2009年4月2日木曜日
世界観,その主な特徴(宇宙観=占星術、天文学)
世界観―――その主な特徴(宇宙観=占星術、天文学) (283)規模の大小にかかわらず、社会集団にはある種の心的態度を共有する傾向がある。例えば、神や宇宙の観念、自然や人間、生と死、空間と時間、善と美などについて共通した考えを持つのである。……(284)芸術と社会の関係は直接的なものではなく、世界観を媒介としていることが前提となる。……第一に複数の世界観が存在すること、別の言い方をすれば特定の心的態度が特定の時代、場所、社会集団に見られしたがって「ルネサンス的心的態度」や「フィレンツェ的心的態度」「聖職者的心的態度」について触れても的外れではない、と言うこと。第二にこれらの世界観のもっとも精巧な表現は美術と文学にあるという[仮説]である。…… 宇宙観(285) 時間と空間に対する見方は、一つの文化の支配的な心的態度をとりわけ際立たせるものである。……(286)[従来は時間測定が曖昧であったが]新しい時間の観念と新しい空間の観念の間には明らかな並行関係がある。時間と空間の両者はともに厳密に計測可能なものとして見られ始めたのである。機械時計と絵画の遠近法は同一の文化の中で発展したのであり、ブルネレスキはその双方に関心を抱いた。ウッチェロとピエロ・デッラ・フランチェスカの絵画は正確な測量に関心を持つものの作品であり、同じ関心を共有する人々に向けて制作されたのである。15世紀の物語画には中世の物語画よ(287)りも空間と時間を厳密に示しているものが多い。 時間と空間の観念の変化は伝統的な宇宙観と共存していたように思える。ダンテが神曲の中で忘れがたい形で表現したこの伝統的な宇宙観を、16世紀のダンテの注釈者たちも基本的に受け入れていた。なぜなら彼らにしてもダンテの時代と同じ古典の伝統、特に天文学=地理学者プトレマイオスと哲学者アリストテレスという二人のギリシア人の著作から宇宙観を受け継いでいたからである。この伝統に拠れば、根本的な宇宙の境界線は天国と地上の間に置かれる。 「天国」は実際には複数形で表現される。宇宙の中心に地球があり、その周囲を七つの「天球」もしくは「天国」が取り巻く。それぞれの天国の中を月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星という惑星が一つずつ動く。惑星はそれぞれ特定の古典の神や女神としばしば同一視される天体動力によって動かされる。このように惑星と神々が一体化していたことが中世にも異教の神々が生き残ることにつながった。 惑星の重要性はそれが及ぼす「影響」にある。ロレンツォ・デ・メディチが書いたカーニヴァルの歌には「全ての善と悪は惑星のめぐり合わせで決まる」とある。特定の職業、気質、体の一部が特定の惑星の影響を受けると言うことだけでなく(日曜は太陽、月曜は月というように)一週間のうちの特定の曜日も特定の惑星から影響を受けるのである。ヴァザーリはレオナルドの生涯を扱った部分で「この上なく偉大な才能が人々のうえに齎されるのは天空の影響によるものと思えるかもしれない」と述べているように、芸術的創造力を占星学から説明している。過去を説明したり、どのような(288)未来が待ち受けているかを知る為に、特定の時点での七つの天国の配置を計算する専門家に意見を求めるのは普通のことであった。人文主義者の内科医ジローラモ・フラカストロは、ヨーロッパにおける梅毒の流行を土星、木星、火星の三つの惑星がかに座の配列に並んだことで説明している。哲学者フィチーノはそれぞれの惑星の「精神」を(火星には「勇ましい」声と言うように)それにふさわしい音楽や声によって捉えることが出来ると信じていた。またそれにふさわしい「印」(正しい正座の下で宝石に刻み込まれた像)を作ることでも同じことが可能であると彼は信じていた。 こうした信仰は芸術に対してかなりの「影響」を持った。アビ・ヴァールブルクによるフェラーラのスキファノイア宮殿のフレスコ画についての図像学的分析は、これらのフレスコ画が黄道12宮を表しており、36の「十分角」decanusに分かれている事を明らかにした。フィレンツェの貴族フィリッポ・ストロッツィは1489年宮殿の礎石を置く前に、良き星位を確かめる為「占星術学に通じた人物」の意見を求めたが、それはアルベルティやフィラレーテらが著作の中で勧めていたことであった。フィレンツェでミケランジェロのダビデ像の設置場所が議論された折に、ある発言者は「悪い星の下に建立された」ドナテッロのユディト像と入れ替えるべきだと主張した。ラファエッロのパトロンであった教皇庁の銀行家アゴスティーノ・キージは占星術学に関心を持っており、彼が注文した絵のうちの数点は彼自身の星座に関連したものである。 (289)教会も占星術学を容認していた。それはキリスト教信仰と相容れないものとはみなされなかった。ロレンツォ・デ・メディチが書いているように、「木星はそれ自身の天球だけを動く惑星であって、木星を動かすさらに高貴な力が存在する」のである。黄道12宮は12使徒に関連付けられた。教皇たちの多くが星座に関心を抱いた。例えばパウルス3世は、彼の教皇選出を予言した占星術師(ルーカ・ガウリコ)をローマに呼び寄せ、司教職を与えた。とはいえ、神学と占星術学が実際面では互いに競い合う二つの体系であるとの意識も当時は存在していた。聖人たちが特定の日を統括し、惑星も同じようにある曜日を支配した。人々は自分たちの問題を僧侶或いは占星術師に相談した。当時の指導的な人物の何人かが占星術学を否定したのは主として宗教的な理由からであった。その良く知られた例としてピコ・デッラ・ミランドラ(「人がなすべきこと・避けるべき事を知る為に占星術学は何の助けにもならない」と公言している)やサヴォナローラが挙げられる。 七つの天国の上に、そして「動かぬ星星」の天球の彼方に神は見出されるべきものとされた。この時代の文書のほぼ全てに神は姿を現す。商取引の記録すら「救世主イエス」Jesus Hominum Salvatorを意味するYHSの組み合わせ文字で始まるのが通例であった。災害が起きれば、それを神の怒りと解釈するのが普通のことであった。「われわれを懲らしめる事を神がお望みである」と言うのが、ペストの流行に対するフィレンツェの薬売りルカ・ランドゥッチの言である。1494年にイタリア半島に侵入したフランス軍がフィレンツェに実質的な被害を与えなかった際にランドゥッチ(290)は「神はその庇護の手をわれわれの頭上から動かさなかった」と書いている。私的な書簡の中にも神の名はいつも現れる。フィレンツェの貴婦人アレクサンドラ・マチンギ・ネリ・ストロッツィは書簡の中で、「神がこのペストから全てのものを救われんことを。……何であろうと神が望まれる事を辛抱強く受け入れねばならない。……神が彼らに安全な旅を齎されんことを」と言った事を書いている。マキャヴェリですら家族への手紙を「キリストがお前たち全てを守らんことを」と言う文言で終えている。 今日までキリスト教徒たちが偉大的さまざまな神のイメージのうちで、二つのイメージがこの時代にとりわけ特徴的なものと思える。ホイジンガが15世紀のフランスとネーデルラントについて、神のやさしさを強調することとキリストに対する「感傷的なまでの慈しみ」の姿勢が見られると述べているが、同じ事をイタリアでも見出すことが出来る。例えばサヴォナローラはキリストに対して「わがいとしき主」或いは「優しき伴侶」と言った親しみのこもった愛称で呼びかけている。キリストを献身の中心的対象とする信仰は修道士たちにって広められたように思える。ドメニコ修道会士のサヴォナローラだけでなく、フランシスコ修道会士であるベルナルディーノ・ダ・フェルトレはコルプス・クリスティ(キリストの聖体にささげられた)同信会を各地に設立した責任者であった。フランシスコ会士の聖ボナヴェントゥーラが著したと言われる『キリストの受難に関する省察』は15世紀イタリアにおけるちょっとしたベストセラーであったし、14世紀のネーデルラントの信仰書『キリストに倣いて』も同様に版を重ねた。 人間の優しい救済者と言うこのイメージは、宇宙の創造者という超然とした神のイメージとも共存する。ロレンツォ・デ・メディチは神を宇宙の「最も美しい建築家」或いは商会の主人と呼んでいる。ダヴィンチは「労働の代償としてあらゆるすばらしいものをわれわれに売ってくれる」ものと神に呼びかけている。フィレンツェの承認であり学者であったジャノッツォ・マネッティは「会計係に金を与え、その支出明細を求める商売の達人」に神をたとえるのを好んだ。彼は福音書の内容を、そのもともとの設定から宿屋の主人と奉公人などの、より商人の世界に近いたとえ話に置き換えたのである。このようにルネサンスのイタリア人たちは彼らの関心を超自然世界に投影したのである。 人間が生きているそれよりも低い「地上」世界は四つの元素―――大地、水、空気、火―――から構成されていると考えられていた。それはフィレンツェのパラッツォ・ヴェッキオにあるヴァザーリが描いた『四大元素の間』が示すとおりである。元素はそれぞれ四つの「相反する性質」、すなわち熱い、冷たい、湿った・乾いたを備えるとされた。 地上にあるものにも四つのレベル―――人間・動物、植物、鉱物―――が存在した。これが「存在の偉大なる鎖」と呼ばれたものである。ヒエラルキーをもっと明確に強調する為には存在の「階梯」のほうが言葉としては良いかもしれない。鉱物には魂が欠如している為、階梯の最(292)底辺に位置する。次いで植物が来る。アリストテレスによれば、植物には「植物的霊魂」があるのに対して、動物には「感覚的霊魂」(感覚を受け取る能力)があり、そして頂点たる人間には「知的霊魂」(言い換えれば、理解する能力)がある。動物・植物・鉱物はそれぞれ階層別に配列される。宝石は準宝石よりも高い地位にあり、ライオンは獣の王とみなされる、といったようにである。 階梯の中に位置を定めることがはるかに難しいのは、当時の詩の中に見え隠れする妖精や(詩人ポリツィアーノが幼い頃に祖母から聞いたような)荒涼たる地に生きて子供たちを食べる木の精や、地上と月の間に生きていて魔法によってしか人が接触できない「精霊」(フィチーノもそうした存在との接触を試みた)などの場合である。精霊の存在そのものを疑った哲学者ピエトロ・ポンポナッツィのような人物もいる。だが、彼はむしろ少数派の意見を代弁していたように思える。この時代の詩を読んだり、ボッティチェリの『春』を見るときには、そこに現れる超自然的人物は宇宙の住民の一部と考えられ、芸術家の想像力が作り出した虚構とはみなされなかったことを心にとめる必要がある。 地上のもう一つの力、すなわち運命の地位はまたさらに決めがたい。運命には二つのありふれたイメージ、すなわち風と車輪のイメージが結びついている。風のイメージははっきりとイタリア的なものに思える。「海の運命」fortuna di mareという慣用句は暴風雨を意味し、不意に起こる制御できない変化の具体例である。フィレンツェの貴族であるルチェッライ家は帆の紋章を使っていたが、それは彼らの教会であったフィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂の正面に今でも残っている。ここでは風が運命を現し、穂は状況に適応し乗り切る個人の力量を象徴している。(293)運命の二番目のイメージは前髪を伸ばした女神と言うよく知られた古典的なそれである。運命の女神の前髪はすばやく掴まねばならない。なぜならその後ろの部分ははげているからである。『君主論』第25章でマキャヴェリは性急である事を推奨している。その理由は、運命とは女性であり「かのじょをせいふくすることを望むならば、彼女を打ちのめしたり突き飛ばしたりする必要がある」というのである。一方彼の友人である歴史家グィッチャルディーニは、余りに周到な陰謀を準備することは危険であると警告する。と言うのも「運命はあらゆる事象にかくも重大な役割を果たすのであり、彼女の支配する領域を限られたものにしようとする人々に対しては怒りを示す」からである。他のやり方で得られた結論により鮮烈な印象を与える為、運命の女神が使われているのか、それとも彼女が議論全体を支配する存在になっているのか、また運命の女神は言葉の上での発明でしかないのか、それとも人間の制御可能な範囲の外にある物事を描く為のまじめな(少なくとも半ばまじめな)やり方であるのか……。 地上の世界を理解し、操作する為に利用できる技術がいくつか存在した。例えば錬金術や魔術、呪術などである。こうした技術の知的な前提条件については論議しておく必要がある。 金を最も尊いものとする金属のヒエラルキーの存在と、金属がこのヒエラルキーを移動することが可能であると言う考え方の上に錬金術は成立していた。錬金術は占星術学ともつながっていた。つまり金は太陽、銀は月、水銀は水星、鉄は火星、鉛は土星、錫は木星、銅は金星というように七つの金(294)属は七つの惑星にそれぞれ対応するのである。錬金術はまた医学とも関連していた。錬金術師たちが捜し求めた「賢者の石」はあらゆる病気を治す「万能薬」であった。 15-16世紀のイタリアで錬金術が果たした役割は「ごく僅かなものに過ぎない」とブルクハルトは考えた。錬金術のように注意深く秘儀として伝えられた技術がどれほどの広がりを持っていたかについて一般的な結論を下すのは危険なことだが、どうやらブルクハルトは間違っていたようだ。1488年に錬金術を禁止する布告を出していることから見て、ベネチアの10人評議会はこれをもっと真剣に考えていた。我々が扱う時代の広範にイタリアでかかれた錬金術に関する文書が数編現存している。中で最もよく知られているものは、1515年に刊行され教皇レオ10世にささげられた、ジョヴァンニ・アウグレッロの手になるラテン語の詩『黄金の詩』Chrysopoeiaである。この献上に対して教皇が詩人に空の財布を報償として与えたと言う話が伝えられている。ベネチアの僧侶「J・A・パンテウス」なる人物もレオ10世に錬金術に関する著作を献上しているが、その後彼は「金属のカバラ」という新しい考え方を考案してこれを錬金術と注意深く区別した。恐らく10人評議会が依然として錬金術には敵対的だったのであろう。一方では錬金術士達の主張を疑ってかかる人々がいた。15世紀フィレンツェの大司教聖アントニーノは、金属の編成は人間の力を超えるものと考えた。またシエナの冶金学者ヴァンノッチョ・ビリングッチョは錬金術が「むなしい願望であり、取り留めの無い夢」でしかなく、金を作り出そうとする欲望に「炉の炭よりも熱く燃え上がった」錬金術師たちは自分と同じように採掘を行うべきだ、と論じた。 (295)錬金術と美術・文学との可能性については、かすかな兆候があるに過ぎない。錬金術は独自の象徴の体系を持っており、ある種のコードとして使われる。その体系の中では、例えば、泉は金属の精錬を意味し、キリストは賢者の石を、結婚は硫黄と水銀の結合を、竜は火をそれぞれ意味する。事態をさらに複雑にするのは、錬金術のイメージを別のもの(例えば宗教的真理など)のシンボルとして使う著述家たちがいることである。1499年にベネチアで出版された、作者不明の難解なロマンス『ポリフィルスの狂恋夢』はこの種のシンボルを多く使っている。恐らくこの恋愛小説は錬金術的なレベルでの意味も持っていたのであろう。パルミジャニーノが錬金術の研究の為に絵画を断念した事情をヴァザーリは伝えているが、錬金術のシンボルが彼の絵の中で使われている事も指摘されている。不幸なことに、錬金術師たちが多数の普通のシンボルを使った(それに普通でない解釈を与えた)と言う事実が、そうした指摘を検証できなくしている。 魔術は錬金術よりもはるかにオープンに議論されている。少なくとも白魔術に関してはそうである。ピコはその点を次のように書いている。 :魔術には二つの形がある。一つは悪魔の業と権威に全てを負う魔術である。それは心なる神に誓って、嫌悪すべきものであり奇怪なるものである。もう一つの魔術とは、それが正しく求められるのであれば、自然哲学の真の達成以外の何者でもない。前者は人間を邪悪な力の奴隷にするのに対して、後者は人間をそうした力の支配、主人にするのである(296)。: 非難の対象とした黒魔術の効果をピコ自身が信じていたことに注意する必要がある。 比較の視点から見て、通文化的に魔術を次のように定義することが有益と思われる。特定の儀式を行い、特定の文言(呪文、まじない)を書き留めもしくは発音し、ある変化が生じる事を望んだり求めたりした結果として、世界に実質的な変化を齎そうとする試みである。この定義から判断すれば、ルネサンス期のイタリアでもっとも強い影響力を持った魔術師の集団はカトリックの聖職者たちであった。なぜなら当時彼らは儀式や聖なる画像や祈祷によって病気を治療する事も、嵐をそらすと言った事もできると主張していたのである。 しかしながら同時代人たちの視点から見れば、宗教と魔術との区別は重要な問題であった。教会―――社会学的により厳密に言えば、高度な教育を受けた聖職者たち―――は一般に魔術を懐疑的に見ていた。ベルナルディーノ・ダ・シエナだけでなくサヴォナローラも呪文の書物を公開の場で焼却させた。こうした魔術に対する教会の敵対的姿勢(そして既に触れたように、占星術学に対しても同様に敵対的な場合があった)を単純に対抗や競争と言った言葉で説明しようとするのはシニカルに過ぎる。聖職者たちの懐疑的な姿勢には別の根拠もあったのである。魔術が邪悪なものであるには二つの理由があった。第一に魔術は物を作り出したり、身を守ったりするのと同じように、破壊的でもありえた。 (297)第2に、魔術師には邪悪な霊の力を利用する可能性があった。そのため劇的効果を生み出す仕掛けを数多く考案した15世紀のベネチア人ジョヴァンニ・フォンターナは地獄の霊の援助を受けている降霊術師であるという評判を得た。それはちょうどアリストファネス劇の仕掛けが余りに大きな効果お齎した為に、それを考案したジョン・ディーが16世紀のケンブリッジで気味悪く思われたのと同じことである。恐らく同時代の人々の多くがブルネレスキやレオナルドを同じような眼で見ていたことであろう。より学識ある人々の場合でも、例えば哲学者アゴスティーノ・ニーフォは魔術の不思議は―――アリストテレスの確信とは反対に―――悪魔が実在する事を示していると論じている。 当時の文学は魔術に染まっている。例えば騎士物語は妖術師や魔力を持つもので溢れている。アリオストの『狂乱のオルランド』では魔法使いメルリーノと女魔法使いアルチーナが重要な役割を演じる。アンジェリカは魔法の指輪を持ち、アストルフォは木に姿を変え、アトランテの城は魔力の拠点である、と言った風である。この本の最初の読者たちは、魔術を常にまじめに受け取ってはいないにしても、それほど軽く見てもいなかったと考えるべきであろう。彼らは魔術の力を信じていた。アリオストと同じ場所、フェラーラの宮廷でドッソ・ドッシは『オデュッセイア』の妖女キルケーの絵を描いたが、彼女はルネサンス期のイタリアで多くの人々の関心を集めたのであった。 キルケーに対する関心の理由の一つは、彼女が魔女であると考えられていたことである。それはジャンフランチェスコ・ピコが1523年に出(298)出版した呪術に関する対話編の中で、ホメロスやウェルギリウスといった古代の著者たちの証言を数多く利用したことから来ている。呪術とは貧しいもの、もしくは貧しい女の魔術であった。すなわち教育を受けたエリートのかなりの人々は魔術と呪術を区別し、後者を悪魔と契約を交わした貧しい女たちと関連付けて捉えていた。彼女たちはいかなる研究も行うことなしに、超自然的な手段によって他人に害を為す能力や、「サバト」と呼ばれる夜の狂宴に空を飛んで駆けつける能力をその契(299)約に基づいて与えられるとされた。そうした告発を受けやすかったのは、男女を問わず、超自然的な手段でなくしたものを見つけたり、人や動物の病気を治すために近隣の人々から呼び出される村人たちであった。「病気を治す術を知るものは病気を引き起こすこともできる」と言う格言は当時広く流布していた。隣人たちがこうした能力を悪魔的なものと考えたかどうかは判断が難しく、告発を受けたものたち自身が自らの行為をどのように考えていたかは何よりも掴みにくい。1427年ローマで二人の女性が猫に変身し、子供たちを殺し、その血をすすった事を告白した。だが大半の裁判と同様にこの事件でも被告たちが法廷に出る以前にどれほどの圧力を受けたかを法廷の記録は明らかにしていない。 例外的にそうした事情が分かるのが、1520年にモデナ地方で呪術を使ったかどで告発を受けたキアーラ・シニョリーニという貧しい農夫の場合である。彼女とその夫は自分たちの小作地から追放され、その後その土地を所有する女主人が重い病気にかかった。期アーラは元の土地に戻れる事を条件に病気を治すことを申し出た。ある証人はキアーラが被害者の家の戸口に「十字の形にしたオリーブの枝と……やはり十字の形の死者の骨と……聖油に浸したと思われる絹の白衣を」据えるのを目撃したと述べた。キアーラは尋問を受けて、聖処女の姿を見た事を語るが、尋問者はそれを悪魔の姿に解釈しようと試みる。拷問を受けた後、キアーラは悪魔が彼女の前に現れた点については合意するが、「サバト」に出席したことは決して認めようとしなかった。十字と聖油の使用は、聖処女のイメージと同様に深い意味を持っていた。異端審問官たちが集めた「呪文」のいくつかは祈り(300)の形を取るものであった。ある集団が呪術とみなすものが、他の集団では宗教と受け取られることもあった。解釈をめぐるこの争いにおいて、最終的な決定権を持つのは拷問道具を背後に持つ尋問官の側であった。 それでも魔術や呪術の有効性に関して疑念を表明した何人かの著述家たちがいる。例えば人文主義者の法律家アンドレア・アルチャートは(モンテーニュが後に行ったように)いわゆる魔女たちは夜の飛行などの幻覚症状に苦しんでいるのであり、刑罰よりも治療がふさわしいと提起した。内科医ジローラモ・カルダーノは、被告たちはただ拷問を終わらせる為に尋問官の示唆する事を何でも自白しているに過ぎないと指摘した。パドヴァ大学でアリストテレスの哲学を教えていたピエトロ・ポンポナッツィはその著書『呪文について』の中で、一般の人々は自分たちに理解できないことを単純に悪魔の行為にしてしまうと論じている。呪文によって矢を抜き取ったり、王が手を触れることで「るいれき」と呼ばれる皮膚病が治癒する、と言った一見超自然的な現象にポンポナッツィは自然科学的な説明を与えた。聖書にしるされている幾つかの奇跡や、聖遺骨による病気の治癒と言った事例についても彼は同様の見解を示した。治癒は患者の信仰心の強さによって生じたものであり、犬の骨であっても聖者の骨と同じ効果を齎したはずである、と彼は論じる。教会による宗教と魔術の区別の論拠を掘り崩すこの著書がポンポナッツィの生存中には出版されなかったことは決して不思議ではない(300)。(ピーター・バーク著 森田義之・柴野均訳『イタリア・ルネサンスの文化と社会』、岩波書店・2000年)