2009年4月5日日曜日

芸術家と著述家 (成育環境)

人材供給(65)  才能を発揮する機会が完全に保証されている条件の下では、文化的エリート、つまり創造的能力がその社会で認知されている人々はあらゆる点で人口中の偶然的なサンプルであるはずであるが、実際にはこうした事は生じなかった。 ……(70)イタリアの最も卓越した芸術家と著述家の何人かは別の意味で「他国人」であった。つまり彼らの重要な活躍の舞台となった都市以外の出身者であった。フィレンツェで活躍した人では、……レオナルド・ブルーニがアレッツォの出身、フィチーノがアルノ渓谷のフィリーネの出身、ダヴィンチがトスカーナの小村ヴィンチの出身、ポリツィアーノがモンテプルチャーノの出身であった。……彼らは他国人として地方的な文化伝統の圧力から自由であり、そのため伝統を革新しやすい立場にあったのであろう。…… (73)社会的な力が偉大な芸術家を生み出すことは無いにしても、社会的な障害が芸術家の産出を邪魔する事はありうる。もしそうだとすると、美術や音楽は、有能な男性や女性が抑圧を受ける度合いの少ない場所や時代に繁栄することになるだろう。イタリアを含む近世初期のヨーロッパでは、貴族と農民と言う二つの対極的な社会階級に属する有能な男性が、芸術家となる上でそれぞれ大きな障害に直面した。 最初の場合、両家出身の才能ある子供が画家や彫刻家になることは難しかった。彼等の親がこれらの手仕事を下等な職業とみなしたからである。ヴァザーリはその『美術家列伝』で、親が反対した話をいくつも伝えている。……もう一方の社会階級である農民の場合は、彼らの息子が美術家や著述家になることは難しかった。たとえそういう職業が存在する事を知っていたとしても、必要な修行の機会をつかむ事が容易で(74)はなかったためである。……(75)貴族や農民の子弟とは異なり、美術家の子弟はこうした親の反対や障害にぶつかることは無かった。……この時代に視覚芸術が繁栄するためには、職人達が集中して居住していること、言い換えれば都市的環境が不可欠であった。15-16世紀においてヨーロッパで最も高度に都市化された地域はイタリアとネーデルラント地方であり、実際この二つの地域から大多数の重要な美術家が輩出したのである。 美術家が育つのに最も好都合な環境は、ナポリやローマのように商業やサービス業が盛んな都市よりも、フィレンツェのような手工業生産の盛んな都市であったらしい。ヴェネツィア美術がフィレンツェ美術を追い抜くのは、ヴェネツィアが貿易から産業に転じた15世紀の末になってからのことであった。 文学や人文学、科学において貴族や専門職業人の子弟が優位だった理由を説明する事は、難しい事では無い。大学で教育を受けるには徒弟修業よりずっと高い費用が掛かった。職人の子が著述家や人文主義者や科学者になる事は、農民の子が美術家になるのと同じくらい難しかった。……(76)換言すれば、社会的な観点から見て創造的エリートは一つではなく二つのグループに分けられた。つまり、美術家グループは職人階層から人材を補給し、文学者グループは上層階級から人材を補給したのである。……しかしながら、美術における主要な革新的芸術家の出身階級は職人ではない。ブルネレスキ、マザッチョ、レオナルドは、いずれも公証人の息子であり、ミケランジェロは都市貴族の出身である。新しい潮流の創造に最も大きな貢献を為したのは、地元の職人的伝統とかかわりの薄かった、社会的及び地理的な意味でのアウトサイダーたちだったのである。
 職業的訓練 人材の供給と同様、職業的訓練も、美術家と著述家が二つの異なる文化、すなわち工房の文化と大学の文化に属していた事を示している。 ……圧倒的に多くの場合、画家や彫刻家は、他の職人達同様、徒弟見習いによって訓練を施された。15世紀初頭、チェンニーニは徒弟見習いの内容を次のように記している。  :まずはじめに、幼少のときの一年間は、練習板を用いての素描を勉強する。それから、工房で師匠のもとにすみこんで、我々の技に属する全ての仕事を覚えることになる。そこに住んで顔料を寝る事からはじめるのである。覚えるのは、膠を煮ること、石膏を練る事、絵板に石膏(78)下地を施し、盛り上げをし、下地を削って整えること、金箔を於て、それに良く磨きを掛けること、などであり、これらを修めるのに六年間を必要とする。さらに、実際に色を塗り、モルデンテ(接着剤)を用いて飾りをつけ、金襴の衣を描き、壁画の製作になれるのに、さらに六年間を必要とする。その間も素描の練習を絶やしてはならず、休みの日にも仕事の日にも、それを決して怠ってはならない。: 13年の修行期間と言うのはいかにも長いが、恐らくそれは理想案なのであろう。ヴェネツィアの画家組合の規約では、最小限5年間の徒弟修業が必要であり、その後二年間助手を務め、「親方資格作品」が合格すると親方になり、自分の工房を開く権利が得られた。いずれにせよ、画家は様々な素材(板、画布、羊皮紙、漆喰、布地、ガラス、鉄など)を用いて様々な種類の作品をこなす事を要求され、このため彼らが年若くして修行を始めたとしても驚くには当たらない。アンドレア・デル・サルトは七歳で徒弟見習いを始めた。……年少者の労働は近世初期のヨーロッパでは当たり前の事であった。当時の人々から見れば、ボッティチェリとレオナルドは修行を始めるのがやや遅かったと言える。というのも、ボッティチェリは13歳のときまだ読み書きの学校に通っており、レオナルドは14歳か15歳になって(79)ようやくヴェロッキオの工房に入門しているからである。美術家には長い間学校に通う時間が無く、彼等の多くは読み書きを殆ど習わなかったらしい。所謂「算盤学校」で教えられた算数は、商人になるための上級課程と見なされた。ブルネレスキ、ルカ・デッラ・ロッビア、ブラマンテ、レオナルドは、恐らくこの種の学校で学んだ例外的な美術家であった。 徒弟たちは一般に親方の広義の家族を形成した。ある場合には、親方に対して、食事、寝泊り、教育の費用が払われた。……しかし別の場合には、親方のほうが弟子に賃金を払っており、弟子の技量が高くなるほど賃金の額も上がった。ギルランダイオ工房とミケランジェロが交わした契約では、彼は最初の年に6フィオリーノ、二年目に8フィオリーノ、三年目に10フィオリーノを支払われることになっていた。 弟子達はしばしば彼らの師匠の名前を受け継いだが、この事は教えを受けた師匠の重要性を良く示している。……実際、師匠と弟子を代々つないで行けば、美術家の長い連鎖関係を作り上げる事が出来る。……(80)これらの画家達の間の個人様式の相違を見れば、フィレンツェの文化伝達の方式が因襲的な美術の生産とは無縁であった事が分かる。……幾つかの工房はこの時代の美術にとって中心的な重要性を持っていた。たとえば、ロレンツォ・ギベルティの工房からはドナテッロ、ミケロッツォ、ウッチェロ、アントニオ・ポッライウォーロ……、ヴェロッキオの工房にはレオナルド・ダ・ヴィンチをはじめボッティチーニ、ドメニコ・ギルランダイオ、ペルジーノが、……ラファエッロの工房[にはカラヴァッジョ]等の助手や弟子達が居た。画家の修行の中で重要な位置を占めていたのは、工房の素描コレクションの研究と模写であり、それは工房の様式を統一し、工房の伝統を保持するのに役立った。或る人文主義者は15世紀初頭の素描訓練の様子を伝えている。「師匠が弟子を教育するときには……師匠は弟子の模範として多く良質の素描や絵画を与えるのを常としている」。こうした素描は画家の財産の重要な部分をなし14(81)71年のフェッラーラのコスメ・トゥーラの場合のように、遺書に特別に書き留められた。これらの工房素描は、企業秘密と見なされていたために、近年発見されたギベルティ工房の素描帖のように、暗号による表題が付されていた。しかし様式における個人主義が次第に高く評価されるにつれて、工房素描の重要性は失われていったらしい。ヴァザーリが語る所では、ベッカフーミの師匠は、「素描の下手な画家が良くやる手で、自分が利用していた巨匠達の素描」を使って彼に教育を施したと言うが、この事は工房素描による教育が廃れ始めていた事を示唆している。人文主義者や科学者にとって徒弟修業に相当したのは大学教育であった。15世紀前半のイタリアには13の大学があった。ボローニャ、フェッラーラ、フィレンツェ、ナポリ、パドヴァ、パヴィア、ペルージャ、ピアチェンツァ、ピア、ローマ、サレルノ、シエナ、そしてトリノである。これらの大学のうち当時最も重要だったのはパドヴァ大学で、52人の創造的エリートがそこで学び、そのうち17人は1500年から1520年の間に学んでいる。パドヴァ大学は、この町を領土としていたヴェネツィア共和国の政府の支援を受けて発展を遂げた。ヴェネツィア政府は教授達の給料を増額し、ヴェネツィア市民に他の大学に行く事を禁じ、パドヴァ大学で学ぶ事を官職につく必要条件としたのである。首都の外に大学を持つ事は好都合であった。居住費は安く、学生がもたらす繁栄は服属都市の忠誠を保証した。パドヴァはまた他の地域からも学生を引き寄せた。52人の人文(82図版、83)主義者と著述家がこの大学で学んでいるが、その約半分はヴェネト地方以外の出身者である。自然科学(「自然哲学」と医学)を専攻する学生はとりわけパドヴァ大学にひきつけられた。創造的エリートに属する53人の「科学者」のうち、少なくとも18人がそこで学んでいる。 次に人気のあった大学はボローニャ大学で、26人の創造的エリートが学んでいる。イタリアの最古の大学であったボローニャ大学は、衰退の道をたどっていたが、15世紀には復興を遂げつつあった。次はフェッラーラ大学で、12人の創造的エリートが学んでいる。この大学は授業料が安い事で国際的に知られ、16世紀のあるドイツ人の学生は、フェッラーラ大学は「貧乏学生の避難所」miserorum refugiumとして知られている、と書いている。パヴィア大学(パドヴァ大学がヴェネツィア共和国に奉仕したように、ミラノ公国に奉仕した)、ピサ大学(フィレンツェ共和国に奉仕)、シエナ大学、ペルージャ大学、ローマ大学からは、それぞれ約六人の創造的エリートが輩出している。…… 学生達は現在よりも若いときから大学に通った。歴史家フランチェスコ・グィッチャルディーニはその典型的な例で、16歳でフェララ大学に入っている。学生達は「学芸」artes、即ち自由7科から学び始めた。これは基礎的な3科trivium(文法、論理学、修辞学)と、いっそう進んだ4科quadrium(算術、幾何学、音楽、天文学)に分けられ、最後に上級の三つの学科(神学、法学、医学)のいずれかに進んだ。カリキュラムは伝統的な中世のそれで、表向きはこの時代を通(84)じて何の変化も無かった。しかしながら、大学で実際に教えられていた事は(研究されていたとはいわないが)、カリキュラムで謳われていたこととは必ずしも一致していなかった。学生の筆記ノートに基づく16-17世紀のイギリスの大学に関する近年の教育によれば、歴史を含む数多くの新しい学科目が非公式に導入されていた事が分かる。イタリアの大学に関する同種の研究はまだ行われていないが、恐らく歴史、詩学、道徳学(自由七科に含まれて居なかった三つの「人文学科」)は少なくとも実際には4日のいずれとも同様の重要性を持っていたと想像される。 或る意味で、大学の学生は工房の徒弟に似ていた。学生が「教授資格学士」になるのに必要な学位論文は、工房職人の「親方資格作品」に相当した。学士は自分の専門学科を教える権利を得たが、これは自分の工房を解説する事と似ている。しかしながら、授業も学習も、口頭であれ筆記であれ、特権的な学者世界のシンボルであるラテン語で行われた「狼」lupiと呼ばれたスパイが居て、学生達が彼等同士の間でもラテン語で話しているかどうかを監視しており、規則に違反したものには罰金が課せられた。工房の徒弟と大学の学生のもう一つの大きな相違は修行の経費である。15世紀はじめのトスカーナでは、一人の少年を家から離れて大学で学ばせるには年間約20フィオリーノが必要とされ、これは二人の使用人を雇える額に相当した。それに加えて、新しい学位取得者は同僚達のために豪勢な宴席を設けなければならなかった。1505年にグィッチャルディーニがピサ大学でローマ法の学位をとった際には26フィオリーノの費用が掛かった。「貧乏学生の避(85)難所」と言われたフェララ大学の場合も、実際には大金持ちで無い者もいけたという程度の事に過ぎない。 建築家と作曲家は他とは区別して考える必要がある。建築は一つの独立した分野とは見なされていなかったため(石工から峻別された)建築家の組合も、徒弟修業のシステムも無かった。したがって、この時代の建築の設計者は別の分野で訓練をつむと言う興味深い共通の特徴を持っていた。例えば、ブルネレスキは金銀細工師として修行し、ミケロッツォとパッラーディオは彫刻家或いは石工として、アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ヴェッキオは木工師として修行を積んだ。一方、レオン・バッティスタ・アルベルティは大学で学んだ人文主義者であった。しかし、定まった形ではなくとも訓練を積む機会は存在した。…… 作曲家達は演奏家として訓練を受けた。彼等の多くは故国のネーデルラントの合唱学校で学んでいる。例えば、ジョスカン・デ・プレはシント・クエンティン聖堂の聖歌隊の少年であった。……音楽(音楽の理論を意味する)は大学で学ぶ自由7科の一つであり、創造的エリートの中(86 図版、87)の何人かの作曲家は学位を持っていた。ギヨーム・デュファイは教会法の学士であり、ヨハンネス・デ・ティンクトリスは教会法と神学の博士であった。作曲には定まった訓練の方法は無かったが、しかしネーデルラントにおけるヨハネス・オケヘムのサークルはギベルティやブラマンテの工房と似通っていた。……以上のことを要約すると、この当時のイタリアには二つの文化と二つの専門的訓練の方式があった。即ち職人文化と知的文化、イタリア語の文化とラテン語の文化、工房に基礎を置いた文化と大学に基礎を置いた文化である。建築と音楽の場合でも、ここの人間がどちらの階梯を登って一人前になったのかを特定することは難しくない。 この二重のシステムはルネサンスを研究する歴史家にいくつかの問題を提起する。若し美術家が年若いときから工房に入っていたとしたら、彼らはどのようにして、その絵画や彫刻や建築に表れて(88)いる古典古代の知識を獲得したのだろうか。有名なルネサンスの「万能人」は19世紀の歴史家の創造の産物に過ぎないのだろうか。 当時の芸術論の執筆者は美術家の高度な教育の重要性を良く自覚していた。たとえば、ギベルティは画家や彫刻家に、文法、幾何学、算術、天文学、哲学、歴史、医学、解剖、遠近法、そして「素描理論」を研究するよう要求している。アルベルティは画家に自由七科(とりわけ幾何学)と人文学(とりわけ修辞学、詩学、歴史)を学ぶよう求めている。ギリシア語の名前フィラレーテ(徳を愛するもの)を名乗った建築家アントニオ・アヴェルリーノは、建築家に音楽と天文学を学ぶよう求めている。(89)「なぜなら彼が建物の建造を始めるとき、それが良き運星と星位の下で始められるべき事を知っていなければならないからである。また彼が音楽を必要とするのは各部材を建物の諸部分と如何に調和させるかを知るためである」。彫刻論を書いた彫刻家ポンポニオ・ガウリコによれば、理想的な彫刻家は「学識があり」literatus、算術、音楽、幾何学に精通していなければならなかった。現実の美術かはこの理想に忠実だったのだろうか。一般に考えられているのは、読み書き算術の勉強を早々と切り上げて工房に入った美術家のために「アカデミア」と呼ばれた団体が作られたことである(これはアテナイのプラトンのアカデミアにさかのぼる人文主義者達の集まりをモデルにしていた)。フィレンツェでは彫刻家のベルトルドを中心に,ミラノではダヴィンチの周辺に、ローマではフィレンツェの彫刻家バッチョ・バンディネッリの仲間達の間で,こうした集まりが形成された。しかし1563年にフィレンツェでアカデミア・デル・ディセーニョが創設されるまで、この種の団体において正式な美術家の教育が行われていた確かな証拠は無い。このアカデミア・デル・ディセーニョが、17世紀のフランスや18世紀のイギリスその他で創設されるアカデミア組織のモデルとなるのである。 しかしながら、ルネサンスの美術家の工房が文学や人文主義の教養に欠けていたと考えるべきではないだろう。ブルネレスキは「聖書に通暁し」「ダンテの作品を熟読していた」と伝えられる。何人かの美術家は蔵書を持っていた事が知られる。……(90)この種の蔵書を所有していた美術家は、美術に限らず、あきらかに古典古代に関心を寄せており、この種の関心は財産目録からも窺うことが出来る。シエナの画家ネロッチョ・デ・ランディは1500年に死亡した際、数点の古代の大理石彫刻と43点の古代作品の断片の石膏型を所有していた。 [聖書やヒエロニムス伝、聖母マリアの奇跡譚のような宗教書を所有していた彫刻家]ベネデットとジュリアーノ・ダ・マイアーノ兄弟の蔵書から目だって欠落していたのは古代の神話である。そこにはオウィディウスの『変身物語』metamorphosesの写本もボッカチオの『神々の系譜』の写本も見当たらない。マイアーノ兄弟と同じような蔵書を持っていた美術家は、ある種のパトロンが要求した神話画よりも宗教的な絵や彫刻を得意としたことだろう。一方、マイアーノ兄弟と同じ世代で、同じ都市と社会層の出身であったボッティチェリの場合、彼らとは全く異なる本のコレクションを所有していたであろうか。若しそうでないとしたら『ヴィーナスの誕生』や『春』のような神話画の制作においてはパトロンや助言者の役割が決定的に重要であったと思われるし、また彼らとの会話が画家の教育に重要な役割を果たしたものと思われる。 (91)マイアーノ兄弟の蔵書数のつつましさは当時の状況の中で考える必要がある。1498年には、イタリアで印刷術が開始されて1世代ほどしか経っていなかった。15世紀のはじめには美術かが20冊もの写本を所有することなどとても考えられなかった。しかし16世紀にはもっと多くの蔵書も珍しくなくなる。「無学の人」omo sanza lettereを自認したダ・ヴィンチは、1503年ごろ、116冊の本を所有しており、その中には三冊のラテン語文法書、教父(アウグスティヌス、アンブロシウス)の書、イタリアの当世文学、解剖学、天文学、宇宙地誌、数学の本が含まれている。 レオナルドを典型的な例と見なすのはばかげているが、16世紀の美術家の文学的教養についてはかなり豊富な証拠が存在する。彼らの筆跡の研究はある種の手がかりを提供してくれるだろう。15世紀には美術家は商人の書体で書く傾向を持っていた。これは恐らくそろばんの学校で習ったスタイルである。しかし16世紀になると、ラファエロやミケランジェロなどは新しいイタリック体で書いている。彼らの何人かは文法学校に通った事が知られている。[或る者は]ラテン語ばかりで無くギリシア語も知っていた。何人かの美術家は著述家としても評判を得た。……芸術論、……チェリーニとバンディネッリは自伝を(92)書き、ヴァザーリは彼自身の絵画、彫刻、建築によってよりも『美術家列伝』によって有名である。ヴァザーリの場合には、強力なパトロンとの幸運な出会いによって、二重の教育―――ピエリオ・ヴァレリアーノによる人文主義の訓練とアンドレア・デル・サルトのサークルにおける芸術的訓練―――を受ける事が出来、二つの教養を結びつける事が出来た事を付言しておくべきだろう。 これらの例は印象的ではあるが、卓越した美術家の全てが文学的教養を持っていたわけではないことも強調されなければならない。……いずれにせよ、これらの美術家をルネサンスの「万能人」に加えることはできない。万能人とは事実であったのか、それとも虚構であったのか。万能の理念はなるほどこの時代特有のものであった。15世紀のフィレンツェの人文主義者マッテオ・パルミエーリの『市民生活について』Della vita civileに登場する対話者は「人間は多くの事を学ぶ事が出来、多くの技芸に秀でる事によって万能になる事が出来る」farsi universale di piu arti excellentiと述べている。別のフィレンツェの人文主義者アンジェロ・ポリツィアーノは、知識の全体性に関する小論『パネピステモン』において、絵画、彫刻、建築、音楽に正当な位置づけを与えている。万能人の理念を展開した最も有名な書物はバルダッサーレ・カスティリオーネ伯爵の『宮廷人』il corteggiano(1528)で、その中で会話者達は、完全なる宮廷人とは、戦闘、舞踊、絵画、歌唱、作詞に長じ、君主の良き相談相手でなくてはならない、と主張している。こうした理論は実践となんらかの関係を持っていたのだろうか。(93)アルベルティ(人文主義者、建築家、数学者であり、運動競技者でもあった)やレオナルド、ミケランジェロは万能人が実際に存在していたことの輝かしい証拠であり、他にもブルネレスキやギベルティ、ヴァザーリなど、15人のエリートが三つ以上の芸術を実践した。人文主義者のパオロ・ダル・ポッツォ・トスカネッリ(アルベルティとブルネレスキの友人)も、数学、地理、天文学など多くの研究に携わっており、万能人の仲間に加える事が出来るだろう。 これらの18人の万能人の約半分はトスカーナ人であった。その約半分の父親は貴族や専門的職業人や商人であり、彼らのうち15人以上は建築家であった。建築は万能人をひきつけ、また彼らを作り出しもした。このことは驚くに当たらない。と言うのも、建築は科学(建築家は力学の法則を知る必要があった)と彫刻(建築は石材によって造られた)と人文主義(建築家は古代建築の構成要素vocabularyに通じている必要があった)を結びつける架け橋であったからである。アルベルティを別にすると、これらの多能な人間は、才能豊かなアマチュアよりも、専門的に分化していない職人の伝統を引いていた。万能人の理論と実践は、実際には余り接点を持っていなかったらしい。万能人の中でも最も偉大なミケランジェロは万能性を信じていなかった。システィーナ礼拝堂の天井画を製作中に、彼は父親に宛てて絵画は「自分の本職ではない」non esser mia professioneと愚痴をこぼしている。彼は、自分は彫刻家であると絶えず抗議しながら、絵画や建築や誌の傑作を生み出したのである。(93)
  (ピーター・バーク著 森田義之・柴野均訳『イタリア・ルネサンスの文化と社会』、岩波書店・2000年)