「古代神学」という語で私がさすのは、成立年代を誤って想定されたテクストに基づくキリスト教護教神学の伝統である。初期の教父の多く、とりわけラクタンティウス、アレクサンドリアのクレメンス、エウセビオスは、異教の哲学者に対抗して著した護教論の中で、極めて古い時代に遡ると考えられていたテクストを利用した。即ち、「ヘルメス文書」「オルペウス教文書」、「シビュラの託宣」、ピュタゴラスの『黄金の歌』などがそれだが、実のところ、これらは紀元1-4世紀に書かれたものである。ヘルメス・トリスメギストス、オルペウス、ピュタゴラスのような「古代神学者」によって書かれたこれらのテクストは、一神論、三位一体、「言葉」による無からの世界創造といった真の宗教の痕跡を蔵しているとされた。プラトンがその著作中に見られる宗教的真理を取ったのもこうしたテクストからであると考えられた。ユダヤ教=キリスト教の啓示の特異さを損なわないために、この異教の「古代神学」はモーセに由来すると主張するのが通例だった。しかし時として、それはより以前の時代、ノアと二人の善良な息子セムとヤペテ、あるいはエノクのような大洪水前の太祖、更にはアダムにまで遡ると考えられる事もあった。後期新プラトン主義者もやはりこの種のテクスト、とりわけ「オルペウス教文書」から引用し、新しく『カルデア人の神託』をそこに加えた。この神託集は後に、ゲミストス・プレトンによってゾロアスターの作とされたため、ゾロ(8)アスターも「古代神学者」の仲間入りをする事になった。 教父が相手にしていたのは生身の異教徒であり、その努力は、同じ人間が新プラトン主義者とキリスト教徒の両方になれることを示して彼らを回収させようとするか、最高の哲学者達が英知を「選ばれた民」から盗んだと言う事を証明してキリスト教を哲学者の攻撃から守ろうとするかのいずれかに向けられた。それゆえ、教父の「古代神学者」への態度は、キリスト教の真理を証する者としての彼らへの称賛と、卑劣な偶像崇拝者としての彼らへのかなり苛烈な非難との両極を揺れ動いていた。 ルネサンスに「古代神学」が復活したときには、勿論もはや異教哲学者は生きていなかったし、フィチーノからカドワースにいたるプラトン主義神学者は依然としてしばしば護教論的枠組みを用いていたとはいえ、その主要な動機は、自分達の宗教的・哲学的信条が一致するようにプラトン主義・新プラトン主義をキリスト教に統合することにあった。そうしたわけで、教父に較べると、彼らは概して「古代神学者」に対して好意的な姿勢をとったが、それでも尚そこには教父たちの両義的な態度が姿を見せている。こうして、暫くの間、「神のごときプラトン」、このオルペウスとヘルメス・トリスメギストスとモーセの弟子が、いける宗教的活力の源となった。カトリックとプロテスタント双方の正統派教徒は、プラトンをキリスト教化するのではなくキリスト教をプラトン主義化してしまう危険に対して警告を発したが、これには最もな理由があった。ルネサンスにおいては、この神学=哲学的伝統は通例、殆どが既にその源泉に現れている、他の様々な信仰や観念を伴っていた。即ち、善き自然魔術と占星術、数秘学、強力な音楽、愛国的な国民史、深遠な心理は寓話や寓意に包まれていなければならないと言う信念、そして、これらと組み合わされた聖書予型論である。ルネサンスのシンクレティストは、様々な哲学流派や宗教の間に相違点では無く類似性を見出そうと心を砕いていたので、キリスト教の諸宗派に対しても、またキリスト教以前及び異国の善き(9)異教徒に対しても、寛容でリベラルな態度を取る傾向があった。 「古代神学」の伝統が含んでいる魔術的要素は、ルネサンスにおいて最大級の重要性を持っていた。……魔術と宗教、降神術と神学の境界線は曖昧なものであるし、両者は重なり合い、相互に影響するのである。……「古代神学」を受け入れるか拒絶するかは、しばしばそれに相伴う魔術的伝統の魅力或いは危険によって大いに決定付けられた。エラスムス主義者のカトリック教徒やカルヴァン派のプロテスタント教徒は、キリスト教から魔術的要素を排除しようとしていたために、「古代神学者」を拒絶しようとする強い傾向があった。「古代神学者」の多くは同時に「古代魔術師」でもあったからである。 「古代神学」がルネサンスにおいて帯びていた意味は、キリスト教と異教哲学、特にプラトン主義、新プラトン主義、ストア派の長い調和・対立・妥協の歴史を背景にする事で最も明瞭になる。……
キリスト教の教理とある種の異教哲学・宗教の間にはかなりの類似性があり、その為に両者を決定した(10)形でうまく統合する事の可能な思考の領域が存在する。そのほかにも、二つが真っ向から対立する領域があり、また対立が避けられないか言い逃れや妥協によって始めて回避できる領域がある。まず類似点から見ることにしよう。 最初に想起しなければならないのは、キリスト教が新プラトン主義とストア派を優勢な哲学とするヘレニズム世界に誕生し、成長したという事である。この事実を示す証左は既に新約聖書に見ることが出来る。「ヨハネによる福音書」の「ロゴス」は、旧約聖書および外典の知恵文学に遡り、どちらもストア派の宇宙に内在する神的「ロゴス」とプラトンの創造する「知性(ヌース)」に明確な関連を持っている。聖パウロはアテナイで、ストア派詩人アラトスから引用した。 :「我々は神の中に生き、動き、存在する」、また、あなた方のある詩人たちも言ったように、「我々もその子孫である」と。: これは異教文学をキリスト教のために利用する事を正当化するときに絶えず使われたテクストであった。 次の数世紀に、キリスト教の伝統はますますこうしたヘレニズムの、とりわけプラトン主義的要素を取り入れていった。異教哲学者に対してキリスト教を擁護していた教父は、自分達の教理を展開するのに論敵の用語と思考の枠組みを援用する傾向があったので、たとえばオリゲネスが行なったように、部分的にプラトン主義化されたキリスト教を生み出した。聖アウグスティヌスのマニ教からキリスト教への改宗は、『告白』での述懐によれば、プラトン主義者の書物を読んだ事が一つの原因だったと言う。アウグスティヌスはここに、「言葉は肉となれり」という章句を除いた「ヨハネによる福音書」の冒頭、そして悪の否定的観念を見出したと言うのである。『神の国』では、プラトン主義とキリスト教の親縁性を認めている。 (11):されば、至高にして真なる神について、これが被造物の創造者であり、知識の光、行為の養分である事、この神によって自然の始原、学識の真理、生の幸福が我々の下にあることを信じた哲学者達を、よりふさわしくプラトン主義者と呼ぶにせよ、何か別の学派の名を冠するにせよ‥‥彼ら全てを、我々は他の者たちよりも重んじ、彼らが我々により近しいものであることを認める。: しかし、異教哲学に対するアウグスティヌスの態度がいつでもこれほど好意的でなかったことは、後に見るとおりである。 「古代神学」以外にも、誤った年代を想定された他のテクストや偽書がキリスト教にきわめて重要な影響を及ぼした。プラトン主義=新プラトン主義とキリスト教神学の統合を大いに促進したのが、ディオニュシオス・アレオパギテスの作とされた、プロクロスと『パルメニデス』に基づいて紀元6世紀に成立した文書である。この文書は聖パウロがアテナイで改宗させたディオニュシオスの手になるものと考えられたために、殆ど正典に等しい地位を獲得し、ルネサンス期に入っても暫くこの地位を保ち続けた。ストア派からの影響を助けたのは、聖パウロとセネカの間で交わされたと言う捏造された往復書簡であって、このために、セネカは4世紀から15世紀に至るまで「隠れキリスト教徒」となった。しかし、エラスムスがこのばかげた捏造を徹底的に暴き立てた後、16世紀以降その影響力は取るに足らないものになった。 ルネサンスのシンクレティズムがキリスト教徒の教理とプラトン、新プラトン主義者、そしてセネカのような後期ストア派哲学者との間に見出した類似点は、次の2種類に分ける事が出来る。一つは今日でも客観的に見て真正のものと認めることの出来るものであり、いまひとつは、どう贔屓目に考えても疑わしいと言わざ(12)るを得ないものである。 第一の分類のうち最も重要なのは、一神論である。プラトンには唯一至高の神がある。この「一」にして「善」なる存在は、ユダヤ教=キリスト教の人格を備えた父なる神からはかけ離れた存在だが、偽ディオニュシオスがキリスト教の伝統に全く超越的な神を導入していた事を思い起こしておこう。更に、ソクラテスの最後の言葉が多神教信仰を含意しているという面倒な事実がある。しかし、後に見るように、これをうまく説明する方法は幾つもあった。新プラトン主義者達は、古代の神々を一神論と調和させるために、神々が「一者」からの位階を為す流出物であるという形而上学的解釈を案出した。 霊魂の不滅と、永遠の刑罰を含む応報の待つ死後の生は、『パイドン』や他の幾つかのプラトンの対話編で強力に打ち出されている。もっとも、『ソクラテスの弁明』ではこの問題に解答は与えられていない。その一方で、プラトンの霊魂論は前世と輪廻転生を含んでいる。 倫理について言えば、プラトンの禁欲主義、霊魂に比較しての完全な肉体蔑視、性行為に対する厳格な考え方は、キリスト教の主要な傾向とよく一致する。ストア派の、霊魂の外部にある全てのものへの無関心と不動心(アタラクシア)の理想、即ち霊魂によってあらゆる情念、快楽、苦痛を完全に統御する事は聖パウロの教えのある面……に類似している。 疑義のある類似点のうち、最も明白な二つは、三位一体論及び無からの世界創造と終末論である。新プラトン主義の三原理と三位一体論の間に歴史的関連があった事は、かなり蓋然性が高い。また、キリスト教出現以後に活動した新プラトン主義者達に関して言うなら、影響は相互的なものであったかもしれない。しかしながら、プラトンについてはこの関連はより疑わしく、主として、偽作の「第2書簡」が根拠となっている。…… (13)断然重要なのが多神論であった。如何に巧みに哲学者の形而上学的一神論を擁護したところで、彼らが多神教を信仰していた事、そしてキリスト要を是認する事も出来たはずの新プラトン主義者達がそうしなかった事は、事実なのである。 キリスト教は、それが異端の一つであるユダヤ教に似て排他的な宗教であり、この点で異教の多神論と鋭い対照をなしている。初期キリスト教時代のローマでは、土着と外来双方の多種多様な宗教が共存していた。伝統的なローマの神々に並んで、キュベレのような中東起源、イシスのようなエジプト起源の祭儀が行なわれていたのである。同一人物がこれら全てに参加し、その上、神格化された皇帝を崇拝する事さえあった。ところが、キリスト教徒には唯一の神があり、唯一の礼拝方法がある。他の祭儀は全て罪深い偶像崇拝とされたのである。異教徒はこのほかに、エレウシスやオルペウス教のような密儀宗教に参入する事もできた。これらは参加者の数を制限すると言う意味では排他的だったが、信徒が公的宗教を信仰する事を妨げはしなかった。密儀宗教はその信徒に幸福な来世を約束したので、キリスト教にとっては強敵となった。しかしキリスト教が独特だったのは、信者には永遠の至福を約束すると同時に、教会に属さない全ての人間を永遠の刑罰で脅かしたと言う点なのである。 こうしたわけで、異教の神々と妥協点を見出す事は、初期キリスト教徒には不可能であった。多神教はただ単に誤った宗教であるばかりでなく、全く邪悪な、文字通り悪魔的なものとされたのである。教父の用いた典型的なエウヘメロス説は、異教神の名は彫像を立てられた名高い支配者や発明家の名前に過ぎず、こうした人間には人々の崇拝を求める奸智に長けた悪霊が取り付いていたというものであった。
III (17)1462年にコジモ・デ・メディチはフィチーノに伝存するプラトンの全著作を含む写本を与え、ラテン語に翻訳するよう命じた。しかしその前に、プラトンの主要な典拠(とされた)『ヘルメス選集』の翻訳が命ぜられた。フィチーノはこれを果たし、それからプラトンに取り掛かった。フィチーノ訳のプラトンは彼自身の注解を付して1484年に上梓され、16世紀における定本となった。1490年には、やはり注解つきのプロティノスのラテン語訳が現れた(公刊は1492年)。フィチーノはまた、ポルピュリオス、イタンブリコス、プロクロスといった後期新プラトン主義者の、主として魔術的な著作をいくつか翻訳した。フィチーノ自身の主著は、『キリスト教について』(1474)、『プラトン神学』(1476)、『三重の生について』(1489)である。 これらは全体としてプラトンの一解釈を構成しており、かなり忠実なプラトンの翻訳を含んでいるものの、現代のプラトン観とは極めて異なった解釈を示している。ルネサンスのプラトン主義と我々のプラトン観との最大の差異は、フィチーノやその追随者にとって、プラトンがまず宗教的著述家と考えられていた事にある。プラトンをこのように考えることが出来たのには、二つの理由があった。第一に、プラトンの対話編には、例えば『饗宴』のソクラテスの演説のように宗教観を表明したり、『ティマイオス』の世界創造や『パイドロス』の様々な善き狂気のように宗教と密接な関連のある事柄を論じたり、『国家』の「洞窟」の比ゆのように宗教的意義を用意に付与できる神話を物語ったり、『パルメニデス』のように宗教的に解釈する事の容易な、高度に抽象的な言葉を用いている箇所が多数ある。プラトンが自らの思想を表現するのにしばしば採用した神話や詩的言語は、多様かつ巧妙な解釈を容認している。プラトンには、聖パウロや新プラトン主義者と同様に、柔軟で豊かな多様性を備えた長い伝統の基礎となるべきテクスト群には不(18)可欠の曖昧さが十分にあるのである。 第二に、ルネサンスのプラトン主義者がプラトンの正しい解釈を示していると考えた新プラトン主義者の生きた紀元3-5世紀は、古代世界の全体にわたって、密儀宗教、占星術、魔術への関心と信仰が大幅に増大した時代であった。キリスト教、グノーシス派、マニ教、ヘルメス主義、オルペウス教、新ピュタゴラス派といった多種多様な宗教が互いに混ざりあっていた。これらの諸宗教においては、占星術・魔術的実践、神学ではなく降神術、理性と思考よりも寧ろ行為と祭儀に重点が置かれる傾向があった。新プラトン主義者達はますますこの宗教的・魔術的世界、ルキアノスとアプレイウスの『黄金のロバ』の世界へ引き込まれていった。プロティノスは依然として、まず我々の言う意味での哲学者であった。とはいえ、魔術を非難したのは事実だが、プロティノスがその効力を信じていた事は明らかであり、フィチーノがオルペウス教魔術を行なううえでの出発点の一つがプロティノスだった。彼の弟子ポルピュリオスは、神霊を呼び出したり太陽と火の祭儀を行なうための指示を記した、後代にゾロアスターの作とされた神秘的なギリシア語の韻文『カルデア人の神託』の注釈を書いた。イアンブリコスもやはり同じ書物に注釈を施し、フィチーノが翻訳した著作『秘儀について』では、神を知るために、降神術を行なう事が他の理性的・知性的な方法に優る事を主張した。背教者ユリアヌスは、新プラトン主義哲学に帰依し異教を復活させると降神術の強力な庇護者となって、とりわけ太陽神に祈りを捧げた。プロクロスは依然哲学者であり、ユークリッドの良い注釈を書いたが、他方で、特に降雨の術に優れた偉大な魔術師でもあった。…… こうしたフィルターを通してみたとき、ルネサンスの思想家にとってのプラトン主義が、論理学と自然学(19)の広大な領域でアリストテレス主義が主張できたように、世俗的で宗教的に中立の、無害な自然哲学という地位を主張するのは到底不可能だった事が理解できる。プラトン主義は神学と降神術を伝授するものであった。キリスト教に敵対する宗教になるのでなければ、両者はどうにかして融合する必要があったのである。 降神術、宗教的・魔術的儀式は、フィチーノらによる復活の試みがなされたものの、正統的にはキリスト教と両立させる事ができなかった。しかしプラトン神学はその大部分をキリスト教神学に組み込む事が可能だった……。統合が成功した大きな原因は、プラトンの背後にモーセと「古代神学者」たちが経っているという誤った信念にあったのである。…… フィチーノは勿論孤立してはいなかったし、実際、自らが中世のプラトン主義者の伝統を受け継いでいる事を自覚していた。しかしながら、ここでフィチーノを出発点に選ぶのは、便利なだけでなく正統な選択でもある。なぜなら、ルネサンスのプラトン主義は確かに中世に源泉をもっていたが、それまでにない全く新しい可能性を齎したのだった。即ち、伝存するプラトンの全著作、プロティノスの全著作、後期新プラトン主義者の著作の多く、『ヘルメス撰集』そして「古代神学」の豊かな宝庫であるエウセビオスやアレクサンドリアのクレメンスのようなギリシア教父が、初めてラテン語で読めるようになったのである。だが、ルネサンスの枠内で、このシンクレティズム的プラトン主義の萌芽をフィチーノよりも更に以前に遡らせる事もできるだろう。 クリステラーは、フィチーノがゾロアスターからプラトンに至る「古代神学者」の系譜の発想を得たのはゲミストス・プレトンからだったと示唆している。……こうした仮説に対して想起すべき事は、フィチーノがエウセビ(20)オス、プロクロス、更にはアウグスティヌスといった著述家を読み始めたならば、早晩「古代神学」に関する一般理論を思いついただろう、という事である。……しかしながら……プレトンの反キリスト教的態度にもかかわらず、フィチーノは公刊した著作の中で、プラトンを復活させようと言うコジモの計画がプレトンからの影響によるものだったと書いているし、枢機卿ベッサリオンも、どうやらこのプラトンの再来に対する賞賛の念を変えることがなかったのである。 ベッサリオンは、当然フィチーノが用いたもう一つの典拠と考えられるであろうが、しかしフィチーノは1469年にベッサリオンから『プラトンの中傷者に応える』を送られるまでこの書物を読んでいなかったらしいという事実がある。とはいえ、ベッサリオンはやはり、プラトンと「古代神学」のキリスト教的解釈の重要な出発点の一つである。トラペズスのゲオルギオスの『哲学者アリストテレスとプラトンを比較考量す』への反論として書かれたこのプラトン擁護の書では、プラトンがオルペウスの弟子だったと述べてはいるが、ベッサリオンは概してプラトン以前の神学者をさほど論じていない。しかしエジプト滞在中のプラトンがモーセの著作から多くを学び取った事が主張されている。ベッサリオンは更に、プラトンはソクラテスの死を教訓として、自分の本当の宗教的見解を明確に公表する事を控えた、と言う偽ユスティノスの説を援用しており、プラトンと新プラトン主義者の3原理と三位一体論との類似点及び差異を細部にわたって見事に論じている。これらは全て、……シンクレティストに典型的な、一貫した主題である。
IV. オルペウス、ヘルメス・トリスメギストスについて :「オルペウス教文書」は三つのグループに分けられる。(1)古代作家、とりわけプロクロスや、偽ユスティノス(『異教徒への勧告』の著者)、アレクサンドリアのクレメンス、エウセビオスのようなギリシア教父に散在する韻文の断片。これらの年代はまちまちであり、一部は恐らくプラトン以前に遡るが、かなり明白なキリスト教=ユダヤ教徒による偽作も含んでいる。(2)賛歌。現在ではこれらは通例紀元2-3世紀の者とされ、古代作家による引用は無い。内容は取り立ててオルペウス教的ではなく、現代の学者の諸説では、なんらかの宗教の信徒が実際に歌った賛歌とされている。ヘレニズム時代の他の賛歌同様、大部分が形容辞を連ねたものである。(3)『アルゴナウティカ』。これは紀元4世紀末の、概ねロドスのアポロニオスの『アルゴナウティカ』に依拠する詩である。 そもそも[(1)の]断片集はキリスト教的=プラトン主義的解釈をする事が容易だった為に、教父や新プラトン主義者に選ばれ、引用されたの(22)であった。「賛歌集」はキリスト教=プラトン主義が用いるにはあまり適していないが、具体的な内容を欠いているので、巧妙なプロクロス風の解釈には公的だった。フィチーノによる『自然賛歌』の注釈はこれを良く示す例である。『アルゴナウティカ』の重要性は、主に、オルペウスが短い宇宙創成譚を歌う詩句と、エジプトを訪れた事があるという言及にある。 これらのテクストはいずれも、15世紀まで西欧には知られなかった。トラペズスのゲオルギオスがエウセビオスの『福音への準備』をラテン語訳(印刷本は1470年刊)してから、(1)の主要なオルペウス断片が容易に手に入るようになった。「賛歌集」と『アルゴナウティカ』は1500年まで交換されなかったが、前者はフィチーノの手で1462年に翻訳されており、彼の著作の中でしばしば言及されている。 以上の作品の成立年代とオルペウスとの関係について言えば、ルネサンスの学者は、オルペウス詩篇の多くが実に様々な時代にかかれたことを知っていたし、事典『スイダス』から、数人の異なる作者がオルペウスの名で書いたことを知っていた。……レオナルド・ブルーニは1420年ごろ、ジャン・フランチェスコ・ピコは1496年に、オルペウスが「オルペウス教文書」の作者である事、またそもそもオルペウスが実在した事を否定したアリストテレスの文言を引用しさえしている。しかしながら、こうした問題は少なくとも(1)のテクスト群に関する限りさほど論議の対象にはならなかった。オルペウスをよく利用しているシンクレティストたちは、「オルペウス教文書」が全てオルペウスその人の手になるものではないとしても、極めて古い宗教的伝統に連なる真正の聖典であると考えていたのである。 「ヘルメス文書」は2種類に分けられる。まず、『アスクレピオス』(または『神的意思について』)。これはアプレイウスによるとされるラテン語訳でのみ現存する対話編である。もう一つは、『ポイマンドレス』((23)または『神の叡智と権能について』)および『アスクレピオスの定義集』、これらはあわせて15編のギリシア語の短い対話編を構成する。(本書ではこれらを『ヘルメス選集』と総称する)どちらも、紀元2ないし3世紀にかかれたものである。エジプト起源である事を謳っているが、この問題に対する最高権威フェステュジエールによれば、実際には主にギリシア起源の、プラトン主義、ストア派、ユダヤ教、キリスト教の教説をグノーシス主義と魔術の枠組みにおいて合成したヘレニズム的産物である。 『ヘルメス選集』はそれ自体多様な内容を含んでいるが、ここに収められた様々な論考は互いに相似性を持ち、いずれも、ある種のグノーシス的神秘主義、入信者を強力な魔術師に変身させようと説く、星辰が支配する魔術的宗教を教示している。「ヘルメス文書」を他の「古代神学者」のテクストと比較して歴史的に遥かに重要なものとしているのは、正にこの多様ではあるが特定化された宗教的内容なのである。「古代神学」の他のテクストは、多かれ少なかれ謎めいた表現の断片からなっているために、正統的キリスト教に吸収する事がさほど困難ではなかった。しかし「ヘルメス文書」は最初から厄介な問題を投げかけた。フィチーノがオルペウス教魔術を始めたのは、主として『アスクレピオス』の偶像作成法を述べた章句を読んだのがきっかけだった。アグリッパにおいては、フィチーノとピコの比較的おとなしい魔術が、明白なキリスト教のライヴァルとして更に表面に出て来る。これがジョルダーノ・ブルーノに至ると、この古代エジプト人の魔術的宗教がより若い信仰を呑み込んでしまう―――キリストは、ヘルメス主義の伝統に属する、宣教し奇跡を行なう数人の魔術師の一人に過ぎず、ブルーの自身もその一人なのである。…… 「オルペウス教文書」と同じく「ヘルメス文書」も15世紀に至るまで西欧では知られなかった。例外は、中世においてかなり広く知られていた『アスクレピオス』、これはラテン語訳があり、アウグスティヌスが(24)『神の国』で長く論じているためであり、もう一つは、ラクタンティウスが引用している他のヘルメス主義対話編からの章句である。フィチーノによる『ポイマンドレス』は1471年に、ラザレッリ訳の『アスクレピオスの定義集』は1507年に出版された。 シンクレティストたちは時折、「ヘルメス文書」がプラトンの言及しているエジプトの王トート神と以前同一人物とされていたヘルメス・トリスメギストスの著作であると言う説には疑義を表明したが、この文書が非常に古い時代に成立した者である事は一般に認められていた。……アプレイウスに帰されるラテン語訳でのみ伝えられていた『アスクレピオス』の地位は、常により不安定だった。それゆえ、魔術師であり偶像崇拝者であった事が知られていたアプレイウスがテクストを改ざんしたという説も行なわれた。 ルネサンスの学者がこれらのテクストに最初に出会った文脈は、極めて重要だった。即ち、「オルペウス教文書」の(1)はニカイア公会議以前の教父及びプロクロスにおいてであり、「ヘルメス文書」はラクタンティウスとアウグスティヌスにおいてだったのである。初期教父は、ギリシア哲学に何か価値のある(25)ものが見られるとすればそれはモーセから盗まれたものだ、という事を示すためにオルペウスとヘルメスを引用していたし、プロクロスは、複雑な形而上学的実態の理論を用いて多神論を解釈する方法を示していた。また、プロクロスも教父も、オルペウス、『カルデア人の神託』、ピュタゴラスを包含する、プラトン以前にまで遡る原初宗教の伝統の存在を示唆していた。こうした様々な水脈をないまぜにしたところで、ルネサンスのシンクレティストは活動したのである。ラクタンティウスとアウグスティヌスが、ヘルメスが非常に古い時代の人物である事、そして伝ヘルメスの著作が真正のものであることを保証した。ラクタンティウスがキリスト教の預言的証者としてのヘルメスに対して全く好意的であったとすれば、アウグスティヌスはヘルメスを偶像崇拝者として厳しく断罪し、先に引用した「ローマの信徒への手紙」第1章の章句「なぜなら、神を知りながら……」を投げつけた。この断罪は、ルネサンスのヘルメス賞賛者を不安にさせたが、アプレイウスによって改ざんされた可能性のある『アスクレピオス』だけに当てはまるものであり、ラクタンティウスの賞賛でアウグスティヌスの非難を相殺する事も出来たのである。
V. キリスト教の啓示をある程度まで余示する一連の「古代神学者」が存在した事を信じようとするキリスト教徒は、次の事を歴史的事実として想定或いは容認しなければならない。 唯一の、または主要なキリスト教以前の啓示がユダヤ人に与えられたものであること。ただし、この啓示が異教徒に伝播したこと。伝播の経路は通例、モーセが神官たちを教授したか書物を書き残したエジプトとされる。 または、ユダヤ人に与えられたもの以外にも、部分的な啓示がいくつかあった事。 異教徒の啓示がユダヤ人の啓示によって強められたり完全なものとなった、と考える事も出来るから、この二つは必ずしも矛盾するものではない。最初の想定は、旧約聖書の権威の独自性を損なわないため、正統信仰により一致したものであることは確かであり、教父と慎重なルネサンスのシンクレティストが採用したのもこの想定であった。これらの想定の一つあるいは両方から、全て同一の宗教的真理を教えた、著作を残した者も残さなかった者もいるとされる、「古代神学者」のリストが出て来る。典型的なリストは……、次のようなものである。(アダム、エノク、アブラハム、ノア、)ゾロアスター、モーセ、ヘルメス・トリスメギストス、(バラモン教徒、ドルイド神官、)ダビデ、オルペウス、ピュタゴラス、プラトン、シビュラ……この系譜は新約聖書で終わる。しかし、その主たる意図はキリスト教プラトン主義を生む事であるから、プラトンの優れた解釈者としての新プラトン主義者、更に、年代を遡らせれば彼らの典拠となる偽ディオニュシオスにまでリストを続ける事もできる。 これらの「古代神学者」はそれぞれんが先行者の弟子であるとされたり、あるいは各自エジプトを訪れてモーセの教えを学んだと……された。たとえば、オルペウスは殆ど常に最古のギリシア人「神学者」とされ、エジプトを訪れた後、ピュタゴラス、プラトンらの宗教的心理の源となる。しかし、彼らもまたエジプトで学び、ゾロアスターやヘルメス・トリスメギストスからも影響を受けている、とされる。…… この系譜におけるモーセの年代的位置は、正統的であろうとするシンクレティストの大多数のように、「古代神学」がモーセ五書から生まれたと考えようとすれば、明らかに最重要なものとなる。オルペウス及びその(27)他のギリシア人がモーセよりかなり後世に現れたことを示すのは、たやすい事であった。だが、ヘルメス・トリスメギストスの位置はこれほど明確ではなかった。聖アウグスティヌスはヘルメスをモーセのひ孫の同時代人と考え、フィチーノは『ピマンデル』の序文でこれをそのまま踏襲している。ラザレッリはこれに異議を唱え、ヘルメスの方をかなり先代の人物だとした。D・P・ウォーカー著、榎本武文訳『古代神学』、平凡社・1994年。