2009年4月7日火曜日

Cusanus und Ficinos Akademia

第2章:クザーヌスとイタリア。2.1.(クザーヌスの体系の精神史的意味。世俗的知識の理想。比例の概念。「神の書物」としての自然。数学の尺度。数学的知識と技術的知識。)2.2.フィレンツェのプラトン・アカデミー。フィチーノ学説の歴史的位置と根本性格。フィレンツェ・プラトン主義における美学的モチーフ。クザーヌスとフィチーノにおける自由概念。世界及び人間の「改革」。人間精神の無限性。クザーヌスとフィチーノにおけるキリスト=理念)。第3章:ルネサンス哲学における自由と必然。3.1.(フォルトゥナ=象徴の変遷。ルネサンス文芸におけるフォルトゥナ=問題。ロレンツォ・ヴァッラ。ヴァッラの著作『自由意志について』。ポンポナツィにおける自由意志と必然性。「人間の尊厳」に関するピコの弁明。ピコにおける人間性の理念。カロルス・ボヴィルス(シャルル・ドゥ・ブィーユ)。ボヴィルスにおける存在と自己意識。「自然」の人間と「技術Kunst」の人間。プロメテウス=モチーフ。ルネサンスにおけるプロメテウス=モチーフの変遷。人間性と自律性。)3.2.(中世およびルネサンスにおける占星術。近代的自然概念の成立に対する占星術の意義。ポンポナッツィによる奇跡の占星術的批判。「占星術的因果性」の基本的性格。占星術的歴史哲学。「神々の変容」。小宇宙=モチーフーーーパラケルスス。フィチーノにおける占星術の地位。ピコによる占星術批判。因果概念の改造。天才の概念。占星術に対するケプラーの態度。ブルーノと『驕れる野獣の追放』)。第4章:ルネサンス哲学における「主観」・「客観」問題。4.1.(ギリシャ哲学における霊魂と自我意識。プラトン及びアリストテレスの霊魂概念。アヴェロエス主義。ペトラルカとクザーヌスにおけるアヴェロエス主義との戦い。フィチーノにおけるエロス説。エロス説の宗教哲学的意義。エロス説の認識論及び美学に対する影響。霊魂不滅説に対するポンポナッツィの批判。アヴェロエス主義及びスコラ心理学との対立。個体性問題の唯心論的把握と自然主義的把握。)4.2.(新しい自然感情――ペトラルカ。「自然の発見」の方法。テレジオの自然哲学とその認識論的基礎。経験的魔術的世界観。ルネサンスの自然観における魔術の地位。「自然的魔術」。レオナルドの真理概念。レオナルドによる「自然の必然性」概念。レオナルドの自然観察における理論的なモメントと美学的なモメント。形式の問題。自然と天才。新しい「自然の真理」の概念。数学と芸術理論。プラトン、レオナルド、ガリレイ。神秘的=魔術的自然観の克服。感覚についての新しい位置づけ。「純粋」数学と「応用」数学。)4.3.(アリストテレス自然学の諸前提。場所と運動の相対性の発見。クザーヌスにおける運動の相対性の原理。集合=空間から体系=空間への移行。幾何学的基本概念としての運動。デカルトとフェルマにおける座標概念。ジョルダーノ・ブルーノにおける空間、力、生)(93)フィレンツェのプラトン・アカデミー 数学者としてのクザーヌスは、ただちに自分の周りに一群の学徒たちを集めて堅固なサークルを作り上げている。ドイツ人のポイルバッハやレギイオモンタンだけでなく、イタリアの大多数の数学者もまたこのサークルに属していたのである。当時のイタリアには、数学の分野で問題設定の独創性と深さにおいてクザーヌスに匹敵するだけの、真に指導的な精神、思想家が見当たらなかったのである。M.カントールは、15世紀の数学の叙述において次のような判断を下している。――「発明家の刻印を帯びた天才的な頭脳として際立った存在はたった一人、クザーヌスのみである。彼の発明の欠点となったのは恐らく、彼が専門の学者と言うわけではなかった事、何よりもまず専門の数学者である事が許されなかった事に依っている」。 これに対して時代の哲学は、過去に根を持っていたにせよ、それ自身、固有の独特の問題に富んでいた。進歩しつつある原典批判の仕事や翻訳のお陰で、徐々に「真の」アリストテレス、「真の」プラトンが開かれ始めていた。アリストテレスとプラトンは今や、単に歴史的偉人として時代の前に登場するのではない。それだけでなく、プラ(93)トンの愛の学説、イデア説、それに新しく形成されたアリストテレスの霊魂説が、直接影響力を持った力として時代の思想に関与するのである。これによって、ここでは至る所、生き生きとした運動が展開される。一つの運動がある地点に到達し、確固たる体系化が行われたかと思うと、いずれもそれらは直ちに克服され、更に新しい地点、新しい体系を目指して凌駕されていくのである。 クザーヌスの学説もまた、こうした運動に引き入れられる。しかし、一層詳細な考察において明らかにされるのであるがーークザーヌスの学説の影響はこの分野においても見紛う事無く明々白々の事実であるが、その影響は体系全体からというより、単に基本的な個々の問題と動機から発しているのである。これらの問題と動機は、いまや視点に入り込んできた新しい哲学的課題全体に適合されうる限りにおいて、取上げられ更に紡がれ、発展されるのである。しかも、こうした適合自体、様々の困難、障害を克服して初めて可能とされたのである。このような生涯は、「ルネサンス」精神が15世紀中葉から後葉にかけて体験した内的変化を思い起こすとき、理解しうるものとなる。 クザーヌスの哲学的主著と、フィチーノあるいはピコのそれを分かつ時間的隔たりは、わずかに一世代でしかない――しかもそれらを互いに対置させるとき、ただちにその抽象的な問題性においてばかりでなく、思想の調子それ自体においても、すなわち、精神的な態度全体においても、はっきりした変化が認められるのである。またこの面からしても、ルネサンスの「中世」からの解放があたかも直線的な絶えず進捗する発展と言う形で行われたと言うような信念が、いかに謝っているかが明らかになるのである。ここで問題になるのは、そのような静かで均整の取れた発展、内部からの単なる成長といったものではない。ここで行われている諸力の戦いにおいては、常に一時的な、全く不安定な均衡しか達せられない。クザーヌスの体系もまた、宗教的な真理概念と哲学的な真理概念、信仰と知識、(94)宗教と世俗教養との偉大な対立におけるそのような均衡を意味したのである。 クザーヌスの宗教的楽観主義は、あえて世界全体を結合できるとした。人間とコスモス、自然と歴史を自らのうちに引き入れて、自らのうちで調停しようと試みたのである。しかし、ここで克服され結合されねばならないはずの相対立する諸力の強さを過小評価したのである。このような悲劇的な過ちは、クザーヌスの哲学においてばかりでなく、彼の生涯、彼の政治的・教会的活動にも現れている。彼はこうした活動を教皇の絶対権力に反対する闘争ではじめる。『普遍的な和合について』(De concordantia catholica)なる著作で、教皇職に対してクザーヌスは全体教会の主権説を対置させている。この全体教会は普遍的な宗教会議に具体化される限り、司教や教皇の上位にある。教皇はカトリック教会の統一を代表するものである.彼は一つの教会の象徴である。これは教会其者がキリストの象徴であるのと同様である。しかし、原像が模像に、キリストが教会に優越しているように、教会も教皇に優越している。しかし、このような基本的な理論的確信は、既にバーゼル宗教会議の闘争中に難破してしまう。早くもここでクザーヌス自身、教会の統一と言う理想を堅持し、教会の分裂と没落から教会を守るためには敵陣営に身を投ぜざるを得ないと思うのである。 彼は教皇派に改宗し、以後ずっと教皇派に留まり、自今、その最も強力な支柱と目されるようになるのである。彼の全生涯、その政治的・精神的活動は、このような教会ヒエラルキーの圏内で行われる。このヒエラルキーの名において、彼は世俗的な反対の要求に対して闘い、その戦いをぎりぎりのところまで推し進め、その結果、自由と生命を危険に晒すことにもなる。思想においてクザーヌスは相対立する諸力を結合し、体系的な統一と調和に結び付けようと企てたが、生活の場、直接彼の立っている現実生活において再びこれらの力が対立するのを、ここにおいて既に我々は知るのである。クザーヌスはこうした幻滅のさなかにあっても、偉大な楽観主義者であり、偉大な協(95)調家であり、また諸対立の可能にいて必然的な「一致」を信じ続けたが、しかしその後の歴史の進展はこのような希望を益々裏切っていくように思えたのである。 歴史の進むところ、新しい力は今やそれ自身明確な意識を持ち始め、その発展において限界を知らず、また狭まりもせず、それぞれが完全な独立を要求したのである。こうした要求に対して、哲学は二重の方法で対処しえた。即ち、スコラ哲学の打ち立てた古い思想の建造物の基礎を一個一個取り払うことによって、その要求を促進し支持しえたであろう。――あるいは古典的=人文主義的教養の与える手段によって、このような建造物を修復せねばならなかったか、そのいずれかである。15世紀哲学はこうした二つの傾向に分かたれるのである。しかし徐々に後ろ向きの運動、即ち、スコラ学的思想形式の「修復」の試みが益々拡張し強さを増していくのである。15世紀後半の数十年間は、フィレンツェのプラトン学園の支配した特色ある時期であるが、この時期にこうした運動がその最盛期に達しているのである。
 フィチーノ学説の歴史的位置と根本性格 哲学はあらゆる方面から迫ってくる世俗的な力に対する塁壁、掩護物となる。しかし、哲学がこのような課題を実現しうる為には、クザーヌスの到達したあの独立したとくシュア方法論の最初の萌芽を再び危険に晒しーー哲学は益々「神学に後退し形を変えていかねばならなかった。マルシリオ・フィチーノが彼の主著に『プラトン神学』Theologia Platonicaというタイトルを与え、ピコ・デッラ・ミランドラが哲学的・文学的活動を始めるに当たって「ヘプタプルス」、すなわちユダヤの創造史の比喩的な注釈を持ってしたということは決して偶然ではないのである。確かに、近代の偉大な観念論体系においては、プラトン主義は科学的哲学の基礎として理解されており、ライ(96)プニッツのごとき思想家においては「いわば永遠の哲学」Perennis quaedam philosophiaの要求ともなったが――フィレンツェのプラトン主義は「いわば敬虔な哲学」Pia quaedam philosophiaの要求で満足したのである。この際、信仰は完全にその中世的=教会的形式において「盲目的信仰」Fides implicitaとして革新される。フィチーノの書簡には次のように述べられる――「当然ながら私は人間的に知ることよりも神的に信ずる方を取る。Ego certe malo divine credere quam humane scire.」。 我々はこの尖鋭化された成句において、いまや再びあの信仰と知識との間の緊張がいかに高まったかを感じるのである。『デ・ドクタ・イグノランティア』の原理において、クザーヌスはこうした緊張其者を指摘しているが、同時に、彼はまさにこの原理の中にはこうした緊張を哲学的な方法、思弁的な方法で克服できる手段が存在するのを知っていたのである。フィチーノもピコもこのような思弁の道を辿ろうと試みる。しかし、最早知識それ自体ではその始まりと終わり、その出発点と目標地点を保証し得なくなっているのである。いまや、それらを保証出来るのは啓示のみである――なかば神秘的、半ば歴史的な意味で理解された啓示である――。 フィレンツェのサークルの生活感情を、主としてロレンツォ・マニーフィコの頌歌やあるいは彼の「謝肉祭歌」Canti carnascialeschiに従って判断するとすれば、きわめて一方的な観念像を得ることになろう。事実、ここでは芸術と美の崇拝が世界と官能の崇拝になっており、事実の純粋な「此岸性」に対する喜びが強力にとらわれることなく表現されているが、たとえそうであるとしても、やがてこうした根本感情の表現の中に他の響きが混じってくるのである。いまだサヴォナローラが登場せず、いまだ本来の彼の歴史的活動も始まってもいないのに、このサークルには殆ど彼の影を認める事が出来るのである。フィレンツェの学園の本来の代表的な人々が最終的にはサヴォナローラに屈服し、彼の前では殆ど抵抗力を失って拝跪してしまったという事実は、彼等の世界像に最初から混(97)じっていた禁欲的な特徴を考慮に入れるとき、初めて理解しうるのである。 ふぃリーの野生涯において、まさにこの禁欲的特徴が益々その精神的形式と倫理的な態度全体を決定していくのである。フィチーノ自身の報告によれば、44歳のとき重い病を得た後、哲学や世俗作家のものに慰めを求めたが、その甲斐もなかったという。聖母マリアに祈願して快癒の徴を祈った後にはじめて本復したというのである。いまやフィチーノは、この病気を、哲学のみでは魂の真の救済には不十分であると言う神意のあらわれとして説明する。彼は異教徒の過ちを宣伝して、その共犯者とならないよう、自らものしたルクレティウスの注釈書を火中に投じてしまう。そして宗教の為にのみ、信仰の強化と不況の為にのみ、自らの哲学的・文学的活動全体を方向付けようと決意するのである。 ピコ・デッラ・ミランドラは同時代人にとって光り輝く存在であり、真に「精神の不死鳥」であると思われていたのであるが、このピコの姿にも徐々に陰影は愈々深く暗く覆いかぶさってくる。最初は約束された上昇の時期で、人間精神の力に対する、人文主義的な生活=教養理想の力に対する殆ど限りない信頼に満たされていたが、この時期を過ぎると、ここでもまた禁欲的な特徴が増してくる。特に書簡文の中に、強烈に紛れも無くこうした世界否定、世界蔑視のアクセントが現れ出ている。サヴォナローラの戦った相手で、ピコの魂を相手にしたときほど彼が頑固に情熱的に熱狂的に戦った事はなかった――しかも、最終的に勝利を得たのはサヴォナローラであった。死の直前、ピコはサヴォナローラの再三の忠告に従って、サン・マルコ修道院に入ろうとしている。かくして、ピコの生涯の結末においても一つの断念――単に宗教的な教義への回帰だけではなく、教会の秘蹟とキリスト教的=中世的生活形式への諦念に満ちた帰還が現れるのである。
(98)フィレンツェ・プラトン主義における美学的モチーフ しかし、ここで単に逆行的な運動にのみ関わりあっている限り、プラトン学園が偉大なフィレンツェ人全てに与えた強烈な直接の影響――時折あの懐疑的で冷ややかなマキャヴェリの精神をすら捉えたのであるが――そうした影響を説明する事は出来ないであろう。ここでは宗教的=神学的関心が哲学思想全体の態度を規定し、その発展を決定したのであるが、それにもかかわらず、この間に宗教的精神そのものがいまや新しい局面に立つのである。15世紀前半の思想的な仕事から新しい「近代的」な宗教の概念そのものが生長してきていたのであるが、この仕事は失われてしまっていたのではない。プラトン学園とこうした仕事とを結び付けている糸を、仔細に明らかにし、追跡していくことはきわめて困難ではある。しかし他方、一般的な、間接的な関連という事になれば、至るところ明白に認められるのである。 フィチーノの学説とクザーヌスの学説の結びつきは、単に認識問題の設定及び解決に見られる主要な処理の仕方にのみあるのではない。こうした論理的な根本問題以上に、形而上学と宗教哲学の問題において、両者の関係は密接に認められるのである。神と世界との新しい関係はクザーヌスの思弁において確立され、同時にまたクザーヌスの思弁にその特徴的な性格を付与してもいるが、この神と世界の新しい関係はフィチーノにおいても思想的な反対の流れがあるにもかかわらず、依然として力を持っているのである。 そしてこの関係は今や、クザーヌスとは比較的縁遠い一動機から新しい確証を得るのである。世界の宗教的な「正当化」Rechtfertigungを試みるに当たって、クザーヌスは本質的には数学的・宇宙論的諸問題を持って始めたのであるが――フィレンツェの学園は再三再四、美の奇跡、芸術家的形式=芸術家的創造の奇跡に根拠を求めるのである。同じく彼等の弁神論もまた、この奇跡にその根拠が求められたのである。他ならぬ宇宙の美によって、宇(99)宙が神に起源を持つ事が示されるのである。その精神的価値の究極的にして最高の確証が与えられるのである。美は完全に客観的なものとして、即ち、尺度と形式として、事物そのものの比例および調和として現れる――しかし、こうした客観的なものを精神はそれ自身に属するもの、精神の本質から出てきたものとして捉えるのである。教育の無いありふれた理性ですら美と醜を識別し、形の無いものから逃れ、形のあるものに向かうのであるが、そうであるとすれば、この事から美の確固たる規範は一切の経験や教えから独立して、そのもののうちに内在している事が結論付けられるのである。   「いかなる精神も事物のうちに丸い形を始めて見出すとき、それを称賛する。しかもその称賛する理由は分からないのである。また、我々は建築物においては壁の均整さ、石の配置、窓や扉の形状などを称賛する。同じく人間の身体においては四肢のプロポーションを、旋律においては音の調和を称賛する。仮にどの精神もこれら全てを可とし、しかもその可なる理由を知らずに可とせねばならないとすれば、これは自然の必然的な本能によってのみ生じ得るのである……したがって、このような判断の根拠は精神に生得のものといえる」 かくして、調和は神がその作品に押印したところの印章となる。調和によって神は自らの作品を高貴にし、調和によってその作品を人間精神と内的で必然的な関係に置いたのである。人間精神は美の知識と自らのうちにある尺度を持って神と世界の間に踏み入るのであるが、これによって初めて、神と世界の両者を結びつけて真の統一を齎すのである。ここで再び、我々はクザーヌスによって刻印されたあの特徴的な形の小宇宙=思想に出合う。この思想において、人間は世界の紐帯として現れる――それは人間が宇宙(コスモス)の全ての元素を自らのうちで統一するからで(100)あるが、単にそれだけではなく、むしろコスモスの宗教的運命がある意味で人間のうちで決定されるからである。人間は宇宙の代表者であり、その全ての力の精髄である。したがって、人間自身、神的な存在に上昇すれば、必然的にその過程によって、その過程において、宇宙の上昇も同時に実現され得るのである。かくて、人間の救済は世界からの人間の離脱を意味するものではない。即ち、人間が離脱した後に、世界そのものは低次の感覚的な領域として放置されたまま取り残されるという事を意味するのではない――人間の救済は今や存在全体に及ぶのである。
 クザーヌスとフィチーノにおける自由概念 フィレンツェの学園はこの思想を受け容れる――かくして、この思想はフィチーノの宗教哲学において最も重要な、最も有効なモチーフの一つとなるのである。フィチーノにおいても魂は世界の精神的「中間」として、すなわち、英知界と感覚界との間の「第三の世界」として現れる。神は時間を包含するが故に時間の上にあるが、しかし同時に時間に全く関与する事の無い事物の下にある。魂は動くものであり不動のものである。単一のものであり多様のものである。魂はより高いものを包含するが――しかしより低いものを見捨てるわけではない。なぜなら、魂は唯一つの運動にのみ没入する事はなく、そのような運動の最中にあっても立ち帰り向きを変える可能性を保持しているからである。こうした方法で魂は、宇宙を静的ではなく、寧ろ力学的に自らのうちに把握するのである。魂は大宇宙(マクロコスモス)を構成する個々の部分から合成されるのではない。その意図に従ってそれら全ての部分に向けられるが、これら目的の方向のどれか一つにのみ固執し没入する事はかつてないのである。しかも、こうした方向は外から由来するのではなく魂自身に基づくのである。魂は優勢な運命の力、すなわち単なる自然の暴力によって感覚的なものに引きずりおろされるのでもなく、またひたすら受動的に受け容れねばならぬ神の恩寵の働きによって超感覚的なもの(101)に引き上げられるのでもない。 この点で、フィチーノはアウグスティヌスと離れるのである。他の点では、アウグスティヌスはフィチーノにとって――ペトラルカにとっても同じであるが――殆ど宗教的な最高権威とみなされているのである。アウグスティヌスからのこうした分離は、再びフィチーノをクザーヌスに結びつける事を意味する。なぜなら、クザーヌスの哲学を支配している基本的な態度からすれば、パウロ的=アウグスティヌス的予定説に対抗すべきはほかならぬクザーヌスだからである。クザーヌスは恩寵の働きに異議を唱えたり、これを制限したりはしない。しかし、クザーヌスにとって、本来の宗教的な衝動が魂の外からではなく魂の内奥から来るものである点については、疑問の余地がなかったのである。なぜなら、魂そのものの本質は自己運動、自己決定の能力にあるからである。『デ・ヴィジオーネ・デイ』において、魂は神に対して語る――。   「汝を所有していない者は汝を見ることは出来ない。汝が自らを与えない限り、何びとも汝を捉える事はない。しかし、いかにしたら私は汝を所有できるのか。いかにしたら私の言葉は汝の下に、我々の近づき得ない汝の元に届く事が出来ようか。いかにしたら、私は汝に請い求める事が出来ようか。なぜなら、全てのものの全てである汝が、汝自身を私に与える事ほど不合理な事があろうか――天や地や、そこに存する一切のもの同時に与える事無く、いかにしたら汝は汝自身を私に与える事が出来ようか。」 しかし、魂が神から受け取った返答はこのような疑惑を一掃してしまう。その返答とは、「汝は汝のものたれ、さすればわれは汝のものたらん」というものである。己自身を欲するか、欲しないかは、人間の自由に任されている(102)――自発的に前者を選んだ場合にのみ、神は彼に与えられるのである。その選択、その最終的な決定は人間自身に任されているのである。フィチーノの著作『キリスト教について』もまた、このような基本的見解に固執している。この書においても、こうした基本的見解からして救済のモチーフは方向を転ぜられ、いまや宇宙も、感覚的世界そのものも、宗教的な意味で救済される事になる。人間の救済は人間自身に新しい存在を与えただけでなく、そのことによって宇宙にも新しい形式を付与したのである。
 世界及び人間の「改革」 このような改造、このような「改革」reformatioは、精神的な新しい創造にも匹敵する。人間が自己自身の神性を意識し、自らの本質に対する不信を克服すれば、これによって世界に対する不信もまた消滅するのである。神はその受肉において、最早世界には向け意識のもの、唾棄すべきものは一切存在しないと言う事を明言し、実現したのである。神はその受肉において、最早世界には無形式のもの、唾棄すべきものは一切存在しないという事を明言し、実現したのである。神が人間を自らの元に引き上げれば、そのことにおいて世界をも同時に高貴にするのである。人間が己の本質を一層深く把握し、その起源の純粋な精神性を一層良く理解すれば、それだけ世界により大きな価値を与えねばならなくなるが――他方、己自身に対する信頼が動揺すると、己も宇宙全体も再び無の中に、即ち、死すべきものの領域の中に突き戻されてしまうであろう。救済思想のこのような解釈は、フィチーノが強調しているように、最早階層的な階段、あるいは媒介の如何なるものをも認めない。神は中間媒体absque medioなしに、己を人間に結びつけたのである。かくして我々は、仲介者なしに神に付着するのであり、この点に我々の救済が存するのを知らねばならないのである。 ここで我々の立っているのは宗教改革への道の上であるが、他方、このような転換を準備したのは正真正銘、(103)ルネサンスの基本モチーフに他ならない。なぜなら、人間の自己肯定が同時に今や世界肯定となるからである。即ち、「人間」humanitasの理念が大宇宙に対しても新しい内容と意味を付与するからである。そしてこのことから、初めて完全に、プラトン学園がルネサンスの偉大な芸術家達に及ぼさねばならなかったあの深い影響力を理解できるのである。外見上の一切の非形式Unformを世界から抹殺する事、一切の形のないものを形に関与しているものとして認識する事――これはフィチーノに言わせれば、宗教的=哲学的認識の総体という事になる。しかし、このような認識は単なる概念に留まっている事が出来ない。行為に移され、行為において確認されねばならない。ここに芸術家の仕事が始まるのである。思弁では単に要求する事しか出来ないが、芸術家はその要求を実現するのである。感覚界が形式と形態を持っているということ――このことを人間は感覚界に絶えず新たに形式を与える事によってのみ保証する事が出来るのである。感覚界の一切の美しさは、究極的に感覚界そのものから由来するのではない。そうではなくて、次のような事実に基づいているのである。すなわち、感覚界はいわば人間の自由な創造力が確認され、自らをそのようなものとし認識する媒体となると言う事実にである。 しかしこのように考えると、芸術は最早宗教的観点の外にあるのではなく、宗教的過程そのものの一つの契機となる。救済が人間の形式と世界の形式の革新として、真の「改革」reformatioとして捉えられるならば、精神生活の焦点は「理念」が物としての性質Koerperlichkeitを獲得する地点、芸術家の精神に存在している悲感覚的な形象が目に見える世界に躍り出て、現実化されるその地点にあるといえる。したがって、単に形作られたもののみを凝視して、形成という基本的な行為そのもののうちに沈潜しない限り、一切の思弁は必然的に誤ることになる。レオナルドは次のように述べている――「事物の探求者よ、自然がその自然の営みにおいて生み出した事物についての知識を誇ってはならない。お前の精神の立案した事物の目的と目標を知って喜べばよい」。レオナルドにとって(104)科学と芸術はこのような種類のものである。なぜならば、科学とは理性によって、芸術とは想像力によって生み出される自然の第二の創造だからである。そして両者、即ち、理性と想像力とはここでは最早互いによそよそしく対立するのではない。なんとなれば、両者とも人間の、造形一般への同一の原動力の異なった表明に過ぎないからである。
 人間精神の無限性 ここで再びこのような思想の前史を振り返ってみると、人間精神と神との「生き写し」Ebenbildlichkeitという基本モチーフに対して、クザーヌスの学説が与えた重大な変化に突き当たる。クザーヌスにおいては、最早この生き写しのモチーフは人間精神と神との事実的=内容的な「類似性」Aehnlicheを意味する事は無い。なぜなら、そのような生き写しは『デ・ドクタ・イグノランティア』の原理、すなわち「有限なものと無限なるものは如何なる関係にもない」finit et infiniti nulla proportioという原理によって初めから排除されているからである。かくして神と人間はその存在においても、その働きにおいても、類似したものではないのである。なぜなら、物そのものが生ずるのは神の創造によるが、これに対し、人間精神は常に単に物の記号、象徴にのみ関わりあうだけであるから。他ならぬこれらの象徴を人間精神は自らの前に立て、認識においてそれらを関係させ、厳格な規則にしたがって互いに結びつけるのである。神が物の実在を創造するとすれば、人間は理念の秩序を打ち立てるのである。「物を生み出す力」vis entificativaが神のものとすれば、「同化の力」vis assimilativaは人間に属するのである。 しかし神の精神と人間の精神がこのようにある意味で異なった次元に属し、その存在形式と物を作り出す対象において互いに異なっているとしても、それにも関わらず、両者の関係は創造の仕方そのもののうちに存するのである。(105)真の比較点tertium comparationisはここにのみある。神と人間との関係は、我々が完結した事物世界から引き出してくる如何なる比較によっても把握されえない。なぜなら、問題になるのは動的な関係であって、静的な関係ではないからである。ここで要求され追求されるのは何らかの実態の本質上の比較ではない。そうではなくて行為における一致、作業における一致である。事実、模写と言うものは、我々がどれほど多く原像の実体的本質をそれに伝えようとしても、そのことによって死んだ模写であるという事実が止むわけではないのである。働きの形式における一致が、初めて模写に生の形式を与えるのである。 創造力そのものである神を「絶対的な芸術」と仮定して、今これが自己自身を一つの画像に具体化しようと決意したとすると、この場合、ニ重の道が可能となろう。まず、一般に創造されたものが取り得る限り多くの完全性を備えた画像を生み出す事が出来るであろう。しかしこの画像は他方、既に可能な完全性のまさにその限界に立っているので、最早この限界を越えることは出来ない。あるいはこれとは別に、それ自体不完全ではあるが、それ自身を絶えず高め、原像に益々近づけていく事の出来る力を備えた画像を作り出す事も出来るであろう。これら二つの画像のうち、どちらが優越しているか疑問の余地がない。ある画家によって描かれた一人の人間の、あらゆる点でそっくりそのままの肖像画を考えてみる事が出来よう。しかし、この肖像画は黙したままで死んでいるといえる。他方、それ自体対象にそれほど似ていないが、画家によって運動する能力を与えられた肖像画を考えてみる事も出来よう。この二つの肖像画の関係が、先の第一の画像と第二の画像の関係に妥当するのである。まさにこうした意味で、我々の精神は無限の芸術の完全な生きている画像である。なぜなら、人間の精神もまた創造の初めにおいてその現実のあり方の点で、このような無限の芸術にはるかに劣ったものであるが、それにもかかわらず、益々自らをそれに適したものに作り上げていく事の出来る生得の力を持っているからである。 (106)したがって、人間精神の特殊な完全性についての証明は次の点に存する。即ち、それが如何なる目標に達しても、停止しないで絶えずその目標を超えて新たな問いを発し、それに向かって努力していかねばならないと言う点にである。感覚としての眼が、眼に見える如何なるものにも満足させられず、限界づけられないように――なんとなれば目は見る事に飽き飽きするということは決してないので――知的な眼も真理の注視に決して飽きる事はないのである。この地点にいたって、恐らく、ルネサンスのファウスト的な基本的態度Grundstimmungが、その最も明晰な哲学的表現と最も深い哲学的な正統性を獲得したのである。無限への衝動、与えられたもの、到達されたものに留まる事が出来ないという性質、これらは精神の罪ではない。精神の傲慢さでもない。そうではなくて、精神が神に起源を有する事の印であり、その不滅性の印なのである。 ルネサンスの精神生活の全ての領域に、このような特徴的な基本モチーフが如何に入り込み、如何に変化して行ったか、我々は一歩一歩辿る事が出来る。この基本モチーフは、フィチーノの哲学的な霊魂不滅説の中心にあるが、同様に、レオナルドの芸術理論の中心にもある。クザーヌスは無限概念について三重の方向と三重の意味を区別していた。何となれば、絶対的に=無限なるものAbsolut-Unendlichenとしての、最大そのものとしての神は人間の知性では到達出来ないものであるが、この絶対=無限の神に対して、相対的に=無限なるものRelativ-unendlichenの二つの形式が対立しているからである。その一つは世界に、他の一つは人間の精神の中に示される。世界においては絶対者の無限性は次のような比喩で表現され、その比喩の中に反映させられる。即ち、宇宙とは空間的に限界のないものであり、何処までも茫漠とした広がりで伸びている、という比喩である。――人間の精神においては、絶対無限との関係は次の点に、即ち、人間の精神はその働きの進行Fortgangにおいていかなる「これ以上はない」ne plus ultraをも承認しないと言う点、その努力に対する如何なる限界も承認しないという点に示される(107)のである。 クザーヌスのこのような基本的見解は、その宇宙論的な側面について言えば、ずっと後になってはじめて、16世紀の自然哲学において、特にジョルダーノ・ブルーノにおいてはじめて影響力を持つが、他の側面、すなわちその思弁的な心理学の側面について言えば、クザーヌスの見解はフィレンツェ学派によって取上げられ、更に発展させられるのである。フィチーノの主著『プラトン神学』は完全にクザーヌスの見解に基づいている。確かに、この作品は古代及び中世の模範に大きく依存しており、プラトンやプロティノス、、新プラトン主義者やアウグスティヌスに見られる霊魂不滅説の議論を全て新たに繰り返しているが、それにもかかわらず、この作品の論証の力点の置かれたところ、認識の情熱が傾けられたところ、それは次のような考量に対してである。すなわち、精神のみが始めて時間的な境界の一切、生成の連続的な流れの一切を一定の段階と周期に区画するが故に、精神は時間の中で消滅し得ない、といった考量に対してである。 こうした時間についての知識によって、断然、精神は時間を超える事が出来るのである。その知識とは即ち、時間の無限の進行についての知識と、その厳格な時間単位決定の知識である。時間単位が決定される事によって、時間の無限の進行はある意味でとめられ、思想を媒介として「定着」festgestelltされるのである。同じように、我々は意志の側面からも同じような結論に導かれる。なぜならば、意志は全ての有限な目的設定を越えてその先に目的を据える事によって、真に人間的な意志になるからである。自然の全ての存在と生は一定の生活圏で満足し、その状態に留まろうとするが、人間にとっては全て達成されたものは、いまだ獲得すべきものが何か存する限り、つまらないものに思われるのである。人間にとって休息すべき時点は存在し得ない。また、停止すべき地点も存在し得ないのである。こうした思想が完全な意味を持つのは、それが個としての人間の本質から種としての本質(108)に向けられたときーーすなわち、心理学的な考察圏から歴史哲学的な考察圏に拡大されたときである。
 クザーヌスとフィチーノにおけるキリスト=理念 そして、ここでもまた、これら二つの領域の橋渡しをするのはフィチーノの宗教哲学の根本思想である。クザーヌスによれば、人間全体はキリストにおいて統一される。したがって、個々の人間は「全てのものから成る一人のキリスト」unus christus ex omnibus である。フィチーノはまた、こうしたクザーヌスのキリスト=理念を転回し、これを言葉の古代=ストア主義的な意味での人間性理念に変えていく。この結果、一つの歴史哲学が可能となる。すなわち、宗教の概念が専らここの信仰形式にではなく、歴史的な信仰形式全体に具体化されているのを見る事に成功する限り、この歴史哲学は、未だキリスト教的な教条的な思想圏に留まってはいたものの、やがてその教条的な狭さを次々と克服していく事になる。しかしこれとともに、アウグスティヌスがその著『神の国について』De Civitate Deiにおいて作り出したような、キリスト教的歴史哲学の古典的形式は粉砕されるのである。アウグスティヌスにおいては、専ら歴史の目的にのみ考察の眼が向けられる。歴史の意味はその目的において初めて目に見えるものとなるからである。堕罪と救済は宗教的な両極である。特殊な出来事は全てこれによって初めてその神学的な解釈を与えられるからである。フィチーノにあっては今や、視線はこのような出来事の幅の広さそのものに注がれることになる。これによって発展の思想が宗教的な領域に受け容れられ、神崇拝の形式と段階の多様性が神観念の統一性そのものから正当化されるのである。真のキリスト教は、信仰の敵を絶滅せよ、とは要求しない。理性によって説得し、教育によって改宗させるか、あるいは静かに許容するかを望むのである。なぜなら、何時の時代でも地球の何処かに何らかの神崇拝の形式と無関係の地域が存在するのを神意は許さないからである。神意にとっては、(109)あれこれの儀礼や仕草で崇拝されるという事ではなく、どんな形でも一般に崇拝されると言う事実が問題なのである。信仰と礼拝の一見、最も下等で愚かな方法でも、それがその必然的な限定において人間的な形式であり、人間性の表現でさえあれば、神意に適うのである。 ここにおいて我々は、フィチーノの哲学がたとえ徹頭徹尾、啓示という神学的な概念に結びついていたとしても、まさにその概念そのものの内部で弁証法的な急展開を準備していたのを知るのである。人間性の歴史を内包する全ての精神的な価値は統一的な啓示に換言され、啓示において基礎付けられるが、たとえそうであるとしても、逆に、このように追い求められた啓示の統一はまさに他ならぬ歴史の全体の中に、その形成物の相対の中に求めらるべきであるという思想がここに存しているのである。全てを拘束する教条的Dogmatischな定式で表現される抽象的な単一性に取って代わって、今や宗教的意識の取る形式の具体的な普遍性が登場する。これは、こうした意識が自らを表す象徴の差異性を、その必然的な相関物として持つことになる。(エルンスト.カッシーラー著 末吉孝州訳『ルネサンス哲学における個と宇宙』太陽出版・1999年)