2009年4月2日木曜日
中世レトリックの伝統とルネサンス・ヒューマニズム
中世レトリックの伝統とルネサンス・ヒューマニズム クリステラーの連続史観(41) ヒューマニストがルネサンス時代の造語であり、フマニタス研究がこの時代に盛んに用いられたにしても、これ以前に先行例や類似例が無かったわけではない。ヒューマニストが生まれる前に同類の、詩人、弁論家と呼ばれたものはいたし、頻出する述語であるフマニタス研究以前には自由科目(文法、レトリック、論理学・弁証法、音楽、幾何、数学、天文学)という用語は良く知られていた。したがって肝心な事は、中世での用法と比較して、その異同を明らかにする事である。 ……[ブルクハルトは]中世史に一定の理解を示したものの、イタリア・ルネサンスを近代の始まりとして明快に描く(42)事に努めた。そのルネサンス観が多方面から批判的に検討される一方で、中世研究が深められ、ルネサンス的と見られたものが実は中世に既存であった事を明らかにしてきた。その一つに自伝などに窺われる近代個人主義の起源の問題があろう。また新時代を切り開いた当のルネサンス人たちが、否定したはずの前時代から多くを借りている事も明瞭となったし、また他方で彼等の中にはこの中世を歴史的に理解しようとするものも居た。 ……クリステラーによると、イタリア・ルネサンスのヒューマニストの圧倒的多数が諸侯やコムーネの秘書、書記官や教育者であり、系譜的には中世の書簡文作成者の後継者に過ぎなかった。……この視点から、ヒューマニズム運動が学校(大学を含む)外で生じたと言う、しばしば繰り返された意見は事実による確証を見出せないとの発言になった。職業上必須なヒューマニストの書簡文作成は中世の書簡(口述筆記)技法と関連し、正しく優雅なラテン文書簡を書く事は、中世と同様にルネサンスの中等教育の一主要目標であった。 更に彼は書簡文作成の分野だけでなく、弁論術の分野にも似た関連が認められるとして、ヒューマニストの雄弁は中世の演説技法の継続であると断言する。更に文法・レトリックに関する理論書は勿論の事、歴史編纂・道徳哲学・詩・古典解釈も、中世との異同は認めつつも、全て中世に先例があると言う。 (43)指摘された弁論の件は、ルネサンス・ヒューマニズムの本質的部分にかかわり、重要である。イタリア諸都市では少なくとも11世紀から世俗演説の伝統が開始される。12世紀に入ると、自治都市国家コムーネの勃興が著しくなり、これに符合して委員会・議会・法廷などで演説する機会が増えていく。また大学の発達もその様な機会を作り出した。…… 別の都市国家からやって来た「外国人」podestaのための演説手引きは、史料価値が高い事で知られる。…… ローマ法の復興などにより法知識が広まり法制度が整う中で、レトリックとしての書簡(口述筆記)技法は時代の中で際立つ有効性を発揮し始める。ポデスタの脇には書記官がいたし、彼を迎える都市にも彼らが居た。そしてこの書記官カンチェリエーレは書簡(口述筆記)技法者と公証人と同一視された。 明らかにイタリアでは、書簡技法同様、世俗弁論、俗人による演説は、……伝統としては中世レトリックの範疇に入り、ルネサンス以前の問題である。13世紀初期のボンコンパーニョ(44)の『最新レトリック』は法律家の為の請願や法廷弁論の作成書、手引書で、裁判演説の模範例が含まれる。またルネサンス期にさかんとなる誇示的演説も存在した。……社会状況の変化により話し言葉の世界が縮小し、古代のレトリック、弁論理法が書簡技法になった。…… 世俗演説が時代の移り変わりの中で一般的に衰退したのに対し、同じ話術の範囲に入る説教は、中世を通じて活発であったと見られている。カロリング時代とそれ以後は教父の聖書説教を教会で朗誦する事が慣習となっていた。11世紀のペトルス・ダミアニ……、12世紀のシトー会士、13世紀の托鉢修道士は従来の説教に新たな刺激を与えた。主題に選んだ聖書からの一節に基づいて、その一節を幾つかに区分し、具体的な話、範例を交えながら論理的に説得しようと試みたからである。ここにはスコラ的設問との構造的類似点が見られるであろう。12,13世紀には説教師の為の理論的手引書、説教技法の書が編纂された。…… ここで想定される事は、このような宗教上の聖なる弁論が中世を通じて状態的であったならば、世俗弁論に影響を及ぼしたのではないか、ということであろう。14世紀のペトラルカが名高い戴冠演説を、主題としてウェルギリウスからの詩行の引用で始めたのは、聖書に基づく主題説教の反映かもしれない。…… (45)さて、クリステラーが連続説を主張する理由は、ヒューマニストの活動分野と言えば、即座に古典的学問の事を考え、その結果、ヒューマニズム運動を古典研究の単なる増大とするがごとき解釈では、ヒューマニスト達が強調する雄弁の理想や、古典研究に寄与した貢献度数をはるかに凌駕する、論考・詩そして書簡・演説に関わる史料の存在を説明できないからである。従って「もしイタリア・ヒューマニズムの全文学作品を総合的に考慮するなら、その運動は1200年代の終わりごろのフランスから導入された古典研究への新しい関心と、ずっと以前からの中世イタリアにおけるレトリックの諸伝統との融合から生じた」事になる。…… ヒューマニストが研究分野を「フマニタス研究」や「より人間的な研究」と、キケロやゲリウスに倣って呼んだのも、クリステラーに言わせると大胆で野心的な名称であり、その名称は新たな主張と計画を表すものの、その内容は前と変わらず、文法、レトリック、詩と言った、もっと控えめな名称で呼ばれていたものである。……従って彼によると、「ヒューマニズム」と言う19世紀以来の新術語は、ルネサンス・ヒューマニズムを本質的に新しい哲学的運動であったとする現代の誤った概念を反映しており、この概念に影響されて「フマニスタ」を新しい世界観の代表者とみなすのは誤解なのである。 更にクリステラーは、イタリア・ルネサンス期の法学・医学・神学・自然哲学に移り、それらに見出されるのは、スコラ学と呼んでかまわぬ中世以来の学問の継続であるとする。1200年代末期頃、イタリアのヒューマニズ(46)ムと殆ど同時に始まった、当のスコラ学はヒューマニズムと相並んで発展したものの、これら二つの伝統は二つの異なった学問部内に合った。ヒューマニズムは文法・レトリック・詩・道徳哲学の分野に、スコラ学は論理学・自然哲学の分野におのおの中心があった。ペトラルカとブルーニによる灯台の論理学者に対する周知の攻撃は極めて興味深いけれども、ヒューマニズム=スコラ学の間の長い平和共存の期間の単なる挿話、単なる学科の争いの一面に過ぎず、生死をかけた戦いではなかった。ヒューマニズムとスコラ学はイタリア・ルネサンス文明の重要な場を占めているが、これら両者以外にも重要な部門、造形芸術・俗語文学・数学諸科学・宗教・神学の発展があった。これらの発展に照らして両者を解釈または批判しようとする試みから、多くの誤解が生じた、と言う。 クリステラーは更に別の論文で「誤解されたヒューマニズム観」をより具体的に述べた事がある。それは絶えず中世的価値観に反対する、世俗的な、或いは反宗教的ですらあるイデオロギー、啓蒙主義の、自由主義の先触れ、或いは現代人がヒューマニズムの名の下に理解する、より好ましいもの等々を指し示しているが、彼はこのようなヒューマニズム解釈に同意しない。引き続いて彼は、ヒューマニズムとスコラ学とを今日の視点から見すぎると誤解に至る事例を挙げる……。[こうして、14,15世紀におけるヒューマニズムとスコラ学の間に引かれる線は、20世紀の自由主義と反動間の線と同じではない事を示す]。 イミタティオとロマニタス(47) [クリステラーは]「ルネサンス・ヒューマニストが自分達の研究を人文研究、言い換えるとフマニタス研究と呼んだとき、それはこの研究がこの名に値する人間教育に貢献し、それゆえ人間としての人間にきわめて重要であると言う主張の彼等の表現方法であった。」と語[っている]。…… クリステラーは、この人間的価値への関心はルネサンスのヒューマニストにとり、主要関心事の古典研究と模倣には副次的である、と限定する。……研究者の間で、ヒューマニストの作品は古代作品の模倣に過ぎないと言う批判若しくは非難があった。……(48)フィレンツェ人には、作業としての冷静な模倣に終わらずに、民族意識に高まる「ロマニタス(ローマ精神)」でもあるフマニタスの存在が考えられる。彼等の場合には、その歴史意識から人間としての価値が再確認され、近しく感じられる古典とその研究へ向かう情熱がいっそう高められたであろう。 カリキュラムの教育的特化 (49)ガレンはヒューマニストが一つの教育改革を提唱してスコラ学を攻撃したと主張し、歴史におけるこの意義は大きいものがあるとする。……ガレンによる尾、「言語文献学的態度」こそが、イタリア・ルネサンスの新しい「哲学」、まさしく具体的な哲学的方法なのである。 ……ヒューマニズムが元来、一定のカリキュラムの強調にあったのに対し、スコラ学のカリキュラムは論理学・自然哲学・形而上学を重んじた。また中世の大学は神学部・法学部・医学部、それに教養学部に4分され、最後の学部は古代末期の7自由学科に理論的には基づき、より専門的な他学部の予科と見られていた。この7自由学科は、古代からの伝統を受け継ぎながら、自由科目について基本的な解説を行なっているマルティアヌス・カペッラの『文献学とメルクリウスの婚姻』や、学校教育の指針となるフラウィウス・カシオドールスの『神的文学・俗的文学教程』のうち、特に自由科目を扱うその第二部から発展し、中世前半の教育課程を支配した。 (50)その七科はしかし、ルネサンスの「フマニタス研究」ではない。この研究は七科のうちの三科にのみ関連し、別してその中のレトリックを重視した。これに対し、スコラ学は論理学の重視を要求した。カリキュラムの限定と重大視される科目の変化は、従来へのあり方への不満と新たな教育目標を反映している。オッカム派の論理主義に異を唱えたペトラルカの方向に沿って、15世紀に「フマニタス研究」が頻繁に主張されたのも、時代の変遷に連れて生まれた、別の価値観が考えられうる。かつての三科に「大胆なる名称」がつけられ、内容的にはギリシャ・ラテンの古典語、更にヘブライ語、ならびにその文学と聖書・歴史学・道徳哲学などが含まれていた事は、今、人間にとり何が教育上有意義であるかが明確に意識されていると言えよう。そして変革された教育方式は、真理に至る方法論をも教示する。これはガリレオやデカルトの時代を予見せずには置かない。 「フマニタス研究」、ひいてはヒューマニズムの名でルネサンスの全文化を総括する事は事実に反していようが、この時代の主要なる一特色としては認められるであろう。中性が「聖なる神学への諸学科の還元」であり、その中で最重要な学科が論理学であったとすれば、ルネサンスは「フマニタスへの諸学科の還元」あるいは「フマニタス研究への諸学科の還元」であり、その中でフマニタス研究に最も大事な学科はレトリックであった。ルネサンスにおけるレトリック優位の世界はスコラ学者の論理学の誤りを糾して、哲学の上に或いはこれに変えてレトリックをおくという発想となった。明らかにヴァッラ、ルドルフ・アグリコラ、ペトルス・ラムス、マリオ・ニゾリオたちは、哲学の一部門である論理学をレトリックの下方に置こうとした。ここには中世と異なるルネサンスの特色が良く出ているであろう。 雄弁の追及者 (51)このレトリックに着目し、クリステラーのヒューマニズム連続説に有効な限定を設けたのは、H.H.グレイであった。グレイはルネサンス・ヒューマニズムがレトリックの伝統に繋がる事に全く異存は無いが、時代におけるその変化に注目する。……彼女によると、レトリックはルネサンスにあって……「真の雄弁」といわれ「真の雄弁」はまた知恵とスタイルの間の調和ある結合からのみ生じ、その目的は人を徳と価値ある目標へ導く事であった。この理念自体はキケロとクインティリアヌスに遡り、12世紀のソールズベリのジョンらにも見出されるが、スコラ学に反対してヒューマニストが持ち出したのは、実にこの雄弁の概念である、と強調する。ヒューマニストはスコラ学をスタイルつまり審美的見地から、またそれと同時に「知恵」につまり真に本質的な事柄に集中出来ぬ理由からも批判した。それゆえ彼らが繰り返した主張は雄弁の探求であり、この主張の中にルネサンス・ヒューマニズムの一致点があると言う。 ヒューマニストという述語が生まれる以前、その先駆者達が自分や仲間を哲学者、詩人、更にきわめて頻繁に「雄弁家・弁論家」と呼び合った事実は顧みられる必要があろう。……(52)弁論を駆使しうる能力の持ち主として、ヒューマニスト若しくはその先駆者達は弁論術の教授ないしは実践で生計を立てること以上に、雄弁の人そのものとして知られ、評価される事を望んだ。ヒューマニストが2,3の職業に分類される前に、、彼らにとって、より本質的と考えられるものがあったのである。クリステラーは、時には彼らは秘書か教師かであるといい、別なときにはこの二種に、商業的ないしは政治的活動を流行の知的関心と結びつけた、貴族或いは資産家である好事家を付け加えていたが、定職者を重視する姿勢に変わりは無かった。 こうしてヒューマニストのスコラ学攻撃とフマニタス研究の弁護とは、学会上の優位を巡る争い以上の事柄を表し、スコラ学の方法に別の方法を対立させた。説得性を持つ形式としてエセーや対話の手法が好まれる。ヒューマニストにとって、教育とは人に良い生活を送るよう整わせるべきであるから、知はスコラ学のように証明のみでなく、実践にも人を向かわせなくてはならなかった。またヒューマニストにとって、人間形成に最(53)も効果が上がると思われたのは、その知性を訓育するだけでなく、その意思をも刺激する弁論術を介してであった。フマニタス研究が幾つかの学科に分かれていても、そこには全体を統べる要としての雄弁の理念があった。そしてこれは古代の著作家に強く謳われているから、これに戻って模倣する事が急務とされた。 キケロに倣って、雄弁は「実質豊かに弁ずる知恵」であり、ペトラルカはその無知論で、ラテン訳されたアリストテレスの『ニコマコス倫理学』での徳の分析に惹かれても、キケロ、セネカ、ホラティウスの言葉の雄弁力に圧倒される、と告白する。このような背景ゆえに、キケロの『発想論』冒頭の次の文が好んで引用された。「雄弁の伴わぬ知恵が共同体の役に立つことはないが、逆に知恵の伴わぬ雄弁も害を与える事はなはだしいだけで、決してなんの役に立たない。従って、学問と道徳に真剣で高潔な関心を寄せることなく、ひたすらすべての努力を弁論の鍛錬に向けるものは、自分自身にもなんの役に立たないばかりか、祖国にとっても有害な人物にしかならない。それに対して、祖国の利益を疎外するのではなく、祖国の利益の為に戦う手段として弁論で武装する市民こそ、自身にとっても全体にとっても最も有益で好ましい市民となるだろう」。そして実にこの雄弁と知恵はルネサンスに一体化する。フィチーノは黄金時代を告げる書簡(1492)で、自分の時代が古代以来忘却されていた雄弁と知恵の結合を達成させた、と記す。 ……この時代におけるレトリックの優位回復は、人々の心が中世の長い間隔の後、再度、文学、詩、そして人生に回帰したためではあるまいか。ルネサンスの雄弁家が、言葉・学芸と同時に良俗・人生の師と言われたのもこのためであろう。レオン・バッティスタ・アルベルティは『家族論』で中世スコラのテキストからでなく、キケロ、リウィウス、サルスティウスの古代ローマ人(54)から、雄弁な文体、品あるラテン語を学ぶよう推奨し、子供達が詩人・雄弁家・哲学者を味読し、良い道徳習慣を身につけるべく責任ある教師を持つよう注意している。また、哲学を道徳哲学に特化するのが、ルネサンス・ヒューマニズムの大きな特色であるのも、生とのつながりの強さを表していよう。ペトラルカが自らを詩人であるとともに道徳哲学者と称する事を好んだのは、レトリックの役割を見据えれば合点のいく話である。ヴィットリーノ・ダ・フェルトレの寄宿学校で重んじられた科目は、人間と市民を形成する道徳哲学であった。 世俗生活での雄弁重視の姿勢は、サルターティの雄弁を有効な武器とたたえたジャンガレアッツォ・ヴィスコンティの名高い例に明瞭である。ある年代記は、公での席での演説が市民の慰安であり、道徳的にもキリスト教的にも教化となる場である事を伝えている。「真の雄弁」たるレトリックが今日では考えられないほど、古典研究・詩作から公事・外交まで、生活の隅々にわたって重要な位置を占めていた事が、この学術に高い価値が払われたゆえんであろう。それゆえ、レトリックと深く関わる「フマニタス研究は公私に渡る生活に不可欠である」と言われたのである。 神学の面にも雄弁重視の傾向は現れ、絶大な影響を及ぼした。ヴァッラは『ラテン語雅文』第4巻序で、古典古代のレトリック研究を擁護して、ギリシャ・ラテンを問わず、教父たちが彼等の珠玉の聖なる講話を雄弁の金銀で装わせて表現したと言い、雄弁をわきまえないものはいかなるものも神学を論ずる資格は全く無いと述べた。スコラ学的方法の神学に対する批判はこれに根ざしている。ジャック・ルフェーブル・デタプルによれば、教父の雄弁は古代ローマ帝国の倒壊以前の賜物であった。(54) (根占献一著『フィレンツェ共和国のヒューマニスト』、創文社・2005年) レトリックの伝統と社会 ヒューマニズム概念の成立とヒューマニスト誕生 ヒューマニズムの一般化(33) ヒューマニズムという用語は、日本では20世紀にはいって定着したように思われるが、ヨーロッパに於ても昔からあったわけではなく、およそ200年前に生まれた言語に過ぎない。…… この「若い言葉」は、……ニートハンマー(1766-1848)が『当世の教育教授論における博愛主義的教育とヒューマニズムの対立』で用いたのが最初と目されている。ニートハンマーはこの著書の中で、古典教育による人間形成が教育課程において有意義である事を明らかにし、ルネサンス以来の古典研究の伝統を弁護した。この背景には、中等教育の現場で実科を重視する博愛主義者の主張があった。それに対し、彼と彼の説に共鳴す(34)る者は、フマニテート、人間性の陶冶に、いわば人文学は欠かせないと判断したのである。「フマニスムス」が「博愛主義」と価値観を異にしている点が興味深い。 ニートハンマー以後、ルネサンスの学者の精神とその生活様式にヒューマニズム概念を適用する事が一般化した。……[その後、ドイツ語圏、英語圏などでその傾向が広まる]。 フマニタスの意味 (36)W.イェーガーは……「キケロはギリシャ人の文化を<ヒューマニティ>と呼ぶ際、Philanthropyはギリシア人により正しく認識され、彼らにより創案された言葉であるけれども、博愛とは考えなかった。キケロがその著作の中でフマニタスに与えるもっと特殊な意味は教育上の意味である」、続けて、この意味でフマニタスがギリシャ語のパイデイアに相当するとアウルス・ゲリウスが述べたのは正しい、と言う。イェーガーの言うゲリウスの言葉とは、次の通りである。「ラテン語を作り、これを正しく用いる人々は、フマニタスを、大衆が考え、ギリシャ人によって人間愛(博愛)と呼ばれて、だれかれの区別の無い、あらゆる人間に対する如才の無さと行為とを意味する事を望まない。そうではなく大体彼らはフマニタスでギリシャ人がパイデイアと呼ぶ(我々は一般教養の教育と訓練と言っている)ものの事をさしている。そこでそれら科目(の修得)を誠実に希望し心ざる人々こそが、最も問題なく最も人間的である。なぜなら、この学への関心と習得とがあらゆる生き物のうち人間にのみ与えられており、またそれ故にフマニタスと名づけられている」。(36)(根占献一著『フィレンツェ共和国のヒューマニスト』、創文社・2005年)