2009年4月5日日曜日

Petrarcha Nr.2

3. 哲学と文学 哲学と修辞学の統一(80) ペトラルカは「孤独の中から多くの人に役立つこと」を願っていたので、優れた著作を世に送り出そうとしたばかりか、多くの友人・知人との対話にも熱心で、彼らに手紙をしたためて親しく語りかけてやまなかった。それらの手紙が読者に役立つためには、それらは「雄弁」を備えていなければならなかった。 ペトラルカの言う「雄弁」eloquentiaとは、人間形成や「生」の形成を促す言葉の(81)力に他ならない。ペトラルカはアリストテレスの倫理学書を読んだ時の体験を、ラテン作家(キケロやセネカ)と対比しながら、次のように語っている。「アリストテレスは確かに、徳とは何かを教えてはくれますが、徳を愛し悪徳を憎むよう人の心を駆り立てたり燃え立たせたりする、言葉の力や炎が、彼の論述には欠けています。或いは、ごく僅かしか備わっていません。……だがラテン作家たちは……きわめて鋭い燃えるような感動的な言葉を、心の奥深く注ぎ込み、刻み付けます。それにより、怠け者は駆り立てられ、消沈せる者は燃え立たされ、居眠るものは呼び覚まされ、虚弱なものは強められ、打ちのめされたものは立ち上がらされます(「無知について」)。無論ペトラルカは、「アリストテレスのギリシア語文体が甘美豊麗で美しいものである」というキケロその他の証言を知っていた。だから、ラテン語訳アリストテレスの「生硬な」文体は翻訳者たちの稚拙さのせいだろうとも考える。にもかかわらず、道徳哲学の分野におけるキケロやセネカの優位を疑わなかった。 哲学史家の常識に反するこのような評価は、実は哲学間の違いにも起因していた。ペトラルカは言う。「魂の世話は哲学者を求め、言葉の世話は弁論家に固有の仕事です。我々はどちらの世話もなおざりに出来ません」(親近書簡集、第1巻9)。 ここでは、哲学と修辞学(弁論・修辞術)との統一、より主体的には、哲学者と『弁論』かとの統一という立場が表明されている。これは哲学と「雄弁」との統一ともいえよう。(82)このような立場からペトラルカは、キケロやセネカを高く評価し、道徳哲学者としてはアリストテレスに優ると言う。このようなアリストテレス評価は、時流のアリストテレスは(後期スコラのアリストテレス学派)に対する一種の批判でもあった。ペトラルカの批判は主に弁証術(論理学)の多用・乱用に向けられていた。彼は言う。「私は何よりも哲学を愛します。しかし私の愛しているのは、わが学者どもが滑稽にも自慢の種にしているあのスコラ流の空虚なおしゃべりの哲学ではなく、真の哲学なのです。ただ書物のうちにばかりか魂のうちに住み着いている哲学、言葉にではなく事実に基づいている哲学なのです」(親近書簡集、12,3) このように、ペトラルカの「雄弁」尊重や修辞学の重視は、彼の鋭敏な事実感覚とも結びついていて、哲学を魂のうちに住み着かせよう、哲学を効果的に人間形成や生の形成に役立たせようとする切望に根ざしていたのである。彼が特に重んじたのは、現実の具体的「生」に密着した哲学的探求である。『わが秘密』は自己の生に密着した哲学的探求の典型であり、そして数百通の現存書簡の多くは、自他の生に密着した哲学的考察となっており、親しく友人・知人に語り掛けつつ為された誠実な哲学的実践の記録でもある。いずれの場合も、現実の具体的状況において直面する切実な具体的問題に即して哲学的考察が試みられている。この面でペトラルカは、モンテーニュやパスカルをはじめとするフランス・モラリストの先駆者といえよう。 (83)このような探求方法や叙述方法は、個別において普遍を表現しようとする詩や小説の手法に通ずるところがあろう。―――哲学と修辞学の統一。これを現代の我々になじみやすく表現すれば、哲学と文学の統一であろうか。
 文学研究と「神学」研究 「フマニタスをまとい獣性を脱ぎ捨てること」。これがペトラルカの考える人間形成の基本的方向を為していた。しかし彼によれば「フマニタスをまとい獣性を脱ぎ捨てること」は「神の稀有な贈り物」である。彼の考える人間形成、或いは寧ろ人間形成は、自力では殆ど不可能であり、神の恩恵が必要であった。より主体的には、信仰による神とのかかわりが必要であった。それゆえ「神学」研究が重要不可欠となる。事実、ペトラルカの文学研究においては、詩学(韻文学)と哲学と宗教文学が中核的役割を果たしていたのである。彼は告白して言う。」「私の天分は、鋭いというよりは調和の取れたものであって、あらゆる健全ない研究に適していましたが、とりわけ道徳哲学と詩学に向いていました。年を経るにつれて、私は詩学をなおざりにして宗教文学に惹かれていき、そこに、嘗ては疎んじていた秘められた滋味を味わい取るのでした」(老年書簡集第18巻)。 ペトラルカが年とともに詩学をなおざりにしていったというのは事実に反するが、ア(84)ウグスティヌスの『告白録』との出会いをきっかけに、次第に宗教文学に深入りして言ったのは事実で、その分若い日における詩作への熱狂が相対化されていったのも確かであろう。おびただしい詩作品そのものに於ても宗教的内省が多くなる。のみならず、『宗教的閑暇』や『痛悔詩篇』のような宗教文学書も書かれる。こういうわけで、ある時期からのペトラルカが特に熱心に研究したのは詩学・哲学(道徳哲学)・宗教文学であった。 しかし、宗教文学への関心を深めてからも、ペトラルカは時流のスコラ神学者に対して激しい批判を向ける。「彼ら神学者が何処まで落ちてしまったかは、ご存知の通りです。彼らは神学者から弁証学者になったのです。いや詭弁家に成り下がるのでなければ幸いです」(親近書簡集第16巻14)。 だが神学そのものは高く評価され、「万学の女王」とみなされていた。またトマスやボナヴェントゥラのような偉大なスコラ神学者も敬意を払われていた。では、神学という用語によってペトラルカは何を考えていたのだろうか。彼は修道院に暮らす弟宛に、詩学を弁護して書いている。 「詩学はいささかも神学の敵ではありません。驚いていますか。私は寧ろ、神学とは神についての詩学だといいたいくらいです」(親近書簡集第10巻4)。 ペトラルカに拠れば、福音書には詩的比喩が満ちているし、旧約聖書には叙事詩その(85)他の詩が沢山収められている。またラテン教父たちも、あるものは詩を利用し、あるものは韻文の小品だけを書き残している。ペトラルカはさらに言う。「ですから、兄弟よ、キリストの友である聖者たちの気に入っていたものを恐れないで下さい。内容に注目してください。内容が真実で健全なものであれば、文体のいかんを問わず、喜んで受け入れてください。土器に盛られたご馳走はこれをたたえ、黄金の器の中のご馳走はこれを嫌うとすれば、狂人か偽善者のすることでしかありません」(同前)。 こうして神学と詩学との境界線は取り払われる。そして神学は、スコラ神学に置けるような理論的構築を必ずしも必要としない。叙述方法が厳密に論理的かどうかといったことも、散文作品か韻文作品かといった文体の違いも問題にならない。こうして神学概念が拡大され、神学と宗教文学はほぼ重なり合う。このような神学概念の拡大は、神学観の質的変化とも結びついていた。 ペトラルカに拠れば、スコラの神学者たちの多くは「神を愛するものではなく認識するもの」であろうとしており、神についての弁証術的論議に熱中している」。だがしんがくしゃとは、だれにもましてかみを愛し崇めるもので無ければならず、また、人々の心に神への愛を呼び覚まし強めるもので無ければならないであろう。そのような「雄弁」をペトラルカはラテン教父たち(アンブロシウス、アウグスティヌス、ヒエロニムスら)に見出していた。 (86)このように神学にも「雄弁」が要求され、神学と修辞学の統一が求められる。壮大な論理的構築物としての神学書も、神への愛や信仰を強めるような雄弁に欠けるなら、一編の雄弁な「神学的」詩に劣るであろう。恋人ラウラへの愛を中心主題とする『カンツォニエーレ(俗語断片詩集)』も、全体として基本的に、神への祈りと賛歌であろうとしているように思われる。詩学も究極的には「キリストへの参加、真の宗教のための飾り」へと高まらなければならない。(老年書簡集第15巻11)ここに言う「飾り」とは雄弁のことである。
 カンツォニエーレ―――ペトラルカ思想の最高表現 ペトラルカの古典文学熱は、キケロの文体に対する「美的」心酔とともに始まる。しかしペトラルカの中核的関心は倫理的で「良く生き、幸福に生きること」にあった。そしてこの関心とのからみで、「人間性をまとい獣性を脱ぎ捨てる」人間形成が切実な問題となる。だが、この倫理的問題を追及すればするほど、人間の無力を自覚させられて神の恩恵を求めざるを得ず、「宗教的」要求が喚起される。こうしてペトラルカにおいては、倫理的要求を核として、「美的」「倫理的」「宗教的」要求が深く結ばれあっていた。これが典型的表現を得ている作品は、散文では対話編『わが秘密』、韻文では(87)『カンツォニエーレ』であろう。 この大部の叙情詩集は、永遠の恋人ラウラにささげる愛を中心テーマとしている。詩人はラウラを理想化して「美徳の精華、美の泉」と称える(第351歌)。ラウラは地上的・人間的善美の集約的かつ至高の具現なのである。だがラウラは貞潔を貫き、詩人の愛に応えようとしない。彼女への愛慕が募れば募るほど、報われぬ愛の惨めさも増す。詩人にとって彼女は「あらゆる禍の根源」でもある(わが秘密、第3巻)。その甘美さで詩人をとりこにし、精神的「奴隷」にして、詩人を苦しめ、さいなみ、安らぎを奪う。詩人は「禍の根源」ラウラから解放されたいと切望するが解放される事が出来ない。否、解放される事を欲しない。ラウラなき人生は虚無に等しいからだ。―――詩人は恋人から逃れる事を欲し、同時に逃れる事を欲しない。こうして内なる葛藤はやむ事が無く、様々に詩人をさいなみ続ける。 カンツォニエーレが表現する憧憬と幻滅、期待と落胆、喜びと悲しみ、癒しと痛手、苦悩や葛藤。その無数のヴァリエーション。それはまた、詩人の生きた時代そのものがはらむ深刻な危機や矛盾の表現でもあった。14世紀初頭から始まるヨーロッパ規模の食糧不足と飢餓状態、封建制の破綻、イタリア都市国家の内部矛盾の激化と内部抗争、都市国家同士の不断の戦争による未曾有の乱世。そして英仏間の百年戦争による荒廃。ペストの(88)流行。すさまじいまでに日常化した死の猛威。―――カンツォニエーレは全体として、そのような時代そのものの表現でもあった。鋭敏に感じ取られ、内面化され、そして芸術的天才によって見事に表現された時代そのもの、時代の不幸そのものでもあった。 不断の戦乱と内なる苦悩や葛藤に疲れた詩人は、ますます痛切に平和と心の安らぎを求める。そして王侯に、皇帝に、祖国イタリアとキリスト教世界の再生と平和を訴え続けるが、全ては徒労に終わる。この世で安らぎを与えてくれるのはただ、詩人の心に住む永遠の恋人ラウラのみ。「わが安らぎはことごとく、かの瞳からぞ生まれ来る」(第72歌)。ラウラは安らぎの源泉であり、この世の嵐を逃れてそこに憩うべき「安らぎの港」なのである。この詩集は全体として、そのようなラウラ像を求めての旅路に他ならない。だがラウラは安らぎの源泉であるとともに苦悩の根源でもある。……(89)詩集の最後を飾る詩篇は、最早ラウラ賛歌ではなく、聖母マリアにささげる長い祈りの詩となる。……この詩集においては、ペトラルカ思想の諸動機や諸相が、様々な具体的事例に即して「断片的に」表現されている。彼の散文作品総体に見られるおびただしいテーマは、恐らく殆ど全てここにおいてそれぞれに完璧な詩的表現を得ている。ヨーロッパ最古の一連の哲学思想はギリシア語の韻文で表現されたが、カンツォニエーレもペトラルカ思想の、驚くほど多様な詩的表現、しかも最高の芸術的表現なのである。
 終わりに―――信仰と懐疑 ペトラルカは複雑な人物で、彼については様々な人物像を描きうるし、また描かれてきた。ここでは思想的関心から、ペトラルカに一つの光を当てておきたい。 ペトラルカは理性主義的な一面を持つ。大部の対話編『順逆両境への対処法』においては、擬人化された「理性」が「喜び」(及び「希望」)と対話し、また悲嘆(および「危惧」)と対話する。著者ペトラルカの思想は「理性」の口を借りて表明される。また多くの所管において、彼は友人たちを力強い言葉で助言し、励まし、或いは慰め(90)る。そのようなとき、彼はストア的で、理性の力を信じている。しかし時とともに、書簡集は次第に悲観主義的色調を深くして行く。彼自身も、書簡集総体への序とも言うべき書簡で述懐している。「書簡の配列そのものが示しているはずですが、始めの頃、私の言葉は力強く簡潔で、強い精神を表しており、私自身を慰めるばかりか、しばしば他の人たちをも慰めていました。それから時とともに弱弱しい女々しいものになり、雄雄しからぬ嘆きに満ちています」(親近書簡集第1巻1)。 このような変化の一因は悲惨な時代そのものにあった。ことに1348年のペスト大流行で恋人ラウラばかりか友人の殆どを失ってからは、ペトラルカの書簡集に通底する主題は死についての省察となり、神への祈りも切になる。彼はキリスト者として「真の信仰」を堅持して揺るがないが、自分の魂の救いについて確信が持てるわけではない。「文学」の価値を確信し、新しい「文学」の創造を志して努力するが、時代に対する終末論的な悲観的意識にさいなまれ続ける。また自分の(そして人間の)知的探求の限界を常に痛切に意識していて、この点では懐疑主義者であった。 「私は知的教養にとめるものというよりも、これを愛するものです。どの学派にも従わず、真理を求めるものです。真理の探究は困難なものであるゆえ、私は未熟で無力な探求者であり、しばしば自己に不信であって、誤謬に陥らないよう、真理のために懐疑そのものを抱きしめているのです」(老年書簡集第1巻6)。(90)

(伊藤博明編『哲学の歴史 第4巻 ルネサンス 15-16世紀』、中央公論社・2007年)