2009年4月7日火曜日

Re-naissance

(2)ルネサンス観の変遷 阿部玄治 ::ルネサンスre-naissanceはフランス語で、「再生」を意味するキリスト教の用語である。これは羅:renascorから生じたイタリア語のリナシタrinascitaから由来するもので、したがって復活、復興といった概念はキリスト教以前のローマやギリシアにまでさかのぼる事が出来るが、ここでは特定の歴史時代をさす用語としてのルネサンスを取り上げる。時代を特定するならば、イタリアでは14-16世紀、西中欧で15世紀末―16世紀を指すものとする事が出来る。:: (3)この頃、古代ローマ帝国の没落から続いた長い古典古代文化の衰退期が終わり、再び古典古代文化が復活したと言う意識が生じ、これを源にして、ルネサンスという表現が生まれて来た。(中略)コンスタンティヌスの寄進状を偽書だと断定したルネサンス期の歴史家ロレンツォ・ヴァッラは、『ラテン語の優雅さについて』(1444)の中でこう語っている。「自由な学芸と言ってほぼ差し支えないようなもの、つまり、絵画、彫刻、建築など、はじめは見るかげもなく堕落し、学芸ともども死滅に近い有様だった。それが今や目覚めて再生した。善良で、学問的にも素養をつんだ芸術家が花の咲き乱れるように活動している。このような我々の時代は幸福である」。(中略)(4)はっきり再生(リナシタ)という言葉を用いて表現したのは、ジョルジオ・ヴァザーリの『イタリアのいとも優れた画家、彫刻家、建築家の列伝』(初版1550)と言われる。この書の中で彼はこう語っている。 古代エジプトで始められた会が彫刻は、ギリシア、ローマに引き継がれて最も優れた作品を生み出した。しかし、ローマ帝国末期に至ると芸術は次第に衰え始める。コンスタンティヌスの凱旋門がそれをはっきり示している。そして蛮族の侵入によるローマ帝国の崩壊についで「全ての最善の芸術家、彫刻家、画家、建築家も、(ローマ)同様に全て滅び去った」。しかし、あらゆる敵以上に、芸術にとって無限に破滅的だったのは、新しいキリスト教信仰の熱狂だった。素晴らしい彫像、会が、モザイク、異教神殿の装飾がことごとく破壊されたのみならず、教会建築の為に、最も著名な異教の神殿自体も破壊された。ロンバルド人のイタリア侵入後も、事態は悪化し続けた。やがて新しい建築が起こるが、蛮族風のゴシック様式に過ぎない。11世紀頃からゆっくりとトスカーナ地方に進歩が始まり、1250年ごろになると、トスカーナ地方が日々に生み出す高潔な人々に点は哀れみを感じ、彼らを太古の形式に連れ戻した。これまでは、ローマ時代の遺跡が残っていてもこれを利用するすべを知らなかったのに、今や魂が目覚め、天才の力とともに、つたない方法を捨て、古代の模倣に戻った。このような再生(リナシタ)を齎した最初の偉大な天才はチマーブエ、ついでジョットである。古代を模倣する事によって、芸術美の一般法則は調和である事、絵画彫刻においては、自然の最も美しい部分の模倣であると言う認識に達した。こうして成し遂げられた進歩はミケランジェロに至って完成の域に達するのである。 (8)ブルクハルトはルネサンスの全文化を「新しい人間」の個人主義的世界観から導き出す。中世の人間も個人には違いなかったが、ブルクハルトによれば、個人としての自分を特別に意識もしなかったし、尊重もしなかった。「人間はただ種族、国民、、団体、家族、その他いずれも何らかの全体的形式の一分子として自己を見るに過ぎなかった」。ところが、ルネサンス期のイタリアでは「人間は精神的個人となり、そしてかくのごときものとして自分自身を自覚した」、このような高められた意識は「国家や一般にこの世のあらゆる事物を客観的に扱い考慮する」事を可能にする。中世人にとっては、この人間意識の二つの面―――外的世界についての知識と人間自身の心的内面についての観念―――は宗教から織り成されるヴェールの元に「半ば夢みつつ、半ば醒めつつ包まれ」ていた。イタリアでは何処よりも速く、このヴェールが取り除かれたのである。彼等は「近代ヨーロッパの息子達の中で最初に生まれ」て来たのである。 自己を人格として意識した、この「新しい人間」は自己を全面的に発展させ、自己の進化を発揮しようとする。このような個性の完成はレオン・バッティスタ・アルベルティのごとき万能人(uomo universale)となって現れた。彼は建築家、画家、彫刻家、音楽家、芸術理論家、詩人、哲学者であり、法律学や物理、数学をも研鑽し、靴直しに至るまでの百般の技能に通じ、荒馬をも御しうる体育競技の達人でもあった。 集団に拘束されぬ個人主義は「名を捨て、身に余る恥を忍んで」まで郷土に留まる事を必要としない。世界いずこに行こうと「我がパンの不足する日の来る事ありとも更に思わず」というダンテの世界市民主義に「個人主義の最高の段階」が認められる。 中世の集団的名誉感に変わったこの近代的「名誉感は、はなはだしい利己主義や大きな悪事とも手を携えて途方も無い欺瞞をもあえてするが、またおよそ人間の人格に残留しえた一切の高尚なものは、これと関連して、この源泉からして力を汲む事も出来る。」 ブルクハルトはここで特にラブレーから、テレムの僧院の規約を引用する。そこでは「何時の欲するところを行えとの掟あるのみである。自由にしてよく生まれ、かつ善き教養を受けた人々は生まれながらにして、正しき行をなし、(10)悪を避けるという本能なり、衝動を有しているからである。そしてこれを人々は名誉と名づける」。この後更にブルクハルトは続ける。「これは18世紀の後半に生気を吹き込んで、フランス革命の為に進路を開拓するにあずかって力のあった人間本性の善に対するあの同一の信念である」。 しからば、かくのごとき「新しい人間」はどのようにして、いかなる原因の元に生み出されたのであろうか。ブルクハルトは13世紀末から16世紀前半にかけてのイタリアの政治状態を指摘する。「これら諸国の性格の中に、それが共和国たると僭主国たるとを問わず、かのイタリア人をして早くから近代的人間としての完成を遂げしめた発展の、唯一とまではいえなくても、少なくとも最も有力な理由が存在する」。教皇と皇帝の長い闘争はイタリアにおける中央権力の発展を妨げた。皇帝は最も有力な場合でも既存の諸勢力の指導者、支持者として尊敬を払われただけであり、教皇は皇帝の統一を妨害する力はあったが、自ら統一を成し遂げるだけの力を欠いていた。この二つの勢力の間に都市や僭主や様々の政治的形態が存在しえた。挙句の果て、皇帝権は著しく衰え、教皇もアヴィニョンに移された。しかし対外事情はイタリアを政治的真空状態にしておいた。フランスはイギリスとの百年戦争に忙しく、スペインはレコンキスタ(再征服)の最中であった。このような正統性の欠如―――「非正統性」―――という状態の中で、イタリア諸都市が繁栄し、かつ相互に戦った。様々の僭主、党派、社会階級が争い合い、彼等は自己の個性を最高度に発揮した。優れた個性が芸術品を作り出すように、彼等の個性が国家を作り出した。「打算と意識の産物としての国家、芸術品としての国家」がこうして作られたのである。しかし彼等はその非正統性の故に、常に暗殺や裏切りの危険に取り巻かれていた。このような個性を示す典型的人物として、傭兵隊長Condottiereが挙げられる。武勲を挙げれば傭主から危険人物として処分される心配があり、敗れれ(11)ば責任を追及され、あるいは復讐される恐れもあった。彼等は教皇の破門も意に介せず、反覆つねなく、残酷で打算的な人物となったが、部下からは尊敬され、驚嘆される。最高度にまで精錬された才幹・人格を発展させた。 非正統の支配者は当然、門地を誇りとする事は出来ない。彼等が「結びうる唯一の光栄ある交際と言えば、氏素性を問わず、優れた天稟に恵まれた人々との交遊であった……彼等が必要としたものは、才能であって、門地ではなかった。詩人や学者の間に伍して彼等は新しい立脚地に立つのを感じーーー否新しい正統性を所有したと感じた」のである。ここに専制君主や権勢家とルネサンス文化の担い手であるヒューマニスト(人文主義者)とが、その個人的才能のみを頼りとして同盟するという事態が生まれた。(中略)(12)ルネサンス人の持つこの「強烈な個性」は宗教においても「徹頭徹尾彼らをして主観的ならしめ、更に外界及び精神界の発見が彼らに与える刺激は、彼らをして現世的ならしめる」。加うるに、「古代の思弁と会議とは往々にして、イタリア人の精神を完全に圧倒した」。「ヒューマニストは異教的であり、その分野が15世紀に広がるにつれ、ますますそうなった」。(中略)(13)ブルクハルトはヒューマニストがキリスト教と異教の古典とを調和させようとつとめた事を知っており、マルシリオ・フィリーノのプラトン研究に基づくキリスト教神学に注目し、このような宗教的活動と世俗的活動の総合の中に近代の先導者を認めている。「古代の復興」という点に関しては、ブルクハルトはこれをもって上に述べたような個人主義を生み出す原因とはみなさなかった。古代は他の実際の原因の元で利用された材料であり、受動的な対象であった。「古代の復興はその独力をもって西欧の天地を征服したものではなかった。寧ろこれと並んで存在したイタリア国民精神と密接に連合して初めてこれを成し遂げえたのである」。 世界の発見という点では、ブルクハルトは「真の発見者とは、偶然最初に何処かの地に行き当たった者ではなく、自ら求めてこれを発見する人々」であるとし、「イタリア人こそ、中世後期における主たる近代的発見の国民」であるとしている。自然科学による世界の発見に関しては、ヒューマニストによる直接の寄与は殆どなく、逆にヒューマニストが「最良の精鋭(エリート)を己が陣営に吸収して」自然の機能的研究に害を与えた事を認めている。しかし、ブルクハルトが重視したのは、特別な科学的成果ではなく、外的世界を正確に、客観的に自主的に見ようとする考え方の普及であり、地理、旅行、風景、植物、動物、人種の型などに対する関心―――自然に対する態度であった。ブルクハルトはダンテやペトラルカの登山について語り、更にファン・アイクらのフランドル派の画匠による自然の描写を指摘し、そこに「近代的風格」を認めるのである。・(17)ブルクハルト自身は中世の中にルネサンスの先駆者や先駆的事象のあったことを良く知っていて、「カール大帝を代表とする……文化は、7-8世紀の野蛮主義に対し、本質的に一つのルネサンスである……修道院の学問もまたローマの著作家から多量の資料を吸収した……ロンバルド人によってドイツから輸入された政治制度、騎士道、その他の北方の文化形態、宗教と教会の影響……などが一緒になって近代イタリア精神を作り出した」とも述べている。(中森義宗・岩重政敏編『ルネサンスの人間像』、近藤出版社・1981年)