2009年4月5日日曜日

Grund 3. Basica intellecta (ptint)

 ルネサンス期における哲学の変形(49)(16c以降の変化カット) 1400年には、プラトン主義は矮小な知識であり、スコラ学が大学を支配し、大学の壁の外では因習的な道徳談義のほかに「哲学」という名に値する活動は行われていない。その後1世紀もたたないうちに、大学の哲学者が人文主義の先陣を切った軍団に相対し、学者が再びギリシア語を読めるようになった後では、状況はすっかり変わっている。プラトンが、新たに発掘された他のギリシアの哲学者とともに、アリストテレスに代わる最先端の選(50)択肢になった。大学の祝福を受けない哲学論議が立派な流行になった。そして、スコラ諸学派の誇り高い学匠が人文主義者からの激しい罵詈雑言を浴びた。16世紀の終わりまでには、大学の哲学はスコラ学と人文主義という二大勢力の産物になっていたし、大学の外部での哲学は中世的慣習の拘束から抜け出していた。……(51)中世後期には、大学が哲学を促進する唯一の大きく強力な施設だったために、この学問に対する人文主義者からの批判は、主として、大学が教授として給料を払っていた職業的哲学者の怒りを買う事になった。宮廷やアカデミーや私的な学者の書斎においては、哲学への新しいアプローチはさほどの抵抗にあわなかった。中世にはまれだったこうしたより自由な環境で活動する知識人は、大学をひどく保守的な場所にしているしきたりや伝統や制度的用件に大した配慮を示さずに住んだ。宮廷に伺候する哲学者は、君主の気まぐれ以外のカリキュラムに敬意を払う必要もなく、食い扶持を稼ぐために彼が張り合う相手は学識については敵ではなかった。もちろん、移り気な庇護者の財布から金が出なくなったときに終わるとすれば、彼の研究の自由は底の浅いものかもしれないが、そうした限界を認めた上で、非正統的思想は大学内部でより外部でのほうが安全だったのである。詩人、画家、建築家と同じように、王侯や貴族の庇護を求めた哲学者がいたことは不思議ではない。ペトラルカは教皇と君主から援助を受けた。ニコル・オレームは20年以上にわたってフランス王(52)シャルル5世に伺候した。フィチーノはメディチ家の求めに応じてプラトンを翻訳し研究した。ルネサンス末期には、ジョルダーノ・ブルーノ、ジョン・ディー、ティコ・ブラーエ、ヨハネス・ケプラーといった綺羅星のような思想家たちが皇帝ルドルフ2世の宮廷を飾った。このことが示すのは、この君主の恩顧の力強さだけでなく、依然としてかすかなものとはいえヨーロッパにおける啓蒙の新たな気配であり、寛容のきらめき、時には精神の独立への奨励でさえある。だが、16世紀末から17世紀初めの全般的な見通しは、さらに30年間にわたって続く宗教的虐殺へと向かうヨーロッパがあらわすとおり、より暗いものだった。……[異端審問、破門、火刑、思想弾圧など]。 (54)逆説的な事に、この当たらし効率の悪い検閲制度に[禁書目録など]技術的基盤を与えたのは印刷機だった。書物が印刷されるのを妨げたり、出版された書物の流通を制限したりするための権力以外に、多数の人間の意見を操作しようと望む検閲者は、独自の禁書リストを流布させ統御する必要があったからである。いったん印刷してしまえば固定化し流通させやすくなるために、検閲者は、印刷された目録あるいは反=目録を求めた。印刷術が権力者に与えた恐怖を感じ取るには、いくつかの数字を思い出してみれば足りる。グーテンベルクの発明から半世紀もたたない1500年までに、印刷機は、ヨーロッパの250以上の場所で稼動していた。揺籃期本(インクナブラ)の時代の終わり(つまり1500年まで)には、現在知られているだけで約3万点の刊本(散逸したり未知のままの書物がさらにある)が、16世紀初めには通常一回の刷りで千部を作り出す割合で生産されていた。ペトラルカとサルターティは数百冊の蔵書を収集したことを誇りにしていたが、16世紀初めの私的な蔵書家は数千冊の書物を持つにいたった。哲学の運勢は、この新しい情報の洪水に乗って上昇した。復活した古典を印刷が固定し伝播させる。軽蔑されたスコラ学者も、古代人に並んでこの新しい媒体に迎え入れられる。フィチーノのような同時代の哲学者が、存命中にその名声を増幅させる。セクストス・エンペイリコスのような忘れられた思想家が、写本の時代とは比較にならないほどの速度と幅広さでよみがえる。学者たちは、より広く深く、学問の世界に目を凝らすようになった。16世紀の大きな特徴である折衷主義的好奇心は、増加し続ける書物を勝てとして育ったのである。しかし、折衷主義は正統的思想を脅かした。情報は矛盾を生んだ。印刷が文献学に養分を与え、(フランスの大劇作家の言葉を借りれば)文献学は犯罪へ富み地位日板。書物はコミュニケーションの幅を拡張すると同時に混乱を広げたし、印刷は論争には格好の手段だった。……哲学者はまた、印刷機という新しい道具を通して、より声高に発言するようにもなったが、この同じ言論の道具が古来彼らの職業につきものの危険を増大させもしたのである。(54)(チャールズ・B・シュミット/ブライアン・P・コーペンヘイヴァー著 榎本武文訳『ルネサンス哲学』、平凡社・2003年)