2009年4月2日木曜日

ルネサンスとラテン語

ルネサンスとラテン語 (13)普通名詞のルネサンスは16世紀に初出のフランス語である。時代を表す大文字のルネサンスは新しく、……「学芸の再生」というときの「再生」が時代概念化したものである。時代の一特徴を表現する用法が一時代を意味する概念へと化し、ルネサンスは定着した。それは決定的には19世紀後半に入ってからのことである。18世紀の終わりから19世紀はじめに掛けて、英国では優れた伝記が発表された。ウィリアム・ロスコーが……ロレンツォ・デ・メディチの伝記を書いたときは、ルネサンス概念を用いずに時代を叙述した。また同じくパー・グレスウェルはロスコーに敬意を表しつつポリツィアーノやジョヴァンニ・ピコなどの詳細な評伝を著した。ここでは今日ではルネサンスと呼ばれる時代が、15,16世紀としか呼ばれていない。…… (14)1860年にブルクハルトの『イタリア・ルネサンスの文化』が出、ルネサンスの時代概念化が進んだが、まだ決定的ではなかった。枢機卿ヤコポ・サドレートの簡潔な研究所を物したアリスティド・ジョリが次のように書いたのは、これより数年前の事に過ぎなかった。「15.16世紀はルネサンスという見事な名称に値したが、これが両世紀が古代を、少なくともラテン的古代を発見したからではなかった。中世思想にはいつもルネサンスが存在していた。これは両世紀がそれの精神を発見したからだ、それのまことの美を理解しているからだ」と断っている。…… ところで、新時代としてのイタリア・ルネサンスが古代との関連で考察されるときに、使われる用語はヒューマニズムという事になろう。ロスコーらはまたヒューマニズムという用語も使用せずに、メディチ時代の人々を描写する。現在では一般的にはルネサンスの歴史や文化はこの概念と密接に繋がっていると受け止められている。したがってロスコーらと違って両者を全く使わずに、或いは切り離してこの時代を考究する事は至難の業である。その為別次元の問題が生じており、場合によってはある種の偏重さえ、両概念には見られる。 それは中世と異なって、超越的存在者を認めず此岸的に人間の本質自体を凝視した古代がルネサンスに発掘され、此れに影響されて人間中心のヒューマニズム時代が始まったとする、ルネサンスと中世を峻別する思考法である。ヒューマニズムの世界は、それ以前の中世の、神中心のスコラ的世界とは異なっており、古典に培われ、人間の自力性を重視するヒューマニストが登場したとされる。このような解釈は、ルネサンスを異教的古代の復活に限(15)定するものであり、明らかに古代教父の研究成果やヘブライ学の萌芽が無視されている。 時には、ルネサンスの古典研究は厳密化・専門化されたと評価される一方で、それを行なうものは、訓古注釈をもっぱらとする、現代のアカデミックな古典学者の先駆者と目されて、ヒューマニズム運動が矮小化される傾向にある。実はこのような視点は、わが国では必然的にルネサンス・ヒューマニズムの限界についての指弾となり、興味深い事に同時代の宗教改革との明快な対比に至る。イタリア・ルネサンスはエリート色の強い貴族文化的傾向を有し、俗語に対抗してラテン語に固執したが故にまことに近代を生み出す事も無く、ルターのドイツ語訳聖書に示される、宗教改革の様な全般的影響を与える事も無かったというのである。 ルネサンス・ヒューマニズムは学者としてのヒューマニストだけを生み出す為にあったのではない。近代ヨーロッパの教育基盤となって、そこから官僚も宗教者もはぐくまれてきた事が認識されていない。ガスパロ・コンタリーニ、フィリップ・メランヒトンらが想起されるべきであろう。……近代の俗語のみを重視する研究者は、日本文化がラテン語となんらの対応関係がない分、古典語とこれに基づく教育、ヒューマニズム教育に対する偏見も甚だしいようである。…… ペトラルカをはじめとする前述のヒューマニスト達が俗語を使い、場合によってはパルミエーリに見られるように同一書で両方の言語が用いられて、この時代の文化がバイリンガルの要素が極めて濃いこと、またラテン語と(16)俗語の各利用がある意味で至当であること、例えばブルーニとポッジョの歴史書はラテン語で執筆されているが、1476年、ヴェネチアで初めて印刷出版されたときは俗語で出た事に伺えるように、どのような人々がどの程度どちらの言語表現を必要としているかに応じて、古典語と俗語の使い分けが為されている事、そして最後に、ヒューマニストや哲学者が翻訳したのは古典に限らない事([俗語、地方語とラテン語])ラテン語を解さない階層とは異なって、ヒューマニスト達はエリート色が強く、比ゆ的な意味で、つまり精神的な意味で貴族的な傾向があった事を認めよう。 彼等が理想とした人間は田舎の「自然の人」homo naturalisでなく、文明が息づく町の「市井の人」homo civilisであった。その為に人間は、エラスムスの言のごとく、動植物と違い、形成されていく(homines nihil crede, non nascuntur, sed finguntur)。この場合に知悉しておくべき事は、ある時代の文化のありようであろう。間違いなくそこにはラテン語に基づき、これにより構成される文化への確信が存在した。エラスムスが「キリストの哲学」の成句で名高い『パラクレシス』で、聖書が俗語訳され、福音書や聖パウロの書簡があらゆる卑しき女性達によっても読まれる事を願い、ま(17)たキリスト教圏に留まらず、トルコやイスラム圏の言語にもそれが訳される事を期待していても、彼が、ラテン語が背負うヨーロッパの古典的伝統を忘れたとは思われない。 ただそれは、この古典語が所謂文化言語・教養言語に限定されるのでなく、実用性の点からも優れていた事が考えられなければならない。イタリアから例を挙げよう。ヤコポ・デッラ・ラーナによるダンテ『神曲』俗語注釈は、ベルガモのアルベリコ・ダ・ロシャーてによって、トスカーナ方言よりも容易に分かるようラテン語に訳された。ボッカチオの『デカメロン』中のグリセルダやギスモンダの物語が、ペトラルカやブルーニよりラテン語訳された事は、この例より良く知られていよう。16,17世紀の時代、イタリア語が他の言語よりヨーロッパ文化の中で優位を占め、貴族や学者にとり身近な外国語であったとしても、バルダッサーレ・カスティリオーネの『廷臣論』やマキャヴェリの『君主論』は、ラテン語化される必要があった。両人と違って職人層の出身で、ラテン語に疎かったジャンバッティスタ・ジェッリの傑作『キルケ』も、俗語からこの古典語に訳された。これらは恐らく彼等の意図に反していたことであろう。 このような事は書き言葉の世界に限らなかった。両世紀はアカデミー活動が盛んな世紀であったが、イタリア語を解さず、フランス語やドイツ語を話す人達のためにラテン語で哲学の講義が行なわれるのも珍しい事ではなかった。……[その後何世紀かにわたってラテン語優位の時代は続く] (18)ルネサンスと古代・中世の、またラテン語ヒューマニズムと俗語ヒューマニズムとの関係は、本書が扱う時代の中でも究めて本質的問題である。先述の『イストリアのピエトロ・パオロに捧げられた対話録』でのダンテ、ペトラルカ、ボッカチオの評価も、1300年代の俗語文学をどのように考えるのかという、彼等に続く世代、古典的ヒューマニズム世代の重要課題であった。 (根占献一著『フィレンツェ共和国のヒューマニスト』、創文社・2005年)