2009年4月2日木曜日

社会的枠組み(社会構造)

社会的枠組み(社会構造) (354)官僚制政府に向かう傾向がそれ以上進まなかった理由の一つは、いまだ本質的には互いに顔見知り同士の社会では非人格的行政が不可能であったことである。人口が10万人を超えていたのはナポリとベネチアのたった二つの都市だけであった。ローマではリオーネ、ベネチアではセスティエーレと呼ばれた都市の地区もしくは街区に対する忠誠心は強力であった。その忠誠心は今日のシエナのパリオに象徴されている。地区の中では隣人関係vicinanzaが意味のある単位であり、連帯や敵対といったローカルな社会的ドラマの舞台でもあった。フィレンツェでは、近隣関係もしくはより正確にはゴンファローネ(市の16分の一区)が政治的活動の焦点となった。その事はゴンファローネの一つ「赤いライオン」の関する最近の研究で明らかにされている。教区が一つのコミュニティである場合も多かったし、一つの通りがそうなる場合もある。それはその通りに特定の職業のものが集中する場合(例えばローマのペレグリーニ通りには金細工職人が集まっていた)に多い。ベネチアのマランゴーネやシエナのトッレ・デル・マンジャとい(355)った特定の鐘の音を聞き分ける事が可能なくらい都市は小さかった。こうした鐘の音は市の門の開門や仕事の開始を知らせたり、市民に武器を取るように呼びかけたり、市議会への参加を呼びかけたりするものであった。市民たちが役人たちを私人として知っていたという事実によって、公的非人格性が確立する事が妨げられていたのである。 ……多くの美術家や著述家たちが互いに知り合っており、親しい関係である場合も少なくなかった、という意味でルネサンス期のフィレンツェは幾つかの点では都市よりも村に近かったように思える。この顔見知り同士の社会での関係を生き生きと伝えている一つの礼は、1503年にミケランジェロの『ダヴィデ像』の設置場所を決める為に、フィレンツェで大聖堂造営局によって召集された専門家達の委員会である。30人を数えた出席者の多くは美術家であったが、そこにはレオナルド、ボッティチェリ、ペルジーノ、ピエロ・ディ・コジモ、コジモ・ロッセッリ、サンガッロ兄弟とアンドレア・サンソヴィーノらがおり、互いの意見についての議論が細かな点まで全て記録されている。「コジモの意見は、その像を置く場所として私が考えていたのとぴったり同じだ」とのボッティチェリの発言が残っている。 しかしながら、当時のイタリアの社会は精巧な分類のシステムが必要なぐらい複雑なものであったことは確かである。その複雑さを示す簡単な遣り方は幾つかの例について年収の見積もりを出すことである。それによって最大と最小では3500倍もの差がある収入の幅を示す事が出(356)来る。(357)……同時代人たちもこうした複雑性に気づいていた。…… 15-16世紀という時代に、イタリアにおける社会的流動性は他の何処よりも高かったのか、このように問いを明確にすると、こうした問い……がよりはっきりする。社会的上昇のここのケースには興味深いものがある。例えばジョヴァンニ・アントニ・カンパーノ……は羊飼いの少年からペルージアで大学の講師になり、ピウス2世によって司教に任命されたが、栄達の手段としての教会の伝統的な役割を身をもって示した人物である。「人文主義者教皇」と呼ばれたニコラウス5世は(358)貧窮のうちに学生時代をすごしたが、彼の父は内科医という専門職についていた。バルトロメオ・デッラ・スカーラは粉屋の息子だったが、フィレンツェの書記官になっている。スカーラの紋章ははしごをかたどったものであり、そこには「一歩ずつ」gradatimという金言が付されていた。これらは明らかに彼の名前scalaをもじったものであるが、それは彼の社会的上昇を示すのにおあつらえ向きのシンボルでもあった。スカーラはその著作『弁明』の中で、卑しい出自の意人体を論じている。同時代人たちにはそれほど強い印象を与えなかったが、構成の人々の強い関心を引いたのは、ジョットからベッカフーミに至る、農民が芸術家に転じたケースである。 ルネサンス期イタリアの文学からは、普通以上に社会的流動性に関心を抱く社会が浮かび上がる。社会的流動性に対して敵対的な文学の記述もある。例えばダンテの『神曲・地獄編』第16歌では、「なりあがりの連中や手っ取り早い金儲け」を理由にフィレンツェが批判されている。これよりも好意的なものもある。例えば、ポッジョの対話編『真の貴族について』では最良の人間が勝利を勝ち取る競争として人生のイメージを描いているが、それは社会的流動性を認める考え方と一致する。卑しい出自から高い地位に着いた古代ギリシアやローマの人々の実例に対する少なからぬ関心が存在した。(少なくともトスカーナでは)支配的な価値観は社会的流動性に有利に働いた。しかしながら、20世紀半ばにアメリカで行なわれた有名な研究が明らかにしたように、社会的流動性の理論と実際には大きな不一致が存在し、その不一致は昔の時代についても小さく見る事はできないのである。 (359)残念な事にルネサンス期イタリアの社会的流動性の割合を測定する事は不可能である。資料はあまりにも断片的であり、課税体系などが国家によって異なっている為、厳密な比較は実質的に不可能である。量的な問題に余りとらわれない歴史家にしても実質的に何もいえない領域を作り出すだけに、この事は特に残念である。というのも、社会的流動性の何らかの指標をもたない社会は存在しないし、流動性が「完全な」社会、つまり個人の身分がその親たちの身分と純粋に偶然の関係しか持たない社会もありえないからである。 とはいいながら、15世紀イタリアの諸都市、特に世紀前半のフィレンツェにおいては社会的流動性が高かったと断言できるだけの理由が幾つか存在する。フィレンツェに農村からやってきて市民となり、公職を獲得した「新参者」gentil nuovaが、リナルド・デリ・アルビッツィのような貴族たちに警戒心を起こさせるに十分なほどの数に達した。同時代の年代記によれば、アルビッツィは1426年に開かれた会合でこうした新人たちに対して激しい攻撃を加えた。フィレンツェ人たちの競争心、成功に対するねたみやこだわりといった点はまさに流動的な社会の特徴と思える。 だが15世紀後半までに社会的上昇の道は閉ざされてしまう。パドヴァ、ヴェローナ、ベルガモ、ブレシアではそれよりも早く同じ変化が生じたが、それは恐らくベネチア帝国に編入された結果と思われる。ベネチア本国では新しい人間が貴族に加わるチャンスはこの時代を通じてごく僅かしかなく、いかなるものであるにせよベネチアでの流動性は低いレベ(360)ルにとどまった。 この節で答えを出そうとする第2の問いは、当時のイタリア社会は「ブルジョワ的」であったといえるのかどうか、ということである。ここまで見てきたように、ブルジョワ的社会であったというのが多くのルネサンス史家の考え方であるが、この大胆な諸説には少なくともいくつかの条件と区分で限定をつける事が必要である。 15-16世紀に於てイタリアはヨーロッパの中でも最も行動に都市化した社会のひとつであった。1550年にはイタリアの約40の都市が一万人以上の人口を抱えていた。そのうち約20都市の人口は2万5千人を数えていた。(ナポリ:210,000、ベネチア16,000、ミラノ・パレルモ:70,000, Bologna/Firenze/Genova: 60,000, Verona/50,000, Roma, 45-, Mantva/Bresia:40-, Cremona:35-, Padova:30-, Messina/Siena/Piacenza:25-, Perugia/Bergamo/ Parma:20-)(361)リスボンからモスクワまでの、残るヨーロッパ地域には、これだけの大きさの都市は恐らく全部で20以上は無かったであろう。トスカーナとヴェネトの人口の約4分の1は都市に居住していたのである。…… こうした都市民全てがブルジョワであったと考えてはならない。ルネサンス期のフィレンツェやその他の都市は、当時の人々が「popolo minuto」と呼んだ「労働者諸階級」に頼っていた。とはいいながら、イタリアの都市の相対的重要性は明らかに商人・専門職・職人・商店主たちの重要性とつながっていた。こういった集団は全て「ブルジョワ的」と呼ばれることもある。それらはどれも聖職者・貴族・農民という伝統的な社会区分のモデルと合致しない。しかしそれらの集団を更に区分することも必要である。裕福な商人たちはパトロンとして重要な役割を果たす事がたびたびあった。職人たちから美術家が生まれ、専門職にある人々は著作家や人文主義者を生み出した。例えば、法律家(マキャヴェリの父)、内科医(フィチーノの父親)、公証人(ブルネレスキの父)、(362)、大学教授(ポンポナッツィの父)という具合である。 こうした比較的確実な部分よりも更に多くの事を語ろうとすると、推測が必要になる。抽象化・計測・個人に対する明らかな関心といった点で、ルネサンスの価値観とブルジョワジーの中のある集団もしくは複数の集団の価値観の間に類似性が認められるであろうか。類似は十分明らかだが、あまりに大雑把な議論は避けるべきである。マキャヴェリは政治的計算の達人ではあったが「商店主たち」が治める都市としてフィレンツェに対する軽蔑の念を表明していたし、「利潤や損失といったこと、絹織物組合や毛織物組合について話す事が出来ない」人物であると自らを描いている。 ルネサンス期イタリアの社会構造とその美術や文学との間にはまた別のつながりが存在する。家系の重要性と家系の結合力に与えられた大きな価値が、少なくとも貴族集団の中では、一種の祖先崇拝の中心である家族の礼拝堂と墓を重視する姿勢を説明する。祖先が無ければ血統も存在しないのである。巨額の資金が宮殿の建設に費やされたが、その理由の一つは宮殿が一族という意味での「家」の偉大さのシンボルであったことである。ロッジア(吹き抜け回廊)が作られたのは(15世紀フィレンツェのルチェッライ家のそれが最もよく知られている)、それが血縁者の大集団を集めた祝祭や儀式の場となったからである。また一方では、拡大された一族の結合力が崩壊する事がルネサンスの「個人主義(競争に劣らず自己意識)」の発達を促進した。 最後に、このようなイタリア社会の概観から、画家や音楽家そしてある程度までは人文主義者たち(363)の不確かな地位はより大きな問題の特殊なケースであることが伺える。つまり、聖職者でも戦死でも農民でもない人間一人一人が社会構造の中に自らの生きる場所を見つけるという問題である。芸術家の地位が不確かなものであるとしたら、商人の地位も同じであった。商店主たちの都市、とりわけフィレンツェで、芸術家たちが最も受け入れられたのは恐らく単なる偶然ではなかった。フランスやスペイン、ナポリといった出自を重視する軍人的文化よりも、業績を重視する商人的文化のほうが、芸術家や著作家たちの価値を認識するのは恐らく容易であっただろう。フィレンツェのように比較的流動的な社会が、業績に対する敬意や創造力に対する高い評価と結びついていた事を発見しても、それは決して驚くべきことではない。(ピーター・バーク著 森田義之・柴野均訳『イタリア・ルネサンスの文化と社会』、岩波書店・2000年)