2009年4月7日火曜日

Renaissance Platonism

ルネサンスにおけるプラトン主義の諸問題    (P5)ニコラウス・クザーヌスについてはわが国でもある程度研究の蓄積があるが、時として中世哲学の領域の問題として議論されている。そこで我々は問題をイタリア・ルネサンスに限定することにしよう。ルネサンスにおけるプラトン主義形成の大きな要因の一つは、古典研究熱に基づくヒューマニズムの運動である。ヒューマニズムの時代とルネサンスの時代とを区別して考える者もいるが、そうした考えは今日ではあまり意味がない。(中略)我々はすでに「イタリア・ルネサンスにおける人間の尊厳」の中で、「コーラ・ディ・リエンツォやベッサリオンなどの例によって明らかなように、異教的古代文化への研究とキリスト教的福音思想の影響の総合が問題である限り、パリンゲネシスという概念をルネサンスの人々が取り上げた仕方は、単なる<再生>感情の表明というものではなかった。むしろ、古典研究を媒介として<再生>感情を表明したところにこそ、ルネサンス固有の特色があるといえよう。つまりルネサンスと人文学研究studia humaitatisとは不可分に結びついているのである」と述べた。それゆえ、ルネサンスとヒューマニズムとは内面的に結びついていると考えられる。 その意味でルネサンス・プラトン主義はヒューマニズムから派生したものとみなされうる。クリステラーはこの点で次のような微妙な言い方をしている。「ヒ(6)ューマニズムの結果として展開したいくつかの哲学的運動の中で、もっとも重要なものは疑いもなくプラトン主義であった。それはまた、それがヒューマニズムの古典主義とは別なところに多くの根を持ったがゆえに、別個の考察に値する。ルネサンス・プラトン主義は、中世のアウグスティヌス的神学と、14世紀の神秘主義的な俗人の霊的運動と、またその最終的没落よりわずか前にビザンティン帝国に起こったプラトン復興と、決定的な結びつきを持った」。 アウグスティヌスはペトラルカ以来ヒューマニストたちによって最も尊重された教父であった。しかもヒューマニストたちは異教的古典のみならず、キリスト教的古典をも探求したのである。クリステラーは、「古代ラテン文学においてプラトン主義の最も重要な代表者は、聖アウグスティヌスであった。彼は、彼の近代の神学的礼賛者たちの多くの者たちよりももっと率直に、彼がプラトンとプロティノスから借り受けていることを自認した」と言っている。こうしてヒューマニストたちは、アウグスティヌスを通じてプラトン主義あるいは新プラトン主義に触れることが出来た。またヒューマニスト達が異教的古典の中で最も愛読したのはキケロの著作であった。クリステラーはまた「ルネサンス・ヒューマニズムはキケロ主義の時代であった。その時代には、キケロの研究と模倣が広くゆきわたった関心の的であった」といっている。キケロは周知のように若いころギリシアに渡って、アカデメイア派の哲学を学んだ。それゆえ、ヒューマニストたちは、キケロを通じてプラトン主義に触れることも出来た。 それゆえ、ルネサンス・プラトン主義を①フィレンツェのアカデミア・プラトニカ、②ゲミストス・プレトン、マルシリオ・フィチーノ、ジョヴァンニ・ピコ・デッラ・ミランドラの活動、③プレトンによって引き起こされたプラトン主義者たちとアリストテレス主義者たちとの間の論争、④その文学的活動を通じてフィレンツェのアカデミア・プラトニカによって成し遂げられた思想の普及、という仕方で固有の意味での職業的哲学者の活動に限定して考えようとするボーダン・キエスツコフスキーの見解は、あまりに狭すぎるように思われる。(6)
  (7)非哲学者たちのプラトン主義かつてジョヴァンニ・ジェンティーレが「ルネサンスの性格」という論文の中で次のように言ったことは、この場合きわめて示唆的である。「哲学者たちの哲学以外に、非哲学者達の哲学というものがある。彼らは職業的哲学者ではない。そして彼らが哲学者でないのは、彼らが同じ体系の高みにあるような、彼らの時代の体系の批判を打ち立てることが出来ないからである。彼らはまた、職業的哲学者たちの言語をまったく理解しない。しかし彼等は、職業的哲学者達のこの言語を知りたいと欲しない動機を持っている。そして彼等のこの動機はすでに一つの哲学的価値を持っている。それは一つの批判的態度である。このようにしてペトラルカの立場は、第一級の歴史的重要性を持つ。すなわち、フィレンツェのヒューマニズム的学派の、サルターティの周囲にいる若者達の、鼓吹者にして師であるペトラルカが問題である。そしてこれらの若者たちは、文化全体を革新するヒューマニズムの飛躍、そして15世紀のイタリア精神の飛躍を、模範と教育でもって促進するであろう。 ジェンティーレが「非哲学者達の哲学」の典型的例としてペトラルカの立場をあげたことは意味深い。この場合「非哲学者たち」とはヒューマニストたちを指すものとして理解される。ヒューマニストたちの主要な関心は、哲学であるよりもむしろ文学や修辞学であった。クリステラーはこのことをヒューマニストたちの職業と結び付けて次のように述べている。「ルネサンス・ヒューマニズムにおける文学的関心の中心的重要性は,ヒューマニストたちの職業的地位によって説明されるかもしれない。彼らの大多数は、中等学校や大学における人文学の教師として、あるいは君主や都市の秘書として活躍した。……私はただ、ルネサンス・ヒューマニズムは西洋文化における修辞学的伝統と呼ばれうるものにおける一つの特徴的局面として理解されなければならない、ということを指摘したいと思うだけである。」 こうしたことから、ヒューマニストたちがプラトン主義に関心を持ったのは、固有の意味での哲学的理由からであるよりも、むしろ文学的あるいは修辞学的理由からであることが推察されうるであろう。さらに、いかに優れた仕方で表現するかという文学や修辞学の価値観の問題が、いかに優れた仕方で生きるかという(8)価値観の問題へと発展したとき、ヒューマニストたちにとってプラトン主義は道徳哲学の問題となり、さらに神学の問題となった。実際、ペトラルカはその『自分自身と他の多くの者たちの無知について』の中で、「真の道徳哲学者と徳の有益な教師は、その最初と最後の意図が、聞き手と読者を善良にすることである者たちである」といって、修辞学と道徳哲学とを関連付け、更にアヴェロエス的自然主義者を批判し、プラトンとアリストテレスを比較しながら、「神的なことにおいては、プラトンとプラトン主義者たちのほうがいっそう高く上がった」と言った。 中世の職業的哲学者にとって、プラトンは何よりも『ティマイオス』の著者、つまり自然哲学者であった。しかしウンベルト・デチェンブリオはエマヌエル・クリュソロラスと協力してプラトンの『国家』を翻訳し、それをミラノの君主ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティに献呈するに際して、「我々の時代はビザンティンのエマヌエル・クリュソロラスの仕事を通じて、プラトンの『政治学』を知る最初の時代であろう」と言った。 すでにペトラルカが、プラトンをアウグスティヌスと結びつけることによって道徳哲学の師とみなしたことから進んで、クリュソロラスによる『国家』の翻訳とともに、いまや政治学の師として尊重されるようになった。即ち、個人としての人間の行き方の師から、社会としての人間の生き方の師へと展開された。この傾向はクリュソロラスの弟子のレオナルド・ブルーニにおいて一層顕著となる。ブルーニはプラトンの『パイドン』『パイドロス』『ゴルギアス』『クリトン』『ソクラテスの弁明』『書簡』、および『饗宴』の一部を翻訳した。しかも彼の若いころの著作『フィレンツェ市礼賛の辞』には、プラトンの『国家』や『法律』の影響が認められる。ブルーニがアリストテレスの『倫理学』『政治学』『経済学』の訳者でもあることを見ても、中世のスコラ学者たちとルネサンス・ヒューマニストたちとでは、古典に対する関心の相違が著しく異なることが知られる。(8)
 ゲミストス・プレトン(8) こうした初期ヒューマニストたちによるプラトン主義解釈の傾向も、1439年に(9)おけるフィレンツェ公会議や1453年におけるコンスタンティノープルの陥落を前後して多少とも変化するようになった。すなわち、これらの時期に多くの学識者たちがイタリアに到来したため、イタリア人たちはギリシア人たちから直接ギリシア文化を学ぶことが出来るようになったからである。こうしてビザンティン的プラトン主義が西欧に広く根付くようになった。トルコの脅威に対して東西両教会の合同を議するフィレンツェ公会議に、ビザンティン側の代表者の一人として出席したゲオルギオス・ゲミストス・プレトンは、その後のプラトン主義の歴史に決定的な影響を与えた。 ガレンはこの公会議とプレトンとのかかわりについて次のように言っている。「まさに1439年に、そしてフィレンツェ公会議に際して、二つの特に顕著な事実が我々に報告されている。①プレトンとコジモ・イル・ヴェッキオとの出会いと会話、フィチーノの話を見直すとしても、依然として「神学者」プラトンの復帰のいきさつの一つの重要な点である出会い。……②彼のイタリア人の友人たちの利用に供するためにアルノ川の岸辺で書かれた有名な本(プラトンとアリストテレスとの)『相違について』De differentiisが、プレトンの側から1439年の春に作成されたということ」。 ガレンの言う①の事に関して、マルシリオ・フィチーノは、そのプロティノスのラテン訳をロレンツォ・デ・メディチに献呈する書簡の中で、次のように述べている。「教皇エウゲニウスの元でギリシア人たちとラテン人たちとの間の公会議がフィレンツェで議せられたときに、元老院の計らいにより祖国の父とされた偉大なコジモは、ゲミストスという名前で、あたかも第二のプラトンのようにプレトンという添え名のギリシアの哲学者が、プラトンの奥義について議論するのを屡々聞いた。そして彼はこの哲学者の熱心な言葉によって直ちに深く感動し鼓舞されて、その高い精神はその時から、適切な時を得さえすれば、あるアカデミアのようなものを作ろうという考えを抱いた。その後、メディチ家のこの偉大なコジモは、その計画をある仕方で実現しようと企てていた際、彼の気に入りの医者の息子の私を、まだ子供であったが、かくも大いなる仕事に任じたのである。彼はこのことのために、日々私を教育した」。フィチーノの言葉に多少とも誇張があったにせよ、プレトンの熱烈な議論に感動したコジモがプラトンのアカデミア復活を夢見て、後にその夢の実現をフィチーノに託そうとした状(10)況は理解される。そしてやがてフィチーノはコジモから預けられた写本によって、神のごときプラトンDivinus Platoの全著作を翻訳し、彼自身『プラトン神学』を書き、彼を中心としたアカデミア・プラトニカは全ヨーロッパに有名をはせることになる。こうしてルネサンス・プラトン主義は最も開花した仕方で確立することになるであろう。 ガレンが指摘した第二の点、即ちプラトンの『相違について』は、プラトンとアリストテレスとの優劣論争を巻き起こした。ゲミストスは次のように書いている、「古代ローマ人と同様古代ギリシア人は、アリストテレスよりもはるかにプラトンを尊敬していた。反対に、とりわけ西欧における現代人の大多数は、古代人よりもいっそう賢明であると想像し、プラトンよりもアリストテレスをいっそう賛美した。……彼らを説得して、アリストテレスは哲学に関して自然の究極で決定的な傑作であると主張したのは、アヴェロエスである。……そしてプラトンの方を選ぶ者たちがまだ存在しているので、我々は彼らに我々の共感を示し、他の者たち――少なくとも余りに喧嘩好きなことを示さないものたち――を矯正して、二人の哲学者の間の相違を手短に検討し、一方が他方よりもいかに劣っているかを示したいと思う」。 ガレンが指摘した二つの問題は、ガレン自身は触れていないけれども、西欧の思想史に次のような意義をもたらしたものと思われる。第一の問題、即ちプレトンとコジモ・デ・メディチとの出会いと、コジモによるプレトンの思想の継承は、ギリシア哲学をスコラ学者で無い市民の手に帰する機縁となった。第二の問題、即ちアリストテレスよりもプラトンのほうが優越しているというプレトンの主張は、第一の問題と関連して、中世の封建的領主制社会の体制的学問としてのアリストテレス的スコラ学に対して、市民のイデオロギーを正当化する学問的典拠としてプラトンを利用する道を開いた。そしてこのようなプラトン主義は、当然の帰結として、第一身分として僧侶を位置づけた中世社会における正統派カトリックの教義とは異なった、それゆえ多少とも異端的な神学を展開した。 聖書は「あなたがたは神と富とに兼ね仕えることは出来ない」と説いたが、メディチ家は教皇等と取引をして産をなした。ルネサンスの商人たちの多くは、貪欲は罪であると知りながら、利得の為には宗教領主とも、時には回教徒とも取引をした。その反面、罪障消滅のために教会に多大の寄進もした。つまり(11)は彼ら商人は、神と富とに兼ね仕えたのである。このような信仰はシンクレティズムを生んだ。まさにこのようにして、コジモ・デ・メディチにとって、プレトンのシンクレティズムは適合的なものと思われたであろうし、フィチーノはコジモの命を受けて、プラトンの翻訳を始めてまもなく、錬金術の経典である『ヘルメティカ』の翻訳をした。ルネサンス・プラトン主義とは、おそらく19世紀以降のプラトンの純正な哲学の信奉者を嘆かせるシンクレティズムであった。またまさにそのようなものであったところにこそ、その社会思想史的意義があった。 プレトンはその哲学を通じてギリシアの政治的復興を企てたが、それはまた古代ギリシアの宗教的復興をも意味するものであった。実際、プレトンはその『法律論』の冒頭で、次のように書いている。「この著作は次のものを含んでいる。ゾロアスターとプラトンの神学。すなわち、哲学によって認められた神々に、ギリシアの神々の伝統的名前が保持された。しかし、それが詩人たちの虚構において得たもっとも哲学的でない意味から、哲学に最も合致した意味へとこれらの前の各々を連れ戻しながら。同じ賢者たちによる道徳。さらにストア主義者たちによる道徳。スパルタの政治を模範にした政治学。ただし、大多数の者たちが耐える事の出来ないような、過度の厳格さを和らげて。またとりわけ統治者たち向きに、プラトン的諸制度の主要な長所をなしている哲学を加えながら。余計なものの無い単純な、しかしながら十分な宗式に切り詰めた礼拝。大部分アリストテレスによる自然学。この著作は論理学の諸原理や、ギリシア古代や、衛生学の若干の点にも触れる。」  そこにおいて彼が「ゾロアスターとプラトンの神学」と呼んでいるものは、言うまでも無く最早キリスト教の神学ではない。しかしそれは後にフィチーノやピコ・デッラ・ミランドラなどが「古代神学」prisca theologiaとして尊重したものの原型である。プレトンが『相違について』の中で言っているところによれば、「プラトンはこのように哲学を教えたというのは本当である。しかしながら、彼が伝えたのは自分の哲学ではなくして、ピュタゴラス派を通じて彼にまで到達したゾロアスターの弟子たちの哲学であった。」 フィレンツェ公会議において、ギリシア正教側はローマ教会側による統合案を呑むように仕向けられた。そのことはギリシア正教側にとって大きな屈辱と感じられた。C.M.ウッドハウスによると、「ゲミストスがその不毛な論争から学(12)んだことは、如何なるかたちにおけるキリスト教も、彼が夢見たギリシア・ルネサンスのためになんらの基礎をも与え得ないということに他ならなかった。」 『相違について』が彼のフィレンツェ滞在中にかかれたことからすると、公会議への失望が、彼の異教的シンクレティズムへの傾向をいっそう強めさせることに大きく寄与したかも知れない。もっとも彼の論敵となったスコラリオスは、プレトンの異端の起源を,若いころ受けたその教育の中に見出しているが。ともかくプレトンは晩年に書いたその『法律論』の中で、古代ギリシアにおけるような、太陽崇拝に基づいた全人類の普遍的宗教によって信仰の平和を実現することを夢見た。それは啓示宗教であるよりも、むしろ哲学的宗教であった。
 プラトンとアリストテレスの優劣論争 こうしたプレトンの異教的プラトン主義に対して、ジョルジョ・ディ・トレビゾンダは『哲学者アリストテレスと哲学者プラトンの比較』によって、アリストテレス主義の立場から激しい攻撃を加えた。ガレンによれば、「トレビゾンダは、プラトン主義とエピクロス主義とを、若いと平和を通じてトルコに道を開いた西欧転覆のイデオロギーとして、関連付けることをためらわなかった。」。ルネサンス・プラトン主義がその精神主義的外見にもかかわらず、エピクロス主義とある内面的かかわりがあることは確かである。マルシリオ・フィチーノにも、その若いころの著作(たとえば所管の一部や『快楽について』や『饗宴』など)にはそうした傾向がうかがえる。そしてそこにこそ、すでに見たように「神と富とに兼ね仕える」ルネサンス的シンクレティズムの核心が潜んでいるのである。そしてまたこうした意味でのシンクレティズムこそが、ルネサンスから啓蒙思想に至るまでの宗教的寛容の精神を支えてゆくのである。それはこの時期のブルジョワジーの基本的なイデオロギーといえるであろう。 それゆえ、プラトンとアリストテレスとの優劣論争といっても、プレトンはアリストテレスの価値をまったく否定したわけではない。彼の『法律論』においても、プラトンは神学者であるが、アリストテレスは自然学者として評価されているのである。この点はフィチーノにおいても同様である。すでに見たように、アリストテレスよりもプラトンの方を高く評価したペトラルカでさえ、「私は確(13)かにアリストテレスが多くのことを知っている偉大な男であったと思う」といっている。レオナルド・ブルーニについてはガレンが、「ブルーニはプラトンをアリストテレスに対立させていない。……彼にとって哲学者とは、依然としてアリストテレスのことである」と言っている。さらにエミリオ・サンティーニは、「翻訳でもってプラトン主義を復活させることにどれほど寄与したにせよ、ブルーニは本質的にはアリストテレス主義者であった」とさえ主張している。自然学者としてのアリストテレスの受容は、ルネサンスにおける多くのプラトン主義者に広く見られたことである。 プレトンの弟子であり、ギリシア正教会の代表者の一人としてフィレンツェ公会議に列席しながら、東西両教会統合に中心的役割を果たし、やがてカトリックの枢機卿となったバシリウス・ベッサリオンは、ジョルジョ・ディ・トレビゾンダの『アリストテレスとプラトンの比較』に対して、『プラトンの中傷者に対して』という著作を書いて、プラトンを擁護した。しかしながら彼は、アンリ・ヴァーストの言うように、アリストテレスを犠牲にしてプラトンを賞賛するようなことをしなかったし、さらに自然学に関してはプラトンよりもアリストテレスのほうが優越していることを、進んで告白した。そして次のように述べている。「これら全ての攻撃によって、我々は、アリストテレスについてよりも、プラトンについてよい意見を持っているように思われ、またアリストテレスに反対しているように思われることを恐れる。こうしたことは、我々の考えからかなり遠いのである。我々は常に最高の尊敬の念を持ってアリストテレスについて語るであろう。アリストテレスを低めるためにプラトンを高めようとすることは、我々から遠く、嘆かわしい不当な考えである。我々はその二人とも偉大な賢人であったと思うし、世界が彼らに負うている恩恵のために、彼らに大きな感謝をすべきだと思う。」 もっともベッサリオンは、プラトンとアリストテレスとの間にまったく相違を認めないわけではない。即ち、「内的結合は一致ではない。それは反対に、ある相違を認める。二つの同一なものは、結び合うことが出来ない。それらは一致し、混同しあうが、結合しあうことはない。それらの間に結合があるためには、それらが異なった条件のものであり、他方に欠けているものが、一方の中にはあるのでなければならない」。こうしたベッサリオンの考えは、ガレンの言うよ(14)うに、「ピコが実現しようと夢見るであろう総合に道を開く」ものとなるだろう。そしてさらにはフィチーノに始まり15世紀末から16世紀に掛けて展開される新しいプラトン神学全体に道を開くものとなるであろう。
( 佐藤三夫編『ルネサンスの知の饗宴 ――ヒューマニズムとプラトン主義』、東信堂・1994年。)