2009年4月5日日曜日

Petrarcha Nr.1

 ペトラルカ(64) フランチェスコ・ペトラルカ(1304-74)は偉大な抒情詩人として有名で、ダンテ、ボッカチオとともにイタリア文学の3巨星をなし、ヨーロッパ文学の最高峰に名を連ねている。のみならず、ルネサンスの開始を告げる人文主義の真の父とみなされていて、思想史的にも重要な役割を果たした。しかし「哲学史」においては、ペトラルカは過小評価されがちだったように思われる。その一因は、彼の活動の多面性にあろう。彼は多くの分野で当代一流の、或いは超一流の仕事をした。抒情詩人、叙事詩人、弁論家、哲学者、歴史家、古典学者、文献学者、宗教文学者、地理学者……。彼はこの全てであり、またそれ以上であった。哲学者ペトラルカだけに関心を限定すると、彼は多少とも矮小化されざるを得ないであろう。 過小評価の一因は彼の方法にもあろう。彼の探求方法も叙述方法も体系を志向しない。彼はそのつど、切実な具体的問題への取り組みを通じて思索し、著述する。その為、彼の思想表現は、多かれ少なかれ断片的であらざるを得なかった。 <哲学者>ペトラルカの仕事を正しく理解し評価するためには、彼の著作総体に目配りするとともに、彼自身の哲学観や探求方法や叙述方法に即してその探究活動を理解しようとすべきであろう。
1. 生涯 偉大な詩人にして歴史家(65)ペトラルカはいつも不幸な意識にさいなまれていた。これは、時代の状況にも起因していた。 西欧の農業は11世紀頃から着実に発展し、人口の飛躍的増加、おびただしい都市の誕生と発展が見られたが、13世紀末ごろから農業生産は停滞し始め、地域によっては下降線と辿る。増加した人口に比べて食料の絶対量が不足し、各地に慢性的な飢餓状態が生じる。しかもこれを不断の戦争が助長した。そして1339年には英仏百年戦争の戦闘が勃発。さらに、ペトラルカの母国イタリアでも、中小の都市国家が乱立して戦争が殆ど日常化していた。そこへ1348年からのペスト大流行。西欧の人口は3分の1近くも失われたという。この大流行後も、ペストは断続的に流行し、局地的な惨害を齎し続けた。ペトラルカの生涯も意識も、このような時代状況に深く規定されていたのである。 ペトラルカは存命中のフィレンツェ市民を父として中部イタリアの町アレッツォに生まれた1304年7月20日の夜明けであった。公証人をしていた父ペトラッコは、(66)やがて1312年、妻子を伴って南仏プロヴァンスのアヴィニョンを目指す。 アヴィニョンは1309年から新しい教皇庁の地として活況を呈し、急激な人口増加によって住宅難だったので、フランチェスコと3歳違いの弟ゲラルドは、母とともに,アヴィニョンの北東ほぼ25キロの町カルパントラに移り住む。そして1316年、ペトラルカ少年は12歳の秋、父の意向によりモンペリエ大学に入学して市民法の勉強を始め、16歳の秋からは弟ともに、法学研究の中心ボローニャ大学に学ぶ。しかし1326年春、父の訃報に接してアヴィニョンに帰ると、最早ボローニャには戻らない。 アヴィニョンでペトラルカ兄弟を待ち受けていたのは、父の遺言執行人の不実と使用人たちの盗み。父無き家庭はめちゃめちゃになるが、この逆境はペトラルカにとって幸運でもあった。いまや父の意向から解放されて、好きな文学研究にまい進できたのである。彼はまず、主に俗語詩(イタリア語詩)によって名声を博そうとして詩作に熱中し、次々に美しい抒情詩(特に恋愛詩)を生み出していく。同時に、都会風の華美な享楽的生活を追い求める。こうして詩人は、恋と詩と名声を中心的関心事とする生活に明け暮れる。「青年期の全てを自分の虚栄の下で過ごした」のである。 詩人はやがて生計のために就職の必要に迫られたのであろうか、剃髪し、聖職者になる。つまり彼は、文学活動に必要な自由と閑暇のための経済的基盤を聖職禄に求めたの(67)である。だから聖職者になっても生活の基調は変わらなかった。やはり恋と詩と名声を中心的関心事とする生活に明け暮れていたのである。しかし、1333年ごろ、アウグスティヌスの『告白』を読んで深い感銘を受け、自分の生き方に疑問を抱き始める。とはいえ「虚栄」の生活に決別するには至らなかった。そして37年には私生児ジョヴァンニが誕生。これが詩人に与えた衝撃は大きかった。 同年夏、詩人は蔵書の一部を携えて、アヴィニョンの東ほぼ24キロの寒村ヴォークリューズにひきこもる。アヴィニョンにおける「虚栄」の生活や世俗的煩労から逃れ、閑暇と自由を得て文学研究に専念しようとしたのである。やがてその成果が世に認められ、41年4月8日、都ローマにおいて盛大な式典とローマ市民の大歓呼のうちに「偉大な詩人にして歴史家」として桂冠詩人の栄誉に輝く。 ペトラルカはヴォークリューズの「孤独生活」がいたく気に入っていたが、1353年、イタリアを目指してプロヴァンスを去る。その主要原因は母国イタリアへの愛着とアヴィニョン嫌悪(中でもアヴィニョン教皇庁嫌悪)であった。 詩人はまずミラノに居を定める。だがミラノにも安住できず、ミラノからパドヴァへ、さらにヴェネツィアへ、再びパドヴァへと、次々に生活の本拠を移す。ようやく1370年、パドヴァから遠くないアルクアの山荘に終の棲家を定め、そして74年7月18日の真夜中過ぎに息を引き取る。書物にうつぶしたまま、と伝えられている。
 三つの出会い(68) 詩人の生涯も教養形成や文学活動も、三つの出会いによって決定的影響を受けている。 ペトラルカの本格的な教養形成は、プロヴァンスの町カルパントラで始まる。ここで彼は八歳から四年間を過ごし、その間にラテン語をほぼ完全に習得。のみならず、天性の優れた言語感覚や音感のゆえに、たちまちキケロ(前106-前43)の文体に夢中になる。まだ文章の意味内容も分からないのに「ただ言葉の甘美さ、響きの良さに、すっかり魅了されていた」のである。 このようなキケロ心酔とともに熱心な古典学習が始まる。以後、ペトラルカの古典文学熱の中心には、常にキケロが居た。 ペトラルカがボローニャ遊学を打ち切ってアヴィニョンに帰ってきたその翌年、1327年4月6日の朝、彼はアヴィニョンのサント・クレール教会でラウラに出会い、……ラウラは詩人にとって「永遠の恋人」となり、彼の全生涯にわたって尽きることなき詩的霊感の泉となる。 1333年ごろ、ペトラルカはアウグスティヌスの『告白録』を読んで深い感銘を受け、自分の生き方を改めようとしたばかりか、広く宗教文学にも目を開き、教父文学や聖書を熱心に読み始める。
2. 孤独者 古代文芸「再生」のために(69) 古代文学と古代世界についてペトラルカの知識が豊かになり正確になるに連れて、彼は多くの古典作品の消失という事態を確認して行く事になった。そしてこの事態に悲憤を募らせ、失われた古典作品の発見にも努力する。そして1333年、29歳ごろのペトラルカは、旅の途中リエージュで、キケロの弁論『アルキアス弁護』を発見。また45年、ヴェローナ大聖堂参事会館の図書室で、キケロの書簡集を収めた大部の写本を発見し、自分で全部筆写する。 ペトラルカはラテン古典ばかりかギリシア古典にも収集の触手を伸ばし、後にはプラトン対話編十数編のほか、ホメロス原典をも入手する。この事実も重要で、やがてボ(70)ッカチオのギリシア文学熱を喚起し、二人の緊密な協力とボッカチオの献身的努力により、1360年、カラブリアのレオンツィオ・ピラートがフィレンツェ大学に招かれた「ギリシア語・ギリシア文学」の公認教師となり、ホメロス原典を購読する。こうしてギリシア文芸のルネサンスも確実に第一歩を踏み出す。 しかし古典収集活動は、古典作品発見の努力にとどまらなかった。当時、西欧知識界に知られていた古典作品も、新たに発見された作品も、しばしば不完全なものであった。ペトラルカは親しくキケロ宛に手紙をしたため、時代の文化的惨状を嘆いている。「あなたの残存作品も、多くの欠損があります。その為我々は,いわば忘却や怠慢との巨大な戦闘に打ち勝っても、我々の戦士せる指導者たちを悼むばかりか、重症で不具となった指導者たちをも嘆かざるを得ないのです」。 古典作品を再発見し、「忘却」の闇から光の中に呼び戻すこと。それはまさに「忘却」や怠慢との巨大な戦闘」であり、古代文芸「再生」のための重要不可欠の活動であった。さらに「重症で不具となった」古典作品を修復し復元する努力も要求された。そのような苦闘の跡をまざまざと見せてくれるものの一つは、20歳代半ばのペトラルカによるリウィウス復元の画期的試みである。 こうして少なからぬ作品が忘却の牢獄から開放されて光の中によみがえり、「重症で不具となった」瀕死の作品も、時には原型を取り戻し、元の「生命」を吹き込まれてよみがえる。(71)それぞれに作品の「再生」である。このような古典作品「再生」を一環とする古代文芸「再生」の運動によって、またこのような運動の必要と意義を痛切に自覚し、後進にも自覚させた事によって、ペトラルカはルネサンスの幕開けを告げる人文主義の真の父となり、ルネサンス運動の偉大な先達となる。 古典の探索・収集や修復・復元の活動を促していた根本動機は、単なる書籍収集欲ではなく、寧ろ歴史的使命感であった。ペトラルカは古代と対比して、これに続く自分の時代(今日で言う中世)を弾劾している。 「古代には優れた著作家が群がっていた事を思うに付けても、これに続く時代の人々の恥辱や犯罪が、それだけ際立ってくる。彼らは、自分たちの不毛という不名誉だけでは満足できないかのように、他人の天分の成果や、父祖たちの研究と労苦との結晶である著作を、その許しがたい怠慢ゆえに消滅させてしまったのである。彼ら自身のものは何ら後世に与えず、父祖たちの遺産はこれを構成から奪い取ってしまったのである」。 このような歴史的展望の下に、ペトラルカは二つの歴史的使命を自覚していた。第一は、古代の文学的遺産の継承、そしてこの遺産を確実に後世に伝えること。第二は(72)時代の「不毛」に抗して自分自身の豊かな文学的成果を創出し、後世に贈り伝えること。 ペトラルカの文学研究においては、この二つの仕事が一体を為していた。このような文学研究は、しかし、彼一人の力で十分に成果を挙げうるようなものではなかった。だから彼は、多くの人たちとの文学的共同を大切にした。中でもボッカチオは、ペトラルカを「わが師」と呼んで敬愛し、師の文学運動に献身的努力を惜しまなかった。  人文主義の基本的発想―――人間形成とフマニタスの理念 ペトラルカの中核的関心は倫理的で、「良く行き、幸福に生きる事」にあった。だが、よく生きようとする努力は、よりすぐれた人間へと自己形成しようとする努力を離れてはありえない。人間の生き方の問題は人間形成の問題と不可分に結びついている。人間形成に関するペトラルカの基本的発想は、次の文章に表現されている。 「人間というものは、もしも……人間性をまとい獣性を脱ぎ捨てること、要するに、単なる人間から人間的な人間になる事を学ぶのでなかったら、ただ卑しい醜悪な動物であるばかりか……有害で気まぐれな、不誠実で無節操な、凶暴で残忍な動物でもあるのです」。 「単なる人間」から「人間的な人間」へ。ペトラルカの考える人間形成の基本的方向がここに示されている。これはまた、以後の人文主義思想の基本的方向でもあろう。 (73)前掲引用文において「人間的な人間」と訳したラテン語virは、もともと「成人男子」を意味する。そしてキケロに拠れば、成人男子という語から「徳virtus」という語が派生して来た。 ペトラルカが前掲文を書いたとき、彼の愛読書『トゥスクルム談論』のこの箇所を念頭においていた事はほぼ確かであろう。それゆえ、ペトラルカの念頭にあった「成人男子」、或いは寧ろ「人間的に成熟した成人男子」virとは、もろもろの美徳virtusを備えた人、つまり「徳の人」に他ならないであろう。しかし前掲文に即して考えてみると、寧ろ「人間性フマニタスをまとい獣性を脱ぎ捨てること」を学びえた人、つまり優れた人間性を豊かに備えた「フマニタスの人」と解するほうが自然であろう。このような「フマニタスの人」こそ「優れて人間的な」人間、真に「人間的な」人間であろう。そして「単なる人間」とは、まだフマニタスを少しも身に付けていない人、つまり自然のままの粗暴な人間のことであろう。―――こうして、自然のままの「単なる人間」から「人間的な人間」へ、という人間形成の基本的方向が浮かび出て来る。(74)魂の養育というソクラテスープラトン依頼の哲学的課題は、人間性の養育という課題のうちに受け継がれ、より広がりのある豊かな内容を獲得してくる。 ペトラルカにおけるフマニタスは、きわめて包括的な概念で、知的教養のほか倫理的・実践的教養や美的教養をも含む。フマニタスはまた人間愛の意味にも用いられる。フマニタスの核心は人間愛にあると考えられていたのである。ペトラルカは言う。 「出来るだけ多くの人を救い助けることほど幸福な事があるでしょうか。これほど人間にふさわしく、そして神に似た事があるでしょうか。これを為しうるのに為さないのは、フマニタスの高貴な義務をなおざりにすることであり、それゆえまた人間の名と本性を失うことだと思われます」。 フマニタスの核心をなす人間愛は、最も「人間的」であるばかりか、「人間的」な者のうちで最も「神に似た」者とされる。それゆえ、人間が最も神に近づき、最も神に似たものとなりうるのは、この人間愛によってなのである。人間愛も、これを書くとするフマニタスも、質的に高められれば高められるほど、ますます神性に似たものとなる。フマニタスは動物性や獣性と対立する概念であって、神性と対立するものではなく寧ろ神性を目指すべきものである。人間が「より人間的」になることは「より神に似た」ものとなることでもある。
 「孤独」の探求 ヴォークリューズ院生とともに始まる「孤独生活」は、以後、ペトラルカの生涯を通じて理想の生活形態となる。しかも彼は『孤独生活論』全2巻を著し、孤独生活の文学的造形を試みる。それは孤独生活の理想化であり、神話化であった。抗して「孤独」神話は、ラウラ神話とともに、ペトラルカの生涯と文学を深く規定する二大神話の一つとなる。 「孤独生活」は都市生活と対立するもので、「孤独生活」の文学的造形は、都市生活の文学的造形と密接不離の関係にある。都市生活の文学的造形とは、都市生活を諸悪の巣窟として典型化することであった。詩人の描き出す「都市生活」はあらゆる悪徳に満ちていて、互いに欺き欺かれ、監視し監視され、陥れ陥れられる……といった生活が繰り広げられる。まさに「悪魔さながらの生活」である。こういうわけで、都市には人間があふれているが、その実人間的なものはすっかり影を潜め、醜悪な獣性だけがのさばっている。「人間たちの間にあって人間性を忘れる」という事態が見られるのである。―――ペトラルカの「孤独」愛は、アヴィニョンで典型的に見られたような都市生活の現実に対する絶望感と深く結びついていたのである。 では、都市生活から逃れさえすれば、閑暇や自由がすぐに得られるのだろうか。ペト(76)ラルカの体験はそれを保証しなかった。彼は告白している。「私は逃げはしましたが、何処までも自分の禍いを運びまわったのです」。 すると、自由を脅かす根本原因は、寧ろ自己自身のうちにある事になろう。ペトラルカ自身の内なる「禍」とは、「魂の病気」と呼ばれるもので、主に高慢・貪欲・情欲・怠惰(うつ病)・愛(恋人ラウラへの恋情)・名誉欲などであった。彼が都市生活に見出した諸悪の幾つかは,実は彼自身の悪徳でもあったのである。都市に満ちた諸悪の間では、彼自身の諸悪が、いっそう容易に生み出され、或いは激化する。ことにアヴィニョンは、彼自身の「あらゆる禍の原因というよりも製造所」であった。すると問題は、すむ場所というよりも、我々自身のうちにある事になる。魂が深く病んでおれば都市生活を捨てても意味が無い。「群衆から離れてはいるが、情念から自由になっては居ない」からである。魂の病気が根治され、情念の支配から解放されたとき、初めて、本当に「孤独」の中に歩み入ったと言えるであろう。そのときは、魂は何者かによってもかき乱されず、平安に満たされている。これこそペトラルカの言う自由であり、「孤独」なのである。「このように孤独は、完全に幸福であり安らかであって、いわば堅固な砦、あらゆる嵐に対する港なのです」。(77)これはいわば、外部への依存や執着から自由になって自己自身に還り、ひたすら自己内部で充足することであろう。そのような「孤独」の理想状態においては、自己以外のものは全て影を潜める。「孤独は、誰をだまそうとも思わず、何を真似るでも、真似ぬでもなく、何も飾らず、何も隠さず、何も取り繕いません。全く素顔で、ありのままで、魂を毒する見物席や喝采とも無縁です。ただ神のみを、生及びあらゆる事柄の証人とし、従って盲目で嘘つきの俗衆にではなく、自己自身の良心に信を置くのです。」 ここでは人間の自己自身があらわになり、何者にも妨げられない内奥の声が語りかけてくる。それは、超越的なものと見れば神の声でありうるだろうし、内在的なものと見れば良心の声であろう。このような内奥の声こそ判断の自由の根拠であって、これを自己のうちに自覚した人間は、他者のうちにもそれを尊重せざるを得ない。ペトラルカは言う。「判断の自由ほど大きな自由は無いのであって、私はこの自由を、自分のために要求するとともに、他者にも拒みません。……最も深く秘められたものである人間の良心の審判者である事を、私は欲しません」。 これは人間的に、より高い立場である。自己の「孤独」に深まる事は、実はまた、他者に向かって深く心を開くことだったのである。もともと「孤独」賛美の動機のひとつ(78)は、「人間たちの間にあって人間性を忘れる」という世間の虚偽に対する拒絶であって、その根底には、真の人間的結びつきへの熱い願望が脈打っていたのである。ただ神のみをあらゆる事柄の証人とし、神のまなざしを意識しつつ、自己の良心に尋ねながら生きる「孤独者」。このような「孤独者」は、キルケゴールの「単独者」に通じるであろう。「孤独者」として生きるという意味での「孤独」は万人に求められるものではなく、寧ろペトラルカのような文学者にこそふさわしい。彼は「孤独生活」の中で文学活動に専念し、よりよく世人に役立とうとした。「私の欲するのは、単なる孤独でも不毛な益のない閑暇でもありません。孤独の中から多くの人に役立つことです」。
 自己対話としての哲学的探求 ペトラルカは「孤独生活」の中で「孤独」の意味を深めつつ、自分自身のあり方やいき方を探っていった。「孤独」は基本的に自己自身との対話だったのである。ところで「孤独」に生きるとは、ただ神のみを証人として、自己の良心に尋ねながら生きる事に他ならなかった。だから「孤独」における自己対話も、やはり神を証人として、神のまなざしの元で(神のまなざしを意識しつつ)為される。このような対話の典型的(79)表現は、対話編『わが秘密』であろう。 『わが秘密』の序に拠れば著者フランチェスコは、神々しい乙女の姿をした「真理そのもの」の訪れを受ける。「真理そのもの」はアウグスティヌスを従えていて、彼にフランチェスコと対話させる。対話の目的は「危険な慢性の病気にさいなまれている」「瀕死の人」フランチェスコの「生」を助けることである。より具体的には、フランチェスコをさいなむ様々な「魂の病気」を吟味し、その治療法を探ること。つまり、魂の世話という哲学の根本問題に具体的に答えることである。 対話の人物アウグスティヌスは、古代末のローマ社会に生きた歴史上の人物として描かれているが、やはり著者フランチェスコの創造になる人物で、著者の分身でもある。それゆえ対話は、著者フランチェスコの自己対話であり、自己対話としての哲学的探求である。  「真理そのもの」はアウグスティヌスとフランチェスコの対話を設定するが、二人の対話に介入することは無い。ただ、対話の場に臨在し、その光によって対話者二人を照らしている。その光に照らされてのみ、対話者は探究を進める事が出来る。対話者フランチェスコはアウグスティヌスに向かって言う。「もしもこの方(真理そのもの)にお顔を背けられていたなら,私達は闇に包まれて道に踏み迷っていたでしょうし、あなたの語られることも確かなものを何ら含まず、(80)私の知性も何ら理解できなかったことでしょう」。 しかも「真理そのもの」は対話者の心の中をも深く見通しているので、およそ偽りや隠し立てはむなしい。対話者は自分の内面や生活実態を全て隠し立てせずに語らざるを得ない。こうして対話内容は告白ともなる。そこでは対話の進行過程は、著者フランチェスコの告白の価値であり、告白の徹底によって自己認識や自覚が深められて行く家庭である。これはキリスト教の「告白」の精神と結びついた対話であって、キケロやプラトンの対話編とは異質である。彼らの対話編に、彼ら自身の詳細な告白を見出すことが出来るだろうか。(80)
(伊藤博明編『哲学の歴史 第4巻 ルネサンス 15-16世紀』、中央公論社・2007年)