(114)ランディーノの詩学とフィチーノ ランディーノ(1424-1498) 15世紀のフィレンツェは、ほぼその世紀全体を通じてメディチ家の支配下に置かれていた。その庇護の下にあって、ランディーノは文学の研究ならびにその教授を行い、またフィチーノもギリシア哲学の研究と紹介を通して、彼らの天分を十分に開化させることが出来たのであった。メディチ家から受けてきた恩恵に対して、フィチーノは折に触れしかるべき感謝の意を示している。(中略)老コジモの時代に、ランディーノはアリストテレス主義者カルロ・マルズッピーニの後任として、Studiumの教授に抜擢され、ほどなくして1459年2月、アルベルティ家のルクレツィアと結婚し、それによってフィレンツェにおける古典研究の主導権を自らの掌中に収めることとなった。同じく医師ディオティフェチ・ダニョロ・ディ・ジュストの子フィチーノも、1463年にフィレンツェの郊外カレッジの地に瀟洒な別荘を与えられ、その地にプラトン・アカデミアを創設して、いわゆるヘルメス文書のラテン語訳に着手することになった。ところで早熟の誉れ高いフィチーノが、23歳のときラテン・プラトニストを研究した一つの成果として著した作品で、後散逸したとされる『プラトン学教程』全4巻は、実はランディーノに捧げられたと言われる。その事実からして、彼ら二人の知的な交友関係が、早くも老コジモの時代から始まったことがうかがわれる。青年フィチーノをしてギリシア語原典によるプラトン研究へと導いていった人物こそは、まさにランディーノなのであった。 やがて大ロレンツォ(イル・マニフィコ)の時代が到来すると、フィチーノはおよそ15年の歳月を費やして、プラトンの全対話編をギリシア語のテクストから直接ラテン語訳することに成功した。実にそれは1477年のことである。すでに1474年に著述が一応の完了を見ていた『プラトン神学』全18巻は、1482年にいたってようやく上梓の運びとなった。またフィチーノ訳ラテン語版プラトン全集の刊行は1484年の事で、その同じ年にはプロティノスの『エンネアデース』のラテン訳が完成を見て、さらに1486年にはプロティノス注解が成った。 こうしたフィチーノの目覚しい著述活動と並行するかのように、ランディーノはStudiumにおける詩学および修辞学の研究と教授経験とを活かして、1473年に『カマルドリの論談』全4巻をまず世に問い、この著作の中で展開した独自の文芸論ならびに文学研究の方法論に立脚して、1481年には『神曲注解』を、82年には『ホラティウス注解』を、さらい1487年に『ウェルギリウス注解』を著した。(115)(中略) (117)ランディーノの講演録からいわばプラトン詩学ars poetica platonicaとでも言うべきものの一端を窺うことが出来るのであるが、すでにマルシリオ・フィチーノは1457年12月1日付けのペッレグリーノ・デリ・アリ宛の書簡の中で、この狂気の観点に立って一つの詩論を展開している。 「我々はその点を二つの徳力、即ち習俗に関わる力と観想に関わる力とによって会得するわけであるが、かの神のごとき哲学者はこれらの力を高く評価して、普通の言葉でその一方を正義と、他方を叡智と名づけている。そのようなわけで、少なくとも私の見るところでは、一方のものと表裏をなしているものを手がかりに、これらの徳力は精神を地上において理解しつつ、飛翔していくと彼は述べている。しかも我々にはこれらの徳力を、哲学の二つの部門、即ち活動的な部門と観想的な部門を通じて、一挙に把握すると、ソクラテスは『パイドン』の中で述べている。また『パイドロス』の中でも、同様に哲学者の精神のみが翼を取り戻すと、彼水から明言している。しかもこのようにして翼を取り戻して行きながら、その両翼の力を借りて、精神を肉体から解放し、神に満たされた状態でその精神を天上へと引き上げ、なお懸命の努力を怠らないとも述べている。言うまでも無く、このような解放と努力のことを、プラトンは(118)神的な狂気と命名して、それを4種類に分類している。人間が神的な事柄を想起するのは、ひとえにこの神的な事柄の影乃至表象とされるものによってであり、しかもこれらの表彰は肉体を通じて把握され、感覚を通して喚起されると[プラトンは]考えている。そのようなわけで、キリスト教神学者たちの中で、最も叡智にあふれたパウロやディオニューシオスは、神の不可視の事柄は、被造物とそれによって識別されるものとを通じて、理解されると述べた。実際プラトンは、神的な叡智の表象こそ人間の叡智であるとの立場をとっている。それは、神的な調和の表象と言えば我々が肉声と楽器とで作り出す調和のことであり、また神的な美の表象と言えば,身体の部分および四肢の特別に均整の取れた組み合わせから得られる肉体の調和と優美さであるとする立場である。」(Ficini, Opera I, p.613) フィチーノがこの書簡の中で説いたところが、そのままランディーノの所論となっていることからすれば、「神的な狂気il divino furore」という概念に関しても、我々は直接フィチーノの見解を吟味してみなければならない。フィチーノにしてもランディーノにしても、ともに「神的な狂気」とは、肉体から精神が解放されることastrazione(abstractio)であるという。そして神的な狂気には4つの種類があると言う。しかしランディーノの所説はこのところで中断していて、果たしてこの4つの神的な狂気がいかなるものであるかについて詳しく述べられてはいない。 ところがフィチーノのペッレグリーノ宛の書簡を見ると、その点が詳しく論じられている。 「以上のことから総合した結果、神的な狂気には4つの種類があることがすでに判明している。即ち愛と詩と秘義と予言である。愛着つまり卑俗で実に不健全な母性愛は、神的な愛を誤った形で模倣する。我々が述べたように、より軽快な音楽は詩を、迷信は秘義を、推測は天啓を模倣する。たとえばプラトンによると、ソクラテスは第一の狂気をアプロディーテに、第二の狂気をムーサイに、第三の狂気をディオニューソスに、最(119)後の狂気をアポローンにゆだねている。」(ibid., p.614)
(佐藤三夫編『ルネサンスの知の饗宴 ――ヒューマニズムとプラトン主義』、東信堂・1994年)