2009年4月2日木曜日

「危機」と市民的ヒューマニズムの活力

「危機」と市民的ヒューマニズムの活力 フィレンツェの1400年代は、一般にその前半がアリストテレス主義を基盤にしたヒューマニズムの,後半がプラトン主義の時代という風に区別されて、後者のプラトン主義の流行はメディチ家の政治支配と関連付けられる。この点に関し、バロンはメディチ家の専制により共和主義と市民的ヒューマニズムが弱まり、間も無く新プラトン主義が盛んになる事を否定しない。その一方で、サヴォナローラとマキャヴェッリの時代に市民的自由が回復される事に示されるように、その理念は見失われる事は無かったともしている。 (80)15世紀後半における市民的ヒューマニズムの全面否定に、バロンが至らない理由を見出す鍵は、問題の書の表題にある「危機」と言う用語にあろう。彼に取り危機とは「或る有機体、制度、或いは人の成長・発展が、或る欠陥或いは疾患に脅かされているけれども、結局功を奏する抵抗ないしは死活に関わる挑戦への適応により、健康と体力を回復する、その様な転換点」を指し示している。つまりここで言われている危機は、きわめて意識的に用いられた言葉なのである。ジャンガレアッツォの侵略と言う窮地から脱して、フィレンツェが勝利を収めた事は、同市の成長、即ち史的発展の上にかき消す事の出きない刻印を押す、その様な大転換となった。…… 更にバロンがフィレンツェの根強い理念、共和意識に基づく市民的ヒューマニズムを主張する有力な根拠の一つは古典主義と俗語主義との調和が世紀後半にも維持され続けたと考えている点に求められるであろう。ダンテ以来のトスカーナ方言による俗語文学は、……フィレンツェの政治と文化の熱烈な賛美とともに、或いはこれを経て、ラテン語のみならず、ギリシャ語にも通じたブルーニの時代に一段と発展する。つまり俗語ヒューマニズムの発展である。そしてメディチ家時代でも傑作が現れる。第一、メディチ家の当主ロレンツォが代表的な俗語詩人であったし、ロレンツォの庇護を受けたランディーノや代表的プラトニスト,フィチーノにもまた見通せない俗語の著作がある。……バロンは(81)「フィレンツェの町自体においては、ブルーニにより創始されたアリストテレス主義はいまやゆるぎない場を築いた為、その基本的な市民概念は指導的な哲学者フィチーノの教説でなかったとしても、彼のプラトン主義を述べ伝える市民グループの中で、フィレンツェの新プラトン主義の時代を通じて維持された」[と述べ、それにランディーノらを加える]。 ……バロンはフィチーノ自身について述べている。「フィチーノは初期ヒューマニストたちのいくつかの基本的教説、即ち霊魂と肉体とが分離し難い統一を為すとの彼等の強調、財貨に対する彼等の大いなる評価、活動生活に対する彼等のえり好みと瞑想に伴う諸価値の看過等々を認めようとはしなかった」としながらも……「フィチーノのプラトン主義はその禁欲的・スコラ的要素にもかかわらず、いかなる中世の哲学よりも深く、プラトンの対話編のhumanisticな精神で形成されていた。」尚ヒューマニストは瞑想を否定し、世俗的活動を肯定したと単純に割り切れない。…… ルネサンス初期のサルターティやブルーニに代表される市民的ヒューマニズムと、後期のフィチーノやピコに代表されるプラトン主義との関係は、15世紀フィレンツェの思想を考えるときに常に問題となるところである。特にフィチーノの場合、「事実上のシニョリーア体制」と言われるメディチ家時代の代弁者と評されて、これを厳しく断罪する研究者が居る。……ヒューマニズムの典型が、バロンに(82)とってはブルーニであった。 当代一流の学者でもあったブルーニは、アリストテレスの『政治学』から市民の徳と都市国家の生活との関連を学んだ。道徳的な教えの中で、何故国家と政府に関わる事柄が最も大切な位置を占めているのかといえば、それは人間を幸福にしようと目指すからである。その為には国家と社会について知る事が重要であり、市民社会の中でこそ弱い生き物たる人間が意味のある存在となり、完璧になる。この主張は、フィレンツェ・ルネサンスに普遍に見出される、根幹的な理念となるであろう。(根占献一著『フィレンツェ共和国のヒューマニスト』、創文社・2005年)