2009年4月5日日曜日

Et cetera Nr.1

Et cetera (127)ヴァッラと反スコラ学 ペトラルカの激しいスコラ学批判についてはよく知られており、彼は「スコラ的な空疎なおしゃべりの哲学」ではなく「魂のうちに住み着いている哲学」すなわち道徳哲学と呼ばれる学問的探求を目指していた。この態度はサルターティやブルーニといったフィレンツェの人文主義者たちに受け継がれ、社会を構成する市民としての道徳の確立へと展開していった。たとえばブルーニは、『道徳学入門』(1423ころ)において、徳と歓喜の調和の取れた一致を可能とする幸福の概念を追求し、ストア学派、エピクロス学派、アリストテレス学派などの倫理的教説の統合を目指している。 このようなスコラ学的議論とは異なる教説の提示にとどまらず、いわば真っ向からそれを批判し、他の人文主義者たちとも対立した移植の人文主義者が、ローマ生まれのロレンツォ・ヴァッラ(1405-57)である。彼は優れた人文主義的教育を受けた後、1429年から33年までパヴィア大学で修辞学を教え、1437年からアラゴン王アルフォンソ5世の秘書を務め、1448年からは教皇庁の書記官となった。 ヴァッラはその批判的文献学を武器にして、教皇の統治権の根拠とされてきた、いわゆる『コンスタンティヌスの寄進状』が偽書であることを証明し(1440年)、また新約聖書の注解を試みて後代の聖書文献学に影響を及ぼした。彼の『ラテン語の優雅さ』(1444年)は最も流布した書物で、古代ローマ人のラテン語を復興させようと意図したものだった。哲学的な著作としては、神の予知と人間の自由の両立について論じた対話編『自由意志論』や、アリストテレス的・スコラ的論理学の根本的な批判の(128)書である『弁証学的論議』(1439年)が挙げられるが、以下では、道徳哲学的論議である『快楽について』(1431)―――後に『真の善と偽りの善について』と改題―――を紹介したい。
 快楽について 同書は三つの異なる見解を代表する人文主義者の対話という形式をとっている。最初の人物はレオナルドゥスでストア主義を代表する。彼は最高善を道徳的徳と同一視しているが、古代のストア学派とは異なって、自然の敵意と不正について語っており、人間の道徳的徳の実現が困難であることを強調している。次の人物はアントニウスでストア主義を批判し、エピクロス主義(エピクロス自体の教説とは異なる)を擁護する。彼によれば真の善は道徳的徳にあるのではなく、快楽に存しているのであり、それは有用性と一致している。彼は感覚的快楽を肯定して姦通さえ容認し、修道院的な理想を退ける。最後に登場するのがニコラウスで、彼は先の二人を批判して、キリスト教に基づいた持説を展開する。彼によれば、人間的な徳は信仰・希望・愛という対神徳なしでは無益である。ストア学派における徳はそれ自体が目的であり、神との結びつきを忘却している。他方、エピクロス学派は有用性のために徳を追及する点でストア学派よりも優れているが、キリスト教徒は来世の私服のために徳を望むのでさらに優れている。ただし、この来世の幸福もまた一種の快楽である。この快楽は地上において経験しうるものよりもはるかに強く、完全なものである。こうして彼は、キリスト教的なエピクロス主義とでも言うべきものを提出する。 アントニウスとニコラウスのどちらかが、ヴァッラの真意を代弁しているのかについては議論がある。しかし、哲学の果たす役割が解答をもたらすことのみならず、あるいはそれ以上に、問題を提起することに存するのであれば、ヴァッラは、確かにライプニッツが述べているように「人文主義者であることに劣らず哲学者であった」のである。(129)
新しい論理学 伝達のための道具(129) 中世には復興されたアリストテレスの論理学が盛んに研究され、三段論法を中心とした形式論理学が大きな発展を遂げたことが知られているのに対し、ルネサンスの論理学が論じられることは殆どない。というのは、ルネサンス期には、形式論理学における発展は殆ど見られないからである。ルネサンスの学問的研究の中心となった人文主義的研究においては、三段論法に基づいた論理の形式製をめぐる議論は、むしろ実生活にとって無益なものとみなされた。人文主義者たちは、論理学を人間のコミュニケーション手段の考察として、弁証学さらには修辞学と同一のものとして捉え、新しい論理学を主張したのだった。 この人文主義的論理学は、三人の人物によって代表される。ロレンツォ・ヴァッラ、ルドルフ・アグリコラ、ペトルス・ラムスである。ヴァッラは文献学者として、精緻な文献批判に基づいて、『コンスタンティヌスの寄進状』が捏造されたものであることを論証したことで知られる。『弁証学的論議』では、古代ローマの弁論家クインティリアヌスの『弁論家の教育』に基づいてアリストテレス論理学を批判し、論理学の自立性を否定し、論理学を弁論学の道具とみなした。彼は、必然的結論を導出する論証的三段論法に対して、蓋然的結論を導出する修辞学的三段論法を主張している。彼にとって、修辞学は単に議論における説得の術を扱うだけでなく、論証を含む言語の学問であった。 アグリコラはオランダ出身だったが北イタリアで人文主義を学び、アルプスの北へ人文主義運動を紹介(130)し、弁証学すなわち論理学を形式的論証よりも伝達のための道具とみなして、説得と蓋然的な討論の技術として論じた。 『弁証学的着想について』では、ボエティウスの『様々なトピカについて』注解に基づき、論理学を「トポス」すなわち場所(論題)に従って構成し、厳密な論証を弁証学の蓋然性にとって変えた。彼は弁学術を、場所を見出すための着想と、三段論法などの判断に分割したが、彼の「トポス」のリストには、定義や類、種、属性といった「場所」が挙げられ、それらによって諸概念は分類され、また分枝的な図式表示によって、諸概念間の抽象的関係が空間的構造として表現されるのである。(130)
 哲学史上のルネサンス ルネサンス哲学の評価(250) 1992年に刊行された、チャールズ・B・シュミットとブライアン・B・コーペンヘイヴァーによる『ルネサンス哲学』……の中で著者は、最後に「ルネサンス哲学と現代人の記憶」と題する章を置いて、ルネサンス哲学が英語圏の哲学史においてこれまで受けてきた評価を幾つか紹介している。たとえばD・W・ハムリンの『ヨーロッパ哲学史』(1987)は、「ルネサンス」という11ページの章の大部分をF・ベイコンとホッブズにあてて「他の多くの活動―――科学、芸術、文学―――が華々しく発展した時代が哲学の低調だった時代だった事は、逆説的と見えるかもしれない。しかし、これは事実なのである」という判断を下している。 コーペンヘイヴァーはこうした見方を嘆くだけではなく、一方で、ルネサンス哲学のアクチュアリティについて、道徳哲学、形而上学、言語と言う三つの観点から例を挙げて考察している。彼の立場は、「この時代全体が豊かな時代であり、明らかに、これまで受けてきたものよりも大きな学問的・哲学的関心を受けるに値する」というものである。しかし、翻って考えるならば、彼がわざわざ一章を設けて、ルネサンス哲学に関する研究の一種の正当化を図ったこと自体が、英語圏の哲学史においてルネサンス哲学が与えられてきた地位を再確認させるものである。 ルネサンス期の哲学、とりわけイタリアにおける哲学が一般的な関心を引くことになったのは、フランチェスコ・フィオレンティーノ『15世紀の哲学的リソ(251)ルジメント』(1885)やディルタイ『近代的人間像の解釈と分析』(1892)などの先駆的な仕事に続いて、エルンスト・カッシーラー『近代の哲学と科学における認識問題』第1巻の刊行(1906)そして同『ルネサンス哲学における個と宇宙』(1927)の刊行によるところが大きい。ここでカッシーラーは、自然認識の問題を中心に、ルネサンス期の哲学を広い思想史的文脈の中に位置づけている。 他方、この時期にイタリアでも研究が飛躍的に進展し、ベネデット・クローチェやジョヴァンニ・ジェンティーレを中心に,ブルーノやカンパネッラの原典刊行と並行して多くの業績が積み重ねられた。その後継者の中でも傑出した存在は、ピコ・デラ・ミランドラ研究(1937)から出発したフィレンツェ大学のエウジェニオ・ガレンである。該博の知識と厳密なテクスト読解に支えられた彼の研究は、『イタリア哲学史』(1942)や『イタリアのヒューマニズム』(1947)をはじめとして重要な成果を次々と生み出し、またパオロ・ロッシやチェザーレ・ヴァゾーリなど、多くの優れた弟子たちを輩出したことも特筆に価する。
 クリステラー以後 戦後のルネサンス哲学研究はアメリカで急速な発展を遂げたが、その推進者だったのがポール・オスカー・クリステラーである。彼は1930年代にフライブルク大学で、ハイデガーのもと大学講師資格論文のためにフィチーノについての研究を始めていた。しかし、ナチスの台頭によってイタリアに渡る事を余儀なくされ、同地でガレンをはじめとする多くの知己を得ながらフィチーノ研究を続け、1937年に『フィチーノ著作補遺』を刊行する。1939年にはアメリカに逃れ、イェール大学を経てコロンビア大学に移った。 コロンビア大学に彼を招聘したのは、後に『パドヴァ学派と近代科学の興隆』(1961)を著すことになるジョン・ハーマン・ランドルである。1943年にはクリステラーの主著『マルシリオ・フィチーノの(252)哲学』が英語版として刊行された。そして、1949年にクリステラーが、ランドル、および当時コロンビア大学で教えていたカッシーラーと共に編纂した、解説つきのアンソロジー『ルネサンスの人間哲学』は、英米圏で最も広く、また長く読まれたルネサンス哲学に関する入門的著作となった。クリステラーは『古典とルネサンス思想』(1955)や『イタリア・ルネサンスの八人の哲学者』(1964)などの高度な啓蒙的研究所のほか、世界の各図書館に所蔵されているルネサンス期の写本目録『イタリアの道』全6巻(1963-92)を刊行して、以降の研究の礎を築いた。 クリステラーはまた、ルネサンス研究者の養成という点に於てもガレンに匹敵する仕事を行った。
 キリスト教的カバラ(253) 1486年の冬、ピコは哲学的・宗教的討論のための『提題』をローマで刊行した。しかし『提題』に異端的なものが含まれているという風聞が広まり、教皇インノケンティウス8世下の調査委員会は計13の論題の撤回を命じた。その中でも「偽りの、誤った、迷信的で、異端的な」論題と断罪されたのが次のものである。「マギアとカバラほどキリストの神性について我々に確証する学知は存在しない」。魔術とカバラのどちらが断罪の対象となったのかは定かでは無いが、ピコ自身は両者を関連付けて論じているので、両者ともその対象とされた可能性が高い。 ヘブライ語のカバラとは、「伝承」或いは「伝統の伝承」という意味であり、12世紀末のプロヴァンス地方で興隆した、ユダヤ教における秘儀的な教説について用いられる。13世紀にはいると、スペインのヘローナにカバラの新学派が生まれ、1280年代にはカバラ史において最も重要な著作『ゾーハル』が成立している。その教説は、「神の言葉」としてのヘブライ語に対する様々な秘儀的解釈に基づくものであった。15世紀のスペインにおけるユダヤ人迫害、とりわけ1492年のユダヤ人追放令前後には多くのユダヤ人がイタリアに渡り、こうした状況下でカバラもイタリアに移入された。 ピコ自身は、カバラがモーセの時代から「文字によらずに口伝によって」連綿と伝えられてきた「律法の難解で隠された秘儀の解説」であると主張している(『人間の尊厳について』)。さらにピコは、この教説(254)が「我々の信仰の偉大な起訴」、すなわちキリスト教の基礎であると再三述べている。こうした見解は、スペインのカバラ主義者には思いもよらぬことだったであろう。こうしてピコから所謂「キリスト教的カバラ」が始まったのである。 ピコはカバラに関する論題において、イエスの名が神名ヤハウェに由来すると説いている。そして、「イエス」の間に置かれたヘブライ語の「S(シン)」は、カバラ的には世界が完全に憩う事を意味し、これは「神の子」であると共に人間でもあったキリストにおいて実現される事を意味している。このような思弁的な教説と共に、ピコはまた、カバラにおける実践的な側面、すなわち魔術的な操作にも触れている。ヘブライ語のアルファベットはそれ自体が「数」をも表現しており、この数の組み合わせによって天使の世界に、さらには10のセフィロト(神の普遍的名称ないし神性の流出領域)に働きかける事が可能となるのである。
 アルプス以北への影響 キリスト教的カバラは、ヴェネツィアではフランシスコ会士フランチェスコ・ジョルジ・ヴェネト(1466-1540)、ローマの教皇庁ではアウグスティヌス会総長エジディオ・ダ・ヴィテルボ(1465-1532)という後継者を得て広まっていった。しかし、アルプスを越えての伝播と言う点では、ドイツの人文主義者ヨハネス・ロイヒリン(1455-1522)の功績が極めて大きい。彼は、青年時代にイタリアに学んでカバラの書物を入手しており、カバラを詳説した『驚くべき言葉について』(1494)と『カバラの術について』(1517)を執筆すると共に、その中でヘブライ語の「奇跡を起こす」力への強い関心を示している。最初はロイヒリンに敬意を表していたエラスムスが、後に彼を忌避することになったのは、キリスト教の中に魔術的要素を取り入れようとしたロイヒリンの宗教的態度に起因する。なお、フランスには特異なカバラ主義者ギヨーム・ポステル(1510-81)が現れた。
 賢者の石の探求(255) 世に「賢者の石」と言われるものが存在している。ラテン語ではlapis philosophorumと表記されるのが常なので、正確には「哲学者(たちの)石」と呼ぶべきであろう。この石の概念は、9世紀以降のアラビアの錬金術的文献に見出され、この石によって、卑金属を黄金へと急速に変成させる物質がもたらされると考えられた。アラビア最大の錬金術師ジャービル・イブン・ハイヤーンによれば全ての金属は硫黄と水銀から構成されており、「哲学者の石」はこれらの要素の特殊な配合によって得られる。それに類似した先行概念としては、人間においては病気を治し、金属に於てはそれを完全なものとする「エリクシル」elixirがある。 アラビアの錬金術は12世紀に、他の学問・学芸と共にヨーロッパに導入され、「哲学者の石」もまた、ラテン語による新たな議論の中に組み入れられた。たとえば、ジャン・ド・マン(『薔薇物語』後編の作者、13世紀)に帰せられる『錬金術の鏡』によれば、硫黄と水銀を素材とした一連の連金作業の結果、最後に得られた物質から「哲学者の石」は生成される。それは、エリクシルに最も近い物質を主体に、それに少量のエリクシルを加えたもので、弱火から徐々に強火にしながら3日間加熱して作られる。この種の錬金術の論考と並んで、ルネサンスに入ると、実際の製造過程や装置に言及しない、錬金術の寓意的・象徴的な意義を説く書物も流布し始める。
(伊藤博明編『哲学の歴史 第4巻 ルネサンス 15-16世紀』、中央公論社・2007年)