2009年4月5日日曜日

Et cetera Nr.2

図書館、書斎、そして印刷術(338) 俗なる図書 ヨーロッパ中世からルネサンスに掛けて、文化の担い手が、それまでの聖職者層から、少しずつ市民・商人層へとシフトしていくと共に、経済の拡大は「為替」「簿記」といった書かれたもののシステムを誕生させる。かくして文字は、「魂を持った言葉の影(プラトン『パイドロス』276A)という抜け殻のような存在から、神の上の現実へと変容していく。エクリチュールの重要性が、様々な局面で、日に日に増していくのである。 大学とは、こうした状況の変化を受けて生まれた、新たな知のシステムに他ならない。そこでは、聖なる言葉の「反芻」によって英知を獲得すると言うよりも、むしろ、多大な知識を獲得し、これを使って問題の解決に当たること、つまりは実践的な知が求められるようになる。「購読」lectioの時代の到来である。ただし、その目的はまもなく、「区別」や「証明」といった弁論術のテクニックを駆使して「是非」Pro et contraを問うところの、知的な格闘能力の獲得へと収斂していく。J.アメスによる、巧みな要約を引用しておく。   :スコラ学の時代を迎えると、それまでの修道院文化における、読書・瞑想・感想と言う三つの段階に代わってテクストに接するための三つの新たな方法が登場する。すなわち解釈と注解としての「読むこと」legere、討論の技術としての「論じること」disputareそして精神的な次元としての「説経すること」praedicareであった。しかしながら、次第に討論の重要性が増していって、(339)残る二つのプラティックの独自性を奪ってしまうことに、人々はすぐに気付いたのだ。……論証の技術が自己目的化して、培われることとなり、テクストの内容は二の次となっていくのである。: こうして「聖なる読書」は文化の背景に退き、勉学のための「俗なる読書」が主役に躍り出た。そして、大学教授という知識のプロフェッショナルが出現する。読書の新時代、書物は、声・ロゴスの宿る聖なる場所から、「論拠ある思考の為の、資格的な表現を記す場所」となって、知の倉庫へと変貌していく。大学や学寮には大きな読書室が誕生し、鎖につながれた大判の書物が多数並ぶ。蔵書目録という検索システムも発展していくであろう。書かれたもののステータスが上昇したおかげで、話し言葉(世俗語)が、エクリチュールという身分を獲得したことも見逃せない―――イリイチが、これを「民衆の知のアルファベット化」と呼んで、読み書き能力による差別・支配の構造をあぶりだしたことも。
 自由な読書へ (聖なる)テクストの反芻と瞑想が、利便性に道を譲り渡したことで、当然のことながら、読書のスピードや効率化が問題となる。ペトルス・ロンバルドゥスがテクストの判読に関して行った、「所在を見つけること」「早く手に入れること」といった忠告が、こうしたスコラ学の心性を物語っている。黙読という、斜め読み・飛ばし読みも可能な読みのスタイルが次第に(340)支配的になり、段落・索引・小見出しと言った、参照技術も発達していくに違いない。要するに、テクストは資格行為としての読書の秩序にのっとって分節されていくのである。 文学ジャンルも、交渉から、文字化を前提とした「文学」literatureへと返信していく。中世の「物語」romanとはそもそもは韻文であったけれど、これも、黙読に適した散文に変わり、来るべき近代小説の時代への地ならしをする。「トリスタン物」など、従来は韻文で流通してきた物語郡も、散文による書き換えが行われ、『散文トリスタン』などという長大なる続編がつづられていく。そしてやがて、15世紀半ば、「写本」という精度の劣るコピーは、ついに「活字本」という正確なコピーへと進化を遂げることになる。 ところで、読みのスピード・アップと簡単に言ったけれど、それにブレーキを掛ける動きも見られる。人文主義者たちの読みの姿勢である。フィレンツェの人文主義者たちは、煩瑣な注解と言う鬱蒼たる森に囲まれて、断片化されたテクストを救い出そうと試み、様々の省略記号などなど、スコラ時代の写本を特徴付ける読みの仕掛けを取り外してしまうのだ。こうして「読みを早くするためにインストールされた仕掛けが無くなって、読書は、スローで、熟考を伴うリズムに回帰し、そのページの唯一の主人であるテクストに集中できることになったのだ」と、碩学ペトルッチは指摘している。一見、時代に逆行するかに思われるシフト・ダウンこそが、注目に値する。 読書のスロー・ダウンに着目したペトルッチは、こうも続ける。「だが最も重要な変革はと言えば、線に沿って各要素が密着していたコンパクトな文字システムに代わって、単語は元より、文字が独立した記号として認識される、風通しの良いシステムが登場したことにほかならない。 風通しの良い初期システム、これこそ「ゴシック体」に代わる「ローマン体」、別名「人文主義書体」にほかならない。古典古代に範をとった、この「古くてモダンな」書体は、新しい時代の知の支持体となっていく。そのローマン体誕生のきっかけを作ったのは、(341)桂冠詩人ペトラルカ(1304-74)だと思われるが、その理由というのが面白い。還暦を過ぎたペトラルカは、自分の書簡のコピーを、弟子のジョヴァンニ・マルパギーニに命じて作成させた。そしてボッカチオへの手紙の中で,目に優しい書体で作らせましたと言って、語源学―――むしろ語呂合わせだろうか―――までも使ってこう述べる。   :昨今の写字生がお得意のと言うか、まるで絵描きに書かせたみたいな、あいまいで派手な書体ではないのです。そんなのは、遠くからですと、なんとなく視覚に淡い期待を抱かせるものの、いざ近くによって見ると目をいじめて疲れさせるだけで、読まれるためではなく、別目的で作られたものに過ぎません。……そもそも文字litteraとは、「読みやすい」legieraことだともいうではないですか。私が作らせたのは、そうした代物とは違って、節度がある明快な書体なのでして、すうっと目の中に入ってきてくれるのである(ボッカチオ宛、1366年10月28日づけ): このときペトラルカは62歳、老眼に苦しんでいたと言う。勿論めがねは発明されていたけれど、まだまだ満足できるような道具ではなかった。この挿話を引いたウルマンが、冗談とも本気ともつかない調子で述べているように「当時は、めがねを変えるより、書体を変えるほうが簡単なのであった」。怪我の巧名ならぬ老眼の功名により、新たな書体への道が開かれたのである。 スコラのテクストの黒々とした森から抜け出した明快な書体と共に、人文主義者の読書は、さらに自由な振る舞いを希求する。そのためには書籍の小型化が欠かせず、いずれは15世紀末のヴェネツィア、アルド・マヌティウスの袖珍判に行き着くわけだけれ(342)ど、ここでもまた、先駆者としてはペトラルカを引き合いに出したくなる。それは彼がまだ老眼とは無縁の30歳代の話で、最初の近代登山として知られるヴァントゥー山登頂のエピソードにさかのぼる(1336)。ペトラルカは山頂から雄大な景色を堪能する。「右手にはリヨン地方の山々,左手にはマルセイユの海やエーグ・モルトの岸辺に打ち寄せる白波が、歩くと何日も掛かる距離なのに、実にはっきりと見えるのです。そしてローヌの流れは眼下にあります」と。大自然の懐に抱かれた彼は、ふと、古典を読みたい気持ちに駆られる。   :私はアウグスティヌスの『告白録』を呼んでみたくなりました。……それは手のひらの中に納まるほどの小型版で、非常に小さな書物ではありますが、無限の甘美さを有しています。私は何処でも目に入ったところを読むつもりでその所を開きました。実際、どこを開こうと、敬虔さ信心深さ以外の何が見出せたでしょう。: 自然の只中で、掌中にすっぽり収まる古典を紐解くことで、内省すること―――ここには、中世の「精神の読書」とは一線を隠した、心身の自由な営みとしての読書の新しい姿が集約されている。ペトラルカは晩年、座右の小型本を「この本が、君と共に旅を続ける事を祈る」といって、若き友人に送る。ユマニスムの精神は、こうして次世代に受け継がれていく。 15世紀半ば、ライン川流域で発明された活版印刷術は、たちまちヨーロッパに広がり、パリ、リヨン、ヴェネツィア、アントワープ、フランクフルト、ジュネーブなど、各地に出版センターが生まれていく。イタリアの人文主義者を先駆けとした、古典の写本の探索への大いなる情熱は、種々の写本を比較検討するという本文批評の機運をも高めて言った。活字本がその決定的な支えを提供する。参照対象としてのテクストは、写本時代のゆれから解放されて、確定された同一の本文が南部も同時に流通する時代が訪れたのだ。(343)誇張して言うならば、学問の公共空間としてのテクスト空間が成立したのである。 本稿では、こうした変化の時代における書物の収集と貯蔵、そして読書の有様を、フランスを中止として記述してみたい。「図書館」という公共性の強い空間のみならず、個人の「書斎」「読書室」も扱うこととする。
 修道院の図書館、学寮の図書館 ペトルス・アベラルドゥス(ピエール・アベラール)の師で、後にその敵対者となったシャンポーのギヨームにより,12世紀初頭に設立されたサン・ヴィクトル修道院は、当初から教育機能を重視していた。その教育施設はパリ大学に統合されて、学寮(コレージュ)に等しい存在となっていた。修道院図書館の蔵書も、豊富な資金を背景に急速に充実していく。他の大修道院と比較した場合、写本工房の活動は必ずしも活発ではなく、原典のコピーなども外注したと伝えられる。そして、貴重な写本を数多く購入している。サン・ヴィクトル図書館は、スコラ学を核とする知の文(344)庫として重要な役割を果たしていくのである。……では、各学寮の図書室は同だろうか。フランスで最大の蔵書規模を誇るのは、やはりソルボンヌ学寮であって、その図書室は2部屋に分かれていた。大きな部屋には26の書見台があって、神学・スコラ学関係など338冊の写本が鎖で繋がれていたいう。26ということは、サン・ヴィクトル図書館の書見代の半分だから、ひょっとすると分類方法も同様であったのかもしれない。一方小図書室parva librariaには1100冊が収蔵されて、館外貸出しも行われていたらしい。とはいえ1338年の記録を読むと、すでに300点の写本が紛失してしまったと言う慨嘆の声も聞こえてくる。 もう一つ、パリで充実した図書室を備えていたのがナヴァール学寮で(1304年創立)、ここでは文法ク(345)ラス、学芸学部、神学部合わせて70人ほどの奨学生が―――地方出身の苦学生が殆どである。―――勉学に励んでいた。学寮は、シャンパーニュ地方出身のジャン・ジェルソン―――後にパリ大学総長―――などを輩出、フランス人文主義揺籃のちとも称されている。その図書室は学生の所属に合わせて三つの小部屋に分かれていた。百年戦争中に略奪にあったりして、詳しい蔵書数などは判明していない門の、かなり大規模な図書室であった事は間違いない。この二つの学寮の図書室は、活字本出現から間もない15世紀末には、手狭となったのか、仲良く引越ししている。広さは共に400から500平方メートル、両側には19ずつ窓がうがたれて、採光を確保していたと言うが、残念ながらいずれも現存していない。
 王立図書館 次居「フランス国立図書館」BNFの前身、王立図書館の歴史をスケッチしておく。書物の重要性に目覚めた最初の国王はシャルル5世賢明王(在位1364-80)であり、この愛書家のコレクションは息子のシャルル6世に引き継がれる。先王の蔵書が分割されずに遺贈されたのはこれをもって嚆矢とするという。王立図書館のはるかな起源と言えよう。その豪華な写本コレクションは合計1300点を超えたと言う。 その後ルイ12世(在位1498-1515)は、父親シャルル・ドルレアン―――中世有数の詩人にして書物収集家―――の衣鉢を継いで、写本の収集に積極的(346)にかかわり、たとえばルイ・ド・ブリュージュのコレクションをまとめて購入したりしている。……
 写本収集と文献学(355) 古代の再発見 北イタリアの都市フェッラーラにある、エステ家の離宮スキファノイア宮は、「月暦の間」と呼ばれる大広間の装飾で有名である。1469年から70年に掛けて、同市を治めていたボルソ公は、一年のおのおのの月を表す12に区分された壁面にフレスコ画を描かせた(現存するのは三分の二足らず)。これら12の区分は、さらに上中下の三つの部分に分割されている。上部には凱旋車に乗る神々と多数の動物や人物が配され、中間部には黄道12宮を表すしるしが置かれ、下部では各月のボルソ公の宮廷内外の行動と領地の農作業の様子が見られる。 これらの壁画が得意なのは、上部において黄道12宮に対応する惑星神以外の神々が描かれている点にある。すなわち、ヴィーナス(金星)やメルクリウス(水星)やユピテル(木星)に混じって、パラスやキュベレやケレスが登場しているのである。この転居は、1世紀にローマで活躍した詩人マニリウスの『アストロノミカ(天文学)』に求められる。そこでは「自然」は黄道12宮のおのおのに「守護神」を割り当てた、と歌われている。ただしこの作品は中世には全く知られておらず、1417年にスイスのザンクト・ガレン修道院に眠っていた写本を、フィレンツェの人文主義者ポッジョ・ブラッチョリーニ(1380^1459)が発見した。 この写本は、レギオモンタヌスが『アストロノミカ』を1473年頃にはじめて刊行する際に利用された。より完全な写本は、1450年にモンテ・カッシーノ修道院でアントニオ・ベッカデッリ別名パルミノータが発見している。1455年頃から1470年(356)頃までに、フェッラーラで成立した写本で、現存しているものは七つ数えられており、その流布していた様子を知る事が出来る。つまり、スキファノイア宮の壁がプログラムは、ローマ時代の一論考の発見とその影響の基に作成されたのである。この壁が自体は後年「イコノロジー」の創始者アビ・ヴァールブルクによって分析されることになる(1912) 人文主義者の古典古代への憧憬は、必然的に彼らを失われていたテクスト、或いはよりすぐれたテクストの探索と収集へと向かわせた。この点に於ても偉大な先駆者だったのがペトラルカである。彼の個人蔵書は当時のヨーロッパにおいて最大級のものであったが、彼は単なる収集家ではなく、学問的にテクストを取り扱ったのであり、その意味では近代最初の文献学者ともいう事が出来る。この側面を表す代表的な仕事がリウィウスのローマ史の再構成である。元来この作品はデケイド(10巻ごと)に分割されて伝承され,幾つかのデケイドは散逸していた。現在大英図書館に所蔵されている1写本は第1、第3、第4デケイドを含んでいるが、これを編集して、テクストを補足・注解・訂正したのがペトラルカであった。 彼の後を継いだのがボッカチオであり、そして、フィレンツェの人文主義者コルッチョ・サルターティである。後者による最大の業績はキケロの『親近書簡集』の写本の発見であった。しかし、彼にも増して失われたテクストを掘り起こす才能に恵まれていたのが、教皇の秘書として自由に文学的活動を行いえたポッジョ・ブラッチョリーニなのである。彼は様々な機会を利用して多くの未知・既知の古典テクストを入手した。例えば、1415年にクリュニーの修道院で発見したキケロの弁論集や、1416年にザンクト・ガレンの修道院で発見したクインティリアヌス『弁論家の教育』の完全なテクストを含む写本である。前述したマニリウスの『アストロノミカ』は、翌17年に再訪した際、ルクレティウスおよびシリウス・イタリクスの作品と共に発見したものである。 15世紀のイタリアで、こうしたラテン語文献の収集と共に、ギリシア語文献への関心が高まった。そ(357)の背景としては、サルターティの尽力により、ビザンティン帝国からマヌエル・クリュソロラスが呼ばれて、1397年よりフィレンツェでギリシア語が教授されたことや、そのほか多数の学者がビザンティンから―――とりわけ1453年のコンスタンティノープル間落後は―――イタリアの諸都市に移り住んだ事が挙げられる。他方で、イタリア人の中にもフランチェスコ・フィレルフォやグアリーノ・ダ・ヴェローナのようにコンスタンティノープルで勉学して,新たなテクストを持ち帰ったものもいた。収集家として有名なのはジョヴァンニ・アウリスパで、彼は1413年に238冊ものテクストを取得している。こうして哲学史的には、プラトンをはじめとするギリシア哲学に原典でアプローチする基盤が漸く成立したのである。
 文献学と印刷術 古典テクストの写本の収集が盛んになるに伴い、テクストの伝承と校訂を対象とする文献学も格段の進歩を遂げた。その代表的な学者がロレンツォ・ヴァッラとアンジェロ・ポリツィアーノである。ヴァッラは,まずいわゆる『コンスタンティヌスの寄進状』に対して文献学的な見地から批判を加えた。この文書は、キリスト教を公認したコンスタンティヌス大帝が、教皇にローマとイタリアの幾つかの属州を寄進したという伝説を記録し、教皇の世俗権力に対する優位性を説く事を目的としたものだった。ヴァッラは1440年に歴史学的及び言語学的根拠によって、この寄進状が構成に捏造されたものである事を証明した。 ヴァッラの文献学上の代表的な成果は、1446-47年に著された『ティトゥス・リウィウスの六つの巻の校訂』である。この書物はローマ史の第21-26巻を扱ったものであるが、その際にヴァッラが利用したのは、前述のペトラルカがまとめた写本であり、欄外には彼の自筆の注記も残されている。また彼は、教会公認のラテン語訳聖書(ウルガタ)に対して、同訳の数種の写本とギリシア語原文を比較検討して、『新約聖書の校合』を1449年に執筆した。この仕(358)事はエラスムスから高い評価を受けて、1505年に『新約聖書注解』として出版された。 ポリツィアーノはラテン語とイタリア語の一流の詩人であった上に、29歳代からフィレンツェ大学で修辞学を教えるほどの学識を誇っていた。彼の該博な仕事は『論叢』にまとめられており、テクスト批判に関する箇所では、1392年にサルターティの求めに応じて筆写されたキケロの『親近書簡集』がヴェルチェッリの司教座聖堂参事会図書室の写本に基づくこと、また同写本が構成の一群の写本の原典になっている事を示した。彼はまたギリシア語についても高い学識を示しており、大学でカリマコスやテオクリトスについて講義したほか、カトゥルスのテクストの既存した一節を校訂するのにカリマコスのテクストを用いた。 こうした文献学上の努力は、当時飛躍的な発展を見せていた印刷術と結びついて、大きな成果を生み出した。すなわちより正確な標準的テクストの出現によって、学者達の協働による学問的進展のための堅固な基礎が置かれたのである。有名なヴェネツィアの出版社アルド・マヌツィオは学問的サークルを作り,そこから優れた校訂による書物が陸続きと刊行された。1459年から98年に掛けて最初のギリシア語版アリストテレス全集が、また1514年には最初のギリシア語版プラトン全集が印刷されている。ディオゲネス・ラエルティオスの刊行は1533年、プロティノスの刊行は1508年であった。 ルネサンスにおける出版史上最大の事件の一つは、エラスムスによるギリシア語版新約聖書の刊行であろう。1516年にバーゼルのフローベンの書で印刷された同署は、幾つもの欠点を持ちながらも学問の方法論として重要な意義を有していた。エラスムスはここで、研究は翻訳よりも原典に即して、しかも厳密な学問的手続きにしたがって行われるべきであり、その作業には例外がない事を示したのである。
 ダンテとルネサンス ダンテ理解の不徹底さ(359) ルネサンスを扱う本巻にダンテが含められている事は、わが国におけるダンテ理解の不徹底さを反映している。ダンテ(1265年生)とペトラルカ(1304年生)を隔てる一世代強の時間が持つ文化史上の意味については、別の機会に論じたが、二人の間の文化の大きな溝にもかかわらず、いまだにダンテをルネサンスに関連づけたくなる誘惑は何処に由来するのか。 ダンテの著作を紐解けば、彼が「哲学者」と言えばアリストテレス、「注釈者」と言えばアヴェロエスを意味した時代に属している事は明白だし、『神曲』に言及されている名前は、13世紀の思想家に限定するなら、トマス・アクイナス、アルベルトゥス・マグヌス、ボナヴェントゥラ、ブラバンのシゲルスなどである。にもかかわらず、この誘惑がいまだに残っているとすれば、その原因の一端は「地獄編」第26歌に登場するオデュッセウスの、わが国における解釈にあるのかもしれない。ホメロスが語るオデュッセウスとは違い、ダンテが語るそれは大西洋に乗り出し、南半球に位置する陸地(=煉獄山)を求めて冒険する。知的好奇心に駆られ大海に飛び出すこの英雄を、中世の桎梏から脱する新時代じんとする解釈が事実わが国では試みられた。 だが、①独力で旅を続け、煉獄を目前に難破して生涯を閉じるオデュッセウスと、超越的な性格の案内者の援助を受けて煉獄に達するダンテ(登場人物)の間には180度の開きがある。一方は地獄に落ちるが、他方は至高天に昇る。そして、両者の対照を際立たせ(360)るかのように、両者を扱う部分には、ボルヘスのような愛好家も指摘するとおり、形式的な類似が見られる。 ②このように「ダンテの否定的分身」として描かれているオデュッセウスは、地獄に堕ちた今、自分の航海を顧みて、それを「無謀な飛翔」と呼ぶ。「無謀な」folleが意味するのは航海の速度のことでは無い。実際、オデュッセウスは煉獄が視野に入るところまでつくのに約五ヶ月を要している。それでは「無謀な」が指示しようとしている航海の特徴とは何なのか。ボスコはダンテの著作におけるfolleの用例を網羅的に検討した結果、『神曲』で用いられているこの形容詞には常に「高慢」superbia、「節度の無さ」eccessoなどのニュアンスがある事を明らかにした。そして、その議論には、マッジーニが賛同した。 ボスこの用例分析及びダンテとの対照を考慮すれば、オデュッセウスの旅の「無謀さ」は、限度もわきまえず、ただ自分の力のみを頼りとして禁じられた聖域に近づいたことだと推測される。人間を獣から分かつ知識に向かい大胆に前進しつつ、オデュッセウスは究極的な幸福からは交代する。この英雄には、成熟したダンテが自ら否定することになる一時期の未熟なダンテが投影されていると、ボスコは考える。それは哲学研究にのめりこみすぎた時期のダンテだが、彼もシゲルスと同じようにアヴェロウェス主義の影響を受けたのだろうか。これはここでは扱い得ない大問題であるが、オデュッセウスはルネサンス人のさきがけというよりは、むしろ13世紀の知的傾向のひとつなのである。  魔術とオカルト哲学(679) 優れた人文主義的知識を持っていたアグリッパは、この著作においてフィチーノの占星術やピコ・デッラ・ミランドラの自然魔術に関する議論を発展させつつ、オカルト的学問についての一種の「大全」を作り上げた。同書は3巻からなり、第1巻は自然的魔術を、第2巻は天空的魔術を、第3巻は儀礼的(680)魔術をそれぞれ考察の対象としている。 ピコは魔術の事を「自然哲学の絶対的完成」であると呼んでいたが、(魔術についての論題)、アグリッパにとっても魔術は「自然哲学の頂点」であった。   :この魔術が自然的であるのは、それが自然的かつ展開的な事物全ての力を観察し、不断の探求によってそれらの間に存する「共感」を吟味して、自然の中に隠され、蓄えられている力をあらわにするからである。こうして、魔術は低次の事物を高次の事物の能力と結びつけ、そこに驚くべき奇跡が出現するが、それは術と言うよりもむしろ自然によって果たされるのである:。 アグリッパにとって魔術とは、宇宙全体の中に「隠されたもの」occultaの探求に他ならず、『オカルト哲学』第2巻においては星辰の地上への影響が取り上げられ、占星術が詳細に論じられる。また第3巻に於ては天使的な霊が議論の対象となり、カバラの秘儀が説かれる。
(伊藤博明編『哲学の歴史 第4巻 ルネサンス 15-16世紀』、中央公論社・2007年)  目次総論.ペトラルカ。市民的人文主義者(ブルーニ。アルベルティ。パルミエーリ。)。ニコラウス・クザーヌス。フィチーノ。ピコ・デッラ・ミランドラ。ポンポナッツィ。マキアヴェリ。エラスムス。トマス・モア。ルター。ジャン・ボダン。モンテーニュ。自然哲学者(カルダーノ。テレージオ。パトリッツィ。)。ブルーノ。スアレス。カンパネッラ。ガリレオ。フランシス・ベイコン。