2009年4月2日木曜日
レトリック文化(レトリックと徳)
レトリック文化(レトリックと徳)(21) ヨーロッパ・非ヨーロッパのいずれの地域を問わず、ルネサンス・ヒューマニズムにはレトリックに対する歴史的理解が欠かせない。 アリストテレスに明らかなように、古代ギリシャではレトリックとは元来演説を行う事に関わっていた。これを受け継ぐ古代ローマではキケロの例に見られるようにそれは「雄弁」eloquentiaの問題であり、「術に適った雄弁(人為巧妙な弁論)」artificiosa eloquentiaをその特質としていた。この概念は、古代のレトリックを正確に捉えることの出来たヴェルジェーリオの『気品ある礼儀と青年の自由教育』(22)で用いられる。このように本来的に「話し言葉」の世界に属するのがレトリックであった。…… そして[書き言葉の遊びと捉えられるような]書物では、レトリックが生き方に深いかかわりを有している事などは一顧だにされなかった。実際はペトラルカ以来のヒューマニズムの核心部分はこれであり、「立派に語るすべ」ars bene dicendiとしてのレトリックは生における実践にかかっていた。それはグアリーノやエラスムスなど、例外なしにヒューマニストの強調する、「立派かつ幸福に生きるすべ」と等値である。文体や修辞などの表現術が問題になっていないということではない。……他者を魅するのはこれを駆使する個人の賢明さとともに、人格、品格・尊厳に、また品性よき人にあるということも古代の弁論家は強調したのであり、ルネサンスもこれを信じた。…… 弁論が徳であるというクインティリアヌスの主張も、生と倫理に関わるレトリックならばこそであろう。「どんな種類の動物にも、他の全部ないしは大抵の種類のものに勝っている能力があるものである。獅子は攻撃力で、馬は走る速さで勝るように、人間は更に理性と言論を持つという点で、他の動物にぬきんでている事は確実である。そうであるなら、人間の卓越する特質virtusが雄弁にも理性にもあると、どうして信じてならないのであろうか。クラッススがキケロに倣って、「雄弁は実に最高の徳の一つであ(22)る」と言っているのは正鵠を得ているのではなかろうか。 そして、キケロ、クインティリアヌス以後のレトリックの歴史にキリスト教の要素が組み込まれる。「レトリック教師」アウグスティヌスがその為に果たした役割はぬきんでて大きい。……(23)(根占献一著『フィレンツェ共和国のヒューマニスト』、創文社・2005年)ヒューマニズムの社会的・地理的拡大(19)言語の素養は生きた力として、市民(役人・政治家・教育者)や聖職者の活動の源になっていた。ラテン語は限定された一部の職業人、特に学者専用の言語ではなかった。前期人文主義のデイ・ロヴァーティらは実務家であったし、後続の人達も変わらない。特に史書を著した15世紀のヒューマニストを見ると……、[彼等は]歴史書を書き上げる事に時間を費やしたのではない。本職は行政官であり、歴史叙述や古典の研究はこの仕事の中で続けられた。……また……エルモラオ・バルバロはプリニウスの『博物誌』を校訂した大学人だが、それと同時に、或いはそれ以上にベネチアの現職外交官であり、その関係書を遺している。 ルネサンス・ヒューマニズムの理想はイエズス会に最も熱心に導入され、制度化された。その教育活動から、聖職者だけでなく数多くの俗人である教育者・文学者・哲学者などが世に出た。またわが国を含むアジア世界やアメリカ世界にもその余波は広がった。ヒューマニズム教育を受けた者が日本にもやって来た。……(20)中世に「ルネサンス」は繰り返されたと言われるけれども、イタリア・ルネサンスはその規模においてかつての「ルネサンス」とは比べ物にならず、全地球的となる。…… (21)このルネサンスは、忘れ去られていた多くの古典がよみがえり、それらが「訓詁学者」や「書誌学者」の占有物となった程度のヒューマニズムが中心問題ではなかった。それは異なった文化圏に広がり、対抗或いは融合を通して新たな展開を画するものであった。(21) (根占献一著『フィレンツェ共和国のヒューマニスト』、創文社・2005年)