Aristoteles --- Platon 1(vor R)第3章 プラトン主義 アリストテレスからプラトンへ(127)デカルト以前の近代初期の哲学においては、アリストテレスが支配的な勢力を振るい続けたし、近代初期の思想家が考えたアリストテレスの姿は、幾つかの点では、中世のスコラ諸学派が考えたアリストテレスの姿と同じだった。アリストテレスのギリシア語原文を回復してよりよいラテン語に移し変えた後でも、ルネサンス期の哲学者は、アリストテレスの思想を理解するためにスコラ学者が用いた装置の大部分をそのまま使ったのである。スコラ学的アリストテレス主義への手ごわい挑戦の一つは、それと同様の知的権威を主張しうる他の古代哲学学派の復活から生じたが、こうした主張が最大の威信を持ちえたのは、アリストテレスの師プラトンについてだった。近代初期におけるプラトン主義哲学の展開は、同じ時期のアリストテレス主義の発展と比較すると、少なくとも二つの点で異なっていた。つまり、ルネサンス期のプラトン主義は明らかに人文主義の産物であり、より明確に中世哲学と断絶している。また、プラトン主義の再生の原動力として、マルシリオ・フィチーノという一人の人物を特定する事が出来る。驚くべきギリシア語の知識と、長らくヨーロッパで読まれなかった古代文献に関する広範な学識とを備えていたにもかかわらず、フィチーノは用語の厳密な意味での自分主義者ではない。彼は文献学者ではなく哲学者だったのである。しかし、プラトンと新プラトン主義者たちのギリシア語著作のフィチーノによる翻訳・解釈が巨大な成功を収めるための前提条件には、プラトンを復活させてその名声を全ヨーロッパにたちまち伝達した15世紀フィレンツェの上級文化の主要な目標を形成していた、人文主義の古代復興が(128)あった。 14世紀のイタリア人文主義の最初期には、プラトンについて殆ど知識が無いにもかかわらず、アリストテレスよりもプラトンの方を好んだ思想家が何人かいた。例えば、1367年にペトラルカは『自らと多くの人々との無知について』と題する非難文の中で、アリストテレス主義に拠るスコラ学者に向けられた最も厳しい批判からアリストテレス自身を免責したが、それでも、プラトンは「より偉大な人々に、アリストテレスはより多くの人々に賞賛されている……[なぜなら]プラトンとプラトン主義者は、神性に関する事柄において、よりいっそうの高みに昇ったからである。どちらも望んだ場所に到達することはできなかったが……プラトンのほうが近づいた」と書いた。明瞭に聖アウグスティヌスの先例に従いつつ、ペトラルカはキリスト教の教義を哲学的真理の試金石にしているが、この判断基準に拠れば、アリストテレス主義の重要な教説の幾つか―――永遠の世界、被造界に配慮しない神、人間の霊魂が明確には不死性を備えていないこと―――が、久しく信仰上の義務と宗教的確信とに抵触していたのである。プラトン主義はこれらを含むキリスト教教理とより良く調和したし、とりわけ、プロティノスとその後継者たちが修正を加え、教父が様々な神学的目的のために変形した形でのプラトン主義はそうだった。プラトンは、クレメンス、オリゲネス、偽ディオニュシオスのように、ギリシア語で著述した東方教会の神学者・護教家に特に大きな影響を与えたが、中世西ヨーロッパで読まれたラテン語著述家も、プラトン主義の叡智で彼らの信仰を補強することから得られる利点をみのがさなかった。プラトン主義は創造、不死性、死後の生に関するキリスト教の教説に対して好意的に思われたために、教父は、プラトンはその思想をモーセや他の聖書中の賢者から盗んだのだと言う怪しげな賛辞を送った。 古代の復活と新しいギリシア語文献学は、教父やスコラ学者よりも充実した議論を行う準備を人文主義者に与えたが、論議の対象はプラトンの宗教だけでなく、その社会的・政治的・哲学的教説にまでわたった。すなわち、プラトンのエリート主義的教育計画、現在・現世の政治からの逃避、直観に理性よりも高い地位を与えたこと、理性がソクラテスの懐疑(129)主義からの攻撃を受けやすいと言う記述である。これらや他の根拠に基づいてプラトン主義に説得力を見出した思想家は何人かいたが、こうした魅力に対立するものとして、キリスト教徒の思想家には困惑を与えることしか出来なかった幾つかの問題点を考慮してみる必要がある。社会階層を上昇していこうとする学者や完了が、どうしてプラトンのエリート主義に共感を覚えるのだろうか。人文主義者は詩人や修辞学者に対するプラトンの侮蔑に不安を感じなかったのか。……有名なプラトンの敬神さえも、質量を永遠の存在とし、人間の霊魂は先在し転生すると考え、神々と神霊(ダイモン)が多数あって強い力をもち崇拝に値すると説く彼の哲学とは矛盾しているように思われた。ルネサンス期がプラトンをより良く知るにつれて、彼の思想に関する論議が複雑になり分裂していったのは当然の結果だったし、この論争は、異教徒・キリスト教徒の双方が長らくはぐくんできた反プラトン主義的伝統によって準備されていたのである。近代初期の思想家が古代・中世には無かった新しい解釈の方法を考案するようになっても、プラトンのキリスト教徒の適合性が相変わらず枢要な論点だった。 [Augustinus]西欧中世の神学にプラトン主義的潮流を導きいれた主要な水路はアウグスティヌスだった。プラトンは「あの古代の哲学者たちの全体よりも真理に近い」と言う『神の国』からの引用文を記したとき、ペトラルカは、良く知られた常套句を繰り返していたのである。……アウグスティヌス自身もしばしばプラトン主義に対して批判的な態度を取ったが、プラトンの思想の霊的・彼岸的志向が、多数のより軽い罪を覆い隠していたのである。キリスト教徒は、多くの点でプラトン哲学のほうがアリストテレス主義よりも安全かつ魅力的だと考えた。そこで、このより大きな適合性が、興味深いのと同等に解答を与えようの無い一つの疑問を提起する事になる。仮にプラトンの対話編がアリストテレスの論考とともに中世盛期のヨーロッパに再出現していたとしたら、西欧の知的歴史はどのように変わっていただろうか。この疑問は我々の憶測の手助けにしかならないが、我々は、キリスト教とやや薄められたプラトン主義との現実の関係を特徴付けた、歴史的な(130)軋轢とイデオロギー上の緊張を認識することはできる。アウグスティヌスは自分の[キリスト教への]改宗の動機の一部を「ギリシア語からラテン語に翻訳されたプラトン主義者の数冊の書物」に帰している。「[その中に]……私は、勿論これらの言葉出ではないが、「始めに<言葉>があり、<言葉>は神とともにあり、<言葉>は神であった」と読んだのである」。アウグスティヌスは、プラトン主義の教説の幾つかの反映を「ヨハネによる福音書」の言語の中に認めた。しかし結局のところ、「「<言葉>は肉となり、我々の間に宿った」をそこに読む事は無かった」し、キリスト教信仰に不可欠な他の幾つかの思想を見出すことも無かった。アウグスティヌスにとってのプラトン主義とは、せいぜいのところ、より高次の真理への不完全な誘因に過ぎなかった。この欠陥は、他の問題点を自ら作り出した、またはそれらに注意を喚起したプラトン主義を奉じるキリスト教徒たちによっても、常に認識されていた。 恐らく5世紀、ただしアウグスティヌスの後の時代に、プロクロスの時期の新プラトン主義から影響を受けた逸名の著者が『神名論』『神秘神学』『天上位階論』『教会位階論』と題する4編のギリシア語著作と、現存する10通の書簡を書いた。聖書に現れるディオニュシオスを筆名として選んだこの著作家は、アテナイのアレオパゴスに対してパウロが行った演説によって改宗したと「使徒言行録」17:34に名指されている人物の仮面をまとったために、使徒に等しい権威を持つ事になり、9世紀には、ヒルドゥイヌスとヨハネス・スコトゥス・エリウゲナによる翻訳が、この偽ディオニュシオスにラテン語の読者を与えた。主としてプロクロスから霊感を汲みつつ、『神名論』の肯定的神学は、神の完全性に適合すると考えられる被造界の特徴からの類推によって、神を知ろうとする。一方、『神秘神学』の否定的方法は、超越的神性の抽象的描写から、目に見える被造界特有の不完全さを剥ぎ取る事によって、ミニマリズム風の神の肖像画を描く。「ディオニュシオス」の著作の新プラトン主義は、とりわけキリスト論・三位一体論の問題について異端説の咎を受け、また早くも6世紀にはテクストの真正性に関する疑義が呈された。最も説得力のある批判は、ロレンツォ・ヴァッらが1440年代に『新約聖書の校合』において、「コンスタンティヌス帝の寄進状」が偽(131)作であることを暴露するのに使ったのと同じ文献学的吟味を加えたときに現れた。エラスムスのような人々はディオニュシオスに対するヴァッらの疑惑を受け入れたが、それでもやはりルフェーヴルやジョン・コレットのように学識ある人物が、エリウゲナからアクイナス、クザーヌスに至る西ヨーロッパの神学を特徴付けるディオニュシオスへの強い共感を表明し続けたのである。キリスト教徒としての資格に問題があるにもかかわらず強い影響力を保った、もう一人の中世初期の著作家が、520年代まで生きたボエティウスである。しばしば最初のスコラ学者と呼ばれるボエティウスはアリストテレスの用いたカテゴリーを三位一体の問題に適用し、アリストテレスをラテン語に翻訳すると言う膨大かつ未完に終わった計画に着手することで、中世の哲学者のためにラテン語の用語体系を考案した。ボエティウスはプラトンをラテン語訳する望みも持ち、プラトンとアリストテレスとを融和させようとする事に於て、ルネサンス思想の重要な衝動を先取りしていた。ボエティウスはポルピュリオスのような新プラトン主義者を読んでいたし、巨大な影響を与えた『哲学の慰め』の主張はプラトン主義に依拠している―――例えば、神の賜物としての被造界の善性を証明するのに、『ティマイオス』を利用する場合などがそうである。 ヴァッラのようなスコラ学の批判者は、言語を誤用しその古代における純粋さを堕落させた愚劣な哲学の創始者として、ボエティウスに不信感を抱いた。しかし、ペトラルカは―――その著作『善悪両様の運勢の治療法』の執筆の動機は『哲学の慰め』のそれを想起させる―――アウグスティヌスの模倣者としてのボエティウスを賞賛した。ペトラルカはまた、「プラトンは1,2編の短い書物を書いたに過ぎないと主張する」スコラ学者の論敵に対して、プラトンを擁護した。ペトラルカの反論は次のようである。自分は「自宅に16冊、或いはそれ以上のプラトンの書物を持っている。……無学な人間の所有物ではあるが、無教養な内容は無い我が蔵書を、実に来るが良かろう。……彼らはその中に、ギリシア語で書かれた数冊だけでなく、ラテン語に翻訳されたものも見出すことだろう。……これはプラトンの書物のどの部分に当たるのだろうか?私は自分自身で多数を目にしたのだ」。1341年の復活祭の日にローマで桂冠詩人として顕彰される(132)よう運動したペトラルカが自分を無学と呼んだのは,自らの能力を学識を自称する中傷者と皮肉に対照するために過ぎなかった。しかし、ある意味においては、ギリシア語を習得すると言う目標に遂に到達できなかったことで、ペトラルカは無学な人間として古代の最も重要な遺産を眺めていることしか出来なかったのである。彼は部分的なプラトンのギリシア語写本を所有し,ホメロスを読もうとして苦闘したが,中世の先人たちと比べて、真正の原典日本の少し近づいただけだった。その事を、ペトラルカは1348年ホメロスのギリシア語写本を贈られた際の礼状の中で告白している。「あなたのホメロスは私に口を利きません、と言うより寧ろ、私が彼に耳を閉ざしているのです。それでも、彼の姿を見ているだけで、私は喜びを覚えます」。 学校でギリシア語を学んだがプラトンを原典で読んだとは思われないアウグスティヌスの時代から、西ヨーロッパにおけるプラトンについての知識は、少数の断片的情報に限定されていた。アウグスティヌスの時代に入手可能だったラテン語による直接の伝承は、キケロによる『プロタゴラス』と『ティマイオス』第17-47節の翻訳、そしてアプレイウス訳の『パイドン』を含んでいたが、キケロ訳『ティマイオス』の断片だけが6世紀初頭以降、しかもごく限定された経路を通じて、伝播した。人文主義者たちでさえ、15世紀の終わりまでこれを無視したのである。カルキディウスは恐らく4世紀に『ティマイオス』のより長い部分の翻訳を作り、さらに注解を施したが、このために中世全期を通じて大きな名声を博する事になった。12世紀には、カターニアのアリスティップスが『メノン』と『パイドン』の厳密に逐語的な翻訳を付け加え、また『パルメニデス』の一部が、プロクロスの注解をムールベケのグイレルムスによる13世紀の翻訳に組み込んで現れた。グイレルムスはプロクロスの他の著作も翻訳した。その一方で、キリスト教と・異教徒の著作家が長らくプラトン主義の間接的伝承を維持していた。アウグスティヌスの演じた役割は、その哲学的深みと古代末期の広範な資料についての彼の知識とによって、中心的位置を占める。しかし、アンブロシウス、ラクタンティウスのようなラテン教父も有益だったし、クレメンス、オリゲネス、バシレイオスといったギリシア教父もラテン語訳で読む事が(133)出来た。ボエティウスはキリスト教徒だったかもしれないが、異教的慣習を尊重する観点からプラトンを読んだ。異教徒であれキリスト教徒であれ、カルキディウスはその注解によって卓絶しており、マクロビウスやマルティアヌス・カペラよりも広く影響を及ぼした。キケロ、アプレイウス、ウァレリウス・マクシムス、セルウィウス、また中世の読者に知られたその他数多くの日キリスト教徒の著作家が担ったプラトン主義の遺産は、6-7世紀のカシオドルスとイシドルスの中世初期の百科全書へと伝達され、9世紀のエリウゲナにいたってその哲学的活力を再び発揮した。『ティマイオス』のカルキディウスが分析した箇所は、12世紀にシャルトルとパリの大聖堂を中心として起こったプラトン主義の大規模な復興に刺激を与えた。ペトルス・アベラルドゥス、ベルナルドゥス・シルヴェストリス、コンシュのギヨームらが、新プラトン主義的解釈法の間接的記憶をよみがえらせたが、とりわけ、自ら選んだ神学的見解に反する意見は全て、テクストの表皮を取り去ってその下に隠れている深遠な真理をあらわにするための誘因であると考える、寓意的釈義を採用した。聖書における創造の物語と『ティマイオス』の宇宙論との適合性は、プラトン文書とモーセ文書との間の調和をさらに探し出すようキリスト教徒の読者に促した。カルキディウスの解釈学を用いる許可が一旦下されると、中世のプラトン主義者たちはすぐに、『ティマイオス』の直接の宇宙論的内容を越えて、小宇宙と大宇宙と言う壮大な主題に基づく道徳的・政治的変奏を作り始めた。 このように、中世哲学は、13世紀にアリストテレス文書を吸収するよりも前の、しばしば「12世紀ルネサンス」と呼ばれる時期にプラトン主義的段階を通過していたし、スコラ学はその最盛期に於てさえ通例考えられている以上にプラトン主義からの影響に対して開かれていたのである。プロクロスの著作は幾つか翻訳され、注解が作られ、実際には新プラトン主義者による書物がアリストテレスの手になると考えられた。例えば、大きな影響を及ぼした『原因論』は、プロクロスにまで源流をたどる事が出来る。イスラムの権威を通じて伝達された、或いは他の経路によって中世の大学に知られていたプラトン主義文献の分量を考えるならば、トマス主義の形而上学のある部分がアリストテレスよ(134)りもむしろアウグスティヌス、プロクロス、プロティノスから恩恵を受けていることも、驚くに足りない。しかし、プラトン主義の伝統の重要な特徴のうちいくつかは、原典が再発見され、それら相互の歴史的関係が解明されるまでは、理解されることはなかった。この作業の後半部分は現在もなお進行中だが、その仕事は、フィチーノとその後継者たちが一次資料を回復してその解釈を始めるまでは、不可能だったのである。現在では、フィチーノが最初にプラトンを西ヨーロッパの人々の手の届くところに置いたと言う事実を、殆どのプラトンの読者が依然知らずに居る一方で、千年間に及ぶプラトン主義の伝統の歴史的展開の複雑さは、当然のこととして受け止められている。529年にユスティニアヌス帝がアテナイのプラトン学派の学校アカデメイアを閉鎖し、641年にアレクサンドレイアのプラトン主義の遺産がイスラム教徒の手にわたったとき、アテナイの人々がソクラテスを殺してから10世紀以上の時間が経過していた。 この千年間に、プラトン主義はその始祖の教説から、最初の後継者たちの古アカデメイア学派、次代の懐疑主義的な新アカデメイア学派,プロティノスまでの300年間の新たな教条主義的中期プラトン学派、続く4世紀にわたる新プラトン主義へと展開した。プラトンの思想はそれ自体が極めて複雑であり、解釈者は今日に至るまで、どれがまことの、或いは成熟期の、或いは誠実なプラトンなのかを決定しようとして躍起になっている。それは懐疑主義釈迦教条主義者か、実際的政治家か難解な神学者か、ソクラテス的プラトンか、それともプラトン的プラトンなのか。近代初期の思想家は、中世的文化からの自らの疎外と古代への親縁性とを感じ取るのに並行して、それなしにはプラトン主義のように長い生命を保った文化的構築物が歴史的探求に対して常に不透明のままであるような、変化と発展の原理を当然のものとして受け入れる事を許す時間的眺望の輪郭を形成して行った。しかし、フィチーノの時代には、文献学的・歴史的難行は端緒に就いたばかりだったのである。我々がルネサンス期の視点から見たプラトン主義を創造しようと望むなら、歴史的変遷のより明瞭な近世よりも寧ろ、区別の定かでない諸王家が延々と続く遥か古代のエジプトの悠久の過去と言う、我々自身の一般的通年を連想したほうが当たっているだろう。後述するとおり、フィチーノは、ある神話的系譜、つま(135)りモーセの時代に淵源する太古の神学と言う観念を、その大まかな姿を年代学上の誤りで歪められた形で知っていたに過ぎない実際の歴史的関係に重ね合わせる事によってプラトン主義の歴史性を実際には減少させたのである。現在判明している実像に比べて、より均質かつキリスト教に近いプラトン主義という近代初期の観念をこしらえたのはフィチーノだったのだから、プラトンに好意的な人々が、近代初期のアリストテレス主義を重苦しい一枚岩のドグマとして切り捨てようとするときには、我々は用心する必要がある。哲学史に与えた衝撃の大きさにおいてフィチーノに匹敵する近代初期のアリストテレス主義者は居ない。しかし同じ筆法を用いるなら、ルネサンス期の様々なアリストテレス主義は、フィチーノが叙述した形のプラトン主義よりも多様だったのである。(135)
(チャールズ・B・シュミット/ブライアン・P・コーペンヘイヴァー著 榎本武文訳『ルネサンス哲学』、平凡社・2003年)