2009年4月2日木曜日

文化的・社会的変化(世代)

文化的・社会的変化(世代)(378) 短期の変化を研究するにあたって、有効劃魅力的な概念のひとつが、「世代」である。この概念が魅力的なのはそれが、自らを一つの集団に属するものとみなし、他の集団からは距離を置く、という経験から生み出されたように思えるからである。ブローデルの研究では最も弱かった領域、即ち事件の歴史と構造の歴史との間のつながりを分析するのに、この概念は手がかりになる。ルネサンス(379)期の美術家や著述家達のように自己意識の強烈な集団の場合には、世代という概念は特に有効であるように思える。実際にマニエリスムを巡る議論で、美術史家ヴァルター・フリートレンダーが「祖父世代への回帰法則」を定式化した点にそれが明確になっている。彼は次のように主張する。「ある世代が父親や教師たちの世代の考え方や感情を意図して無視する場合、父親の世代に先行する時代に逆戻りして、父親達が強烈に反抗した諸傾向を受け入れる事がある」。 一つの世代は約30年間、つまり成熟から引退までの期間続くとしばしば言われる。しかいながら成人としての活動期間の平均は時代によって異なるし、親とこの年齢さも時代によって異なる。いずれにせよ世代とは客観的な事実ではなく、文化的構造物なのである。社会階級の場合と同じように、ある世代に属しているという意識は個人の経験の重要な部分である。社会階級の特質と同様に、世代の特質は、社会学者カール・マンハイムが「社会的歴史的過程の中での共通の位置」と呼んだものであった。マンハイムによれば、共通の市を持つ事は特定の種類の行動を促し、それ以外の行動を禁じる事になる。 世代意識というものが歴史的プロセス自体によって作られるとすれば、さまざまな世代は長さにおいて等しくなる事はないし、選考する世代との断絶の厳しさが等しくなることも無い。大事件はある年齢集団の構成員達を通常よりも互いに緊密に結びつける傾向がある。一例を挙げれば、ミゲール・デ・ウナムーノからホセ・オルテガ・イ・ガセットにいたる、「1898年の世代」として知ら(380)れるスペインの著述家達がいる。彼らはスペインがもはや大国ではないということを認識する点で互いに結びついていた。そうした鋭い世代意識が(社会的文化的変化が加速した結果として)19世紀と20世紀に特有の現象であって、それ以前の時代に適用することについては注意する必要がある、という考え方もある。とはいえ、ルネサンス期イタリアの大事件が、歴史の中での共通の位置を意識する特定の年齢集団を作り上げたかどうか、そしてこの意識が芸術に影響を与えたかどうか、少なくともそれは考えてみるだけの価値がある。 世代を作り上げる上で15世紀前半の政治的事件の重要性を強調する意見が何人かの研究者から出されているが、良く知られるものとしてはハンス・バロンが「初期イタリア・ルネサンスの危機」と彼が呼ぶものの研究の中で主張している。1395年から1402年まで在位したミラノ公ジャンガレアッツォ・ヴィスコンティは、ヴェローナ、ヴェチェンツァ、パドヴァを獲得し、更にピサ、ペルージア、シエナ、ボローニャを併合することで帝国を築き上げた。実質的に包囲状態に追い込まれたフィレンツェ人達は、次は自分達が征服される順番であると考えたであろう。だがミラノ公がペストによって死亡するまで彼らは自分達の国を守り抜く事が出来た。 フィレンツェの書記官であったレオナルド・ブルーニは、フィレンツェとミラノとの戦いを自由と専制政治との戦いとして提示した。彼はフィレンツェと、その時代に都市フィレンツェの基礎が築かれたとされる、共和制ローマを同一視した。ローマの聡明なる精神が歴代皇帝の圧制の下で消滅してしまったというのが彼の主張の革新であった。貴族ナンニ・ストロッツィの死に当た(381)っての演説で、ブルーにはフィレンツェを古典古代の当てないと同一視し、ペリクレスの追悼演説で表明されたさまざまな価値とフィレンツェを結び付けている。明らかにブルーニはペリクレスを自分のモデルとしていた。 15世紀前半にフィレンツェの視覚芸術において比較的急激な様式の変化が生じた。それは古代ローマの芸術への回帰運動であった。フィレンツェに対するジャンガレアッツォ・ヴィスコンティの脅威が取り除かれたとき、将来責任ある立場に着く芸術家達はちょうど感受性の強い年頃であった。…… 「バロンのテーゼ」は幅広いさまざまな現象に対しても正確で簡潔な説明を提供する。ブルーニとその周辺の人文主義や視覚芸術に対してもそのテーゼは適合する。美術の場合、それは図像表現と同時に形式、つまりより「古代の」スタイルの創造とも適合している。ダヴィデや聖ゲオルギオスの表現は政治的な含意を持っていた。このテーゼは芸術家達と同様にパトロン達にも当てはまる。ブルネレスキとドナテッロは都市のパトロネージから励ましを受けたし、都市のパトロネージは危機に刺激されたのであった。 しかし政治と文化の関係に対するこのような解釈は一見したよりはやや曖昧な部分を含んでいる。1402年の出来事が新しい世代の形成に決定的な意味を持ったのか、あるいはこの世代の形成は1390年代から1420年代に至るより長期にわたる作用なのか、この事は議論の余地がある。(382)バロン自身が認めていたように、或る都市が決定的に重要であると論じる事は論争を引き起こす幾つかの問題を含みこむ事になる。…… ミラノとの全ての戦いに加えて、恐らくはそれ以前のフィレンツェと教皇との間で戦われた八聖人戦争(1375-78)も決定的な出来事であった、と主張するほうがもっともらしいように思える。だが勿論これでは世代を形成するには事件の分布が疎らに過ぎるとも言える。ブルネレスキやドナテッロといった指導的な芸術家達の政治的な姿勢については、ごくわずかのことしか分かっていない事を認めねばならない。また自由を強調したブルーニの議論が彼の心からの信念であるのか、あるいは彼の行政機構内の地位が要求した役人としての態度表明なのか、それも良くわかっていない。いずれにしてもここでの議論はフィレンツェにのみ該当するものである。フィレンツェ人たちは革新におけるリーダーであったが、他の土地にもヴィットリーノ・ダ・フェルトレやグァリーノ・ダ・ヴェローナといった重要な人文主義者、ピサネッロやヤコポ・ベッリーニのような重要な画家達が居たのである。この二人の人文主義者たちは君主に対する嫌悪を全く示さなかった。ヴィットリーノはマントヴァの宮廷に、グァリーノはフェラーラの宮廷にそれぞれ雇われている。 文化に深い衝撃を与えたと想像されるもう一つの政治的事件は、1453年におきたトルコ人に(383)よるコンスタンティノープルの征服である。ルネサンスの説明として長い間さまざまな文書の中で述べられてきたこのテーゼの起源は、当時にまで遡る事が出来るが、中でもロンバルディアの人文主義者ピエル・カンディード・デチェンブリオに求められる。この説によれば、コンスタンティノープルの陥落はギリシア人学者にイタリアへ移住する事を迫り、彼らとともにギリシア語とギリシア文学をもたらし、それが古代の学問の復活を刺激した、というのである。このテーゼに対する明確な反論は、ギリシア人学者たちが1453年以前にもイタリアで活動をしていたことである。ゲミストス・プレトンとベッサリオンは1439年のフィレンツェ公会議に列席し、ベッサリオンは、そのままイタリアにとどまった。デメトリオス・カルコンデュラスとテオドロス・ガーザは1440年代にイタリアに到着している。だが、1402年のケースと同じように、特定の都市に余り狭く関心を集中させるのは恐らく間違っている。重大な政治的事件とはトルコ人たちの西方への進出であって、その事は1453年以前でも十分明らかな事実であった。実際のところ、ラテンとギリシアのキリスト教徒たちのフィレンツェ公会議における「和解」の背景にあったのは、トルコの脅威であった。人文主義者テオドロス・ガーザがイタリアに赴いたのは、彼の生地であるテッサロニキが1430年にトルコ人たちの手に落ちた後のことである。コンスタンティノープル陥落後、より多くのギリシア人学者、例えばヤノス・アルギュロプーロスやヤノス・ラスカリスがイタリアの土地を踏んだのである。 これらの移住者達はイタリアの学問の世界に重要な影響を与えた。……(384)彼らの果たした重要性は、既に存在していた需要を彼らが満足させた点にある。コンスタンティノープルの陥落はキリスト教世界に衝撃をもたらしたが、それが一つの世代を互いに結び付けたとは思えない。事実、1420年から1450年までに生まれた美術家や著述家達(例えばフィチーノやギルランダイオ)は、彼らの直ぐ前の世代と比べて政治的志向のはるかに弱い集団であったように思える。それは前の世代に対する反発であったのかもしれないし、あるいは彼らが青春を過ごした時期がイタリア半島の比較的平和な時代、つまりイタリア内の勢力均衡の時代であったからかもしれない。 基本的にフィレンツェのものである二つの世代のあとに、純粋にイタリアの世代といえる一つの世代が登場する。1460年から1479年の間に生まれた創造的なエリート85人のうち、わずか21人がトスカーナ人であった。いずれにしてももろもろの政治的な事件が1460-90年世代(マキャヴェリ、グィッチャルディーニ、アリオスト、ベンボ、ミケランジェロ、ティツィアーノ、ラファエッロなど)にイタリア人としての共通の運命を認識させる事になった。1494年のフランス軍のイタリア侵入とそれに続く長い戦争、イタリアの支配権を巡るフランス(シャルル8世、ルイ12世、フランソワ1世)、スペイン勢力(カトリック王フェルディナンド)と帝国(マクシミリアンとカール五世)との間の戦いなどで彼らの人格形成期は彩られている。侵略者に抗するにせよ侵略者の側で戦うにせよ、多くのイタリア人が死んだ。多くの都市が占領され、略奪を受け(385)た。…… 1494年はイタリアにとって、そして実際ヨーロッパにとっても、その当時から現在に至るまで転機の年と考えられてきた。フランチェスコ・グィッチャルディーニとレオポルト・フォン・ランケは1494年を歴史叙述の起点とした数多くの優れた歴史家の中から僅か二つの例に過ぎない。1494年がイタリア文化史の断絶を記すとは想定できないにしても、そうした考えを支持する証拠を見つけるのはそれほど困難ではない。 この混乱期に芸術家や著述家達が離散した経過は比較的容易に追う事が出来る。例えばフィレンツェでは音楽家ハインリヒ・イザークが1494年、彼のパトロンであるメディチ家が追放された年にこの町を離れている。ナポリでは都市改造計画がフランス軍の侵入で中止され、建築家フラ・ジョコンドはシャルル8世とともにフランスに戻った。ミラノでの最悪の年は1499年であった。この年にロドヴィーコ・スフォルツァはフランス軍の手から逃走し、彼の宮廷に居た芸術家達は離散してしまう。建築家ブラマンテ、彫刻家クリストフォロ・ソラーリ、音楽家ガスパール・ファン・ウェルベックらはローマへ行き、歴史家ベルナルディーノ・コリオは自分の領地の屋敷に隠棲してしまった。1509年にはベネチアが攻撃を受ける番であった。ベネチアは占領されなかったものの、本土の領地は侵略された。パドヴァ大学は数年間閉鎖され、印刷業者アルド・マヌツィオは(386)(経済的理由もしくは政治的理由で)三年間ベネチアを離れた。 マキャベリとサヴォナローラの二人が、苦難の時代に対する二つの全く異なる意識的な反応を示している。サヴォナローラには、フランス軍の侵入は新たなる洪水という彼の予言が現実化した事を意味した。シャルル8世が教会を改革する為に神が使わした道具であるとして、イタリアに侵入できたのはイタリアの侵した罪のせいである、と彼は論じた。ジョヴァンニ・ネージのような何人かの人文主義者たちも、直ぐに「新しい時代」が来る事を待ち望む点でサヴォナローラに同調した。マキャヴェリにとってもシャルル8世が簡単にイタリアを征服した事は一つの教訓であったが、彼がそこから学び取った事はサヴォナローラとは違うものであった。人間が「恩知らずで、気まぐれで、うそつきで詐欺師」である事、政治において決定的なものは理性ではなく力である事をマキャヴェリは学んだ。彼の著作は、グィッチャルディーニと同様に「前提条件の危機」と呼ばれていたものを反映している。15世紀の人文主義者たちの型にはまった知識、人間の完全性についての考え方や政治における理性の役割といったものが、さまざまな出来事の中で疑われるようになる。スペインの1898年世代と同じように、マキャヴェリからサヴォナローラに至るイタリアの1494年世代も、反応の仕方はそれぞれ違ってはいても、彼らを打ちのめしていた災厄を説明しようという同じ要求に動かされていたようにみえる。思考様式と同じように、芸術様式にこの災厄がどの程度まで影響を与えたかを語るのはより困難な事である。ボッティチェリの例は影響が確かにあった事を示している。フランス軍の侵入があ(387)ったとき、ボッティチェリは既に40代後半に達していたが、彼の作風は1494年以降劇的な変化を遂げた。彼の初期の絵画に見られる晴れやかさは、例えば『死せるキリストへの哀悼』やあるいは『神秘の降誕』などの作品の不安な雰囲気に置き換えられてしまう。後者につけられた銘文は、苦難の時代に対する一人の画家の反応を明らかにする珍しいくらい直接的な証拠である。ボッティチェリはその時代を、サヴォナローラと同様に、千年王国の立場から解釈していた。「私アレッサンドロはこの絵を、1500年の末、イタリアの混乱の時代、一つの時代と半分の時代の後、即ち聖ヨハネの第11章で言われる悪魔が3年半の間解き放たれるという黙示録の第二の災いのときに描いた。やがて悪魔は、第12章に述べられているように鎖につながれ、この絵におけるように地に落とされるのを見るであろう」。しかしながら一般的には残された証拠からは、当時の政治的事件と絵画の作風との間に密接な関連を見ることは出来ない。フィレンツェの画家バッチョ・デッラ・ポルタはサヴォナローラの熱心な支持者であり、1500年にドミニコ会修道士になってフラ・バルトロメオという名で知られるようになったが、彼の作風は変化しなかった。世界の破滅を描いたレオナルドの素描の数々は16世紀初頭から描かれており、それはイタリアの破滅が彼の周囲で起きていたときの事であったが、彼の手稿には両者の関連を示唆する証拠は何もない。レオナルドの作風はこの時期には変化していない。フランス軍の侵入に際しても、レオナルドはミラノを離れてすら居ない。 1494年から33年後にもう一つの暗黒の都市が訪れ、それもまた一つの時代の終わりを告げ(388)る事件として考えられてきた。それは皇帝カール5世の軍隊によってローマが略奪を受けた1527年の事である。1100年以上も前にアラリックとヴィシゴート人たちの略奪を受けて以来、これはこの都市に起きた最大の災厄であった。この事件は当時の人々からは政治的大変動とみなされたが、1494年の侵略と同じように、限られたものではあれ、感じ取れるだけの影響を芸術に与えた事も明らかである。1527年の直前の時期には、ローマはパトロネージの際立って輝かしい中心であった。芸術家や著述形はこの「世界の中心」caput mundiに群れを成して集まっていたため、その離散振りは更に壮観であった。アレティーノ、背バスティアーノ・デル・ピオンボ、ヤコポ・サンソヴィーノの三人はベネチアへ向かい、ミケーレ・サンミケーリもその後ヴェネチアに仕える事になった。……(389)「ペストで死んだものも居れば、流浪を余儀なくされたものや貧困に苦しんだものも居る。県で切り刻まれたものも居れば、連日の拷問を受けたものも居る」。 略奪はローマの文化的優越に終止符を打った。それが一つの世代を作り上げたのか、あるいは表現様式の変化をもたらしたのか、その判断はより難しい。1402年から1494年までの時期の場合と同様に、関心を1527年に集中させてその前後の時期を無視するのは誤りであろう。1520年代はイタリア人にとって恐るべき時代であった。それは基金とペストの時代であり、ジェノヴァ、ミラノ、ナポリ、フィレンツェなどの都市がローマと同じように敵軍の包囲と略奪を経験したのである。1520年代は精神的な機器の時代であった。精神的危機があまりに曖昧に響くとすれば、それは教会に対する厳しい批判の時代であり、新しい厳格な修道会の創設につながると同時に、ルターの思想に対する関心にもつながっていった。行商本の形で予言が普及した事は、普通の都市住民がこの危機と批判と再生への期待の運動に参加した事を示している。危機に対する教会の反応は1542年の(異端審問の中央集権機構である)聖庁Sant’ufficioの設立と、その数年後の禁書目録の作成につながる。教会による検閲が効果を拡大していった事は、1550年以降のイタリアにおける芸術の発展にとって決定的な要因となった。 1520年代はマニエリスムと美術史家たちが現在呼んでいる様式が登場した時代でもあった。これは遠近法やプロポーションの規則或いは建築的モティーフの組み合わせなどとの関係を断ち切った様式であった。規則破りの良く知られている例としては、ジュリオ・ロマーノが設計した(390)マントヴァのパラッツォ・デル・テであり、その外壁のフリーズに刻み込まれたトリグリフが三つ目ごとに狂った位置につけられており、崩れてしまうような印象を与える。これは、一種の建築の上でのジョークであったが、規則や理性を拒否する事がこの苦難の時代に対する反応であったのかどうかを問うだけの価値は或る。この厳しい時代は新しい世代を作り出すことを助けた。その世代の中にはアレティーノ、ベルニ、フォレンゴといった著述家達や、ポントルモ、ロッソ、ジュリオ・ロマーノ、チェリーニ、パルミジャニーノ、ヴァザーリなどの美術家たちが含まれている(全て1492-1511の間に生まれている)。時代的雰囲気としては、猛烈に世界を拒否する事とシニカルにそれを受け入れる事との間を揺れ動く、不安定なものであった。その動きを説明できれば様式の変化を世界観の変化を表現するものとして説明できるであろうし、世界観の変化は現実の世界の変化に対する対応として生じたものである事も分かるだろう。この世代を「疎外された」世代であるという学者達さえ居るのである。 そのような説明はあまりにも単純すぎる。なぜなら様式の変化が、少なくとも部分的には、芸術の外の世界に対する反応というよりも芸術に対する反応である可能性をそうした説明は無視しているからである。いずれにしても、殆どの芸術家達の内面の動きと周囲の世界に対する彼等の反応に関しては、そうした説明を裏付ける証拠が欠けている。例外的な人物の一人であるミケランジェロはひとつ前の世代に属する。彼は当時の宗教運動に熱心に参加したが、青年時代にはサヴォナローラに、晩年にはイグナティウス・ロヨラに共感を示した。彼が残した書簡(391)や詩からは精神的な苦悩が感じ取られる。しかしながら、ジュリオ・ロマーノやパルミジャニーノといった芸術家達の生涯とその性格について分かっている僅かな事柄からは、彼等とミケランジェロでは随分と違っている事が伺える。確実に言える事は、マニエリストたちは同一の経験にさまざまな遣り方で反応し、1527年の略奪はその経験の中でも最も重要なものであったという事である(391)(ピーター・バーク著 森田義之・柴野均訳『イタリア・ルネサンスの文化と社会』、岩波書店・2000年)