2009年4月2日木曜日

世界観、その主な特徴(世界像の機械化に向かって)

世界像の機械化に向かって  (322)この世界観の特色のひとつは、数多くの伝統的な心的態度が、それとは両立し得ないと思える心的態度と共存していることである。 一般的にルネサンス期のイタリア人たちは……一つの精神世界に生きていた。その世界とは彼らの中世の祖先たちのそれのように、機械的というよりも生命的な世界であり、中立的というよりもモラルが刻み込まれた世界であり、因果関係よりも相応関係によって組織されている世界であった。 この時代のありふれた言い回しに、世界は「一匹の動物である」というものがある。レオナルドはこの考え方を伝統的な形で発展させて、「地球は成長する魂を持つ。その肉体は大地であり、その骨格は岩山であり、その血液は水である。……その呼吸と拍動は海の満ち引きである」と書いている。(323)宇宙の運行は擬人化される。「太陽と他の星星を動かす愛」を語るダンテの一節はいまだに文字通りに受け取られていた。磁力も同様の言葉で描かれた。ユダヤ人医師レオーネ・エブレオ作の『愛に関する対話編』はフィチーノのネオ・プラトニズム的な伝統に従った作品だが、その中で語り手の一人は「磁石は鉄にかくも強烈に愛されるがゆえに、鉄の重さや大きさがいかなるものであっても、磁石は動き鉄を見つけ出す」事を説明している。「統治体」corpo politicoに関する議論はこうした全体像にぴったり収まる。「あらゆる共和政は人間の体に似ている」とフィレンツェの理論家ドナート・ジャンノッティは主張する。建築について論じた著作家たちは建物と生物との間に同様なアナロジーを展開しているが、こうしたアナロジーは今では大体隠喩として誤読されている。建物は「動物に似ている」とアルベルティはかいており、「建物は育てられ、世話をされる事を求める。そしてそれが得られないと、人間のように病んで死んでしまう」とフィラレーテは述べている。ミケランジェロにいたっては、誰であれ「人間の姿とそして解剖学に通じていないもの」は建築について全く理解する事が出来ない、と言うのも建築物のさまざまな部分は人体の各部位から来ている」からであると言い切っている。…… 世界は「教訓的に説明されており」、世界のさまざまな特質は近代の科学者たちが見たように中立的なものとしては扱われなかった。たとえば、暖かさはそれ自体冷たさよりも良いものと考えられていた。なぜなら暖かさは「活動的で生産的」であるからである。(天国のように)変わらざることは(地(324)上のように)移ろいやすいことよりも良いことであり、休息することは動くことよりも、石よりも木のほうが良いものとされた。こうしたことのもう一つの理解の仕方は、階層的な形で組織化されたものとして世界が考えられていたと言うことである。そうすることで世界は社会構造に似る(そしてそれを正当化・合法化する)のである。フィラレーテは三つの社会集団(貴族、市民、平民)を三つの石の種類(宝石、準宝石、ただの石)にたとえる。この階層的な世界では、著作や絵画のさまざまなジャンルにも等級がある……。叙事詩と「歴史画」がその階層の最上層にあり、喜劇と風景画が底辺に位置する。とはいえ、時には階層以上のものが含まれることもある。奇形児の誕生から天空に彗星が出現する事にいたるまでの「驚異」もしくは「怪物」別の言い方をすれば異常な現象は「凶事の前兆」、来るべき災厄の兆候と解釈された。 世界のさまざまな部分は互いにつながっているものとされる。その関係は近代的な世界観におけるように偶然のものではなく「相応関係」と呼ばれたものに従って象徴的につながっていた。こうした相応関係の中でも最も良く知られているものは、「マクロコスモス」である宇宙全体と「ミクロコスモス」である人間と言う小さな世界の間の相応関係であった。占星術学に基づく医学は、右の目と太陽、左の目と月が相応するといった関係の上に成立していた。数秘学がそこでは重要な役割を果たした。七つの惑星、七つの金属、七つの曜日が存在する事実はそうしたものの間の相応関係を証明することと受け取られた。この精巧な相応関係の体系は美術家や著作家たちにとって大いに役に立(325)つものとなる。それはここのイメージやシンボルが「単なる」イメージやシンボルではなく、宇宙の言語による表現であり創造者である神の表現である事を意味したのである。さまざまな歴史的な事件もしくは歴史に登場する人々もまたそれぞれが互いに相応関係にあると考えられた。歴史のプロセスは一定方向に着実に「進歩する」と言うよりも、周期的に繰り返すとしばしば信じられていたからである。サヴォナローラはフランスのシャルル8世を、はじめは「第二のカール大帝」と、やがて「新たなキュロス」とみなした。つまり相応する人物を超えて、ペルシアの大王の生まれ変わりとまで考えるようになったのである。皇帝カール5世もまた「第2のカール大帝」と呼ばれた。メディチ家の支配の下での黄金時代の再来について歌ったフィレンツェの詩人たちは、派手にへつらうような、もしくはへつらうごとく派手な言葉をひねり出す以上の何事かを行なっていたともいえるだろう。ルネサンスと言う概念自体が歴史は繰り返すという過程の上に立っており、「誕生」という有機体的用語を使っている。 これほどの広がりを持っていた「有機体的メンタリティ」ともいえるメンタリティが、デカルト、ガリレオ、ニュートンやその他の「自然哲学者たち」からの正面からの挑戦を受けるのは17世紀のことである。宇宙の有機体的モデルは15-16世紀にはまだ支配的であった。それでも少数の人々が時には別種のモデル、つまり機械的なモデルを利用することもあったが、それは……レオナルドといった技術者たちを生み出した文化であれば驚くほどの事は無い。数あるテーマの中でも水時計に(326)ついて論じたジョヴァンニ・フォンターナは、世界個の「高貴な時計」と呼んだ事があるが、それは17-18世紀にはありふれたイメージとなる。ダ・ヴィンチがミクロコスモスとマクロコスモスとを比較したことは既に述べたが、彼は機械的なモデルを常に利用した。彼は人体の腱を「機械的な道具」として、心臓を「すばらしい器械」として描いた。「小鳥は数学の法則に従って動く器械である」と彼は書いているが、その法則とは飛行機械を組み立てようとする彼の試みの基礎にある原理なのであった。マキャヴェリとグィッチャルディーニは政治を力のバランスの点から見ていた。『君主論』第20章でマキャヴェリはイタリアに於て「ある程度の均衡が保たれていた」時代について述べている。一方グィッチャルディーニは『イタリア史』の冒頭の部分で、マキャヴェリと同じくロレンツォ・デ・メディチの市の辞典を書いている。この章の始めの部分で論じたような時間と空間の正確な計測に対する広い関心は、伝統的な有機体的世界観よりも機械的な世界観に適合する。世界像の機械化は実際には17世紀の産物であるが、イタリアでは少なくともそのプロセスはそれ以前から始まっていたのである。 ルネサンス期のイタリアに複数の世界観が存在しており、そうした多元性が知的な確信の刺激になった事について……、このように互いに競い合う世界観が共存することは当然異なる社会諸集団とそうした世界観との関連の問題を提起する事になる。(327)(ピーター・バーク著 森田義之・柴野均訳『イタリア・ルネサンスの文化と社会』、岩波書店・2000年)