1464年より1469年、「痛風病み」のピエーロ ――― コジモの長子ピエーロは父親のような才幹を持ち合わせていなかった。教養あり、信仰厚く、中庸を得た人物で、やさしい父、愛すべき夫であり、一門の事業においてはこれまた高い教養を持つ妻のルクレツィア・トルナブオーニの内助を得てもいた。ポリツィアーノや、彼の求めに応じて『モルガンテ』を造ったルイージ・プルチらの庇護者でもあった。銀行の経営管理では父コジモをよく補佐もした。そういうピエーロではあったが、政治においては極めて拙劣であった。権力の座に着くとすぐに、父親の債務者全員に負債の即時返済を要求して何件もの破産を引き起こし、そのため多くの敵を作ってしまったのである。 新しい支配者に対する批判勢力は、かつてコジモを補佐した人々の中にまで形成された(アニョーロ・アッチャイウォーリ、ルーカ・ピッティ。ルーカはピエーロに公然と対立する分派の指導者となった)。反政府派の力はかなり強大で、1465年9月には制度改革を決定(公職選挙における抽選制の復活と選挙管理委員会の関与停止)、最高職「正義の旗手(ゴンファロニエーレ)」に自派の一人ニッコロ・ソデ(83)リーニを選出させた。ソデリーニは直ちに各評議会議員の選挙基盤を拡大し、その結果評議会にはメディチ家の敵対者が激増、共和派までそこに混じるほどであった。この一党はフェッラーラ侯ボルソ・デステの支持を得て、軍事攻勢に移れると思うほど自派の力に自信を持った。ボルソ・デステは弟エルコレに、トスカーナへ侵攻する小軍団の指揮を任せる。しかしピエーロのほうにも、ガレアッツォ・マリア・スフォルツァが提供した1500名のミラノ騎兵の支援があった。そしてフィレンツェ内部にあっては評議会での多数派の変動と、氾濫の首謀者の一人ルーカ・ピッティの離脱が幸いして、この試練を乗り切ることが出来たのである。エルコレ・デステの軍団は潰走し(1466年夏)、市民総会はバリーアの設置を決議、バリーアは反対派の巨頭(とりわけアニョーロ・アッチャイウォーリ、ディオティサルヴィ・ネローニ、ニッコロ・ソデリーニら)を追放に処すると同時に被選挙人指名に当たってのアッコッピアトーレの役割を回復した。国内の反対派は一掃されたかに見えたが、亡命した反政府派は、ヴェネツィア(ヴェネツィアはそのもっとも有名な傭兵隊長バルトロメオ・コッレオーニを提供した)、エステ家およびその他群小諸侯の軍事的支援を得て再び攻勢に転ずる。ピエーロはミラノ、ナポリ、教皇パオロ二世と同盟を組み、ウルビーノ伯フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ指揮の軍隊を配備して反撃体勢をとった。1467年7月、両軍は戦闘を交えたが決定的な結果を生むには至らなかった。教皇は和平を提案し、68年に講和が成立、フィレンツェは領土の保全を保証された。ピエーロはさらに、それから暫く後、カルテルノーヴォ・ディ・ルジャーナの買収にすら成功したのである。(84)従ってピエーロは、自国フィレンツェを固め、さらに拡大することが出来た。また1466年、教皇パオロ二世から、教会領国家内トルファで発見された明礬鉱の採掘および販売に加わる許可を得る。トルコ人のコンスタンティノープル占領依頼近東からの明礬輸入が途絶えていただけにこの権利はいっそう貴重なものであった。さらに、同じ機会に「十字軍資金保管者」となる許可も得て、ピエーロは教皇庁財政面で重要な地位を保証されることとなった。ピエーロは父コジモが開いた学芸保護の方針を踏襲し、コジモほどの気前良さを持ってではなかったが、ボッティチェリ、パオロ・ウッチェッロ、ルーカ・デッラ・ロッビア、ドナテッロ、フィリッポ・リッピ、ミケロッツォ、ベノッツォ・ゴッツォーリらに資金援助を行った。その反面、コジモの晩年すでに始まっていたメディチ銀行の衰退に歯止めを掛けることは出来なかった。ヴェネツィア支店の閉鎖と言う事態もそこから生ずる。しかし、ブルゴーニュ公シャルル豪胆王に対しては、ブリュージュ支店の責任者がすでに承諾していた貸付を打ち切らせると言う慎重な措置を取った。その貸付はフランス王ルイ11世を刺激するものであり、ピエーロとしてはむしろこちらと同盟を組みたい意向だったのである(ルイ11世は彼を私的顧問団の一因に加え、フランス王朝の紋章である三つのゆりの花をメディチ家の紋章に加える権利を彼に認めたのであるから、その意図は十分実現されたことになる)。
1469年より1492年、ロレンツォ・イル・マニフィコ ――― ピエーロとその子ロレンツォはき(85)わめて対照的である。ロレンツォはむしろ祖父コジモを思わせる人物で、独自の美質才幹のほか、祖父が備えていた才能は殆ど全て生まれ持っていた。 父親が死去したとき(1469年12月3日)、49年1月1日生まれのロレンツォはまだほんの若者であった。恵まれぬ外見的条件(魁偉な容貌、突き出た顎、強度の近視による目つき、嗄れた声)はマイナス要素であったが、その代わり、サンタ・マリア・デル・フィーレ教会の参事会員でのちのアレッツォ司教ジェンティーレ・ベッキを師として堅固な知識教養を身につけていた。この師によってギリシア・ラテン、そしてイタリアの文芸への愛を植え付けられたのである(ダンテ、ペトラルカ、ボッカチオはその愛読する作家であった)。ジェンティーレ・ベッキとともに彼の教育に与ったのは、クリストフォロ・ランディーノとアルジロポウロスで、ロレンツォはランディーノに修辞学を学び、プラトンやアリストテレスについてのアルジロポウロスの講義を大学で聴講している。マルシリオ・フィチーノからはカレッジの別荘でプラトン哲学へと導かれ、レオン・バッテリ巣田・アルベルティによって古代建築への目を開かれた。サンタ・マリア・デル・フィオーレ教会のオルガン奏者アントニオ・スクワルチャルーピについて音楽も習っている。そして乗馬、狩猟、騎馬槍試合などにも情熱を燃やし、彼と弟受理あーのの周囲には愛すべき令嬢や貴公子たちが華やかな一団を形成していた(弟ジュリアーノは兄と同じく才能に恵まれ、しかも容姿において兄より勝っていた)。色事を好み、やくざとの交際をもいとわぬスノビズム、これらのことを総合すれば殆ど申し分ない貴族の肖像が得られるだろう。生の享楽に身を任せ(情欲生活への度を超えた執着は後に政敵から攻撃の的とされる)、一(86)方外交的には国際的社交舞台で国家代表としての役割を果たすべく定められた大貴族の肖像が。父ピエーロはまさしくロレンツォの将来をそうした役割の中にとどめようとした風に思われる(著名な賓客の接待、ミラノ駐在使節など。ロレンツォはミラノでガレアッツォ・マリア・スフォルツァと親交を結び、ガレアッツォの子供たちの名付け親になることを懇望された)。ロレンツォがフィレンツェでうわさの的となったのは、ある貴族の妻、美貌のルクレツィア・ドナーティとのプラトニックな恋愛のためであった。彼はすでに1469年より、自身の言葉によれば母親から「あてがわれた」クラリーチェ・オルシーニの愛無き夫の身だったのである。しかし、父ピエーロの死に際し、軽佻浮薄な社交界好きのこの若者を背後から操ることも可能と考えて彼を権力の座に着かせた寡頭政治家たちは、たちまちにして自分たちの過ちに気づくことになる。ロレンツォは、フィレンツェにあっては「国家を離れて贅沢な暮らしをするのは難しい」と考え、ただそのゆえに権力委任の申し出を承諾したと臆面も無く言明したのであった。 権力の座に着くやたちまちロレンツォは政治家としての手腕を発揮する。プラートで、追放中の彼の政敵の煽動による反乱が起こると、加担者たちへの寛大さを装いながらも、首謀者21名以上が処刑されるのを黙って見過ごした。フィレンツェ内の反ロレンツォ派がそれに憤りを示すと彼は特別委員会(バリーア)を設置する。バリーアは1471年7月、百人会を再編成し、ロレンツォ支持派を中心にして、これらの人が他の成員を元「正義の旗手」の中から補充した。こうして、新支配者に対して全面的に忠誠な多数派が形成される。この新百人会は財政的・政治的権限を従来より拡大した。(87)他の評議会(ポポロの評議会とポデスタの評議会)は、10名の選挙管理委員(ロレンツォ自身もその一因)―――1472年8月、百人会の中核的存在であるロレンツォ支持派の中から指名された―――に委管された選挙人名簿の操作によっていずれも弱体化される。こうしてメディチ家を中心に、新たな寡頭政治体制(カニジャーニ、カッポーニ、グイッチャルディーニ、プッチ、リドルフィなど)が形成されたのである。 この政治的勝利をさらに確固としたものにするため、ロレンツォは反政府は貴族の財産に矛先を向ける。反政府は貴族の拠点がグエルフ会であったことは言うまでも無い。ロレンツォは、1471年9月、グエルフ会と、大半がメディチ家に敵対的なメルカンツィーア(アルテの商業裁判所)の財産売却を決定させる。ロレンツォはまた小アルテを5つに削減することすら考えるが、これは多数の反対にあって最終的には断念する。しかし、77年6月には、カピターノ・デル・ポポロの廃止を可決させ代わりに単なる一判事を置いた。一方ではポデスタの権限をも縮小、以後ポデスタは警固八人会の判決を追認するだけとなる。こうしてロレンツォは、反政府派の自由を奪う政治機構を実現した。 反政府派にとり、いまや頼るべきものは実力行使以外になくなったのである。 商業貿易で産を成した古い貴族家系のパッツィ家は事業の面ではメディチ家の競争相手となっていた(それまでメディチ家の特権であったトルファ明礬鉱の専売権と教皇庁会計院の預金管理権を、教皇シクストゥス4世はパッツィ家に移管させた。教皇が甥G.リアーリオのためにイモラ伯領を買収する際パッツィ家が提供した経済援助に対する報酬としての措置である)。とはいえ、ロレンツォの妹(88)ビアンカはグリエルモ・パッツィの妻であり、両家は姻戚関係で結ばれていた。しかし、パッツィ家の友好関係(ルネ・ダンジューやルイ11世の愛顧)、華々しい芸術家庇護ぶり(ブルネレスキがパッツィ家の礼拝堂をサンタ・クローチェ教会内に建立、ジュリアーノ・ダ・マイアーノが私邸の館を建築)は、ロレンツォをいらだたせた。ヴォルテッラ事件の際にはパッツィ家はロレンツォの行動を支持もしたのに、ロレンツォは、パッツィ一門のある家の娘から父親の相続遺産を剥奪する法律を可決させることによって恨みを晴らす。このときパッツィ家には、ピサの大司教フランチェスコ・サルヴィアーティと教皇シクストゥス4世の支援が寄せられた。サルヴィアーティは大司教への叙任をロレンツォによって三年間遅らされた経験を持ち、教皇はまた甥リアーリオへのイモラ贈与をロレンツォに妨害されている最中であった。教皇はその仕返しに、ロレンツォの弟に枢機卿の地位を許す気配を一向に示さなかったのである。パッツィ一族はロレンツォおよびジュリアーノ暗殺の計画を企てる。 1478年4月26日の日曜日、大聖堂を舞台とした暗殺計画は、しかし、失敗に帰する。ジュリアーノは死んだが、ロレンツォは傷を負っただけで難を逃れたのである。メディチ家側の報復は熾烈を極めた。ピサの大司教は兄弟やいとこおよび他の加担者たちと共に市庁舎の窓でつるし首に、その後数日のうちに他の者たちもそれぞれ死罪に処せられた。その数およそ百名にのぼり、パッツィ一門の棟梁老ヤコポもその一人であった。パッツィの家名は断絶、家門は破棄され、スコッピオ・デル・カッロ(爆竹などを仕掛けた山車の出る聖土曜日の行事)は、パッツィ家が外国から持ち込んだ習慣であるとして禁止された。一門(89)の子弟は地位も名誉も剥奪される。だが、その過激さまでがいかにもフィレンツェ的なこの「パッツィ家の陰謀」は、図らずもメディチ家が一般市民の間に得ていた人気のほどを証す契機ともなった。パッツィ家が反乱を呼びかけたにもかかわらず、新支配者であるメディチ兄弟に抗して立ち上がるものは一人もいなかったのである。それどころか、謀反人狩りの段階では、民衆の支援はメディチ家のほうに向けられた。陰謀の挫折は、つまるところ、世論に対するロレンツォの影響力を強化する結果を生んだに過ぎなかった。 それから二年の後、ロレンツォは制度改革を通じて支配を完全な形へと持って行く。1480年4月8日に設けられたバリーアは、70人会と称する新評議会の創設を決める。ここに選出されるのはメディチ家支持者に限られ、これが国家の「最高管理機関」(ルビンシュタイン)となる。70人会が最高位の行政職(都市国家主席(ゴンファロニエーレ)、プリオーレたち、八人の外交委員、十人の特別委員、八人の軍事委員)を選出するため、他の評議会はまったく無力なものになった。 しかしながら、反政府派も口を封じられていたわけではない。反政府派は、運良く運ばれて出た各評議会で意見を表明していたのである。1481年9月、ロレンツォは70人会に新たな権限を与え、選挙管理委員会にプリオーレの選出を委任した。90年には17人の改革委員会を設けて自らその一因となる。81年に自身に対する大逆罪を処罰する法律まで可決させたロレンツォは、おそらく「終身ゴンファロニエーレ」に自分を選出させようと考えていたのであろう。 ロレンツォのこうした政治的な力も、メディチ家に好意的な支配者層の存在なしには考えられな(90)い。支配者層の構成は複雑であった。各種評議会への被選挙権者8千人のうち、半数以上が最も古い家系に属し、その大半はコジモ時代のメディチ家の盟友であった。しかしメディチ家支持層の中心的存在は中産市民出の「新人(ジェンテ・ヌオーヴァ)」(1343年以後市政府に登場した家柄)で、アッコッピアトーレたちが最高行政職への被選挙権者を選んだのはこの集団からであった。強硬な反政府派(メディチ家という政治への新参者を蔑視する貴族と、新たな「専制君主」を憎悪する共和主義者)は、事実上国外に追放されていた。しかしそれは無視できる程度の反対勢力ではなく、やがて15世紀末にはメディチ家の失墜に際して重要な役割を果たすことになる。ロレンツォは、イタリア版『ゴータ年鑑』(ヨーロッパ大貴族の系譜を明らかにした年鑑)にメディチの名を登録させようとの配慮から祖父コジモと同じように婚姻政策を実行した。自身は妻クラリーチェを介してローマの有力貴族オルシーニ家と姻戚関係を結び、娘マッダレーナはチーボ家に嫁がせて女婿の父である教皇インノケンティウス8世の保護を獲得する。ロレンツォはさらに忠実な同盟者スフォルツァ家を当てにすることが出来た。息子ジョヴァンニは聖職の道へと進ませる。ジョヴァンニは、14歳にして早くも教皇意中の未来の枢機卿とされ、メディチ家の変わらぬ友ルイ11世からエクス・アン・プロヴァンスの大司教領を拝領した。これは教皇位へ昇る第一の階梯であって、後にジョヴァンニは教皇レオ10世となる。ジュリアーノ(78年、パッツィ一族に殺されたロレンツォの弟)の死後に生まれたその庶子、甥のジュリオをもロレンツォは世に送り出した。ジュリオはのちに教皇クレメンス7世となる。ロレンツォは密なる密偵網を通じて敵をも友をも監視し、各種行政職の座を自ら占めて、コジモ以上に文字通りのフィレンツェ君主であった。ロレンツォ)91)の催す祝典行事の華やかさ、そこで果たす嗄れの個人的役割、そうした一切が、彼の権力への移行を個人的な成功と思わせるのに貢献している。 ロレンツォの対外政策もまた、もう一つの成功例であったろうか。それについては意見が分かれている。いずれにせよ、その対外政策が、地方的な面とイタリア全土を対象にした面との二つの次元に成り立っていたことは事実である。地方を対象とした場合には独立の試みを容赦なく鎮圧してフィレンツェの覇権を維持した。1470年4月、プラートを血の海と化した反乱についてはすでに触れたとおりである。1472年のヴォルテッラの一斉蜂起も同じ運命をたどった。 1470年8月、ヴォルテッラはヴォルテッラおよびフィレンツェの商人―――全員ロレンツォと親しい資本家グループ―――に、わずかな額で鉱山の採掘権を与えた。しかし、鉱脈の主要部分を形成しているのが明礬であることが判明したとき、ヴォルテッラは契約金の改定を求めたのである。それに対して落札者の提示した増額分が余りに僅少であったため、ヴォルテッラは採掘用地を占拠し契約破棄を通告した。ロレンツォの突きつけた最後通牒およびヴォルテッラのカピターノ・デル・ポポロ(ロレンツォと親しいフィレンツェ人)が出した非難通告に対し、ヴォルテッラの住民は暴動と利権会社社員2名の殺害を持って答える。フィレンツェは三千名の兵よりなる軍隊を送り、一ヶ月の包囲の後ヴォルテッラを占領、約束を反故にして掠奪暴行をほしいままにした。ヴォルテッラの有力者は追放され、ヴォルテッラはフィレンツェ領に統合された。明礬鉱は買収者たちの手中に戻されたのである。(92)ピサに対しては、ロレンツォも、祖父が先鞭をつけ父が継承したやり方を踏襲する。 ロレンツォはしばしばピサに滞在して大学理事の一員となり、フィレンツェの大学は二流の地位にとどめると言う犠牲を払いながらピサ大学の発展に寄与する。友人たちには、ピサへの転住やピサ周辺領域の土地取得を勧める一方、港湾貿易、農業、工業振興の便宜を図った。つまり、ピサを「衛星都市の中でも最も重要な」(マレット)都市としたのである。 イタリア全体を対象とした場合には、すでに述べたように、ロレンツォは1454年の「ローディの和」による均衡政策に忠実であろうとした。しかし、ローマとの関係悪化を阻止することは出来ない。関係悪化の原因は教皇シクストゥス4世の「ネポティズム」にあった。教皇が甥のジローラモ・リアーリオのために中部イタリアに一国家を建設しようとしたのである。73年のシクストゥス4世のイモラ買収は、ロレンツォをミラノおよびヴェネツィアとの同盟結成へと走らせる。これに対し教皇は、75年にナポリとの、78年にはシエナとの同盟をもって答えた。パッツィ一族の陰謀が直接の引き金となって両者の関係は決裂する。教皇は陰謀の陰の人物で、表向きはロレンツォやジュリアーノの死を望むものではないと言明しながら、実はその企てをそそのかしていたのであった。教皇は、報復の過酷さに憤激して(彼の甥のこの一人も逮捕された)、ロレンツォを破門、フィレンツェ市には祭式挙行禁止令を出すと共に、軍隊とナポリ王軍をフィレンツェ領に侵攻させた。一方ロレンツォは、自身の軍隊にしか頼ることが出来なかった(ルイ11世は、戦争行為を停止するよう教皇に精力的に働きかけたものの援軍を送ることは一切せず、ミラノではガレアッツォ・マリーアに代(93)わってナポリ王と通ずるルドヴィーコ・イル・モーロが政権についており、援助を期待することは出来なかった)。加えてフィレンツェ内部では、折り悪く始まった出費のかさむ戦争に、世論は批判的であった。そこでロレンツォはナポリ王に調停を依頼することを決心する。ナポリ王に対してはルイ11世が仲介の労をとり、紛争の終結を勧告した。ルイ11世は、1479年12月から80年2月まで長期にわたってナポリに滞在し、その間にフェッランテ王から停戦の約束を取り付けることに成功したのである。一方、教皇は容易に軟化の姿勢を示さなかったが、トルコがオートラントに上陸するに及んで、ロレンツォとの和解に不君らざるを得なくなった(1480年12月)。 この和平も長くは続かなかった。1482年、フィレンツェはナポリ、ミラノ,マントヴァ、ボローニャ、ウルビーノと連合して教皇の甥ジローラモ・リアーリオによる領内侵攻を受けたフェララ公エルコレ・デステの救援を図った。リアーリオは、ヴェネツィア、ジェノヴァ、それにモンフェッラート侯に支援されてフェッラーラ公領へ侵入したのである。教皇側は、緒戦で勝利を収めたものの、82年12月、ついにナポリ、ミラノ、フィレンツェと休戦する。ヴェネツィアだけが孤立しながら、84年8月の「バニョーロの和議」まで戦いをやめなかった。「バニョーロの和議」はロレンツォに対立するフィレンツェ人に不満を抱かせた。無益と思われるこの戦争に掛けた出費を、彼らはまたしても非難告発したのである。そのため、1486年、新教皇インノケンティウス8世とナポリ王との間に対立抗争が生じたときには、ロレンツォは厳正に中立を維持したのであった。しかし、その代わりジェノヴァへ向けての領土拡大策は再開、84年11月にはピエトラサントを、ついで8(94)7年6月にはサルヅァーナを占領する。一方、一門のジョヴァンニ・デ・メディチを、ジローラモ・リアーリオの未亡人で、フォルリおよびイモラの女領主であるカテリーナ・スフォルツァと結婚させた。この婚姻および1488年に引き受けたファエンツァ保護官の役割によって、ロレンツォは、シクストゥス4世の教皇在位意中重くのしかかっていた敵国――トスカーナとロマーニャの隣接地域でフィレンツェに敵対していた教会領国家――の脅威を、ようやく遠ざけることが出来たのである。