとく、彼の領地である白羊宮において天の中央を占めたと伝えている」: ここでは「天の中央」は白羊宮を指しており、宇宙の中心を意味していると解釈することは困難である。白羊宮の端は春分点であって、そこで黄道は天の赤道と交差していることを考慮すると、「天の中央」を天の両極間の中央にある天の赤道と捉えるならば、白羊宮を指していることが納得できよう。フィチーノが『太陽と光について』の中で、太陽が宇宙の中心にあると述べていると解釈される可能性のある箇所はこの一節だけであり、反対に彼はしばしば太陽の運動に言及している。たとえば第3章では :「諸惑星の卓越した支配者である太陽の運動は、アリストテレスが述べているように、もっとも単純であり、他の惑星のように獣帯の中央から離れることも逆行することもない。」: さらに第13章では、 :「神自身は万物の原理かつ統治者であって運動し得ない。だが反対に太陽は絶えず運動しうる。……太陽自身は天球によって前後に引かれ、固有の天球の駆動力に反して常により上の天球によって回転させられている」: この第13章の一説では、明らかに太陽は、通常の天動説の理論における様に7つの惑星天球の中のひとつの天球に位置している。このようにフィチーノは太陽(216)中心説を支持してはいないのである。フィチーノの自然哲学において太陽が神の似像という重要な役割を与えられていることは明白であるが、太陽が宇宙の価値的中心であることは、必ずしも物理的な配置に於ても宇宙の中心であることを意味していなかった。……
新しい自然哲学者たち 16世紀には、フィチーノの卓越したプラトン主義および新プラトン主義やヘルメス主義などの影響の下で、アリストテレス自然学に対抗する新しい自然哲学を構築しようとする自然哲学者たちが現れている。特にテレジオ、パトリッツィ、ブルーノらは、自らの宇宙論においてフィチーノと同様に太陽に対して特別な役割を認めていた。 テレジオ(Bernardino Telesio, 1508-1588)は、『固有の原理による事物の本性について』De rerum natura juxta propria principia, 1565)において、自然界の事物に対して先験的な原理や本質を仮定する形而上学を批判し、自然をその固有のレベルで理解することを主張した。彼の感覚的経験論では、能動原理として熱と冷が、受動原理として質量が措定され、熱と冷の対立と協力から全ての運動、そして自然現象が説明されている。太陽と地球はこれら二つの原理の座とされ、太陽は火と熱の性質のために地球の周りを運動し、地球は水と冷の性質のために静止している。 :「従って太陽と全天は(実際全天自体も熱からなるものであることを以下の議論が明らかにするだろう)絶えず回転するが、その理由は、その製作者である熱が回転運動によって絶えず動かされ、それに奥深くまで刻み付けられていて、それから離れることを望まず、また離れることもできない塊をそれ自身とともに導くからである。これと同様にして地球も制止したまま不動であり、いかなる方向にも向かうことはない。なぜなら、冷は地球を構成し、その塊の奥深くまで刻み付けられており、さらに冷によって地球は全くひとつのものになり、それに抵抗も反対もしようと望まない(しできない)ので、冷は地球がいかなる運動によっても動かされることを許されるのである」。: (217)太陽こそ唯一の光と熱の源泉として、あらゆる生命の源でもあり、彼の宇宙論の核心でもあった。このように太陽はあらゆる活力の源であるがゆえに運動がふさわしいのであって、テレジオにおいては太陽崇拝思想が太陽の運動の根拠となっていた。 テレジオと並ぶルネサンスの代表的な自然哲学者であるパトリツィとブルーノは、彼の特異な宇宙論から大きな影響を受けていた。パトリツィ(Francesco Patrizi da Cherso, 1529-1597)はキリスト教神学の革新を目指し、中世以来その中心だったアリストテレス哲学と、プラトン哲学を基盤とした古代神学によって取って代えようとした。彼は大著『新宇宙哲学』Nova de universes philosophia, 1590)において、あらゆる自然現象を説明する形而上学的基盤として、無限かつ一様な空間を措定し、独特の空間論を展開している。この無限空間を光の放射が満たしており、それから生命過程を含む物質世界の全ての現象、天上世界の星辰の運動や天球の配置が説明される。最初に光から導かれるのは、熱と湿というテレジオ的な二つの原理である。熱という能動的形相原理と、湿という受動的な質量原理の相互作用によって、物体の形体、質量といった諸性質、さらには運動、生成、変化、消滅が導かれる。彼は第5元素と天球の存在を否定し、火の性質を持つ天体はそれ自身の霊魂によって運動すると主張する。そしてコペルニクス理論は、天球の存在を前提としていることから否定されている。 :「地球は、フィロラオスやオイケテスが考えたように、「中心」火とか対地星Antichtonの周りを運動することはできないし、またコペルニクスが信じたように月の軌道上にあることもない。というのは、諸惑星が、ちょうど他の天体のように天球に固定されて運ばれていると、彼が考えた事は愚かな事だったから。この考えこそ天文学や自然学にあらゆる悪しきことを持ち込んだのだった。」: パトリツィは恒星全てが回転するよりも地球がその軸の周りを回転するほうが合理的であると考えて地球の自転運動を認める一方で、公転運動は否定した。彼の宇宙論の基盤となっていたのは光の形而上学だったが、しかしそれは、物質(218)的な光の源泉である太陽に宇宙における特権的な地位を与えてはいないのである。テレジオもパトリツィも、太陽や光に重要な役割を与えるがゆえに、太陽中心説を取らなかったといえよう。宇宙論全体の中で太陽が果たす役割は、必ずしもその宇宙における物理的な位置と単純な対応関係にあるのではないのである。しかし両者が展開した反アリストテレス自然哲学の試みは、ブルーノにおいて太陽中心説に基づく無限宇宙論という大きな成果を生み出している。 コイレが『閉じた世界から無限宇宙へ』において指摘したように、ブルーノこそ伝統的宇宙論の完全な破壊者だったが、彼に伝統的宇宙論を離れる契機を与えたのはコペルニクスだった。……ブルーノは、太陽中心説の自然哲学的意味を解明し、新しい宇宙論を構築することによって、古代の宇宙論を復興させようとした。彼は天球の存在を否定し、無限の空虚と無数の世界(太陽系)から構成される無限宇宙という独創的な宇宙像を提示する。この世界では、地球をはじめとする惑星は自らの霊魂という内在原理によって、太陽から生命力を受け取るためにその周りをめぐっている。しかし太陽はもはや宇宙の唯一の絶対的中心ではない。無限宇宙には、この世界すなわち太陽系のようにひとつの太陽とその周りを巡る諸惑星からなる世界が無数に点在し、宇宙の絶対的な中心は存在しない。われわれの太陽は無数にある恒星のひとつとして、この世界の中心に過ぎないのである。 :「宇宙が無限であるならば、太陽も多数存在しなければならぬはずです。これはエピクロスが考えたと伝えられることですが、ただ一個の熱と光だけ(219)では、広大な空間に行き渡ることはできませんからね。ここからしても太陽は無数に存在する必要があります」: 宇宙の有限性を否定したブルーノは、さらに天上界と地上界という階層的世界構造をはきし、天上界を構成する第5の元素の存在も否定する。したがって太陽も地上の物体と同様に4元素から構成され、両者で異なるのは、太陽では火が支配的であるのに対し、地上の物体では水が支配的であることだけである。…… こうしてブルーノは、コペルニクスの認めていた宇宙の絶対的中心の存在すらも否定することによって、アリストテレスとともにコペルニクスも乗り越えていく。その際に太陽はその絶対的な地位を奪われ、本質的には我々の地球と変わりのない恒星の一つになってしまった。パトリツィから始まる宇宙の均質化の試みは、ブルーノに於てはさらに徹底され、太陽は完全にその絶対的な地位を失うことになった。
3.カンパネッラとガリレオ カンパネッラ(Tommaso Campanella,1568-1639)はユートピア文学の傑作『太陽の都』(Citta del sole)の著者として知られるが、またプラトン主義の影響の下に新しい自然哲学を築こうとした一連の哲学者の最後の人物でもある。彼の自然哲学はテレジオの感覚的二元論の影響を強く受けたもので、実体形相は否定され、テレジオの熱と冷という二つの原理によって取って代わられて、全ての変化、生成や消滅も両者によって引き起こされると考えられている。 彼が太陽崇拝思想の大きな影響を受けていたことは、彼の描いた理想都市の名称が『太陽の都』であり、その支配者が「太陽」という名の聖職者だったことからも伺える。そこでも太陽は「神の像」として人々の崇拝の対象とされている。 :(220)「彼らは太陽と星辰を生きているものとして、また神の像、天の神殿として敬意を払いますが、しかし礼拝するのではなく、そして太陽に最も敬意を払います。太陽以外のいかなる被造物も礼拝しませんが、しかし太陽という象徴の下でのみ神に仕えるのです。太陽は神の象徴、顔であり、そこから光も熱も他のあらゆるものも来るのです。」: このような記述にもかかわらず、『太陽の都』執筆時のカンパネッラは太陽中心説を取っていないと思われる。その中で宇宙構造に関して明瞭に述べた箇所は見つからず、天文学者たちを批判した一節から天動説を指示していたことが知られる。 「彼らはプトレマイオスとコペルニクスの離心円と周転円を否定しています。一つの天だけがあり、惑星は、太陽と合にあるときは受ける光が多いので自らによって運動して上昇し、矩や衝にあるときは太陽に近づくために下降すると主張します。また月は合に於ても衝においても上昇しますが、それはこれらの位置において太陽の下にあり、光を受けて、それによって押し上げられるからなのです。このために惑星は、常に東から西へ進むにもかかわらず、上昇するときには後退するように見えます」: この一節は地球中心説を前提としたものである。すなわち宇宙の中心には暗く冷たい地球が静止し、明るく熱い太陽はその周りの軌道上にあるのである。ここでの議論は、現象を救うために理不尽な機構を導入していた天文学者たちに対して純自然哲学的に反論したものだが、しかし逆行運動は太陽中心説によって合理的に説明可能である以上、これからカンパネッラはコペルニクスの理論をよく理解していなかったことも言えよう。 彼のコペルニクス理論に対する態度は、ガリレオ(Galileo Galilei, 1564-1642)の望遠鏡による観察を知った後には大きく揺れ動いている。彼は、1610年にガリレオの『星界の報告者』Sidereus nuncios,1610)が出版されるとすぐに目を通し、ガリレオに数通の手紙を送った。そこで彼はガリレオを大いに賞賛し、ガリレオの発見によって天文学のみならず、宇宙論全体の革新がもたらされるだろう(221)という期待を述べている。…… しかしカンパネッラにはその賞賛の言葉にもかかわらず、太陽中心説を基礎にして宇宙体系を構築しようという意図は見られない。なぜなら宇宙の中心の変更は彼の宇宙論を基盤から覆すものだったのである。熱の原理である太陽には運動がふさわしく、冷の原理である地球には静止がふさわしい以上、太陽と地球の位置を交換することは、両者の本性の変更を求めるものだった。ブルーノのように天球の存在を否定し、あらゆる精神は霊魂を持ち、宇宙の秩序は最終的には世界霊魂によって統括されると主張するカンパネッラにとっては、太陽に生命を生み出す熱のほかにさらに惑星を駆動する力を備えさせることが必要だった。その結果カンパネッラは、自らの宇宙論の原理とガリレオの観測結果の間で悩まざるを得なかった。 1616年にガリレオがコペルニクスの地動説を擁護したために検邪聖省に訴えられたことを知ると、カンパネッラは早速『ガリレオ擁護論』Apologia pro Galileo,1622)を著し、ガリレオの立場を弁護した。そこで彼は、地動説が聖書の記述に反するというガリレオの反対者たちの批判に対して、古代および中世の権威を挙げて、聖書と経験的知識は決して矛盾せず、自然は経験的に研究されるべきであると主張する。 :「だがガリレオは信仰の基礎を堅く守っており、そして自然の事柄について慎重に語っていて、アリストテレスが自らの頭脳によって行ったように推測するのではなく、検証された観察によっているのである。まさにこの事ゆえに彼は賞賛に値するのである。なぜなら不信仰者の教養や異教徒の虚偽に対して反論することは、神学を転覆することではなく、キリスト教を強化することだからである。……神の書である自然から取られた哲学は神学に(222)仕え、証人となるのであって、アリストテレスや他のものの想像による哲学とは異なっている」。: 自然を、聖書と並ぶ神の書物とみなし、それを根拠として聖書の叙述に対して自然研究の独立性を擁護することはガリレオも行っている。カンパネッラとガリレオは、聖書の記述を根拠とする攻撃に対しては共通の戦術を取っていたと考えられるが、しかし両者の自然研究の方法は全く異質だった。カンパネッラ自身もそのことを自覚していた。ガリレオをはじめとする天文学者の扱っている問題はあくまで現象の数学的な記述であって、その自然哲学的な説明はカンパネッラら哲学者の任務なのである。さらに自然の力は神的な原因の道具としてのみ機能するのであるから、自然学は神学によって支えられねばならない。ガリレオが天文学で行った革命を、自然哲学や形而上学、さらには神学において果たすことがカンパネッラの目標だった。1611年の書簡の冒頭でも、カンパネッラは、地球以外の星に人間の住んでいる可能性のような宇宙論的な「問題は形而上学的なものであり、私自身それについては多くのことを論じました。一方数学的な問題に関することについては貴兄に期待しましょう」とガリレオに対して述べているのである。彼は、観察や実験に結びついた数学的な考察が自然研究たりえるというガリレオの主張を認めず、伝統的な学問分類を擁護し、この点においては彼はまったくアリストテレス主義者と同一の立場をとっていたといえよう。 ガリレオは、カンパネッラからの手紙に直接返事を書くこともなかったし、また『ガリレオ擁護論』に言及することもなかった。しかしガリレオ自身も太陽崇拝思想の影響を受けていたことは明らかである。1616年のクリスティーナ大公妃への書簡には次のように書かれている。 :「太陽の高貴さに関しては、太陽が光の源泉であって、私が必然的な証明を行いますように、その光によって、地球や月のみならず、それ自身は暗い他の全ての惑星も同様に照らされるのですから、次のように述べても正しく思索する事から離れているとは思いません。太陽は自然のもっとも偉大な統括者として、またある意味において世界の魂かつ心臓として、それ自身が(223)回転することによって、取り囲む他の物体に光のみならず運動も吹き込んでいるのです。動物で心臓の運動が止まると、その身体の他の全ての運動がとまってしまうのと全く同じように、太陽の回転が止まると、全ての惑星の回転が止まるでしょう」: この一節は、それがフィチーノやブルーの、またカンパネッラのものだといっても疑われえないだろう。確かにガリレオも彼らと同じ思想潮流の中にいたのであり、彼の「太陽中心説も、少なくともその出発点においては、太陽崇拝から霊感を受けた」のかもしれない。しかしガリレオは、後に発表した『偽金鑑識官』や『天文対話』では太陽崇拝思想に全く言及していない。特に後者では自然哲学的な議論は徹底して避けられ、地球の運動の根拠として挙げられているの潮汐運動などである。それは、コペルニクス説が異端とみなされていることを踏まえ、『天文対話』が天動説にも地動説にもどちらにも決定的な形では組しないという形式で書かれたことによるのだろう。しかし同時に見逃せないことは、ガリレオが自らの研究と哲学者の研究とは全く目的も方法も異なっていると主張していることである。 :「哲学者は、主として普遍的な事柄に専念します。彼らは定義と最も一般的な性質とを見出します。そしてむしろ好奇心の対象であるようなある種の微妙なことや些細なことは数学者にゆだねます。そしてアリストテレスは運動一般がどのようなものであるかについて優れた定義を与え、位置運動についてはその主要な属性……を示すだけで満足したのです。そして加速運動については、加速を根拠付けることで満足し、そのような加速の比や他のより特殊な出来事についての探求は、機械学者やほかの身分の低い職人にゆだねたのです」: 彼が運動論において扱うのは、哲学者が問題にするような運動に関する定義や本性などではなく、数学者にゆだねられた運動する物体の従う数学的法則だった。ガリレオの運動論を出発点とする近代物理学の特質は数量的実験に結びついた数学的法則による現象の記述と予測にあったのであり、現象の背後に潜む(224)本質に関する哲学的説明は考察の対象ではなかった。 4.結論 テレジオ、パトリツィ、ブルーノ、カンパネラらが新しい自然哲学、新しい宇宙論の構築を試みた時代は、またティコ、ケプラー、ガリレオらによって天文学の側から伝統的な階層的宇宙構造の転覆が試みられた時代でもあった。両者はアリストテレス自然哲学の打破し、階層的宇宙構造を均質な宇宙空間にとって代えるという共通の目的を持っていたが、同時にその方法においては全く異なっていた。カンパネッラの地動説に対する態度こそ、望遠鏡による観測データに直面し、形而上学的原理と観測事実との矛盾に悩んだ哲学者の苦悩を示している。テレジオに始まる反アリストテレス自然哲学の試みは、太陽に能動的原理を認めたことによって、太陽の運動を前提とすることになった。さらにブルーノは宇宙の等質化という原理を推し進めた結果、宇宙の中心の存在を否定せざるを得なかった彼らが目指したのは太陽を宇宙の中心に据えることではなく、階層的な伝統的世界構造、とりわけ天上世界と地上世界という二分的構造を廃棄することだった。その意味においては世界の中心はもはやその絶対的な役割を失っていたのである。ガリレオもまた世界の均質化を目指した。一様な幾何学的空間こそ「新しい科学」が前提とする宇宙なのである。テレジオらにおいても、ガリレオに於ても、彼らの宇宙論の出発点で太陽崇拝思想が重要な役割を果たしていたことは疑い得ないが、その発展とともに太陽に絶対的な地位を認めること自体が否定されていったのである(224)。(佐藤三夫編『ルネサンスの知の饗宴 ――ヒューマニズムとプラトン主義』、東信堂・1994年)