2009年4月5日日曜日

Marsilio Ficino Nr.2

 「永遠の泉」 フィチーノと中世思想―――ザノービ・アッチャイウォーリの証言 フィチーノが異郷古代への深い親近感を抱きながらも、紛れもない新のキリスト教徒である事がもはや問題でなくなると、次の段階ではフィチーノと中世思想、とりわけと増す・アクイナスの思想との関連性が研究の主たる関心事となった。これについても同時代の資料が有力な情報源となった。それは、アッチャイウォーリ(196)なる人物が自ら訳した書物に添えた、ローマ教皇レオ10世(ロレンツォ・デ・メディチの次男)あての献呈文の一節である。……   :貴下の曽祖父(コジモ・デ・メディチ)の鷹揚さに励まされて、われらの世の人のためプラトンとプロティノスをラテン語にしたマルシリオ・フィチーノは、子供の頃以来、何物にも増して愛をささげてきたプラトンを読んで有害な邪説に導かれなかったのは、フィレンツェ大司教アントニヌスの先見性に負っていたと、話の合間にしばしば私に語ってくれました。というのも、その立派な司牧者は、自分の若い神学生がプラトンの雄弁に過度に囚われるのを見たとき、彼にはいわば解毒剤となる、神のごときトマス・アクイナスの『対異教徒大全』4巻を彼に備えないうちは、その哲学者の読書に向かうことを許さなかったからです。; 文中のアントニヌス(1389-1459)がドミニコ会入会を決意したのは、同会士G.ドミーニチの説教に影響されたためだった。ドミーニチは異教文化の広がりに警告を鳴らす『土蛍』の作者として名高い。その後、アントニヌスはローマ(197)教会の改革に腐心する神学者となる一方、フィレンツェ大司教にのぼりつめた。ルネサンス時代のフィレンツェ社会生活上の大建物であり、ロレンツォの祖父コジモ・デ・メディチとは同年の生まれであった。この大銀行家の援助を受けて、同会のサン・マルコ修道院は改築され、同院蔵書室にはニッコロ・ニッコリ収集の古典籍が遺贈される。 このドミニコ会聖職者とフィチーノの関係についてデッラ・トッレの言うところでは、1456年にフィチーノにギリシア語と哲学の研究を中断してフィレンツェ大学を去り、この都市から離れるよう説得した。さらに2年後、今度は父親に子が医学を修めるため(198)にボローニャ大学に残るよう忠告した。この推測はコルシの『フィチーノ伝』と、引用したばかりのアッチャイウォーリの献辞とに基づいていた。彼らの関係を支える傍証はないものの、フィチーノがトマスの『対異教徒大全』を熟知していたことは研究者間で確かめられている。その一人G.アニキーニは、フィチーノとトマス主義の関連を考察した研究書中の補遺に於て、『対異教徒大全』の一文とフィチーノの『プラトン神学』や『キリスト教論』などの一説との類似を明示した。ただ、アニキーニもデッラ・トッレに影響されて、本文中で以下のように記している。「プラトンへの情熱はアルギュロプロスがフィレンツェに教えに来た1457年に高まった.聖アントニヌスの行動が効果的に介入したのはこのときだった。最初はフィチーノに新プラトン学派の誤りを正す救済手段として、トマスの『対異教徒大全』 の読書を示唆した。フィチーノ自身が後にアッチャイウォーリに「有害な邪説」に落ち込むのを防いでくれたのは、アントニヌスの先見の明によってなされた、まさにこの書の読破であったと語るであろう。これだけでは十分とは思われなったので、大司教の聖人は再び、アルギュロプロスが万人の賞賛のうちにプラトンに組して、その作品を解説していたフィレンツェから、フィチーノを遠ざけてボローニャに送り、そこでアリストテレス哲学を学ぶように、その父親を通してとりなした。フィチーノの伝記作者(コルシを指す)の言うところでは、「長い間、生来的にそして気持ち的に嫌がっていたアリストテレス学派の哲学者に(199)打ち込むために」(であった)。1459年にアントニヌスがなくなった。マルシリオには、コジモ・デ・メディチから及ぼされる影響によって特徴付けられる人生の新局面が始まる。それは全くアントニヌスの影響と相反していた。」  アントニヌスと古典的理念の形成 このように、アントニヌスはフィレンツェの新たな哲学文化、プラトン哲学に対し理解を示さなかったと見られた。熱心なアリストテレス支持者であったこの聖職者は、他のスコラ学者同様にアリストテレスを頻繁に援用した。アリストテレスに同意できない場合でも、プラトンに対してよりもアリストテレスに対してのほうがより寛大であった。プラトンの名はあまりにも、真の異教哲学者でフィレンツェにやってきた、ビザンティンのゲミストス・プレトンと密着していたからである。デッラ・トッレは一段とアントニヌスの古典的文化全般に対する批判的立場を強調した。師ドミーニ(200)チ同様、異教文化の過度の流入を恐れていた愛弟子は、異教の哲学者あるいは詩人の教えはしょせん救済には役立たないと警告した。デッラ・トッレの言うところによればこのような文化状況の中で、「アントニヌスがなくなるとき―――1459年5月―――まで、彼の神学生だったフィチーノは自由にプラトンおよび異教哲学全般に身を入れる事が出来なかった」。 アッチャイウォーリは同一教団に属するものとして、異教思想に批判的な一面を持つ神学者アントニヌスをその著書の中に読み取っても居たであろう。著書『聖なる神学大全』によれば、異教古代の哲学者や詩人の著作にキリスト教の奥義を探ることは決して正しい方法ではなかった。したがってヘルメス・トリスメギストスの言の中に、三位一体の神秘が語られていると解釈したり、またウェルギリウスの有名な詩の一節に受肉の神秘を求めたりするのは誤謬である。 これに対し、アントニヌス研究で定評を得ることになる書を残したR.モルセは、デッラ・トッレと異なってアントニヌスが時代の思想や芸術と敵対していないと叙述した。なるほど、アントニヌスが時代を同じくするカマルドリ会士で高名な人文主義者のアンブロージョ・トラヴェルサーリのように、異教の古典復興に大々的に貢献しなかったことについては議論の余地が無い。またアントニヌス自身が人文主義文化に大いに影響された人物と解釈することも難しいであろう。だが、この文化に無理解なわからずやで(201)は決してなかった。この神学者はポッジョ・ブラッチョリーニ、カルロ・マルスッピーニ、ドナート・アッチャイウォーリ、教皇ニコラウス5世、ピウス2世らの文化人との交際をいといはしなかった。 また、モルセは献詞で言われた師弟関係の正否についてはラファエッロの『アテナイの学堂』を思い起こして、画中で現実世界を指し示すアリストテレスにアントニヌスをたくみになぞらえ、次のように書いている「アントニヌスのしぐさはアリストテレスのそれだった。あまりにもプラトン的夢想にとらわれすぎた弟子に『対異教徒大全』を開くことで、アッチャイウォーリの言に拠れば、師匠はまず誤った邪説を防ぐものを彼に与えた。またスコラ学者たちの実証主義に彼を触れさせることで現実を見るように強いた」。モルセはさらにその証言に伴う困難さを続けて指摘する。「もしもマルシリオ・フィチーノ自身が、一人の人間の思想が決定的に形成されるときに、大司教の聖人によりフィチーノのためにとられた決定が思想家の全生涯に永続的な反響を及ぼしたことを認めているのなら、我々は不承不承彼の証言を疑うことになろうし、またそれに、も(202)しも間接的ながら、古典的理念の形成に貢献した人物の中にアントニヌスを加えなければ、我々は間違っていることになろう」。ここで言われている古典的理念の形成とは、フィチーノの美と愛に関する論考が文学や美術の発展に寄与した事実をさす。
 ルネサンス・フィレンツェの中心的哲学者 ところでアッチャイウォーリが伝えるアントニヌスとフィチーノへの直接的関係を断固として否定したのはP.O.クリステラーであり、彼に言わせると「アントニヌスの神学生」clericus suusであった証拠も無かった。これに対し、近年、影響関係を重視する立場でフィチーノの伝記をかいたのはR.マルセルであった。マルセルは言う「確かに、彼がプラトンのところに来たのはアウグスティヌスを介してであるから、『対異教徒大全』を読まずとも異端を避けえたであろう。だが、情熱に助長されたから、彼の歩みはより不確実になっていたろうし、『プラトン神学』からトマスに負っている物全てが取り除かれることになるなら、その価値は危険にさらされるだろうし、それだけでなく同時にそのカトリック信仰の正統性も危うくなっているだろう。アントニヌスは若いフィチーノの『プラトン学説教程』を読んで危険を予測していたのか。今後はこれを疑うことは難しいように思われるな。なぜなら、事実が存在しているし、『対異教徒大全』が、プラトンの新後継者をその原文の誘惑と<神的熱狂>の錯乱から守るために、(203)実際に解毒剤の役割を果たした事は確かだからである。」 最近では、J.ハンキンズがアッチャイウォーリの発言を軽視するクリステラーの態度に疑問を呈した。ハンキンズはアントニヌスを取り巻く人物たち、バルトロメオ・スカーラやアントニオ・デッリ・アッリらが行った若いフィチーノの思想的傾向に対する警戒的発言、さらにはフィチーノ自身の書簡などから、アントニヌスによる配慮の可能性は高いものと受け取っている。またclericus suusという表現が当時の「大学生」にも用いられていた事実を指摘する。アントニヌスはフィレンツェ大学の教導職にあり、彼の秘書フランチェスコ・ダ・カスティリオーネはフィチーノのギリシア語教授でもあった。 このように諸説紛々の中で、最後にアッチャイウォーリの発言の真意が何処にあったかを探り、証言が飛び出した時代の思潮を確認しておきたい。なお、アッチャイウォーリから献呈されたレオ10世当人はフィチーノを良く知っていたから、教皇に向かって嘘を告げているとは思えないし、彼自身フィチーノをじかに知っていた可能性も十(204)分にある。アントニヌスの死去後2年目に、フィレンツェの有力家門アッチャイウォーリ家に生まれたザノービは、傑出した人文主義者ポリツィアーノの弟子であり、恵まれた人文主義教育を受けて育った。1495年にサヴォナローラからドミニコ会の修道衣を授けられ、同教団の修道士になった。16世紀に入ると、まずギリシア語に堪能な彼はエウセビオスの一作品『ヒエロクレス駁論』を訳し、これにピロストラトスの有名な『テュアナのアポロニオス伝』を添えて一本とした。この伝の翻訳者はアラマンノ・リヌッチーニであり、合本を印刷公刊したのは、アルド・マヌツィオであった。エウセビオスは、新ピュタゴラス学派の魔術師アポロニオスを大胆にもキリストと比較したヒエロクレスを論駁していた。 1519年にはザノービは教父時代の別の反異教作品を訳し、時の教皇であり親しかったレオ10世に捧げた。それはシリアのキュロス主教テオドレトスの著名な論文『ギリシア人の病弊の癒し』で、先の献呈文は実はこの訳につけられたものである。翻訳の意図は何処にあったのか。これを書いたテオドレトスはアンティオケイア学派の神学者で、アレクサンドレイアのキュリロスとの論争がこの作品の生まれる契機となった。キュリロスはテオドレトス同様に異教徒と論戦し、またアレイオス派やネストリオス派に対して、正統的キリスト教の立場を鮮明にしようと務めた神学者であった。ところが背教者と称される皇帝ユリアヌスに対する論文の中で、その同じキュリロスが悦に行っ(205)て、トリスメギストス、ピュタゴラス、プラトン、そしてプロティノスといった異教の著作家を引用するという矛盾に陥る。これに対して、テオドレトスはキュリロスと異なり、どちらかと言えばプラトンよりもアリストテレスに信頼を置いた。また、自身プラトンを引用していないわけではないが、アレクサンドレイアのクレメンスやエウセビオスに依拠しながら、ギリシア哲学に距離を設けてこれを眺めやった。哲学と神学の問題にはキリスト教徒の答えを用意し、真実は信仰の中にのみあるとした。テオドレトスによれば、素朴な人の良識は哲学者たちの英知に勝り、羊飼いや農夫はプラトンよりも人間の本性について多くのことを知っていた。 このような背景が分かってくると、5世紀から16世紀へ千年以上の時空を隔てて、何故にテオドレトスの論文が翻訳に値するように思われたかが明瞭となる。アリストテレス哲学の信奉に熱心な一族―――アルギュロプロスの弟子ドナート・アッチャイウォーリを想起すれば十分であろう―――の出であり、またドミニコ会士としてアリストテレスの重要性―――同会士のトマスを想起するだけで十分であろう―――をわきまえて(206)いるアッチャイウォーリは、同献辞の中で、六年前に出たアルドゥス版のプラトン全訳にも言及している。この事はプラトン哲学は特に雄弁であるものの、多くの点でその権威と教説は常にキリスト教会に危険であった以上、テオドレトスを翻訳出版する事がそれの防止上からも時宜にかなっていると判断したことを意味している。 ルネサンス・フィレンツェは特に15世紀後半以降、純然たる異教時代よりも、キリスト教と異教徒が交錯しあった古代ローマ帝政期にはるかに魅了されたように映ずる。アッチャイウォーリの翻訳活動はそれを証しているし、彼の時代に神学者でフィレンツェ大聖堂の賛辞会員フィチーノがその中心的哲学者としていたのである。
 プラトン的理性の意義 神学と哲学、キリスト教信仰と異教思想の相克は、特に帝国末期のアウグスティヌスの大著『神の国』に歴然と現出している。また信仰と思想の関係を考えるとき、フィチーノにはアウグスティヌスの生き方と著述はずいぶんと参考になったであろう。『告白』はフィチーノの全生涯に渡る愛読書であり、神をあがめ、真理を探究する上で不可欠の導きの書であった。また、彼に寄せる絶大の信頼はプラトンへの道を容易にまた平らかにした。『プラトン神学』序で、フィチーノはロレンツォ・デ・メディチに、アウグスティヌスの言うところに拠れば、プラトンはキリスト教の真理に最も近接し、いく(207)ばくかの変更でプラトン主義者はキリスト教徒になるだろう、と述べている。フィチーノはプラトン主義の歴史におけるラテン文献上の重要思想家の一人に彼を数え、キリスト教的プラトン主義を築く際の基盤とした。 フィチーノの著作に表れるアウグスティヌスの作品は数知れず、時には長い引用が続く事がある。『プラトン神学』第5巻第15章「理性的霊魂の生は肉体に優る」は『魂の不滅』に大いに依拠する。第12巻第5,6,7章はアウグスティヌスなしには成立しない章である。ここには『神の国』、『真の宗教について』、『三位一体論』、『自由意志論』『音楽論』『魂の不滅』などからの引用が見られる。これらの作品は有名なものであるが、比較的知られていない論文に依拠している場合もある。例えば『死者に対する心遣い』『魂とその起源について』などである。(208)フィチーノにおけるこの聖人とプラトンの関係を考える意味で興味深いのは、フィチーノの『プラトン伝』中の「プラトンが断言したことと彼の言を確認した人々」の節である。プラトンが神は全ての人に備えていること、人間の霊魂が不死である事、よき事柄には報いが、邪悪には罰があることを主張しているとした上で次のように言う。「アウグスティヌスは『アカデミア派駁論』で、キリストの権威は全てに先んじておかれなければならないが、しかし理性で事がなされなければならないなら、プラトン主義者のところに自らが居ると述べている。そしてこのことはキリスト教徒の神聖なる書に矛盾していない、と」。フィチーノはこの後ディオニュシオス・アレオパギテス、エウセビオス、アレクサンドレイアのキュリロスがこれを証しているとして、また言う。「それゆえアウグスティヌスは『真の宗教について』で、いくばくかの変更でプラトン主義者はキリスト教徒になるだろうと述べている。且つ又『告白』で、プラトン主義者のところに福音書記者ヨハネのはじめの言葉が殆ど完全に見出されると、語っている」フィチーノはさらに、『神の国』第2巻ではプラトンが神々の中に数えられるべき傑出した存在である、と言う話を引く。節の末尾では、プラトンの予言的発言を取り上げて、プラトンとキリストの関係に言い及ぶ。秀でた人でありながらも謙虚さを失わないプラトンは、自分の説が真理の泉を掘り起こす、より聖なる何物か―――この方に皆が従うことになる―――が表れるまでのもの、と言ったと記す。ジョヴ(209)ァンニ・ピコ・デッラ・ミランドラ宛のフィチーノ書簡の題名に、この間の消息は明らかであろう。「アウグスティヌスに起こったように、哲学的天才はプラトンを介してキリストに到達する」。
 プラトンを近代思想の展開に結合 フィチーノはハンガリーの一文学者宛の書簡に記している。理性を信頼する英才は哲学的魅力によってのみ完璧な宗教へ導かれるのであって、宗教哲学こそがその人をひきつけてやまない。それは、ゾロアスターやヘルメス・トリスメギストスからプラトンに至る古代神学者たちにより伝えられている「敬虔な哲学」pia philolophiaである。彼らは哲学者であると同時に祭司でもあったから、宗教哲学者でもあった。詩人たちが宗教の事実と神秘とを寓話に取り入れたり、哲学者たちがこの共通の宗教、古代神学を老婆たちのように迷信として扱ったりしないように、古の人を訳してこの神学を光に戻した。ところが、現状は、アレクサンドレイア学派とアヴェロエス学派の二派からなる逍遥学派が哲学世界を制し、前者は我々の知性が死すべきものとみなし、後者はそ(210)れが単一であると主張する。両者は全宗教を根底から無効にする。それゆえ、この神学の有する哲学的理性が、少なくとも目下の所は奇跡に代わって聖なる宗教を忌むべき無知から救い出し、真の哲学は不敬虔とは無縁であることを教えてくれよう。 『プラトン神学』第12巻第1章も、フィチーノのこの認識を理解する上で役立つ。『キリスト教論』では信仰と知識が分離し、宗教が不敬虔によって汚されているのが現状だと把握する。 古代神学とはプラトン主義の伝統であり、その頂点にプラトンが居た。先の『プラトン伝』でも言われているように、このギリシアの哲学者は哲学的理性を表していて、信仰に合理性と確信性を求めようとする理知的な人達の力強い支援者となる。この観点を先述のアウグスティヌスの権威が激励し、強化した。プラトン的理性という成句は、1482年に公刊された『プラトン神学』所にも、また1490年代初めの先のピコ宛書簡にも見出される。そしてその意味は明確である。信仰に関して理性に重要な役割と機能を認めている点で合理主義的であり、その宗教は学識、教養ある宗教docta religioとも呼ばれえよう。他方、哲学礼賛は宗教の否定でも優劣の問題でもない。そうではなくて「哲学と宗教は姉妹であり」互いに類似し、共に必要とし合っている。プラトンの学説はモーセのそれに似ているし(「モーセとプラトンの一致」)、ソクラテスの生はキリストのそれに似ている(「ソクラテスによるキリスト教確認」)。これは、かたや(211)前2世紀のヌメニオスの言「プラトンはアッティカ・ギリシア語を話すモーセ以外の何であろう」を、かたやエラスムスの言「聖ソクラテスよ、われらのために祈れ」を思い起こさせる。ヌメニオスの句は『プラトン神学』でも『キリスト教論』でも引用されていて、フィチーノの愛用句であった。もはやダンテのようにプラトンを異教徒のゆえに辺獄(リンボ)に置くわけには行かない。もはやペトラルカのようにキケロの生のめぐり合わせを悲嘆するときではない。「……私はしばしば彼の運命を哀れみ、この男が真の神を知らなかったことをひそやかにも痛々しく嘆く。彼はキリスト到来の数年前に死んだのだ。ああ、虚偽の夜と闇の終焉、真理の開始、真の諸侯とも構成の太陽が眼前にあるそのときに、死により彼の目は閉じられた」。このペトラルカの論法で行くなら、プラトンはさらに深い暗黒のうちに亡くなった事になる。 フィチーノの影響は哲学と宗教の双方に及んだ。真理はプラトン主義という「永遠の泉」fons perennisに由来するとの考えは、ステウコとライプニッツの「永遠の哲学」phiolosophia perennisという名高い言葉に至る。プラトン思想を近代思想の展開に結合(212)させたフィチーノの役割は大きい。また本論では序所津で着なかったが、信仰の発露を自然的・本性的とするフィチーノの基本思考は自然宗教観をはぐくみ、寛容思想の発展に寄与した。『プラトン神学』や『キリスト教論』はそのような思惟をも含んでいる。……こうしたフィチーノは、過去の壮大な知的遺産から養分を摂取しながら、自分の時代、ルネサンスに新たな思想をはぐくみ、構成に実りをもたらす種子を残したのである。(212)
(伊藤博明編『哲学の歴史 第4巻 ルネサンス 15-16世紀』、中央公論社・2007年)