2009年4月2日木曜日

文化的・社会的変化(構造的変化)

文化的・社会的変化(構造的変化) (391)こうした劇的な事件がおきていたのと同じ時期に、それとは別の文化的・社会的変化がイタリアで生じつつあった。その変化は重要性において劣るものではなく、その当時でも気づかれずにすまないものであった。16世紀後半の状況を1400年の状況と比べてみれば、いくつかの重要な違いが明らかになるであろう。たとえば1400年には現在ルネサンスと呼ばれている運動はフィレンツェ人の小さなグループに限られたものであり、彼らが芸術における重要な革新を行い伝統的な考え方や価値観に批判を加えたのである。フィレンツェに於てさえ、伝統的な姿勢を崩さない同業者達や、ありきたりの注文をするパトロンや、習慣的な遣り方で仕事を続けようとする職人たちに彼等は囲まれていたのである。新しい考え方と新しい様式は次第にフィレンツェからトスカーナの残りの地域に広がり、そしてトスカーナからイタリアのその他の地域に広がったのである。 (392)印刷技術の発明は、それ以前の時代よりもこの運動の思想が速く広がる事を助けた。文法書と死のアンソロジー、そして書簡集の刊行によって、イタリア中の読み書きの出来る男女はトスカーナの語法に慣れ親しんだ。ウィトルウィウスやセルリオ、パッラーディオらの挿絵の入った建築所は古典的な建築語彙を同じように読者にとってなじみの深いものにした。新しい芸術は次第にその市場を作り上げていった。パトロン達は古典的神話をテーマにした小像や絵を注文できる事に気づき始めた。またドーリス様式、イオニア様式、コリント様式の違いを知っている事が紳士の教養の一部となった。 新しい理想に対する大衆の関心が増大した事それ自体が変化の原動力となり、より象徴的な芸術や文学の発展を促した。ペトラルカの愛の抒情詩をパロディ化した作家の中にアレティーノとベルニが居る。読者が彼等の死を楽しむ為には、ペトラルカと15世紀の彼の模倣者たちをある程度知っている事が必要であり、その種の知識が軽蔑でないにしても退屈を感じさせるようなときに、パロディの楽しみが生まれたのである。同じようにマントヴァのフリーズに見られるジュリオ・ロマーノの意識的な逸脱や規則破りはその規則を知っていてある種の視覚的予測を楽しむ能力があり、その予測が裏切られたときに衝撃を感じ、規則に関する知識に飽き飽きしている為にその衝撃を楽しむ事が出来るくらい教養の或る見物人達が居る事を意味していた。 新しい理想の普及がもたらしたもう一つの予期せぬ結果は、それに先立つ数世紀にはきわめて重要であった地域的な際を取り除いてしまった事である。例えばドメニコ・ベッカフーミは画家(393)としてネロッチョ・デ・ランディほどはっきりとシエナ的とはいえなかった。ミラノからナポリに至るまで方言で表現されていた文学は、トスカーナ語で表現される文学に道を譲ったのである。 それ以外の文化的変化に関しては本書の中で一度ならず論じられている。美術と文学における個人的スタイルは次第に顕著になり、16世紀には更に多くの人の注目を集めるようになった。世俗的題材の絵画の占める割合が増大した事に見られるように、ゆっくりではあっても着実に芸術の世俗化が進行した。美術でも文学でも、厳粛、優雅、洗練、崇高、荘厳といった点に関心が高まった。その結果、数多くの言葉(方言、専門用語、「俗」語など)が文学から排除され、多くの身振りが美術から排除された。ヴェルフリンが挙げた例は印象的なものである。「1480年にギルランダイオが描いた『最後の晩餐』の中で、聖ペトロはキリストに向かって親指を突き出すという庶民の身振りを示していたが、それを高級芸術はもはや認めがたいものとして拒否したのである」。16世紀中に上流諸階級は民衆の祝祭に次第に参加しなくなっていった。彼等はカーニヴァルを放棄したわけではない。民衆のお祭騒ぎの一部としてよりも、それと並行するものとして、上流階級の人々は自分達のカーニヴァルを作り上げて行ったのである。つまり地域ごとの文化的差異は階級ごとの文化的差異に置き換えられていったのである。ロンバルディアの文化とトスカーナの文化との間のギャップが小さくなるに連れて、上級文化と下級文化との間のギャップが拡大していった。 (394)何故このような変化が生じたのであろうか。そうした変化を本当に細かな点に至るまで説明しようとする事は殆ど傲慢に近いが、芸術の環境とイタリア全体の双方で起きていた社会的変化とそうした文化的変化の間の明らかなつながりを無視する事はできない。 例えば芸術家の社会的身分とその出自が次第に上昇していったという事実がある。15世紀前半の指導的芸術家達、つまりフラ・アンジェリコやヤコポ・ベッリーニ、……フラ・リッポ・リッピ……といった人々の社会的出自は全て低いものであった。対照的に16世紀の最初の20年間に生まれた指導的美術家のうちのかなりの人々が比較的高い身分を持っていた。……貴族に取り立てられた画家の殆どのケースは、豪勢な暮らしぶりの画家達のケースと同様に、1480年頃以降のことであった。ラファエロ(枢機卿に任命される事を期待する人々も居た)や、ローマ略奪の際に捕らえられ貴族と間違われたバルダッサーレ・ペルッツィらは豊かな暮らしぶりで知られている。ヴァザーリは「デッロ・デッリ伝」の中で、「今日」とは違って15世紀の芸術家達は家具に絵を描いたり金箔を施したりする事を恥じては居なかった、と述べている。恥ずかしさが増した明らかな理由は、社会的身分が上昇した事である。職人の団体から芸術家達が分離した事のもう一つのしるしは、アカデミアの設立である。そうしたものとしては、フィレンツェのアカデミア・デル・デ(395)ィセーニョ(1560年代に創設)やアカデミア・ディ・サン・ルーカ(1590年)がある。こうした組織のモデルは文学アカデミーであるが、後者はそもそも貴族のアマチュアのクラブであった。1400年には芸術の社会的地位は低く、したがって芸術家達の出自も低かった。しかしながら1600年までに芸術の地位と芸術家の出自はともに上昇した。 この時代を通じてパトロネージも重要な変化を示した。16世紀になると、多くの史料が残っているイザベッラ・デステやベネチアのジョルジョーネのパトロン達のような収集家達を見出す事が出来るようになる。彼等は美術作品をそれ自体のために購入し、様式や絵の細部に興味を持ち、題材であるマドンナや聖セバスティアヌスよりも作者であるティツィアーノやラファエッロの絵に関心を抱いた人々であった。芸術的個人主義は今や儲けにつながるものとなった。1600年以前には目録の中に芸術家の名前が記載される事はまれであったが、ある種の集団の内部では宗教的な意味での「崇拝のイメージ」から「イメージの崇拝」それ自体への転換が生じたという証拠が存在する。それはパトロンと美術家との間の力のバランスが変化した事でもあった。芸術家達の地位が上昇した事は、恐らく交渉における彼等の立場を強くした事であろう。ミケランジェロは同業者の殆どが真似の出来ないほどの強い姿勢でパトロンに対したが、彼は職人ではなくフィレンツェの貴族の息子であった。あり方として詩人により近く大工からはより遠くなりつつあった芸術家達が、こうして独立性を拡大していった事は確実に彼等の地位を高めた。美術家とパトロンの役割は相互を規定し合う物であり、両者の(396)役割は一緒に変化した。またその役割ははるかに大きな社会的役割のネットワークの一部でもあり、社会構造の変化から影響を受けたのである。 社会構造のそうした変化は二つの言葉、二つの互いに対立する傾向に要約する事が出来る。それは「商業化」と「再封建化」である。 ……都市は15世紀に拡大し、16世紀にはその拡大は更に加速した。例えばフィレンツェの人口は1427年の約4万人から、16世紀前半には約7万人に増加した。ナポリは1450年におよそ4万人であったものが百年後には20万人以上を数えた。この二つの都市とその他の都市の成長は農業の商業化を伴った。例えばトスカーナでは分益小作制が広がったが、それは地主達が固定地代から上がる安定した収入よりも利潤を重視する商売人として自分達を考えるようになるシステムであった。同じ頃、活版印刷術の発明によって書籍市場も重要なものになった。また……美術作品の市場も(古代作品、近代作品、オリジナルと複製品とを問わず)重要なものになった。 しかしこの傾向はもう一つの傾向によって相殺されたその傾向とは歴史家達が「再封建化」(広義にはマルクス主義的な意味での「封建化」と同じ)と呼んだ傾向、あるいはブローデルが「ブルジョワジーの破産」と述べた傾向である。かなりの数の富裕な商人達(不幸な事にどの時代についてもその数は確定できない)が商業から土地に投資の対象を移した。本書の中でわれわれの関心を最も集めてきた二つの都市フィレンツェとベネチアで、この傾向は最も目立った。両都市で(397)長期にわたってブルジョワジーと貴族との間でバランスを保ってきた有力者達は、生活様式を貴族化する事を選んだ。フィレンツェでのこうした動きは緩やかなもので、一つの世代を見ただけでは殆ど分からないが、1600年の支配層と1400年もしくはそれより史料の多い1427年の支配層とを比べてみれば十分はっきりしている。ベネチアではこの動きはもっと急激であった。有力者達が商業から(隣接するパドヴァからフリウーリにいたる)本土の土地資産に投資の対象を変更し始めたのは1570年以降の事であった。彼等は企業家から地代生活者に転じ、その主たる関心の対象も利潤から消費に移ったのである。ブロンズィーノらの手になるフィレンツェの肖像画の優雅な身振りは、モデルとなった人々の生活態度を反映している。彼らには父や祖父たちのように自らの手を汚そうという意思はもはや無かったのである(ジョヴァンニ・ルチェッライが15世紀後半に観察したように、優れた商人はいつもインクで汚れた指をしていた)。バルバロ家のために1560年代の初めパッラーディオが設計士ヴェロネーゼが装飾を担当したヴィラ・マゼールがその皮切りである、ベネチアの最も壮麗な別荘の数々は土地への回帰現象が進行していたこの時代に作られたものである。 こうした変化は何故おきたのだろうか。それは……第三世代症候群といえるものであった。……ルネサンス期イ(398)タリアでも人文主義教育のせいで商売に失敗して没落した家系の例(その最も明らかな例はメディチ家である)を幾つも挙げる事が出来る。ロレンツォ・イル・マニフィコはメディチ家の銀行が破産しつつある中で思索にふけったのである。だが、我々がここで問題にしているのは一つの家系ではなく、一つの社会集団全体のことである。幾つもの家がそれ以前に商売から手を引いてしまっていた。そこで新しく起きていた事態とは、フィレンツェでもベネチアでもその他の都市でも、商売から手を引いた家に変わって登場する新しい家が欠けていたことであった。こうした自体の基本的な原因は経済的なものであった。アメリカの発見の結果として、ヨーロッパ商業の重心は地中海から大西洋に移動しつつあった。イタリア人たちは国際貿易における仲介者という伝統的役割を失いつつあり、その役割はポルトガル人とイギリス人、そして17世紀には他のどの国よりもオランダ人たちに奪われる事になる。ここでまた「不況期と商売に対する軽蔑」というテーマが現れてくる。また同じ時代には食料価格が上昇した為、イタリアの豊かな都市住民たちにとって土地は投資の対照として魅力あるものに見えたのである。 支配層の生活様式がこのように変化した事は、芸術にとって短期的にはプラスに働いたが、長期的に見れば決して有益ではなかった。支配階級は芸術の保護に更に傾斜して行った。なぜなら、それは彼等の新しい貴族的なライフスタイルの一部であったからである。だが、長期的に見れば宮殿を建てたり芸術作品を購入したりする事を可能にした彼等の富は枯渇して行った。価値観の変化―――特に出自の重視や肉体労働に対する軽蔑など―――は新たに上昇した芸術家達の地位にはマイナスに働いた。ルネサンスの理想が外国に広がり、その結果ハンガリー、フランス、スペイン、イギリスなどでイタリア人芸術家に対する需要が高まった為に、一種の「頭脳流出」(画家など含む)が起きた。14-15世紀のイタリアは複数の商人共和国からなる国であり、他国と比べて文化的にも社会的にも特異な国であった。イタリアが他のヨーロッパ社会と似てくるに連れて、文化的な優越性を失っていったのである。視覚芸術から音楽への想像性の移動という現象も見られるが、その説明としては都市国家の衰退と教会のメディア統制力が増大した事が挙げられる。とはいえイタリアの芸術は1680年のベルニーニの死に至るまで、ヨーロッパの羨望の対象であり続けた。(ピーター・バーク著 森田義之・柴野均訳『イタリア・ルネサンスの文化と社会』、岩波書店・2000年)