2009年4月5日日曜日

Grund 3 Humanismus

 人文主義(23) 冒険心に富むガリレオでさえ、彼の最も挑発的な書物で、プトレマイオスの『アルマゲスト』という古代の文献を出発点に選んだ。少なくともこの程度には、フィレンツェの反逆児もルネサンス期の知識人の人文主義的慣習に忠実であることを示したのである。哲学に関係のある限りで言えば、人文主義こそが、近代初期ヨーロッパの鍵となる文化的現象だ(24)った。<人文主義>(ヒューマニズム)という単語は、現代においてしばしば学者の論議の的となってきたが、それは、これがルネサンス期の人々の使った用語ではなく、19世紀の造語だったからであり、またある文脈においては、近代初期ヨーロッパのキリスト教世界にはまったく異質な、人間中心の攻撃的な世俗主義を含意するからでもある。とはいえ、近代初期の文化の中心的・弁別駅特徴を記述するのに、この単語は有用で、恐らくは必要不可欠なものであることが判明している。とりわけ、数世紀にわたる知的展開に当てはめた場合、人文主義の簡潔な定義は意味を持たないだろうが、その祖先は古典古代にまでたどることが出来る。キケロや他の古代の著述家たちは、文法学、修辞学、市、歴史、道徳哲学を教えるギリシア語・ラテン語の権威ある書物に基づいた、自由な市民のための教育を描写するのに、「人間性(教養)の研究」studia humanitatisとか「より人間的な学芸」literae humanioresといった表現を用いた。14.15世紀のイタリアで、当時の生活の模範として古代文化を復興しようという衝動が活発になると、「人文主義者」と呼ばれた最初の人々は、そうした学科を扱うラテン語の書物、またほどなくギリシア語の書物を研究したり教えたりした。キケロ、ホラティウス、リウィウス、オウィディウス、プリスキアヌス、クインティリアヌス、セネカ、ウェルギリウスが、最初に人文主義者たちの関心を引いた古代作家の筆頭だった。ギリシア語の知識がより一般的になると、ホメロス、ピンダロス、ソポクレス、トゥキュディデス、デモステネス、イソクラテスや他のギリシアの権威にも関心が向けられた。こうした作家に基づくカリキュラムは、当然、言語的・文学的・歴史的論点に関わるところが多く、哲学的問題、特に道徳哲学の領分の外にある問題には関わるところが少なかった。 中世ラテン文化の特徴の一つとして、人文主義は(中世の基準で計るなら)ますます世俗化されつつあった北イタリアの社会に最初に出現した。中でも、都市の政庁や書記局で出世していった俗人の公証人(初期)や新しい大学を組織した法学の教師は、初期人文主義の重要な推進者だった。11世紀のパヴィアや12世紀のボローニャでは、ローマ法に対する新たな関心が古代世界への好奇心を刺激し、また、都市経済の交流が、古典文学を大聖堂付属学校の古めかしい文(25)法学カリキュラムと教会の独占的支配とから解放するのに一役買った。キケロの修辞学を話し言葉ではなく書き言葉に応用して手紙を作成する「書簡作成術」ars dictaminisが、11世紀末にモンテ・カッシーノのベネディクト会大修道院で始められた。12世紀はじめまでには、この新しいタイプの散文は、その中心をより実際的なボローニャ近辺に移して教育目標を狭めていたが、そこからヨーロッパの他の地域へと広がっていった。もう一つの中世的形式である「演説術」ars arengandiは、偽キケロの『ヘレンニウスに与える修辞学』を模倣していた。これは世俗的弁論のための指針としてイタリアで発展したが、一方、「説教術」ars praedicandiが、説教を準備するのに用いられる手引書のジャンルとして、北ヨーロッパで最初に出現した。12世紀中ごろから、イタリアは神学、弁証術、文法学を学ばせるために学生をフランスへ送ったが、ローマ法や教会法を学ぼうとするフランスの学生は、公証人と法律家の実務上の必要が中世的文法学カリキュラムの粗雑な古典主義を排除していたイタリアへと赴いた。しかし、13世紀中葉以降、イタリアの「書簡作成人」dictatoresは、フランスで書かれた詩と文法の手引書を読み、それまで装飾のなかった「書簡範例集」dictamenの文体を古典文学への引喩で装飾し始めた。その一方、キケロ的弁論に耳を仮想としなかったボローニャの教授たちが、『ヘレンニウスに与える修辞学』の講義をはじめ、ついには人文主義者を最初期の文法学と詩への中世から誘惑することになる修辞学の魅力を最初に植えつけた。 新しい古典主義の最も力強い先覚者の一人が、1309年に死んだパドヴァの裁判官ロヴァート・ロヴァーティである。ロヴァーティは、ポンポーザの大修道院の図書室から、忘れられた古典作家、特に詩人を探し集め、これらを法律家の友人たちに知らせた。古代の遺物に対するルネサンス期の執着を予告して、彼は建築現場で発掘されたホメロスの英雄アンテノルの遺骨を確認したと信じた。ロヴァーティの最も重要な仲間はパドヴァの公証人アルベルティーノ・ムッサートであり、彼はセネカの悲劇の権威となっただけでなく、自分でもラテン語の劇『エケリニス』を書いた。独裁者エッツェリーノ・ダ・ロマーノに題材を求めた、この演劇の形式を取るプロパガンダは、古代の文学形式が同時代の出来事を扱える(26)ことを示した。ムッサートの劇は1315年にパドヴァで桂冠を勝ち取ったが、こうした詩人の戴冠は千年以上記録にないことだった。最初から、ロヴァーティ、ムッサーと、そして彼らの友人たちが創始した運動は、職業上のまたは個人的な理由によって、弁証術や中世の技術的な4科(算術・幾何学・天文学・音楽)よりもむしろ文法学・修辞学・詩に関心を抱いていた人々をひきつけた。その野心が詩から散文へと広がるにつれて、人文主義者たちは、大学の学芸学部を支配していた論理学者と自然哲学者の領分を侵していった。14世紀のはじめまでに、かたやピトロ・ダーバノ(ペトルス・アポネンシス)が教える哲学と医学、かたやムッサートとロヴァーティが追及する人文主義的研究の中心地だったパドヴァでこの争いは開始されていた。このように、フランチェスコ・ペトラルカは最初の古代復興者だったわけではないが、ルネサンス期が考えた形態での「より人間的な学芸」を涵養する、ヨーロッパ的な名声を博した最初期の人物がペトラルカだった。敬虔なキリスト教徒でありながら、ペトラルカは、古代と共に滅びたある種の価値を復活させようと望んでいた。自分が生れ落ちた中世世界の特徴のいくつかを嫌っていたからだが、中世が野蛮で洗練されていないと考える点では、他の初期人文主義者たちも同じ意見だった。ペトラルカは、14世紀中葉のイタリアで自らが出会った形態の中世哲学に対して特に敵意を抱いた。その言語は醜悪、不自然、不恰好で、キケロにおいて彼が尊重する古典的規範には程遠いものである。内容も嫌悪を催させ、中世の模倣者たちが盲目的に従う、当てにならない典拠に依存しすぎている。イスラムの最も尊敬された科学的・哲学的思想化アヴェロエスが彼の仇敵だった。ペトラルカは、ある箇所で、アヴェロエスを「狂犬」と呼んでいる。こうした宗教的・人種的偏見がペトラルカの本能的反応のひとつだったとはいえ―――現代でも依然として残存している、この時代の全般的欠陥だが―――、彼や他の人文主義者がそのあと何世紀も続いた哲学の針路を決定したという功績もやはり認めるべきだろう。中世の論理学と自然哲学は、賞賛された古典文学とは余りにかけ離れており、技術的言語において醜く、人間的関心には疎遠なように思われたために、人文主義者は、20世紀のある種の視点からは最も(27)「先進的」に見える14世紀哲学の当の領域を軽蔑した。ペトラルカも、後に続いた多くの人文主義者も、道徳哲学は正しい生き方を示す指針として人々の役に立つが、大学のカリキュラムで最も重きをおかれた哲学の分野である論理学と自然哲学には殆ど何の価値もないと考えた。古代ギリシアにおける文脈についての知識は乏しかったにもかかわらず、ペトラルカは、その昔ソクラテスとソフィストたちが表現したのと同じような立場を採用していたのである。16世紀末に至るまで、人文主義者は、自分たちの要求に最もよくこたえてくれる哲学研究の部門として、道徳哲学を重んじ続けた。彼らは哲学全体を道徳的関心に従属させたが、それは、理性の様々な利用法を価値と行為のより大きな体系の中にいかに統合すべきかを発見するためには、道徳的探求によるほかなかったからである。人文主義者は、哲学の教授ではなかった。彼らはまた、中世末期・近代初期の大学で実践されていた形態の哲学の生産者でもなく、その大量消費者でさえなかった。彼らの最大の関心の対象は詩、修辞学、文法学、歴史だったが、倫理学、政治学、家政学も彼らの関心を引いた。人文主義者の模範は、文学と哲学の両方の領域で「人間性の研究」に秀でた古代ローマ人キケロだった。キケロは、スコラ学者の生きてはいるが美しくないラテン語よりも人文主義者の好みに合う力強く優雅な文体で書いたし、その著作には、当時の世界で活動的生活を営む上で最も必要と彼らが考えた主題の多くが含まれていた。友人や近親者宛の洗練された書簡、丹念に手を入れて改訂した法廷での弁論、ローマの法律家の修辞学に関する理論的対話編のほかに、キケロは、『義務について』や『トゥスクルム談論』のような道徳哲学の論考を残していた。キケロの先例によって聖別されたカリキュラムは、この時代のイタリアの大学を支配していた論理学と自然哲学には無感動だった人文主義者の心をときめかせたのである。 ペトラルカの時代から、職業的人文主義者がいくらかでも哲学に興味を示すことがあるとすれば、彼らは、ほぼ常に倫理的問題に関わっていた。論理学に頭を悩ますとしても、たいてい、大学で教えられていたスコラ学的技術の改革を要求するためでしかなかった。特にイタリアの学芸学部においては、論理学教育の最大の役割は、自然哲学と医学に必要な思考(28)の道具を学生に与えることだったが、人文主義者は、修辞学により密接に関連し、科学的証明よりも実践的な説得に適した論理学を求めていた。ボエティウスによって創始され、中世後期ヨーロッパの教室に依然として君臨していたスコラ論理学に対して15世紀中葉にロレンツォ・ヴァッラが放った批判の革新は、ここにあった。他の人文主義者の多くと同じく、ヴァッラも法律を学んだことがあり、論理学―――ヴァッラの使った用語では「弁論術」dialectica―――とは、法廷での弁論の、あるいは政治的活動での議論の、あるいは日々の道徳的・宗教的生活における説教や説得の、付属品だと考えてた。15世紀から16世紀初頭を通じて、スコラ学的な大学教育に対する弾劾が、人文主義者からの絶え間ない叫びだった。ある制限のうちでアリストテレス主義研究を奨励してはいたものの、この点で、レオナルド・ブルーニは、主としてオクスフォードとパリで発展したがペトラルカの存命中に強い活力を保ったままイタリアに移入された中世末期の論理学に対して軽蔑をあらわにする、ペトラルカの真の弟子だった。人文主義運動が国際的な規模に発展した後、16世紀初めの最も公明な三人の人文主義者が同じ主題を繰り返している。敬虔なイングランド人トマス・モア、国際的なネーデルラント人デシデリウス・エラスムス、ユダヤ教からの改宗者の家系に列なる、広範に移動したスペイン人フアン・ルイス・ビベスは,そろって大学論理学に侮蔑を表した。三人は、論理学が野蛮で無用で長技術的であり、究極的に真の人間的目的をまったく欠いていると考えた。論理学者が古典的用法に裏付けられない単語、成句、構文を用いているのを見ると、彼らは、ペトルス・ヒスパヌスやその後継者たちの広く読まれた著作で使われている精密な技術的言語に対して敵意を抱いたのである。批判者としてであれ貢献者としてであれ、哲学に生き生きとした関心を抱いた職業的人文主義者―――ペトラルカ、ブルーニ、ヴァッラ、ビベスなど―――は例外だった。彼らの同僚の大多数は、教育者または古典学者だった。彼らのイデオロギー上の目標は、哲学的というよりは文献学的な記録を用いて古典古代の規範の価値を復興するところにあったが、もっとも、人文主義のイデオロギーは哲学にも大きな願意を持っていた。人文主義者は、しばしば、発展する都市や富裕な君(29)主の家庭で若者を教育する任務を負う教師や家庭教師として生計を立てた。1401-25年に、ガスパリーノ・バルジッツァ、ヴィットリーノ・ダ・フェルトレ、グアリーノ・グアリーニが、パドヴァ、マントヴァ、ヴェネツィア、ヴェローナ、フェッラーラに学校を設立して、新しい古典主義的理想を説き、ついにはヨーロッパ中から生徒を集めるに至った。一方、1402年ごろ、ピエル・パーオロ・ヴェルジェーリオが最初の人文主義教育のマニフェスト『若者の高貴な振る舞いと自由教育について』を公にし、その後に、レオナルド・ブルーニ、エネア・シルヴィオ・ピッコローミニ、マッフェーオ・ヴェージョ、バッティスタ・グアリーニ、また16世紀以降の彼らの模倣者たちによる、数多くの「人間性の研究」の顕揚が続いた。陣部主義者は生徒に、最高水準のラテン語をマスターしギリシア語もいくらか学ぶこと、そしてこれら2言語の文学的付属品を身に着けることを教えた。修辞学および歴史と道徳哲学を含む散文が、詩と文法学よりももてはやされるようになった。文法学と文体は、論理学の規則によってではなく、古代人、とりわけキケロ―――その哲学的著作よりもむしろ書簡と弁論―――を模倣する事によって学ぶべきである。人文主義者は、中世の教室で通常使われていた教科書の大部分を捨て去り、古典の単純な教育用刊本を作った。この新しい弁論述的教養に依存する市民的・教会的経歴のために生徒を訓練する点において、人文主義者の目標は職業教育的なものだった。イタリア以外でも同じような学校が出現し、1500年ごろまでに、人文主義教育はヨーロッパの富裕な家門で流行するようになっていた。……人文主義者の教師は、文化の伝達者であると同時に、雇い主の社会的地位を証明するものでもあった。こうした教師が監(30)督した教育は、特定の階層と男性だけの特権だったが、厳密に教育内容だけについて言えば豊かなカリキュラムだった。学者、外交官、政治家、大学教授、聖職者、法律家、医者、経営者として、人文主義教育を受けた人々の仲には独自の文化的貢献を果たすようになったものも居た―――例えば、アンジェロ・ポリツィアーノは10代のころすでにホメロスを翻訳し、フィレンツェのメディチ家には言ってロレンツォ・イル・マニフィコの子供たちの家庭教師を務め、15世紀後半における最大の文献学者、ラテン語・イタリア語の大詩人になった。 ……人文主義は、往々にして学芸学部の哲学的文化と衝突したが、それでも大学は、特にイタリアにおいては、早くからその影響を受けた。学生も教授も末期的(中世的)形態のラテン語を読み、書き、話していたので、古典語にたいして課された新たな規範が大学の知的活動を深く変革する事は避けられなかった―――とりわけ、技術的言説の媒体としてだけでな(31)く、ある適用においては一種のメタ言語として、、独特の隠語的ラテン語を長らく用いてきた哲学においてはしかりである。例えば、16世紀初頭のパリでジャック・ルフェーブル・デタプルは、しばしば哲学的に信頼が置けず、人文主義者から見れば常に文献学的・審美的に不十分な中世の流布版翻訳にとってかわるものとして、アリストテレスなどの著述家の人文主義者によるラテン語訳を復刊・改訂し、北ヨーロッパの学問的コミュニケーションの習慣を一新した。パリは中世思想のアテナイだったので、その大学の学生や教授が16世紀の中ごろまでにギリシア語でアリストテレスを読めるようになったのはふさわしい事だった。この変化は、人文主義教育におけるギリシア語の推進、ならびに古代の文献はその本来の言語でのみ満足に読み取る事ができると言う人文主義的原則の普及による。哲学の文献学的・歴史学的意識を高めた点で、パリは、唯一の例ではないにしても比較的進んでいた。人文主義者が排除しようと望んだ中世の流布版は、数世紀にわたって哲学の実践に深く根付いていたために―――例えば、最も有名な注解は古いラテン語訳にあわせて書かれていた―――、近代初期の哲学の展開に新しい文献学が与えた衝動の大きさを誇張する事は不可能である。 文献学の改革の前提条件は、人文主義者が新たにヨーロッパに移入した古代哲学の著作を含む、古代文献の再発見だった。人文主義者の労苦がなかったとしたら、我々もルネサンス期の祖先も、ホメロス、ピンダロス、アイスキュロス、ソポクレス、プラトン、プトレマイオス、アルキメデス、ガレノス、クインティリアヌス、キケロ、ルクレティウスといった巨人たちについて、遥かに少ない量の知識しかもてない事になっただろう。言葉を換えていえば、我々が手にする事になった古典文学の大部分は、何世紀もの間手付かずだった修道院図書館を探索して、あるいはギリシア語圏東方の土地への危険な旅を敢行する事でようやく達成された、人文主義者の再創造の成果だったのである。しかし、再発見は事の顛末のほんの一部分でしかない。ペトラルカによるリウィウスとキケロの先駆的研究の時代から、人文主義者は、自分たちが発見した文献の理解を洗練するために努力を重ねた。比較し、修正し、校訂し、翻訳し、注釈を施し、解釈を加え、さらには英知の新しい宝庫への熱意が講じて、時として崇拝する文献を捏造する事さえやってのけた。彼(32)らは、古代言語の知識だけでなくこれらの言語を話した人々の歴史と制度についての知識も改善する事によって、古典文学の写本研究を近代化した。つまり、ルネサンス期の文献学とは歴史学的な企図だったのであり、この事は、この時代の文献学化した哲学を検討する際には念頭におくべき点である。文献学と哲学の結合は、1440年にいわゆる「コンスタンティヌス帝の寄進状」(西ヨーロッパにおける教皇の権力と資産が皇帝の寄贈に由来する事を示す、貴重極まりない文書である)が捏造文献である事を示して名を知られた、ロレンツォ・ヴァッラによって最も創造的に行われた。ヴァッラはさらに、その恐るべき批判的能力をスコラ哲学の用語体系・分類体系に適用したが、冬至の優勢な言説様態に対する彼の挑戦は、デカルト以前のこの時代においては余りにも急進的で、効果を与える事が無かった。最も、ヴァッラの文献学的先例に倣って、ディオニュシオス・アレオパギテスやヘルメス・トリスメギストスに帰された著作の真正性を疑う他の学者たちが現れた。中世には、現在では偽作である事が認められている約100種の文献が、地味なアリストテレスにさえ帰されていたが、ルネサンス期の学者は、「アリストテレス文書」を、神聖なアリストテレスの学説を読み取る事の出来る40ほどの著作に絞り込む手助けをした。何人かの古代の哲学者は、誤った作者同定や歪曲された二次的記述を通じて中世に知られていたために、人文主義者の批判的作業はこれらに良く向いていた。作者同定の問題の中には、人文主義者にも、いっそう進歩した批判的評価の装置を誇る現代の文献学にさえも満足に答えられないものがあるので、アリストテレスの『カテゴリー論』のように中心的な著作の神聖性について、学者は依然として論議を繰り返している。 プラトンが最初に対話編を書いたときから15世紀中葉の印刷術発明に至るまで、書かれた哲学の著作の伝達と存続は、手による筆写を何度も反復する事に完全に依存していた。印刷と言う技術が存在しなければ、哲学的著述は、手間の掛かる写本生産の過程が達する事のできる範囲内に伝播することしか出来なかった。どのような長さであれ、書物は、一冊一冊が何時間もの退屈な作業を要する限り矮小な物品であり続けた。テクストの性格かつ完全な保存は、その流通(33)と同じく困難だった。これこそが、古代哲学のある時代や学派の全体が断片でのみ伝えられている原因なのである。完全な写本で保存されたテクストでさえ、何世紀もの間に筆写の誤りが積み重なっていき、本文批判の領域を開拓した人文主義者たちに、手に終えないほどの分量の仕事を与える事になった。ポリツィアーノのような学者たちは、同じ著作の複数の写本を校合して誤記を目立たせる異同を探し出し、複数の写本の年代を特定してどれが最も権威のあるものかを決定し、古代の作家の言語、文体、文化的環境を分析して本文確定の材料とした。その結果生じたのは、文献学を通じた哲学のより精密劃より深い理解であり、印刷と言う媒体が普及するころには、より正確なテクストを作るためのこうした新しい学問的技術が利用できるようになっていた。これらのテクストは、印刷されると、それまでよりも遥かに改善された固定と伝播の条件を享受する事になった。このように、印刷技術の発明は、人文主義的学問の威力を大いに増幅した。この発明がなければ、人文主義が生産したテクストも、中世の写字室を蝕んでいたのと同じ慢性的劣化をこうむる事になっただろう。アルド・マヌツィオは、最初のギリシア語版アリストテレスを1495年から98年にかけて、最初のギリシア語版プラトンを1514年に、ヴェネツィアで印刷して、比較的正確な形態で広く流布し複製される最初の哲学的テクスト―――古代・中世・同時代の―――を人文主義者が校訂すると言う、上級文化の歴史において他に類を見ない時代を開始した。16世紀に、アリストテレスの著作集はしばしば、個別の著作はよりいっそう頻繁に、ギリシア語で印刷され、その過程で校訂作業の経験の蓄積と文献学的技量の増大がテクストの改善をさらに進めていった。ギリシア語版のディオゲネス・ラエルティオスは1533年に、プロティノスは1580年に、セクストス・エンペイリコスは1621年にようやく、それぞれ最初に公刊された。同じ時期に、古代の著作が他にも数多く世に表れた。 ギリシア語の知識は15世紀はじめからヨーロッパにますます広まっていったが、ギリシアの哲学者を研究する人々の間でさえ、この言語の完全な習得は決して誰もが達成できると言うわけではなかった。16世紀には、アリストテレスのあ(34)る著作がギリシア語で一回印刷されるのに対して、ラテン語では5回ないし10回印刷されるのが常だった。ギリシア語文献のラテン語訳が相変わらず古代哲学の主要な媒体であり、新しい文献学的・美的基準にかなうギリシアと著作からのラテン語訳または改訳を最初に作ったのは、レオナルド・ブルーニとその後に続く多くの人文主義者たちだった。古代の言語と文化との理解が深まるにつれて、人文主義者の翻訳はより正確になり、古典主義的観点からはより読みやすいものになった。実際のところ、人文主義者は読者を教育し説得しようと考えていたので、通例、楽しめるテクストを造ろうと意識的に努めた。そのため、中世の学校で読まれた哲学書にはまれにしか見られない雄弁と優雅さへの配慮が生まれた。しかし、職業的哲学者は、とりわけアリストテレスの学徒としては、長い間これとはまったく違った種類の翻訳に依存し、そうした古くからの翻訳に合わせて自分たちの講義や注解を準備してきたために、哲学の教授たちの中には、流行の古典主義に不満を感じて自分の読むアリストテレスはスコラ学的ラテン語のままにしておきたいと望む人々も居た。ローマが滅亡して、ビュザンティオンが西ヨーロッパとの交流をやめると、ロマンス系・ゲルマン系の諸俗語が発達し始め、ラテン語自体もキケロの用法から遠ざかっていった。特に哲学者の言語は、人文主義者には耳障りな統辞法と語彙を獲得したが、15世紀までには、この新しい言語の大部分が哲学的言説には必要不可欠なものになっていた。もっとも、ヴァッラやビベスのような批判者は、それが必要な事を決して認めようとしなかった。エラスムスは、キケロに似てより柔軟で実際的であり、「それ独自の用語体系を使う権利を我々が認めない人間的技芸は何一つない」事を認めている。 時代が下り、共同作業が行われだすにつれて、人文主義と哲学はより密接に作用しあうようになった。この時期の哲学的権威の多くは、人文主義の基準に照らしてもよく訓練されていた。たとえば、プラトン主義者の中では、マルシリオ・フィチーノ、ジョヴァンニ・ピコ、フランチェスコ・パトリッツィ、またアリストテレス主義者の間では、レオナルド・ブルーに、エルモラオ・バルバロ、ルフェーブル・デタプル、ジュリオ・パーチェが挙げられる。同じように、ヴァッラは傑出した哲学的才能に恵まれた文献学者だった。人文主義とは、独立した一つの学問領域ではなく、様々(35)な学問が有益と考えた方法、様式、カリキュラムだった。哲学的人文主義者のほかにも、医学的・方角的・数学的人文主義者がいたのである。それと並行して、ペトラルカの時代からこの運動に推進力を与えてきた反哲学的衝動も、とりわけ魅惑し説得しようと言う弁論家の欲求と明確に話し真理を語ると言う哲学者の必要との古来の争いにおいて、作用し続けた。人文主義者の中には、絶えず珍奇な単語や変則的な統辞法を見つけようとして古文書を読み漁る、かなり狭い種類の文献学を追及する人々も居た。古典語をある目的に達するための手段とは考えたがらないこのタイプの学者は、哲学者の技術的要求には殆ど共感を持たなかった。こうした葛藤が解決される事はありえなかったが、総合的に見るならば、哲学に及ぼした人文主義の影響は深遠かつ有益なものだったと結論するほかはない。(35)(チャールズ・B・シュミット/ブライアン・P・コーペンヘイヴァー著 榎本武文訳『ルネサンス哲学』、平凡社・2003年)