2009年4月2日木曜日

バロンのブルーニ解釈

『イストリアのピエトロ・パオロに捧げられた対話録』 [ブルクハルト]は古代の再生とイタリア民族精神の覚醒を結合し、どちらかと言えば、専制国家とその僭主たちが文化発展に果たした役割を活写した。これに対しバロンは民族精神の起源と性格をとりわけフィレンツェとその共和主義に求め、自由な政治の元での市民文化のはつらつとした勢いを強調した。それが、15世紀初頭の危機から生じたフィレンツェの市民的ヒューマニズムを特徴付ける事になり、その代表格がブルーニであった。[が果たしてブルーニがそのようなヒューマニズムに相応しい政治意識の持ち主であったのか、サルターティのほうがより明瞭な市民的ヒューマニストであったのか、フィレンツェの言う自由がいかなる自由なのか。ヒューマニズムをレトリックの伝統とみなし、ヒューマニストはあくまでも修辞学者であって「市民的」である必然性を全く認めないJ・E・シーゲルのバロン批判について]。…… サルターティが中世の慣習や思考法を保持していたのに対し、ニッコリはラテン語正字法をはじめ、熱心な教養あ(84)る古典主義者として知られていた。本書でいやおうなしに人目を引くのは、ニッコリに拠る際立って差異ある発言が前後の巻に見られる事である。最初の巻で彼は、フィレンツェの三花冠で、俗語表現でも多くの市民に受け入れられていたダンテとペトラルカとボッカチオが、古代の学問が途絶え、優れた教師も重要な古典も掛けていた、中性の暗黒に身を置いていたと攻撃する。次の巻では逆に、ダンテ解釈を改め、学問をよみがえらせたペトラルカをたたえるなどして、この三人に対する評価を一変させる。このような発言の趣旨は、彼らを重んじるサルターティを刺激する為だった、と言うのである。 ……バロンに拠れば、会話の舞台を移した、一日違いでのニッコリの矛盾した見解は、作者ブルーニの心境の変化に由来する。つまりブルーニが1402年のフィレンツェの勝利に突き動かされて、フィレンツェの文化伝統を見直した事に起因していると考えるのである。従ってブルーニは、前巻とは全く異なる歴史意識から後の巻を書き下ろした事になる。 古典との相同性 これに対してシーゲルは、ブルーニを含むヒューマニストが「職業上のレトリシャン」であったとの認識から出発する。この為弁論家として彼の目的は雄弁の追求にあったと見、次のように言う。「ブルーニの同時代人から見れば、両巻でのブルーニの演技は何よりもまず、いかなる問題のいずれの側をも説得的に表出可能な能力を示す,弁論家の演技と映った事であろう」。シーゲルはこのような事例を、キリスト教徒のキケロと称される、ラクタンティウスの『神の教え』から引用し、ブルーニの著者自体の範としてキケロの『弁論家について』をあげる。シーゲルによるなら、ブルーニの著作は流動する状況に(85)かかわりなく、古代の書物の体裁に影響を受けた事になる。 それでは何故、キケロの書がブルーニの『対話録』の範となりえたのであろうか。シーゲルに拠れば、ブルーニが提示した問題は本質的にキケロの扱った問題と同一であったから、範足りうる事が可能であったのである。「それはヒューマニストの文化にとって、知識とよく話す能力との関係の問題であった。『弁論家について』で議論されている問題は、野心ある弁論家が哲学を研究すべきか、つまり真の雄弁は哲学の知識を必要とするかどうかであった」。 キケロの当該作品で……広範な知識が弁論家に求められている事は確かである。哲学に関しては道徳哲学(倫理学)の完全な理解と弁証術(論理学)の重要性が強調されるとともに、弁論の訓練としての一般的論題、総論、つまりテシスに基づくアカデメイア派やペリパトス学派の教育方法が推奨されている。この点で、キケロは教養ある哲学的弁論家というイソクラテスの理念をよみがえらせた。 シーゲルは、キケロとブルーにそれぞれの著作の類似点として、キケロ作でストア派の哲学が、ブルーニ作でスコラ学が否定されていること、また前者で先のニ哲学派が、後者でフィレンツェの3文人、特にペトラルカが最初否定され、後に肯定されている事などを指摘する。こうしてシーゲルはブルーニがキケロの諸著作を雄弁によって洗練された哲学と、また1300年代の三人をレトリックと結合した真の学問への参与者と捉えている、と述べた上で『対話録』は論理の一貫した作品であると断言する。 またブルーニの……『フィレンツェ頌』については、……ここに流れているテーマ、人的にも自然的にも大変恵まれた同市の特別な存在をたたえる見方と、『対話録』の第2巻にの(86)み現れる、フィレンツェ文化の再評価に伴う愛国的感情とは、その第1巻と名事項に書かれた「ピエトロ・パオロ・ヴェルジェーリオあての献呈の辞」で触れられているから……そのテーマと愛国的感情とは第1巻執筆中に心中に既に存在したのであって、1402年の出来事とは一切関係が無い、と。…… 結局シーゲルが打ち出すブルーには、そのヒューマニズムが市民的でなくレトリック的である以上、生涯「実践的な1レトリシャン」の域を出ず、彼をフィレンツェの自由を礼賛する愛国主義の持ち主、市民的ヒューマニストと捉える必要は全く無い事になる。 15世紀初頭フィレンツェ史の重要性 バロンは、シーゲルの……ヒューマニストが職業上のレトリシャンであったという解釈に反論する。それとともに、シーゲルが経済史家A・サポーリに倣って、12世紀から15世紀に掛けてのイタリア史を、一つのまとまりある時代として捉え、15世紀初頭の際立つ重要性を12世紀以来の連続的発展の中へ解消しようとする、その時代区分にも異を唱える。バロンに拠れば、15世紀初頭フィレンツェのヒューマニストは、コムーネの生活への積極的な参加要求,共和政的自由と「民衆」政体の存立、倫理的価値と歴史の見方、フィレンツェと古代ローマの対等性、また俗語発達の可能性などに関し、独自の見識と確信を持っていた。……(87)バロンに取り、ブルーニの著作年代に関しては半歩譲れても、ヒューマニズムを、特にこの期のヒューマニズムを中世のレトリックの伝統に解消する事は決して許されないのである。…… バロンが、ブルーニを職業上のレトリシャンの一人とみなさぬ主たる理由は、ブルーニのフィレンツェへの臣入れにあろう……[フィレンツェとその支配領域]の関係は社会経済史家などの間で注目されてきたが……トスカーナ地方に占めるフィレンツェの重要性にかんし、バロンは次のようにも述べる。サルターティやブルーニのようなフィレンツェ生まれで無い移住者が、この街の伝統に触れながら成長していく様は複雑な事柄であるにしろ、ヴェネチアやフィレンツェのような都市国家の(88)「政治的ヒューマニズム」を理解するに至るなら、すべてのヒューマニストが、政治的・倫理的に定見の無い職業上のヒューマニストとする事は,真理からはるかに遠い、と。(88)(根占献一著『フィレンツェ共和国のヒューマニスト』、創文社・2005年)