Pico et Cusanus (163)ブルクハルトとウォルター・ペイターの時代から、ルネサンス研究者は、ジョヴァンニ・ピコ・デッラ・ミランドラを、(164)近代文化の「暗闇から光明への」推移を導いた先覚者の中で最も華々しい人物とみなしてきた。ペイターは1873年に、大部分は美術史に関する『ルネサンス』と題するエッセイ集で学生たちを触発して、オクスフォードの教授たちを驚かせた。その結論にいわく「人間精神に対する……哲学の責務は、恒常的で熱心な観察の生へとそれを掻き立て、刺激する事にある。……経験の成果ではなく、経験それ自体が目的なのである。……この硬貨で宝石のような炎により常に燃えていること、この忘我を維持すること、これこそが人生における成功である」。ペイターは、批評家に嘲られて後の版では削除されたこの哲学的マニフェストで著書を閉じているが、その評論集でいっぺんのエッセイ全体にささげられたてる学者は一人しか居なかった。―――つまり、ジョヴァンニ・ピコである。ヴィクトリア朝のまじめ腐ったキリスト教肌のあわなかったペイターは、ピコを「人々の信仰に対する異教の権利主張を真摯に、誠実に認めた最後の人物の一人」として賞賛し、ピコの有名な『人間の尊厳についての弁論』に次の事を読み取って歓喜した。 :人間のこの高邁な尊厳は……ある宗教体系によみがえらされてではなく、彼自身の生来の権利によって、人間に所属するものとされた。その宣言は、人間の本性を貶め……自らに対して恥を覚えさせようとする……中世の宗教の増大する傾向に対する、均衡をとる錘であった。それは<再生>が成就させる自己の再主張へと、人間の本性の、つまり肉体、感覚、心情、知性の回復へと、人間を促したのである。: ペイターの目に映ったピコは、真異教主義の審美家であり、それゆえに「まことの人文主義者」であった。というのも人文主義の本質とは……生きた男や女の関心を嘗て惹いたもの……彼らが嘗て情熱を抱いたもの……は全て、その生命力を完全に失うはずがないというところにあるからである」。1926年に、これとは異なった新カント主義思想の道徳的観点から、エルンスト・カッシーラーは『ルネサンス哲学における個と宇宙』を、(165)現在もなおルネサンス研究の一中心として機能している、その名を冠した研究所の創設者アビ・ヴァールブルクに献呈した。この多大な影響を及ぼした書物の第1章は、ドイツ生まれの教会法学者、神学者、司教でありローマ教会の枢機卿だったニコラウス・クザーヌスを論じているが、カッシーラーはクザーヌスを、無限の創造者を知るという有限な被造物たる人間の義務に含意される認識論的問題を認めたという理由から、「最初の近代的思想家」と呼んだ。カッシーラーは、クザーヌスがこの謎に「宗教的人文主義と宗教的楽観主義」の精神を持って接近したと信じたが、彼の口調は、新異教主義的な参照の枠組みからは離れたところにあるものの、ピコを論じるペイターの口吻と似通っている。 :人間の文化はそのまことの弁神論を発見した。文化は人間精神の自由を確証するのであり、自由とは人間精神の神性の刻印に他ならない。禁欲主義の精神は克服される。現世への不信は消えうせる。……感覚的本性と感覚的知識でさえも、最早単なる卑しいものではない。なぜなら……それらはあらゆる知的活動へと向かう最初の衝動と刺激とを提供するからである。: カッシーラーがクザーヌスからの反響をピコの『弁論』の中に聞き取ったことも、驚くべきことではない。『弁論』には「ルネサンスの意向全体と知識概念全体……つまり、人間の意思と知識に……完全に世界へと向けられること、しかもなお世界から自らを完全に区別すること……「を要求する」両極性」が看取されるという。カッシーラーは、ピコの1486年の『弁論』の諸主題を、1443年頃書かれたクザーヌスの著作『憶測について』の中に見出し、これら両方に、「人文主義が単なる学問的運動以上のものになろうとしたとき、哲学的形態を身にまとおうとしたときには常に」必要とした「基本的命題」を見て取った。 この二人のルネサンス期の思想家をめぐる議論―――特にピコをめぐるそれ―――は、現在もなお継続中である。ピコはク(166)ザーヌスのことを聞き知っていたし、クザーヌスの蔵書を見る望みを抱いていたが、しかしカッシーラーが主張したような直接の影響関係を示す文献上の証拠は存在しない。ましてや、新異教主義というペイターの判定を支持する現代のピコ研究者は一人も居ないだろう。ピコの神学的冒険は確かに軽率で挑発的だったかもしれないが、修道服を身にまとって世を去りたいというピコの願いは誠実なものだったし、彼の晩年を導いた修道士サヴォナローラとの交友にも矛盾は無かったのである。最も重要な事は、こうした他の問題点を片付けた学者たちが、ピコの『弁論』の意味については、いまだ意見の一致を見ていないということである。ルネサンス期のあらゆる哲学的テクストの中で最もよく知られたこの作品の形態・内容・成立史が、或いはそれをあいまいさへと運命付けたのかもしれない。まだ24歳にもならないピコは、『弁論』を、彼の最も大胆な企て、すなわち翌年の初めにローまで公に擁護する事を計画した900の『提題集』への前置きとして、1486年の秋に執筆した。ピコの幾つかの提題の非正当性と、恐らくは計画の大胆さそのものとに懸念を抱いて、教皇インノケンティウス8世は、『提題集』を検討する委員会を任命することで公開討論の機先を制しようとしたが、その前にピコはこれを印刷させてしまった。委員会が三つの提題を異端説、10の提題に疑義ありと認めると、ピコは急いで弁明とはいえない『弁明』を作成して、やはりこれも出版する。この挑発に応じて教皇が『提題集』全体を断罪するという結果になった。『弁明』は『弁論』の長い部分をそのまま繰り返しているが、『弁論』前編が公刊されたのは、ピコの死の二年後、1496年になってからであり、『人間の尊厳について』という題名が加わったのは漸く1557年だった。 ピコにとって、それは『提題集』の序論となるべき『弁論』に過ぎなかった。前者が、中世の学者に自らが選んだ如何なる論題をも議論する事を許した自由討論に関連していたとするなら、後者は前半部が通例弁論家の学問領域―――ピコの場合は哲学―――を賞賛し、後半部がこの学問領域への弁論家のアプローチを擁護する、大学の開講弁論の伝統に連なっていた。『弁論』のジャンルと機会とが、その意味をとく鍵を提供している。それは、初めてこれを聞いた聴衆を説得する(167)ための弁論術の作品であり、精読される事によってある立場を論証するための技術的な哲学的論考ではなかった。その修辞学的迫力が、説得されたために自らの見解をそこに読み込んでしまったペイターのそれのような反応を説明している。しかし、ピコの弁論家としての天才は、『弁論』を単なる修辞以上のものにした。人間の価値という問題は、15世紀イタリアでは大きな問題だった。それは、インノケンティウス3世として教皇の地位に就いたものの、約束した通り対になる論考『人間の卓越性について』を書くにはついに至らなかったロタリオ・デイ・セーニの12世紀の著作『人間の状態の悲惨について』に表現されたものよりも明るい人間観を持つようにと、ジャンノッツォ・マネッティのような人文主義者を促していたのである。『弁論』を執筆する前の6年間、哲学研究に精励していたピコは、いずれ自らの弁論が、論争の的に成る話題についての本格的な哲学的言明として読まれるだろうという事を理解していたに違いない。 しかしながら、人間の尊厳という主題は、弁論の前半で最初の3分の1を占めているに過ぎない。地上の被造界の王者としての人間の宇宙論的中心性に形而上学的次元を付け加えたフィチーノとは異なって、ピコは、神が人間にその中心的地位を超越する力を与えた事を主張した。独自の創世の説話をつむぎだしつつ、神が堕落前のアダムに向かい、他の被造物とは違って彼には固定した位置も形態も機能も無い事を告げる場面を、ピコは描いた。「彼には」とピコは書いた、「自分の望むものを持ち、自分の欲するものになる事が与えられている」。罪の無いアダムは、自由意志を行使して、下位の獣的生存と上位の神的な生とのいずれをも選択する事が出来た。ピコがここで、自らの本性を形成する人間の存在論的自由と、工事の道を選択する道徳的自由とのどちらを考えていたのかは、議論の分かれるところである。いずれにせよ、ピコの助言は、天使の第二の位階にある智天使を模倣するようにというものだった。神への熱い愛に燃える熾天使の下位に置かれると同時に、判断の天使である座天使の上位に位置する智天使は、観想の天使である。哲学は、神的な平安へ上昇することも活動的な世界へ下降することも可能な、この知性的天使のように生きる事を人間に教えている。ピコの哲学は、単なる一つの技術や学問領域ではなく、位階化された生の様態だった。その終点は死、つまり、最高位の知(168)性のうちに結合する、霊魂と他の全ての霊魂との合一である。霊魂はプルタルコスを経由してクリュシッポスにまで遡るストア学派の範例に沿ってピコが記述しているいくつかの予備段階を通って、調和へと上昇して行く。道徳哲学は情念を抑制する。弁証術は推論的理性の嵐を鎮める。次に、自然哲学は、人間界・自然界に関する見解の相違を対象とする。この進歩の最後に来るのが神学の平安だが、ピコはこれを<エポプテイア>すなわち、弁証術と道徳哲学の贖いに続く秘儀への参入と描写している。この4重の智天使の生を顕揚しながら、聖書・ギリシア・当方の賢者の行列が『弁論』第一部の後半を行進する―――つまり、モーセ・プラトン、ピュタゴラス、その他の古代神学者である。 『弁論』の第二部では、ピコは、哲学の観想的生活を選び取り、出来る限り多くの典拠から採用した提題を公共の場に提示するという意図を宣言する自らの決心を擁護した。「誰の言葉にも縛り付けられずに」とピコは公言する、「全ての哲学の死を渡り歩く事を自らに許し、あらゆる見解の断片を目にし、全ての学派を知ろうと、私は心に決めた」。そして、その各々に、ピコは自らが構築する事を望んでいたより大きな真理の破片を何かしら見出した。ピコの折衷主義は、『弁論』の前半で種痘した存在論的或いは道徳的自由が備える、もう一つの方法論的側面であり、そこから生まれる主要な産物が、古代末期以来多数の哲学者が欲していた「プラトンとアリストテレスの調和」に関する著作となるはずであった。ピコは、プラトンとアリストテレスばかりでなく、一般に対立していると見られた他の思想家たち、例えばアクイナスとスコトゥス、アヴェロエスとアヴィセンナを調和させる事を目指したが、この調和主義こそは、ピコがもっとも独創的と考え、また『弁論』の末尾でそのように宣伝した、哲学への自らの様々な貢献の一つとなるはずだった。その他の貢献とは、ピュタゴラス主義的数秘学、オルペウスとカルデア人の教説、自然魔術・神霊魔術の理論、キリスト教に奉仕するカバラである。このように広範な材料から哲学を組み立てようとするピコの願望は、古代エジプト人の神学から生まれ、キリスト教徒も矛盾しないというフィチーノのプラトン主義観を前提としていた。しかし、幾つかの点で、ピコのシンクレティズムは、フィチーノのそれよりもさらに野心的なものだった。中世に発展したユダヤ教の神秘主義・解釈学の体系であるカバラについて、フィチーノは殆ど無知だったが、ピコは、自分の言語的技量が許す限り広くかバラを研究し,「古代神学」に並行する秘教的叡智のもう一つの水路としてこれを扱ったのである。さらに、ピコは、フィチーノに比べて、プラトンへの献身の度合いが小さく、アリストテレスとその古代・中世の注解者に対して遥かに好意的だったが、この点で、トラペズンティウスの反プラトン主義よりも寧ろベッサリオンの調和主義を反映している。 ピコのアリストテレス主義は、六つの群に分かれ、そのうち最後の二群だけが自分自身の見解を表しているとされる、900の『提題集』に明白に見て取れる。これら「自らの見解に従う」secundum opinionem propriam提題の数の多さ(ほぼ500にのぼる)と多様さとは、この呼称を与える際のピコの意図を測りにくくしている。最初の四つの群のうち3つは、古代・中世の逍遥学派、とりわけアヴェロエス、アルベルトゥス、アクイナス、スコトゥスに当てられている。「ヘルメス文書」、『カルデア人の神託』、ピュタゴラス学派と並んで、ピコは4番目のプラトン主義的提題群の権威としてプロティノス、ポルピュリオス、イアンブリコスを揚げたが、ピコのお気に入りのプラトン主義者はプロクロスで、ここから55の提題を取り、これらに「賢明なヘブライ人のカバラ主義者の教説に従う」47の提題を付け加えている。教会に懸念を与えた13の提題は、様々な論題を扱っていた。オリゲネスは救われたかどうか、十字架はいかにして崇敬されるか、聖体拝領はどのように作用するか、信仰は自由かどうか、神は非理性的な本性を持つ事が出来るかどうか―――最後の提題は「新しい道」via moderna学派が好んだ難問である。異端と断じられた三つの提題も、やはり典型的な哲学的問題に関わっていた。キリストは地獄に下ったとき実際にはそこにいなかったという命題で、ピコは非物質的実態の位置という問題を提起したし、大罪が永遠の罰を受ける事を否定する上でのピコの関心は、有限の原因と無限の結果との不均衡に向けられていた。しかし、特に厄介なピコの主張は、「魔術とカバラ以上にキリストの神性を我々に確信させる学知は無い」というものだった。恐らくピコは魔術とカバラのより劣った奇跡と対照させることで、キリストが行った神的な奇跡の権威を明確にしようとしたのかもしれないが、裁判官は、当然、この格言めいた言明を神学という神的(170)な学問への脅威と受け取り、魔法使いとユダヤ教徒の暗黒の技芸に比較することで、ピコが神学を貶めたと考えたのである。自己弁護のために、ピコは『弁明』と『提題集』で、神の名を操作して魔術を行う方法としての「実践的」カバラとセフィロトつまり神の属性の流出について瞑想する事により形而上学的・神学的観想へと至る道としての「思弁的」カバラとを区別した。 『弁論』、『提題集』、『弁明』はピコの初期の経歴の頂点をなす作品だが、これらのために結局ピコはイタリアから逃亡する事を余儀なくされ、1488年にはフランスで逮捕される。その後フィレンツェに戻る事を許されて、ここで生涯最後の数年間を送るのである。イタリアのいくつかの大学を駆け抜け始めてからわずか2年後の1479年には、フィレンツェを訪れてフィチーノにあった可能性が非常に大きい。ピコはまずボローニャで法学を試し、次にフェッラーラで人文諸学科を学ぶが、1480年に、ニコレット・ヴェルニアが教鞭を取るパドヴァに腰を落ち着けた。尤も、ピコのアリストテレス主義哲学の摂取に最大の影響を与えたのは、アヴェロエスによるもう一人のアリストテレス主義者、エリア・デル・メディゴだった。デル・メディゴはピコのためにアヴェロエスをヘブライ語から翻訳したユダヤ人だった。彼自身が中世のユダヤ教の伝統に連なる哲学者だったデル・メディゴは、カバラを嫌いながらもピコにその手ほどきをし、彼に数編のカバラ主義の著作を与えるとともに、他の著作のリストも作ってやった。しかし、アヴェロエス主義こそがデル・メディゴからピコへの最大の贈り物であり、ピコは終生これを忘れなかった。41の「アヴェロエスに従う提題」のうちの2番目は、「全ての人間において知性的霊魂は一つである」と主張している。 ピコのスコラ学的時期は、1485-86年のパリ大学滞在が頂点だが、この旅行の前既に、ヴェネツィアの人文主義者エルモラオ・バルバロにあてた書簡の中で、ピコは中世哲学への共感を表明した。ギリシア語の注解者について重要な仕事をした人文主義的アリストテレス主義者バルバロは、1485年4月に、優れたラテン語の文体の哲学における重要性を強調する書簡をピコに送り、ついでに北ヨーロッパのスコラ学者を「鈍重で、粗野で、無教養な野蛮人」と批判(171)した。6月にピコは、優雅では無いスコラ学者を優雅に擁護する反論を書いて、自分はこれまで「こうした野蛮人に6年間を費やしており……人生の最良の歳月をトマス、ヨハネス・スコトゥス,アルベルトゥス、アヴェロエスに空費してきた」のだと、バルバロの注意を喚起した。ピコは、弁論術と哲学の対立を強調し、修辞学を表面的で欺瞞的であると批判した。哲学は常に美しくある事はで着ない特殊な用語体系を必要とする。その言葉は、簡潔、明晰、周到、正確、厳粛でなくてはならない。哲学は、古代ローマ人が自分たちの言語的慣習に対して持っていたのと同じような、独自の言語的観衆に対する権利を持つ。修辞学は公共の場で提起される政治的・道徳的論点には役立つかもしれないが、飾り立てた言語は自然学・形而上学のより深い真理を覆い隠してしまう。ペトラルカの伝統に従って書いたバルバロにとって、言語はそれ自体が目的だったが、しかし、ピコにとっては、言語とは哲学者の道具、しかも鈍い道具に過ぎなかったのである・ピコはピュタゴラスの沈黙という理想を想起し、かの古代の賢者がかりに感覚に妨げられない、哲学の非物質的対象により適した方法で思考を伝える事が出来たならば、言葉を全く使わなかっただろうと主張した。ストア学派と同様に、ピコは言語の音声的媒介を物質的なもの、その意味論的内容を非物質的なものとみなしていた。それゆえに、哲学者の関心は、感覚的な、物質に包まれた言説oratioではなく、内的な、非物質的理性ratioでなければならない。バルバロに対抗して、ピコは、ブルーニに対するカルタヘナのアルフォンソの、あるいはガザに対するゲオルギウス・トラペズンティウスのそれに似た立場を採用したが、皮肉な事に、非の打ち所の無い古典主義的文体でこれを表現したのである。彼の散文の丹念なラテン語の純粋さ、彼の修辞の注意深い構成は、バルバロについて攻撃した古典主義をピコが理解していたこと、ある限度内ではこれを楽しんでさえ居た事を、十分に証拠立てている。また、『提題集』に占める中世アリストテレス主義の高い地位は、スコラ学へのピコの敬意が本物だった事を完全に裏付けている。ピコの普遍主義の一つの側面は、典型的な人文主義者が野蛮人として退けたスコラ思想家たちへの開かれた態度であり、もう一つの側面は、ヨーロッパのキリスト教徒には殆ど未知の領域だった他の思想体系への好奇心だった。 (172)早くも1480年に、ピコはパドヴァでエリア・デル・メディゴからカバラについて少しばかり学び始めていたが、ヘブライ語の教師に出会ったのは、数年後フィレンツェにおいてだった―――この人物は、サムエル・ベン・ニシム・アブルファライというシチリア出身のラビだが、キリスト教への改宗後は、グリエルモ・ライモンド・モンカダあるいはフラヴィウス・ミトリダテスという名で知られるようになった。以前教皇シクストゥス4世の教皇庁に勤務していたことのあるフラヴィウスは、ピコのために数千ページに上るカバラ文献を翻訳し、ピコはこの新しい学識を、二つの組に分けて、他の『提題集』とともに1486年に公刊した。118のカバラ主義的提題で誇示した。フラヴィウスがピコの手の届くところにおいた典拠は、12世紀の『光輝の書』、アブラハム、アブラフィアが13世紀に著したマイモニデス注解、メナハム・レカナティによる14世紀のトーラー解釈を含んでいた。『提題集』を書く前にピコがこれらの資料を利用できたのは数ヶ月に過ぎなかったので、カバラ主義的提題がたの提題と同じように整合していない事は不思議では無い。とはいえ、その後数世紀にわたってキリスト教徒のカバラ主義者を魅惑する事になる諸主題が展開されている。カバラに関する提題の第一の組ではセフィロト、つまり、隠れた神から流出し、神の属性を開示する10の力をめぐるピコの思弁を促したのは、主としてレカナティだった。聖なる名前、特に神の様々な名前のピコの分析―――第2の組の提題により目立つ―――は、アブラフィアを主要な典拠としている。こうした名前は、ピコの見解に拠れば、イエスが「メシア」である事を証明し、ヘブライ語聖書の中にキリスト教の三位一体の神がある事を示している。カバラはピコにトーラーのあらゆる細部に意味があり、特別な解釈学的工夫(たとえばゲマトリア、つまり文字の数値にしたがってヘブライ語の単語を解釈する方法)を用いてその秘密を探る事が可能だと教えた。しかし、カバラに関する提題を書いた時期のピコのヘブライ語能力は、フラヴィウスの作った翻訳への依存を必要としないほど大きかったとは思えない。フラヴィウスは、原著者たちが知ったら失望するような仕方で、翻訳するテクストの意味を改変し、時として原文に章句を付加したりもした。フラヴィウスはピコに、アリストテレス主義者のマイモニデスがカバラ主義者であり、アブラフィアが「対立物の一致」に関してクザーヌスを先取りしており、とりわけ、レカナティがモーセ五書の中に三位一体論・キリスト論的な意味を読み取った事を確信させた。カバラにおけるピコの最大の独創は、あたかもそれがキリスト教の秘儀を暗号化しているかのように、神を表す最も聖なるヘブライ語の名前から、イエスの名前を引き出した事にあるが、ピコのこうした洞察の源泉は、原典を改ざんした翻訳者だったのである。 ピコはカバラ主義的解釈学を真摯に考え、カバラを自らのシンクレティズム的哲学の重要な一構成要素とした。彼は、聖書以後の時代のユダヤ教思想に真の価値を認めた、教父時代以降ではごく少数のキリスト教徒の思想家の一人だった。しかし、ピコのカバラ利用法は、12世紀以後、主にスペインで改宗者によって書かれた護教論の敵対的で改宗を勧めようとする意図を共有していた。ペトルス・アルフォンスス、ライモンド・マルティニ、ブルゴスのアブネル、またピコの時代にまで至る多数の人々が、ユダヤ教の釈義・哲学の知識をキリスト教のために利用したのである。ピコがそうした動機を分け持っていた事は、1489年に書かれた創世記第1章1-27節の注解『ヘプタプルス』の文言からも明らかになる。ここでピコは、次のようにカバラの有用性を「キリスト教徒の同胞」に保証している。「諸君はヘブライ人の石のごとき心に対する最も強力な武器を身に着けるであろうし、しかもそれらは彼ら自身の武器庫から取り出されるであろう」カバラ主義の観念のキリスト教化は、ピコのはるか前から「改宗者」の著作の中でよく知られていたが、ピコの先駆的業績は―――フラヴィウスのおかげで―――キリスト教信仰を堅固なものとする新たな道を見出すために、カバラ主義の方法を用いた事にあった。教会との軋轢の後、『ヘプタプルス』を書き終える前の年に、ピコはもう一人の重要なユダヤ人ヨハナン・アレマンノに出会ったが、アレマンノは彼自身ユダ・メッセル・レオンの雄弁な人文主義的思弁から影響を受けていた。このように、ピコがアレマンノとともにユダヤ教思想の研究を続け、とりわけ彼の「雅歌」の解釈から学ぶのと同時に、アレマンノのほうでもギリシア哲学の観念をピコから学び取る用意があった。『ヘプタプルス』は短いがしかし複雑な著作である。その目的は、三つの世界―――超天界、天界、月下界、これに4番目として人間界が加わ(174)る―――というカバラ主義・新プラトン主義の図式を使って、創造の六日間と七日目の休息とに対応する7重の宇宙論を正当化するところにある。幕屋の3部からなる構造や7つに枝分かれした燭台の形状といった聖書からのモチーフが、一貫してピコの図式に彩を添えており、ゲマトリアを用いて創世記のヘブライ語原文の最初の単語を解読すればキリスト教的メッセージが明らかになる事を示す補遺で、著作全体が閉じられている。 『ヘプタプルス』の第4、第5「解義」で、ピコは人間の状態を論じるが、研究者の何人かはこれを『弁論』よりも穏健と考えているし、恐らくこの事は、ピコが教会からの懲罰を受けてより慎重になった事を示唆しているのかもしれない。ピコは、人間の肉体と霊魂が大地と天空に対応するとみなし、この両極を結びつけるために、ある霊的実体を二つの間においている。霊魂の知性的・感覚的能力に、彼は聖書の天空の上と下の水の類比物を見出した。「人間は、何か新しい被造物のような4番目の世界というよりは」とピコは言う、「寧ろ先に記述した三つの世界の絆であり結び目である」。こうした表現は、人間性が固有の本性を欠き、他の被造界を探索してそれを見付けなければならないとする、『弁論』の人間観を振り返っているようにも見える。しかしピコは「人間は万物を、それらの中心として、自らのうちに包含する」とも書いている。ではピコはここで、アダムの末裔を世界の車軸に固定する立場に返ったのだろうか。この問いは、高度に修辞を凝らしたピコの言語から、或いは一貫性と用語の精密さとを求めすぎているのかもしれない。いずれにしても『ヘプタプルス』が人間の尊厳について楽観的見解を表明している事に疑いの余地は無い。人間の卓越性に関する重要な章は、創造者の言葉―――「我々自身の似姿に人間を作ろう」―――をもって始まり、『弁論』冒頭にあったのと同じ「ヘルメス文書」の箴言―――「人間こそは、アスクレピオスよ、大いなる奇跡である」―――をもって終わっている。 『ヘプタプルス』が、『弁論』、『提題集』、『弁明』に比べればおとなしい著作だとしても、教会との対立から間もないこの時期に自らのキリスト教的カバラ思想をひけらかしたピコは、やはり軽率だった。フィチーノも他のフィレンツェ人も、(175)この才知あふれる若い同僚が限度を超えてしまう事を恐れるのに十分な理由があった。1480年代初めからピコは、フィチーノの思想を、学派間の不和を克服するような統一的哲学に融合しようと望んでおり、フィチーノに、プラトン主義の研究、特にプロティノスの翻訳・解釈という長期にわたる骨の折れる難業を続行するよう画策していた。特定のプラトン主義文献についての見解に於ても、自分自身のよりや神的なシンクレティズムに於ても、ピコはふぃ地0のと見解を違える事をためらわなかった。フィチーノはピコの年長者であり友人でもあったが、どのような意味でも彼の教師ではなかったのである。例えば、ジロラモ・ベニヴィエーニの「愛の歌」に付した『注解』1486年で、フィチーノの最も影響力あるプラトン注解の一つの対象『饗宴』について、ピコは独自の解釈を示した。しかし、ピコと年上の哲学者との最も目立った論争は、ロレンツォ・デ・メディチがプラトンとアリストテレスの関係をめぐってアンジェロ・ポリツィアーノに異論を投げかけたときに始まった。高名な人文主義者・詩人であり、1494年の死に至るまで14年間にわたってフィレンツェ大学で教えたポリツィアーノは、また影響力あるアリストテレス解義者でもあった。彼の『ニコマコス倫理学』論は、アリストテレスをプラトン主義的な―――つまりはフィチーノ的な―――観点から修正するようロレンツォを促し、ピコは1491年に「プラトンとアリストテレスの調和」に関する予定された論考の現存する唯一の部分である、『存在と一者について』と題する短い論文で、これに応えたのである。 この商品の主題は、『存在と一者について』という題名に明瞭に表れている。フィチーノがプロティノスとともに一者が存在よりも上位にある事を主張したのに対して、アリストテレス主義者はこの区別を否定したが、ピコは、アリストテレスの『形而上学』からとられた存在と一者との等価性を支持する議論のほうが、対立する新プラトン主義的見解よりも、プラトンに忠実だという事を示そうとした。「アリストテレスがプラトンと意見を違えると信じる人々は、私と意見を違えている」とピコは書いている。「なぜなら、私は二つの哲学を調和させるからだ」。自らの主張を論証するために、ピコはまず、フィチーノのプロティノス的見解を支持しているように見えた『パルメニデス』のいく(176)つかの章句を厄介払いする必要があった。彼は、この対話編にまともな学説的価値がある事を否定し、「ある種の弁証術的練習に過ぎない」と切り捨てて、これを果たした。次に、一者と存在とが同一である事を示す積極的論拠を『ソピステス』に求めたのである。フィチーノは1492-94年の『パルメニデス』注解で、穏やかにまた間接的にではあるものの、ピコをたしなめて、かの「驚嘆すべき若者」が向こう見ずにも健全なプラトン主義の教説から離れる前に、自分とプラトンにもっと注意を払っていたならばと嘆いた。奇妙な事に、『パルメニデス』が一者を存在の上位に位置づける深遠な進学を表明しているという最良の論拠をフィチーノが発見したのは、ディオニュシオス・アレオパギテスの中だったが,同じ著者をピコは『存在と一者について』でこれとは反対の目的のために援用している。新プラトン主義の典拠へのピコの好み、またアリストテレスをプラトン主義者に対抗して擁護することではなく、その特色をあいまいにする事によってアリストテレスに好意を示そうとするピコの願望は、硬直したアリストテレス主義陣営の批判者の気に入るはずがなかった。その中の一人、ファエンツァのアントニオ・チッタディーニは、フィチーノよりも公然と『存在と一者について』を攻撃した。 生涯の最晩年は、ピコは予想占星術の論駁を書き始めたが、これは未完の状態にあるにもかかわらず、彼の著作の中では飛びぬけて長い作品になっている。星辰の決定論に対する人間の自由の用語をこの論文の主要な哲学的主張と見る研究者も居るが、忘れてならないのは、フィチーノ、ポンポナッツィ、その他の数多くの主導的哲学者が魔術・占星術への幅広い関心を共有していたということであり、魔術・占星術がピコの思考において最終的にどういう地位を占めたかという問いには、いまだに解答は得られていない。毒殺のうわさが流れる中、ピコは1494年11月17日に死んだ。ポリツィアーノの死の二ヵ月後、シャルル8世のフランスの侵略軍が、既にピエロ・デ・メディチは逃走し、やがてサヴォナローラの支配下で四年間の粛正的な神政政治へ入る事になるフィレンツェに入城したその当日だった。サヴォナローラは、死の前夜、この若き貴族の体をドミニコ会第三会員の修道服で包んでいる。フィチーノの死はピコの5年後のこと(177)だが、後者の死とメディチ家の逃亡との一致は、フィチーノがフィレンツェに見て取った「黄金時代」の終焉を象徴するかのように考えられてきた。フィチーノがプラトンの翻訳を始めたのと同じ頃、1463年にピコが生まれたことも、もう一つの関連を定着させ、二人の思想家が共同してルネサンス哲学を頂点へと押し上げたという光景を歴史的想像力の中に刻み込む一因となった。しかしながら、フィチーノのプラトン主義の天才が、その共通の関心を優れてアリストテレス主義に汲み、その優勢な性質を折衷主義とする、はるかに広範にわたるより複雑な思想の混合体である近代諸哲学の精神と同一の広がりを持つには程遠いものだったことも、明白なはずである。普遍的な哲学の平和へのピコの希望において、プラトン主義は主要な源泉だったが、それは数多くある源泉の中の一つに過ぎなかったし、フィチーノの体系に比べれば、ピコの体系は明確にアリストテレス主義・アヴェロエス主義的な要素を、他の多くの要素とともに、受け入れる余地を残していたのである。(177)
(チャールズ・B・シュミット/ブライアン・P・コーペンヘイヴァー著 榎本武文訳『ルネサンス哲学』、平凡社・2003年)第1章 ルネサンス哲学の歴史的背景(古代と中世の哲学的遺産。ルネサンスという枠組みにおける哲学。人文主義。教会と国家。ルネサンス期における哲学の変形)第2章 アリストテレス主義(ルネサンス期の多様なアリストテレス主義。アリストテレス主義の伝統における統一性と多様性。ルネサンス期の八人のアリストテレス主義者)第3章 プラトン主義(アリストテレスからプラトンへ。マルシリオ・フィチーノ。ジョヴァンニ・ピコとニコラウス・クザーヌス。敬虔な哲学、永遠の哲学、プラトン哲学―――フランチェスコ・パトリッツィ)第4章 ストア主義者、懐疑主義者、エピクロス主義者、その他の革新者(人文主義、権威、疑い。ロレンツォ・ヴァッラ―――言語対論理学。ペトルス・ラムスの単純な方法とその先駆者たち。懐疑の危機。ユストゥス・リプシウスの新しい倫理体系。政治と倫理的混乱―――エラスムス、モア、マキアヴェリ。第5章 自然の権威の対立―――古典からの解放(学問の書物と自然の書物。ジョルダーノ・ブルーノの哲学的情熱。新しい自然哲学)第6章 ルネサンス哲学と現代人の記憶。