2009年4月5日日曜日
現代歴史学者による社会史総論
歴史家達―――社会史と文化史の発見(43) ルネサンス期にいかに多くの際立って創造的な人間達が集中的に輩出したかを説明する事は―――古代ギリシアやローマの場合と同様―――ルネサンスの当時から歴史家達にとって大きな問題であった。人文主義者レオナルド・ブルーニは政治こそが問題を解く鍵であると考えていた。彼はタキトゥスと同様、共和国ローマの終焉がローマ文化の崩壊を意味すると考えた。「ローマ共和国が一人の人物の権力に服従した後」、タキトゥスも言うように、その卓越した精神は消滅した」。こう言う事で、かれはフィレンツェ人たちが達成した文学的業績は彼らの政治的自由の結果である事を(少なくとも暗示的に)示唆しているのである。それから百年後に、マキャヴェリは「文」が社会で繁栄するのは「武」の後であり、まず武将が登場し、続いて哲学者が現れる、と述べている。 しかし、この問題を最初に詳しく分析したのはジョルジョ・ヴァザーリであった。ヴァザーリは言うまでも無くイタリア・ルネサンスの美術史にとって最も不可欠な源泉である。彼は画家であると共に著述家でもあった(とは言え彼はルネサンスの末期に生きた人であったために、我々とラファエロ前派との距離と同じくらいマザッチョの時代から離れており、そのためその情報は二次的、(44)三次的のものであったが)。我々はヴァザーリを、ルネサンス建築家達が古代ローマの遺跡を利用したように、原資料の採掘場として活用している。しかしながら、我々は彼自身が本格的な歴史家であったことに留意すべきであろう。ヴァザーリの最大の関心事はここの美術家の業績であったが、彼はその画家・彫刻家・建築家の伝記の中で我々が社会的要因と呼ぶものについても関心を払っている。彼はブルネレスキ、ドナテッロ、マザッチョといった最高級の天才が郡を為して輩出した事に感銘を受け、(自然がある職業に傑出した人間を作り出すときは、多くの場合たった一人だけを作るのでなく、同時にその傍らにもう一人の傑出した人間を作り出して互いに競い合わせるのが、自然の習わしである)と述べている。 ヴァザーリはまた「ペルジーノ伝」の中で、フィレンツェが美術に対して為した測り知れない貢献に言及しながら,ペルジーノの師の口を通じて、フィレンツェには概して他の都市には欠けていた三つの刺激があった事を指摘している。 :第一は、人々のかまびすしい批判の習慣である。この町の空気は根っから自由で才気ばしった人間を作り出すので、誰もが凡庸な作品には満足しなかった……第二に、そこに住もうとする者は勤勉でなくてはならないことである。と言う事は、絶えず機転と判断力を聞かせる事を意味していた……というのも、フィレンツェは周囲に広くて肥沃な土地を持たないので、人々は他の町での様に生活が容易ではなかったからである。第三に……栄光と名誉への激しい願望(45)であるが、それはこの都市の空気があらゆる職業の才能ある人々のうちに生み出すものなのである: 近代の読者は、こうした都市の空気に究極的な原因を負わせる事を奇異に思うかもしれないが、しかしヴァザーリが、我々が経済的・社会的心理学的な説明と呼ぶものを、挑戦と応答、偉業への欲求という観点から説明している事を見落としてはならないだろう。 しかしながら、18世紀の人が「習俗mannerの歴史」と呼び、我々が文化史や社会史と言っているものと多かれ少なかれ一致する歴史が体系的な研究の対象となるのは、漸く18世紀になってからのことであった。例えば、ヴォルテールは歴史家の関心を戦争から芸術へと向けようとした。彼の『習俗論』は――-ヴァザーリと似ていなくも無い言葉で―――16世紀とは「自然が、殆ど全ての分野において、とりわけイタリアにおいて、卓越した人間を作り出した」時代であった、と指摘している。 啓蒙期の著述家達はルネサンスの原因として自由と富の二つを挙げている。シャフツベリー卿は「絵画の復興」を「市民的自由、すなわちヴェネツィア、ジェノヴァ、継いでフィレンツェに起こったイタリアの自由都市国家」によって説明した。若しギボンが計画通りにフィレンツェの歴史を書いていたならば、彼の著名な『ローマ帝国衰亡史』と同様、自由と芸術の関係が中心的な主題となっていたことだろう。いずれにせよ彼が書けなかった本、或いはそれに近いものが、(46)それからほんの数年後にリヴァプールの銀行家ウィリアム・ロスコーによって著された。彼の『ロレンツォ・デ・メディチの生涯』は次のように始まる。 :近代史に於てフィレンツェは、その内部紛争の頻発と激しさによって、またあらゆる種類の学問やあらゆる芸術生産への市民の旺盛な関心によって注目されてきた。しかし、これらの特徴がいかに矛盾して見えようとも、それらを一体のものとしてみることは難しくない……。自由の防御は常に精神を拡大し強化することとみなされてきた。: 自由のテーマはスイスの歴史家シスモンディの『イタリア共和国史』(1807-18)においてさらに徹底して展開されることになった。 啓蒙思想の一般的な考え方では、自由が商業を促進し、商業が文化を促進すると考えられた。音楽史家チャールズ・バーニーは次のように述べている。「全ての芸術は、成功した商業の産物とは言わないまでも、その伴侶だったと思われる。そして両者は、概して、同じ発展過程をたどったように見える……。すなわちそれらは商業と同じように、まずイタリアに、継いでハンザ同盟都市に、そしてネーデルラントに現れた」。スコットランドの社会理論家達も同じ意見であった。アダム・ファーガソンは「美術の進歩は概して繁栄した国家の歴史の一部をなしてきた」と述べている。グラスゴーのジョン・ミラーは、フィレンツェが芸術と同様「手工業」manufactureにおい(47)ても主導的役割を果たした事を指摘し、アダム・スミスは、芸術と学問と社会の関係一般についての本を著す事を計画したが、実現していれば、そこでは―――彼の『国富論』におけるように―――イタリアの都市国家が際立った場所を占めたに違いない。 スコットランドの理論家達はニュートンの考え方に沿った社会科学の実現を夢見ていた。文化の変化に関する彼らのモデルは機械的なものであったといえるだろう。ちょうど同じ頃、それに変わる有機的なモデルがドイツで誕生しつつあった。J.J.ヴィンケルマンは『古代美術史』(1764)において、ヴァザーリ式の美術家列伝に取って代わる重要な第一歩を踏み出した。この本で彼は、美術史を「体系的に明瞭なものに」するために、芸術と気候風土、政治体制その他との関係について論じている。J.G.ヘルダーは文学の歴史の発展に大きく貢献したが、彼は文学を特定の地域的環境から自然成長的に発生するものと考えた。スコットランドの理論家達が文化的変化を商業の影響によって論じたのに対し、ヘルダーは芸術と社会を同じ全体の部分とみなした。「人々は生きて思考するように、建設し居住する」。イタリアの場合、彼は商業と手工業と競争の「精神」を強調した。同様に一定の文化における有機的な統一性を強調する考え方は哲学者ヘーゲルの『歴史哲学』(1837)に見出されるが,ヘーゲルは芸術を(政治や法律や宗教と同様)「時代精神」の様々な「客観化」として説明した。ヘーゲルはルネサンスを論じて、芸術の開花、学問の復興、アメリカの発見を精神の拡大の互いに関連した三つの事柄とみなした。 (48)カール・マルクスもまた世界史におけるルネサンスの位置に関心を持った。彼はヘーゲルによる意識の強調を逆転し(「生活は意識によって規定されるのではなく、寧ろ意識が生活によって規定される」)、芸術と経済の関係に対する18世紀的な関心に立ち戻った。とは言え、彼は、物質的生産と彼が「文化的生産」geistige Produktionと呼んだものとの間の緊密な関係について、ファーガソンやアダム・スミス以上に関心を示した。マルクスとエンゲルス(『ドイツ・イデオロギー』)は、文化的「上部構造」は経済的な「土台」によって形作られるものであり、イタリア・ルネサンスの場合、「ラファエロのような一個人がその才能を発展させられるかどうかは受容に全面的に依拠しており、その需要は労働の分業とその結果生じる人間の文化の諸条件に依拠している」と主張した。ロシアのマルクス主義者プレハーノフ(『歴史における個人の役割』)は、「受容」よりも「供給」について、またルネサンスの歴史における個人の役割について補足し、次のように書いている。「もし……ラファエロやミケランジェロやダヴィンチが幼くして世を去っていたとしたら、イタリア美術はこれほど完全なものにはなっていなかったかもしれないが、ルネサンス期の美術の発展の一般的な趨勢に変わりは無かったであろう。ラファエロやミケランジェロやダヴィンチがこのような趨勢を作り出したのではない。彼らはその趨勢の最良の代表者に過ぎなかったのである」。 ブルクハルトの『イタリア・ルネサンスの文化』は、1860年に初版が出て以来今なお大きな影響力を持っているが、この著書が文化を社会に関連付けようとする長い伝統の中に位置している事はいまや明白であろう。ブルクハルトのイタリア発見は、ヴィンケルマンと同様、(49)彼の人生の最大の経験の一つであった。彼はバーゼルの美術愛好家の貴族の出身で、バーゼルは彼が生まれた1818年にはまだ殆ど都市国家同然の状態であった。彼自身が「万能人」に似た所があり、絵を描き、ピアノを弾き、音楽や詩を書く人物であった。イタリア・ルネサンスは彼にとってその青春時代を理想化した世界であり、また彼が嫌悪した近代の中央集権化した工業社会からの逃避でもあったのである。自分自身が「健全な一個人」であった彼は、ルネサンスを個人主義の時代とみなした。しかし一方、彼が「小論」essayと呼ぶ研究は、彼の先行者達に負う所が大きい。ヴォルテールやシスモンディのように、彼もルネサンス文化にとって北イタリア諸都市の富と政治的独立が重要である事を強調した。ブルクハルトは、ある特定の時点の文化を通して彼の言う「断面」を研究する事を好み、歴史哲学を前面に押し出すことはしないと主張したが、にもかかわらず彼の研究方法はいくらかヘルダーやヘーゲルに、そしておそらくはショーペンハウアーにも負っている。彼はこれらの哲学者達と同様に、内的と外的、主観的と客観的、意識的と無意識的といった対極的概念を用いている。彼のルネサンス研究は、個人主義の発展の強調や「芸術作品」としての国家と言う捉え方において、ヘーゲルの古代ギリシア論と類似している。ヘルダーやヘーゲルと同様、ブルクハルトは、少なくとも幾つかの時代は全体として観察されなければならないと考え、その『世界史的考察』(1906)において種々の社会を国家、文化、宗教と言う三つの「力」の相互作用という視点から分析した。そうすることによって彼は『イタリア・ルネサンスの文化』の方法を明確なものとしたのである。 (50)マルクス主義者ではなくとも、いずれの研究にも経済と言う第4の「力」が欠落していることに気付くであろう。ブルクハルト自身もこの事を認めている。『イタリア・ルネサンスの文化』を出版した14年後に、彼は若い友人に宛てて次のように書いている。「イタリアの中世経済の発展をルネサンスの基礎Grundlageとみる貴君の発想は非常に重要で実り多い。それこそ私の研究に常にかけていた点です」。 さらに加えて彼の研究にかけていたのは、著者自身も認めているように、ルネサンス美術に関する本格的な論及であった。ブルクハルトはかねてより絵画の値段やパトロネージに関する資料を収集しており、それらは他の論文と共に彼の死後発見されたが、そこには出版してはならないと言う指示が添えられていた。彼の遺言執行人達は、美術品コレクターと祭壇画と肖像画に関する晩年の三つの小論を出版する事が出来た。しかしこれらの商品は、それぞれ魅力に富んだものであるとは言え、空隙を埋めてはくれないし、イタリア・ルネサンスの建築に関する著書にも、建築の機能に関する的確な論及にもかかわらず、同じ事が言える。これらの空隙は故意に残されていた可能性もある。ブルクハルトは三つの「力」が相互に作用しあう関係に興味を持ってはいたが、しかし彼はまた「美術と文化一般との関連は漠然とかすかにしか分からないものであり、美術はそれ自身の生命と歴史を持っている」と考えても居たからである。 この最後の見解は、ある意味で彼の知的な後継者であった弟子のハインリヒ・ヴェルフリンとの会話の中で,ブルクハルトが述べたものである。ヴェルフリンは自律的な(或いは孤立主義的とすら(51)言える)美術史の支持者と言われる事が多いが、彼の研究方法approachはもっと微妙でいくらかアンビヴァレントなものであった。彼は美術における革新への二つのアプローチを区別した。一つは内的な発展によって変化を説明する「内在論的」アプローチであり、一般に彼はこうした傾向に属するとされる。もう一つは「外在論的」アプローチで、それによれば「ある様式を説明する事は……それを一般的な歴史状況の中に位置づけ、様式がその時代の他の機能との調和の上に存在する事を立証することに他ならない」(『ルネサンスとバロック』)。ヴェルフリンが時折歴史的コンテクストに関して示した啓発的な指摘を見ると,彼が自分自身を概して純様式論的な叙述に限定してきた禁欲的な学問態度には残念な思いがする。結果として、ブルクハルトの知的遺産はヴェルフリンにではなくアビ・ヴァールブルクに受け継がれることになった。 アビ・ヴァールブルクの生涯は彼の同時代人のトーマス・マンの小説に出てくる人物を想起させる。ハンブルクの銀行家の長男に生まれた彼は、実業界を拒否して学問の世界に入った。彼がメディチ家に魅せられたとしても驚くには当たらない。ヴァールブルクはブルクハルトの弟子ではなかったが彼は1892年にボッティチェリに関する論文をブルクハルトに送っている。この「優れた論文」に対する彼の好意的な論評から見て、ブルクハルトは画家と詩人や人文主義者達との交流に関するこの研究を彼自身の研究と本質的に異なっては居ないと考えていた事が分かる。ブルクハルトは、それはルネサンス研究が到達した「全般的進化と多面性」の証言であると書いている。実際ヴァールブルクは多面的な研究者で、美術史を一般的な文化史の一部として扱い、あらゆる種類の知の「境界(52)設定」(と彼が呼ぶもの)を嫌悪した。その一方で彼は「神は細部に宿る」Der liebe Gott steckt im Detailという格言に忠実だった。例えば、ボッティチェリの絵を解釈するために彼はポリツィアーノの詩やフィチーノの哲学を研究した。ヴァールブルクの関心は社会史や経済史へと広がった。彼の著作ではフィレンツェの「ブルジョワジー」と言う概念が重要な位置を占めており、彼の友人の経済史家アルフレット・ドートンはフィレンツェの織物産業に関する研究を彼にささげている。 とはいえ、ヴァールブルクの主要な関心事は古典的伝統の存続と変容であり、ルネサンス美術の本格的で詳細な社会史の出現にはマルティン・ヴァッカーナーゲルを待たねばならなかった。バーゼル出身の美術史家ヴァッカーナーゲルは、工房,パトロン、美術市場などの芸術の生産構造に焦点を当てて、1420-1530年のフィレンツェに関する研究を行った。言い換えれば彼は芸術家の空間Lebensraumと彼が呼び「経済的―物質的であると同時に社会的―文化的なものである環境と状況の全複合体」と定義付けられた、芸術家の環境milieuに研究の的を絞った。本書は、視覚芸術だけでなく学問や文学、音楽をも対象とし、またフィレンツェと言うよりイタリア全体を対象とするものであるが、ヴァッカーナーゲルの研究に負う所が非常に大きい。 ルネサンスの社会史と文化史の間隙を埋めるもう一つの試みが1930年代に行われた。ヴァッカーナーゲルが詳細な社会史或いは「社会誌研究」sociographyを提供したとすると、アルフレート・フォン・マルティンは社会学を提供した。……(53)ブルクハルトと同様フォン・マルティンは個人主義や近代性の起源といったテーマに関心を向けているが、彼はルネサンスの経済的基盤や時代を通じてのその「発展曲線」をブルクハルトよりもはるかに重視している。彼のルネサンスとは「ブルジョワ革命」であった。彼はその論考の第一部で、社会の指導者として貴族や聖職者に取って代わった資本家の出現を論じている。合理的で打算的なメンタリティの交流の背景にあったのはまさしくこうした社会的変化であった。しかし第二部と第3部では、ブルジョワジーが次第に臆病で保守的になり、企業家の個人主義的な思想は廷臣的な順応主義的思想に取って代わられた事が論じられている。 この論文に於て「ルネサンス人」(或いは「ブルジョワ」)と言った一般的な用語が安易に設けられたり(いかなる目的にも適用できる二つの強力な力である)「金銭と知的発展の間のアナロジー」、或いは民主主義と美術における裸体表現との関係が主張されている事を批判するのは容易である。その欠点は部分的には先駆者特有の欠点、つまり一般化の基礎となる文化の社会史における十分な事例研究を書いているという欠点である。にもかかわらず『ルネサンスの社会学』(1932)はブルクハルトを補い修正する研究としての価値をいまだに保っている。現代歴史学者による社会史総論 Nr.2 (53)マルクスとマンハイムの系譜を引くもう一つのルネサンス研究が、一時ヴェルフリンの弟子であ(54)った、フレデリック・アンタルの『フィレンツェ海がとその社会的背景』(1947)である。その著書の冒頭で、彼はロンドンのナショナル・ギャラリーに並んで陳列されている2点の聖母子画―――いずれも1425-26年の間に制作されたもので、一方はマザッチョ作、他方はジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ作―――について、生彩に富んだ比較を行っている。マザッチョの聖母は「即物的で、素朴で、明快」なのに対し、ジェンティーレの聖母は「華麗」で「装飾的」、「聖画風」であると記述されている。アンタルはそれらの相違を、作品が「公衆の異なる階層」のために、より正確には異なる世界観を持つ異なる社会階級のために製作されたと言う事実に(55)よって説明しようとする。素朴で合理的で「進歩的」な世界観を持つ「上層中流階級がマザッチョの絵画を好んだのに対し、ジェンティーレの絵画は保守的で「封建的な」貴族階級に好まれた。アンタルは、マザッチョがフィレンツェの舞台に登場したのは上層中流階級の交流を反映するものであり、彼に追随者が居なかったのはこの階級が貴族階級と同化した為だ、と結論付けている。 こうしたマルクス主義理論の美術史への才気に富んだ適用に対しては賞賛せずには居られない。マルクスの幾つかの中心的観念が、特定の環境における、また芸術と社会の一般的レベルでの解釈を生み出すのに非常に効果的に利用されている。しかしアンタルは二つの重大な誤りを犯している。第一はアナクロニズムの誤り、つまり「進歩的」とか「階級」といった近代的な用語を、そこに含まれている問題への自覚なしに15世紀のフィレンツェに当てはめていることである。第二は―――フォン・マルティンも同罪であると言えるが―――循環論法の誤りである。アンタルも知っているように、ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノのパトロンの一人パッラ・ストロッツィは、マザッチョのパトロンの一人フェリーチェ・ブランカッチの養父に当たる人物である。この二人の人物は異なる階級に属していたのだろうか。アンタルは、上層中流階級の中には貴族階級から封建的な思想を引き継いだ非進歩的な一群が含まれていた、と主張する事で持論を修正した。しかし我々はどのようにして上層中流階級の進歩的な一群とそうでない人々を区別するのだろうか。それは彼らが注文した絵画を見ることによってなのである。 マルクス主義的アプローチへの最も強力な批判はアーネスト・ゴンブリッチ卿がアーノルド・ハウ(56)ザー(アンタル同様、ハンガリーの亡命者)の芸術社会史(1951)に対して行った書評に見出される。ゴンブリッチ(1963)は、「美術の社会史」と言う言葉が持つ二つの意味を区別している。その第一の意味を、彼は「制度」としての美術の研究、つまり「美術がその下で注文され創造された物質的諸条件の変化の解明」と定義している。美術の社会史の第二の意味は美術に繁栄した社会の歴史であるが、ゴンブリッチはそれに否定的評価を下して居る。 実際、美術が直接的に社会を「反映する」と仮定する事は危険であるが、しかし「制度としての美術」と言う言い方もいささかあいまいである。それは恐らくヴァッカーナーゲルの言う生活空間を、言い換えれば工房とパトロンの世界、或いは社会学者が「ミクロ社会的」アプローチと呼ぶものをさしている。ルネサンス美術の社会史に冠する価値ある研究は、ヴァッカーナーゲルからゴンブリッチ自身によるメディチ家のパトロネージの研究や、マーゴットとルドルフ・ウィットカウアー夫妻による美術家の研究まで、こうした路線に沿って行われてきた。イタリア文学の社会史も同じような線に沿って研究され、カルロ・ディオニソッティによるルネサンス期の著述家達に関する先駆的研究を生んでいる。 しかし「美術がその下で注文され創造された物質的諸条件の変化」に関する研究を、直接的な環境に限定するべきか、或いは社会全体に拡大するべきかと言う問題が残る。当時の絵画と芸術パトロネージの関係を考察することは確かに啓発的ではあるが、多くの歴史家達はさらに進んで、芸術パ(57)トロネージと他の社会制度や経済状態との関係について、社会学者が「マクロ社会的」と呼んでいるものを追求したくなるだろう。何人かの歴史家達は実際にイタリア・ルネサンスに関してこの種の問題を提起したが、その答えはロベルト・ロペスのように経済的要因を強調したり、ハンス・バロンのように政治的要因を強調するといった具合に、互いに異なるものであった。 ロペスの関心は、とりわけジェノヴァの経済史にあったが、彼は14-15世紀は概してヨーロッパとりわけイタリアにとって経済的後退の時代であると主張した。彼はこの後退理論がルネサンスの経済的前提条件に関する従来の見解に支障をもたらす事を十分に自覚していた。「上部構造」は経済的「土台」とずれを生じているように見える。彼は、このずれを文化は経済の後について歩むと主張することによって説明しようとする試みを、断固として拒絶する。「周知のとおり、文化的遅滞とは、他のいかなる手段でも結びつけることの出来ない出来事を結びつける功妙で融通の聞く発明品である……ルネサンスとは……過去の経済にではなく、それ自身の経済に条件付けられていた」。ロペスがした事は、慣習的な見解を覆し「不況期と文化への投資」とう仮説を主張することであった。彼は、中世のイタリアでは経済が大活況を呈しながらも教会堂は小規模であったのに対し、中世のフランスでは巨大な聖堂が建てられながら経済は余り奮わなかったという事実に注目し、大聖堂が経済成長をもたらす可能性のあった資本と労働力を食いつぶしてしまったと言う仮説を打ち立てた。逆に言えば、ルネサンスの商人達は仕事がさほど忙しくなかったから文化活動に費やす時間を(58)多くもてた、と言えるのかもしれない。文化の価値は「土地の価値が減少したまさにその瞬間に増大した。商業的利率が減退したときに文化の価値は上昇したのである」。ここで言う「投資」と言う概念をどのくらい文字通りに受け取るべきかは分からないが、……いずれにせよ、文化の繁栄理論にいまや重大な競争相手が現れた事は明白である。 ルネサンスに関するいっそう政治的な解釈は、ヴァイマール共和国で成育し、共和主義的価値を遵奉し続ける学者ハンス・バロンによって前面に押し出された。フィレンツェと初期イタリア・ルネサンスの「危機」に関する彼の研究は、1400年前後に起こった観念の重要な変化を論じている。「この頃までにイタリアの都市国家という市民社会はすでに何世代にもわたって存在しており、恐らくすでにその最盛期を過ぎていた」。彼は知的変化に関する単純な社会的な説明を退け、それに代わってシャフツベリー、ロスコー、シスモンディにとって親しい「自由」と言う伝統的なテーマに立ち返りながら、また政治的自覚にいっそう大きな力点を置き、鍵となる政治的事件を具体的に分析しながら、政治的な説明を提供する。バロンは、1400年ごろ、フィレンツェ人は突然自分達の集団的アイデンティティとその社会の独自の特徴に覚醒したと主張する。この自覚によって彼らは自分達を古代世界の偉大な共和国であるアテネやローマと同一視するようになり、この古代との同一視によって彼等の文化には大きな変化がもたらされることになった。バロンはフィレンツェ人の自意識の増大を、ミラノの支配者ジャンガレアッツォ・ヴィスコンティ―――彼はフィレンツェ(59)を自分の領国に併合しようとして失敗した―――による都市の自由に対する脅威への応答として説明している。自らの理想を自覚するには、そのために戦うこと以上にふさわしいことは無い。 バロンの研究の価値は、ロペスのそれと同様、ルネサンスに関するそれ以前の解釈を一掃したことにあるのではなく、それが共通の認識に付け加えたことのうちにある。例えば、バロンの政治的諸事件の強調は、その基礎にある社会構造を考察することなしには十分な意味をなさない。一例を挙げれば、何故フィレンツェは、他の都市国家が降伏したときにミラノに抵抗しえたのだろうか。 より一般的なレベルでは、ミクロ社会的アプローチとマクロ社会的アプローチは、相反すると言うより寧ろ補完しあうものとして捉えられるべきだろう。それぞれが危険な面と欠点を持っている。マクロ社会的アプローチには「グランド・セオリー」と呼ばれるもの特有の危険―――情報の過小と解釈の過剰、厳格すぎる概念枠組み―――が伴う。この方法は「社会的な力」が(それ自体の生命力を持って)荒々しく直接的に「文化」に作用すると言う印象を与える傾向がある。一方、ミクロ社会的アプローチは、分析より記述、事実の羅列に傾き、解釈が希薄になると言う逆の超経験主義に陥る危険性を持っている。 望ましいのは、新旧の広範な諸理論を検討しつつ、経験的な研究を一般的な総合に組み込もうと試みる多元的なpluralisticアプローチであろう。(ピーター・バーク著 森田義之・柴野均訳『イタリア・ルネサンスの文化と社会』、岩波書店・2000年)