2009年4月5日日曜日

Petrarcha-Pico

ペトラルカと人間の発見(22) 「ルネサンス」と言う言葉は15世紀から16世紀にかけて、イタリアで始まり全ヨーロッパを席巻した大規模な文化的・社会的運動に対して用いられる。元来は「再生」を意味するこのフランス語が歴史的区分を表す用語として人口に膾炙したのは、スイスの文化史家ヤーコプ・ブルクハルトの『イタリア・ルネサンスの文化』(1860年)の刊行によるところが大きい。彼は同署において、この時代にイタリアで古代ギリシア・ローマの文芸と学芸が復興して、中世とは異なる価値観が生まれた年、世俗主義、合理主義、個人主義をその指標と見た。彼がこの著作の中で、「最初の完全な近代人の一人」と呼んだ人物が、アレッツォ出身の詩人で人文主義者のフランチェスコ・ペトラルカである。ペトラルカは1336年4月のある日、南フランスはアヴィニョンの北東にそびえるヴァントゥー山に登った。岩場に腰を下ろして遠くに見える山々、海原、岸辺を見つめているうちに、師ディオニジから贈られ、いつも携帯していた教父アウグスティヌスの『告白』を読みたくなった。彼が偶然に開いたページにはこう書かれていた。「人々は外に出て、山の高い頂、海の巨大な波浪、河川の広大な流れ、広漠たる海原、星辰の運行などに賛嘆し、自己自身の事をなおざりにしている」。ペトラルカ(23)はこの部分を読んで愕然となった。「魂のほかにはなんら感嘆すべきものは無く、魂の偉大さに比べれば何者も偉大では無いということ、この事を私は異教の哲学者たちからさえもとっくに学んでおくべきだったのに、今もなお地上のものに感嘆している、そういう自分が腹立たしかったのです」。 このペトラルカの言葉は、彼以降に展開する文化的革新の方向性を示唆する、きわめて印象的なものである。第一に、ペトラルカが人間の外界たる「自然」nauraの研究から「人間本性」humana naturaの探求へと目を転じたことである。それは、人間が所有している能力の分析となり、理想とすべき生の模範の提示となり、社会における行為の規範の模索となった。哲学的には、宇宙における人間の地位を問いかけ、人間の魂の偉大さを賞賛することへと向かう、人間の尊厳と卓越性をめぐる議論の端緒がここに示されている。第二に、ペトラルカが、この人間性探求は「異教の哲学者」に学ぶ事によって進められると考えたことである。実際、ギリシア・ローマの古典研究の流行が15世紀の知的世界を覆う事になる。(23)(24)人文主義とフマニタス研究この古典文化への強い関心は、当時の人文主義を第一に特色付ける態度であった。ところで、ペトラルカの時代には「人文主義」という言葉は存在しなかった。この言葉は19世紀初頭に「フマニスムス」として造語されたものである。また同様に「人文主義者」に対応する言葉も存在しなかった。だがこちらのほうは、15世紀後半になって、ラテン語で「フマニスタ」という表現が用いられ、16世紀に確固とした意味を持つ言葉として定着する事になる。 この「フマニスタ」とは「フマニタス(人間性)研究」、あるいは「より人間的な学芸」と総称される、文法・修辞学・歴史学・詩学・道徳哲学の人文諸学を研究し、また教示する人々を指していた。彼らは、ギリシア・ラテン文化に歴史的関心を抱き、古典の原点を探索してじかに手に取り、文献学上の批判的精神を持ってそれらを読み解いた。既にペトラルカは個人蔵書を誇り、リウィウスのローマ史の校訂に着手していた。また彼らは、しばしばフマニタス研究をスコラ的な学問(法学・医学・神学)に対峙させる事によって、自らの立場を鮮明にした。巨視的に観るならば、人文主義とは中世後期の主流を成していた学問領域とその方法論に、きわめて意識的に対抗しようとした学芸運動に他ならない。そして、この運動の中から、或いはそれに刺激を受けて、(25)形而上学や自然哲学や論理学など哲学の分野において、新しい思想や流派が生じてくるのである。
 ギリシア哲学の翻訳哲学史的にルネサンスを際立たせている第一の特徴は、プラトンの著作の流布であろう。中世哲学においては、幾つかのプラトン主義的伝統が散見されるとはいえ、実際に読むことの出来たプラトンのラテン語訳は、『メノン』『パイドン』『ティマイオス』(前半部)などに限られていた。それが14世紀以来、ビザンティンからイタリアへと原典が続々と齎された。他方、フィレンツェではペトラルカの弟子で、自身が人文主義者であったコルッチョ・サルターティ(1331-1406)の尽力により、1397年にギリシア語講座が始まった。講師はビザンティンから招聘されたマヌエル・クリュソロラス(1350-1415)である。彼に学んだ者たちの仲でもギリシア古典の傑出した翻訳者はレオナルド・ブルーニ(1370-1444)である。 ブルーニは、ムールベケのグイレルムス(ギヨーム 1215頃―86頃)が翻訳したアリストテレス『政治学』を校訂したほか、アリストテレスの『弁論術』、『ニコマコス倫理学』、偽『経済学』などを訳出した。これらの翻訳は、現在の基準から見れば必ずしも全てが正確とはいえないが、中世の翻訳に比較して原典のニュアンスとスタ(26)イルをより忠実に伝えている。また『パイドン』の新訳をはじめとして、『ゴルギアス』『パイドロス』、『ソクラテスの弁明』『クリトン』『饗宴』というプラトンの対話編を次々と訳出した。サルターティとブルーニはともにフィレンツェ市の書記官長を務めており、彼らの古典古代への関心は文学的というよりも社会的・政治的なものだった。この点に留意して、現代の研究者は「市民的人文主義者」と呼んでいる。
 プラトンとアリストテレス イタリアにおけるギリシア哲学の再生にとって次に重要な出来事は、1438年から翌年にかけてフェッラーラとフィレンツェで開催された、東西のキリスト教会の合同会議である。ビザンティンからは学者たちが多くの書物を携えてきたが、その中でも異色の哲学者はゲオルギオス・ゲミストスであり(1360頃―1452)、プラトンを熱烈に崇拝して自ら「プレトン」と名乗った。彼の厳しい批判者であったアリストテレス主義者のトラペズスのゲオルギオス(1395-1484)は、彼の異教性を指摘しながら「プレトンは存命中に、多くの人々をキリスト教の信仰から、異教の人々のきわめて穢れた見解へと逸らした」と述べている。 また同じく合同会議に出席したベッサリオン(1403-72)はカトリックに改宗して枢機卿となり、教皇ニコラウス5世(在位1447-55)のもと、ローマ大学に(27)人文主義的科目を導入するとともにギリシア語原典の翻訳を推進した。また彼は自著『プラトンの中傷者に抗して』において、ゲオルギオスに対してプラトン哲学を擁護し、これがキリスト教神学に合致すると説いた。この思想的態度は、その後のイタリアの知的世界におけるプラトン哲学の受容を特徴付けるものとなる。
 フィレンツェ大学とアリストテレス哲学 15世紀中葉のフィレンツェでは、コジモ・デ・メディチ(1389-1464)の政治的主権が確立されて行くにつれて、人文主義者たちの関心は修辞的・道徳的問題から、形而上学的・神学的問題へと移行して行く。当時、フィレンツェの人文主義者たちに多大な影響を与えたギリシア人学者は、1453年のコンスタンティノポリス陥落によってイタリアに逃れてきたヨアンネス・アルギュロプロス(1415頃^87)であった。彼は1456年から71年までの長期にわたって、フィレンツェ大学においてギリシア語の教授を務めた。大学において彼は、アリストテレスの諸著作について講義したが、その内容は体系的にアリストテレス哲学を学ぶというものであった。(28)ヨアンネスの聴講者のノートから判明しているところでは、始めに「論理学」についての私的な講義を行った後、『ニコマコス倫理学』、『政治学』、『自然学』『霊魂論』『気象学』そして『形而上学』と読み進めていった。このように彼の講義は、市民的人文主義者の関心はもとより、当時の医学部・学芸学部における論理学・倫理学・自然哲学的テクストの購読から一段と発展して、『形而上学』を含む、まさにアリストテレス哲学全体に及んだのである。 ヨアンネスはまたプラトンの教説についても言及していたらしく、例えば、彼の弟子の人文主義者ドナート・アッチャイウォーリ(1428-78)は、ある書簡で次のように述べている。「彼は最大の優雅さを持って、古代人の流儀で、生について、道徳について、さらには自然についての哲学を教えてきたし、今も教えている。彼はアリストテレスの多くの著作をラテン語に訳し、プラトンの見解とその秘密を、また後の隠された教説を仔細に明らかにしたので、聴衆の間に大きな驚嘆を呼び起こした」。
 フィチーノの『プラトン神学』 これまで一般的には、ルネサンスのプラトン復興は1462年あるいは63年に、コジモ・デ・メディチが侍医の息子であるマルシリオ・フィチーノ(1433-99)に、カレッジの別荘とプラトン全集を与えて、プラトン・アカデミー(29)が成立したときから始まったと語られてきた。最近の研究ではアカデミーの実在が疑われているが、少なくともフィチーノを中心とする何らかの知的サークルがあった事は十分に想定しうる。また同時にフィチーノは、この知的サークルだけではなく、フィレンツェ大学やサンタ・マリア・アンジェリ教会に於てもプラトン哲学を講じていた事を忘れるべきではない。だが、プラトンの著作の全面的で本格的な再生は、フィチーノによる膳著作の翻訳が完了する1484年を待たねばならない。 ところでフィチーノ自身は教会の司祭の地位にあり、キリスト教神学をプラトン主義によって基礎付けようと考えていた。この点を示唆するように、フィチーノの主著は『プラトン神学』という題名を持っており、それが意味するところは「プラトンの神学」ではなく、プラトン哲学とキリスト教神学の内的結合を証明することだった。フィチーノは同書の「序文」において次のように語っている。全ての哲学的営為は最終的に神に向けられるものであって、神の崇敬から切り離されるものではなく、寧ろその前提となるべきものである。「神の律法の唯一の権威に決して従うことの無い多くの(30)人々の誤った精神は、宗教を十全に支えるプラトン的理性によって矯正されるだろう」。 フィチーノの思想において特徴的な点は、彼が描いている古代の哲学的・神学的系譜に求められる。彼によれば、ヘブライの「智恵」は「古代神学」に流れ込み、それはプラトンによって集大成された。この「古代神学」とは、エジプトのヘルメス・トリスメギストス、カルデアのゾロアスターから始まり、それがギリシアに入って、オルペウス、アグラオパモス、ピュタゴラスに受け継がれ、最終的にプラトンが完成したのである。フィチーノから強い影響を受けながらも独自の思索を展開したジョヴァンニ・ピコ・デッラ・ミランドラ(1463-94)は、一方でプラトンとアリストテレスの協和を探求しつつ、他方ではヘブライの秘教的伝統であるカバラを含めた「哲学的平和」を企てた。  ルフェーブル・デタプルの人文主義 人文主義的な方法をフランスに移入したという点で重要な人物は、エラスムスの同時代人でフランス北部ピカルディー出身のジャック・ルフェーブル・デタプル(1450-1536)である。彼はパリで人文諸学や数学・天文学を研究した後、エラスムスに先んじて1491年にイタリアに旅行し、アリストテレス学者のエルモラオ・バルバロ(1453-93)やピコと会(31)っている。特に後者からは教説上の影響も受けたようで、1494年刊行の『アリストテレス形而上学入門』の序文では、神的な哲学の期限を「エジプトの神官とカルデアのマギ(知者)」まで遡らせながら、次のように述べている。「イデアについて言明するのがプラトン主義者であり、神的で永遠の原理を探求するのがアリストテレス主義者であるが、両者の神学は、キリスト教の智恵との最大の協和と類似によって一致し結合している」。 ルフェーブルは、プラトンよりもアリストテレスに好意を抱いている点では、フィチーノと意見を異にするが、しかし古代の異教哲学とキリスト教との根本的な合致について構想していた。彼はパリ大学のルモワヌ学寮で教鞭を取って大学の組織改革に取り組みつつ、アリストテレスの中世ラテン語訳に代えて、ブルーニらの新しい訳や自らの訳を用いながら講義を続けた。彼の『アリストテレスの全自然哲学の梗概』(1492)や、とりわけ『形而上学』と『ニコマコス倫理学』への『入門』(1494)はきわめて広範な読者を得る事になった。こうして、人文主義の成果はアリストテレス(32)哲学にも導入されたのである。
 聖書と人文主義 さて、人文主義的な文献学は最初に古典古代の文学的テクスト、次いで哲学的テクストを研究の対象としたが、その射程は「聖なるテクスト」にも及び、16世紀のフランスで画期的な業績を生み出す事になる。その先駆者というべき人物は、ローマ生まれの人文主義者ロレンツォ・ヴァッラ(1405-57)である。彼は、教会公認のラテン語訳聖書(ウルガタ)に対して、同訳の数種の写本とギリシア語原文を比較検討して『新約聖書の校合』を1449年に執筆した。この仕事はエラスムスから高い評価を受けて、1505年にパリで『新約聖書注解』として出版された。その前年にエラスムスは、『キリスト教兵士提要』を上梓して、教会の教義や典礼よりも、直接に新約聖書、特にパウロ書簡に親しむように勧めていた。(32)
 (38)人文主義者の人間観 既に見たようにペトラルカは、人間本性に対して深い関心を抱いていた。彼は反スコラ的論議『自己自身及び他の多くの人々の無知について』(1367)において、医者のグイド・ダ・バニョーロを次のように批判している。彼は確かに野獣や鳥や魚について多くを知っている。しかし、彼の知識の大部分は偽りであり、仮に本当であっても、それは幸福とは何の関係も無い。「人間の本性は如何なるものか、何のために我々は生まれてきたのか、何処から来て、何処へ行くのか、という事を知らずなおざりにしておいて、野獣や鳥や魚や蛇の性質を知ったからといって、それが一体なんの役に立つのであろうか」。 ペトラルカの人間探求は、主に「人間が良く生きる」とはどのようなことか、という倫理的な観点からなされ、それは彼の文学的活動と深く結びついていた。他方、15世紀のフィレンツェの市民的人文主義者たちは、社会的な条件下における人間の活動について関心を抱いていた。中世においては、俗界を離れて修道院にこもり、神に祈り奉仕する「観想的生」が理想とされていた。ペトラルカもまた自己の思索を深め詩行をつむぎだすために孤独な生活を勧めていた。それに対して、市民的人文主義者は、公共的な生活を積極的に営むこと、すなわち「活動的生」の中にフマニタス研究を位置づけようと試みたのである。 (39)たとえば、フィレンツェの司法長官を務めた人文主義者マッテオ・パルミエーリ(1406-75)が1430年代中ごろに執筆した『市民生活論』は、活動的生の全面的な肯定と、こうした生活を送る市民に対する賛美を表明している。パルミエーリにとって富裕さは、否定されるべきものであるどころか、徳の実現にとって必須の条件であり、そして「あらゆる徳のまことの賞賛は、行為することの中に」、換言すれば活動的生の中において見出される。孤独の中で生活し、重要な事柄、国家の任務、公共の仕事に経験が無く熟達手いないものには、何らの賞賛も与えられない。徳は、それが試みられてこそ完全性に近づくのである。パルミエーリに拠れば「忠実さは、何も課せられていない人ではなく、大きな事柄を負わされている人に於てこそ認められるのである」。こうしてパルミエーリは、活動的生の観想的生に対する優越を明確に説いている。
 ミクロコスモスとしての人間 その後、人間に関しては、哲学的な観点から様々に論じられる事になる。教皇インノケンティウス3世(在位1198-1216)が表した『人間の悲惨な境遇につい(40)て』以来の、人間の能力と尊厳に否定的な教説は、ルネサンスに於てもポッジョ・ブラッチョリーニ(1380-1459)による同名の作品(1455)を生み出したが、ジャンノッツォ・マネッティ(1396-1459)は『人間の尊厳と卓越性について』において、人間の所有している能力を賞賛している。「このような人間の身体の全ての機構、及び他の機構を詳細かつ正確に熟考したとき、このような機構は宇宙に似せて形成されたと思われるので、人間はギリシア人によってミクロコスモス、つまり小宇宙と呼ばれた。」 古代のギリシア思想に見られた宇宙(マクロコスモス)と人間(ミクロコスモス)の照応理論は、ルネサンスにおいて取り上げられて盛んに論じられた。例えば、ニコラウス・クザーヌスは『推測について』において、この概念をめぐって独特の形而上学的・神学的な議論を展開している。彼によれば、「人間性という一性は、人間的な仕方で縮減されて存するがゆえに、この縮減の本性に基づいて万物を包含している」。すなわち、人間は感覚、理性、知性などを、自らの一性のうちに包含しており、如何なるものにも「人間的な仕方で」なりうる存在で、「ミクロコスモス、或いは人間的な宇宙」である。ボヴィルスもまた「知者」に関して次のように述べている。「知者は単に小さな宇宙だけではなく、また別の大きな宇宙と呼ばれる価値がある。というのも……知者の精神は宇宙のように広大で、記憶は、我々が宇宙の中の事(41)物としてみている概念によって飾られ満たされるからである」。
 宇宙における人間の地位 他方、フィチーノは人間本性のミクロコスモス性に加えて、それが宇宙の中に占める地位を人間の卓越性の証左としている。フィチーノにおいては、宇宙は神から物体まで連続する諸存在のヒエラルキアとして理解されている。主著『プラトン神学』(第3巻1-2章)では、存在の諸段階を、神、天使的精神、魂、質、物体の5つに定めている。そして、これら5つの段階は、分離され孤立した存在の重なりとしてではなく、間断の無い一系列を形成するものとして結合されているのである。この教説において特徴的な点は、諸存在の連続性と、その中における魂の中間的地位である。宇宙が統一体となるためには「中間の段階」の存在は必須なのであるが、特に5つの段階のまことの「中間」としての魂が担っている役割は重要とされる。 魂は上位の諸存在(神、天使的精神)へと上昇し、また下位の諸存在(質、物体)へと(42)下降する事によって、宇宙内の被造物全てを「一」へと結合する。魂は「第3の本質」、或いは「中間の本質」と呼ばれ、万物を結合し宇宙を統一体とする任務を付与されている。「魂は、あらゆるものを真に結合するものであり、あるものへと移るときも他のものを放棄せず、個別的なものへ移っても常に全体を保有するので、それは正当にも自然の中心、あらゆるものの中間物、世界の連結、万物の面、世界の結び目と紐帯と呼ぶ事が出来るだろう」。一系列を形成する存在のヒエラルキアにおける、魂の「結び目と紐帯」としての中間者的・媒介者的地位の主張は、フィチーノにおける人間観の直接的な表現であった。 アリストテレス主義者のピエトロ・ポンポナッツィ(1462-1525)もまた、人間の魂が物質的存在と非物質的存在の両方を含んでいると主張していた。フィチーノに拠れば、その一部で永遠的なものへと向かい、一部で時間的なものへ向かう事が、魂の自然本性的な傾向であるが、同様にポンポナッツィは『霊魂不滅論』において、次のように述べている。「人間は純粋に永続的でも純粋に時間的でもないがゆえに―――人間は両方の本性を分有しているのだから―――、古代の人々が永続的なものと時間的なものの間に置いたとき、彼らは正しく語ったのだった。こうして中間に存在している人間には、両方のどちらの本性を望んでも身に付け得る能力が付与されている」。ただしポンポナッツィは、フィチーノと異なって、この魂の不死性について我々の理性(43)的能力は証明する事が出来ない、と結論している。
 人間の本性と自由意志 ピコ・デッラ・ミランドラは『人間の尊厳について』において、フィチーノとは異なる人間観を提出している。ピコに拠れば、神は人間に対して「固有なもの」を与える事はしなかったが、その代わりに他の被造物が所有する性質を全て付与し、彼を宇宙の中央に置いた。そして、人間の始祖たるアダムに次のように話しかけた。「アダムよ、我々は、お前に定まった席も、固有な相貌も、特有な贈り物も与えなかったが、それは如何なる席、如何なる相貌、如何なる贈り物をおまえ自身が望んだとしても、お前の望みどおりにお前の考えに従って、お前がそれを手に入れ所有するためである」。 ピコに拠れば、人間以外の被造物は「限定された本性」を持ち、神によって予め定められたほうによって制限されている。他方、人間には如何なる束縛も無く、自己(44)の「自由意志」に従って自己の本性を決定する。換言すれば、人間の本性は「不定なる者」であり、それゆえに人間は望むものを持ち、欲するものになる事が出来るのである。こうしてピコは、従来のミクロコスモス論にとどまらない本性観を提示し、自由意志が果たす積極的な役割を強調した。 夭折したピコの名前とその教説はヨーロッパ中に広まった。ボヴィルスの『智恵の書』にも、彼からの影響をうかがいうる箇所が存在している。たとえば、第24章では人間本性の不定性が説かれている。「人間には、何も特有なものや固有なものは無く、寧ろ、彼のものは全て、他のものに固有なものと共通である。……人間はあれやこれやの本性を持つものではなく、同時に万物である」。ボヴィルスは、全宇宙が「現実的に万物」であるのに対して、人間は「可能的に万物」であると述べている。……この点でボヴィルスは確かに、人間は天使に昇る事も野獣に堕することも出来る、と述べたピコと照応するのである。
(伊藤博明編『哲学の歴史 第4巻 ルネサンス 15-16世紀』、中央公論社・2007年)