2009年4月2日木曜日
世界観、その主な特徴(社会観)
社会観(301) ルネサンス期のイタリアにおける「社会」に関して最初に言うべきことは「社会」と言う概念が当時まだ存在しなかったことである。社会システム相対をさす一般的な用語としてそれが使われるようになるのは17世紀後半のことである。…… 繰り返し立ち現れるのは、プラトンやアリストテレスまで遡る「統治体」corpo politicoというイメージである。……人間の身体と統治体とのアナロジーを当時の多くの人々はまじめに考えており、このアナロジーが多くの専門的な議論の背景として存在している。かくしてカスティリオーネの『宮廷人』に登場するある人物は君主制を「より自然な統治形態」と定義することになるというのも「われわれの身体で全ての器官は心臓の支配に従う」からである。支配者はしばしばこの統治体の「内科医」として描かれる。この表現は決まり文句となるが、それをマキャヴェリのように独創的で意図的に意外な主張を述べる著作かですら時には使っている。例えば『君主論』第3章でマキャヴェリは政治的混乱が、診断は困難だが治療は容易な事態から始まり、診断は容易だが治療は困難な事態で終わ(301)ると述べている。 しかしながら政治学の用語としてこの種の「自然的」もしくは「器官的」な言葉を用いるのは、他の何処よりもイタリアでは少なかった。「統治体」に対抗する概念である「国家」lo statoの概念が展開しつつあり、これは公的福祉、政体、権力構造を意味内容に含む言葉であった。アルベルティによる家族に関する対話編に登場する人物は次のように断言している。「私は国家をまるで自分の店であるかのように考えて、自分の所有物とみなす事を望まない」。ロレンツォ・デ・メディチの手になる劇『聖ヨハネと聖パウロ』の中で皇帝コンスタンティヌスは「若し娘と私の単なる家臣との結婚を認めれば、私は国家を重大な危機に陥れることになる」と語る。…… イタリア半島の中に共和制の国々と君主制の国々の両方が存在していた為に、政治システムgoverno, reggimentoが神の与えたものではなく人間が作ったものであって変更しうるものである事を人々は通例以上に認識していた。フランチェスコ・グィッチャルディーニはその著書『イタリア史』の中の良く知られた一節で、1494年のメディチ家の逃亡の後、寡頭制と民主政、そして両者の中間の制度を比較していずれが優れているか、と言う点を巡ってフィレンツェで展開された論争を報告している。政治制度が変更しうるものであると言うこの認識(303)こそが、この時代の理想の都市国家を巡る著作の核心に存在する。アルベルティとフィラレーテの建築論が描き出すのは、建築術のユートピアであると同時に社会的なユートピアでもある。レオナルドによる想像上の都市の設計図も、社会生活の計画が可能であると言う同じような認識を表している。マキャヴェッリは政治的革新innovazioneについて非常に明確な議論を展開している。1494年から1530年に懸けてフィレンツェでは政治的問題に関して数多くの報告や論争が行われた。現存するそれらの文書から分かることは、新しい政治の言語とそれが意味する別種の政治的選択が可能であるとの認識がマキャヴェッリやグィッチャルディーニらに限られていたのではなくて、はるかに幅広く存在していたことである。『イタリア・ルネサンスの文化』の中の「芸術作品としての国家」の章でブルクハルトが強調し、論じたのはまさにこの認識であった。 社会的身分の違いに対する意識はイタリアに於ては普通以上に鋭かったように思える。少なくとも身分の違いを表す言葉は非常に洗練されたものが多かった。祈るもの・戦うもの・地を耕すものの三つの集団から構成されると言う中世の社会観は、この三つの職務のいずれにも当てはまらないものが殆どであるイタリアの都市住民に受け入れられるものではなかった。彼らの社会モデルは職務ではなく等級generazioneによって区別されており、それはおそらく徴税のために市民を不勇者・中産者・貧者と等級分けすることから発展したものであった。「富裕民popolo grasso」や「細民popolo minuto」と言う言い方は特にフィレンツェではごく普通に使われており、「中間層(304)mediocri」とう用語が使われている例も少なくない。だが、当時の人々はもっぱら収入の多寡だけで階層を分けていたのではない。彼らは家系や個人をまず貴族nobili, gentilhuonimiか否かで分類する。さらに政治的権利を持つ市民cittadiniか否か、そして、大ギルドあるいは小ギルドのメンバーであるか否かで分類する。彼らの社会的ボキャヴラリーの中で最も重要でありながらもっとも掴まえ所の無い表現の一つが「人民的popolare」というものであった。というのも、この語はそれを用いるものによって意味するところが変わるからであった。社会的上層の出身者が用いると、それは一般の人々全体をさす軽蔑的な言葉となった。一方中間層出身者の場合には、政治的諸権利を享受する人民poploとそれを持たない庶民plebeを区別するために、より大きな努力が払われた。この「庶民」に対する視点は記録にとどめられることが無かった。 社会構造に対する認識と、別種の社会構造も可能であるとの認識は貴族性の定義を巡る議論の中でも明らかになった。貴族性が出自に基づくものか、あるいは個人的な価値によるものか、と言うこの議論は、フィレンツェの法学者ラーポ・ダ・カスティリオンキオの論文(1381)やポッジョ・ブラッチョリーニの対話編『まことの貴族性について』の時期からカスティリオーネの『宮廷人』での議論まで、この時代には比較的頻繁に行われた。この議論はフィレンツェやその他の地域での政治的社会的闘争の文脈の中で考えるべきであるが、それはまた個人の価値に対する当時の関心とも関連していた。 何人かのっ芸術家や人文主義者たちの歴史観―――それは多分もっと多くの人々の歴史観でもあっただ(305)ろうが―――によってもルネサンス期のイタリアは特筆すべき時代であった。すでに論じたように、諸制度が変更可能であるとの思想とともに、時代による変化を認識することと時代錯誤に留意することが広がって行った。『コンスタンティヌス帝の寄進状』として知られていた文書の信憑性に関する有名な批判の中で、人文主義者ロレンツォ・ヴァッラはその文書中に構成の表現が含まれている事を指摘している。「弁論の様式」stilus loquendiが変化するものであり、言語に歴史がある事を彼はよく承知していた。15世紀のも一人の人文主義者フラヴィオ・ビオンドはイタリア語とその他のロマンス語がラテン語から発展したものであることを論じている。またビオンドは『復興されたローマ』という書物を著しているが、この本の中で彼は遺物と同様に文書による証拠を基礎として古典期ローマを再構築する試みを行っている。さらに別の著作の中で彼はローマ人たちの私生活や衣服、そして彼らの子育てのやり方について論じても居る。 15世紀後半にはこうした古代趣味が流行となり、芸術にも影響を与えた。すでに触れたベネチアのロマンス『ポリフィルスの狂恋夢』の中で、主人公たる恋人は神殿や墓所やオベリスクを背景として彼の愛する人を捜し求めるが、そこで使われる言葉もラテン語風のイタリア語なのである。古代への関心の高まりを示す作品を残した芸術家にはマンテーニャ&ジュリオ・ロマーノらがいる。師であり義父でもあるヤコポ・ベッリーニと同じように、マンテーニャは古代の貨幣や碑文を模写することに強い関心を抱いていた。彼はヴェローナのフェリーチェ・フェリチアーノ(306)のような人文主義者たちを友人に持っていた。『カエサルの勝利』やスキピオ像のような古代ローマを再現する彼の作品はきゅべれ信仰を伝える役割を果たしたが、それは古代を歴史的に再構築しようとするビオンドの根気強い著作を絵画的に表現するものであった。ジュリオ・ロマーノについて言えば、ヴァザーリが指摘しているように、彼の手になる戦うコンスタンティヌスの絵はもっぱらトラヤヌス帝の円柱から「兵士たちの衣装、鎧、軍旗、要塞、砦柵、破壊槌やその他あらゆる兵器」を引き写している。 ヴァザーリ自身もこうした過去に対する感覚を共有している。彼の『美術家列伝』はチマブーエからミケランジェロまで時とともに芸術が展開すると言う考え方に従って構成されている。彼は少なくともある範囲までは諸芸術が進歩する事を信じていたが、個々の芸術家に対する評価はその芸術家が属する時代の基準に従って行われるべきである、戸も考えていた。「私の意図するところは、芸術家に対して単に評価を下すことではなく、よく言われるように、場所や時間やその他の状況を考えて相対的な評価を下すことである」。 過去に対する意識のもうひとつの具体的な証拠は古代作品の贋造物であり、それは15世紀に生まれた現象であった。若き日のミケランジェロはファウヌスやキューピッド、バッカスなどを古典的な様式で作っている。古代作品と競うことが彼の基本的な意図であったが、16世紀初頭まで古典彫刻やローマ時代のコインの偽造はベネチアやパドヴァで繁栄を見た事実であった。古代ローマ趣味(307)の流行と美術市場の勃興と言う二つの新しい傾向に対するこのような反応は、偽造品を看破することと同様に、時代の様式を意識することから生まれたものであった。 過去に対するこの新しい意識は、この時代の最も際立った特徴のひとつであると同時に、最も逆説的な特徴のひとつでもあった。古典古代の研究はそれをより忠実に模倣するために行われたが、研究がきめ細かくなればなるほど、模倣はより困難に、もしくはより望ましくないものとなった。フランチェスコ・グィッチャルディーニは次のように書いている。「ことごとに古代ローマ人の前例を持ち出す連中は、なんと言う誤りを犯していることだろう。古代ローマ人がやったようにしようと思えば、現在の国家を当時と同じような条件に持って行って、その上でローマ人の前例に従って国家を統治する必要があろう。古代とは似ても似つかぬ制度を持っているわれわれが、古代との比較を論じるのは常識はずれもはなはだしいものであって、まるでロバを馬と競走させるようなものである」。それでもなお、多くの人々は折に触れローマ人の言葉を引用したものであった。…… もうひとつの逆説とは、イタリアの文化が革新の傾向を強く帯びていたこの時代に、革新と言うこと自体が一般的に悪を考えられていたことであるフィレンツェでの政治的論争の中では「新しいやり方」modi nuoviが望ましくないものであることは当然の事とされ、「あらゆる変革はフィレンツェの評判を落とす」とみなされた。グィッチャルディーニの『イタリア史』の中で「変化」mutazioneという言葉は非難の意味を込めて使われているように思える。そして教皇ユリウ(308)ス2世のように、『イタリア史』の中で、ある人間が「新しいものを求めた」と描かれるとき、不満のニュアンスを明確に読み取ることが出来る。明らかに芸術における革新はより危険性の小さなものであったが、それが革新として認められることは珍しいことであった。一般的にそれは過去への回帰として受け取られた。フィラレーテがルネサンスの建築をたたえゴシックを非難するのは、後者を「近代的」modernoだとするからである。自らを喜んで「近代的」であると認める人物(たとえばヴァザーリ)が現れるのは、ようやくこの時代の終わりごろのことである。(ピーター・バーク著 森田義之・柴野均訳『イタリア・ルネサンスの文化と社会』、岩波書店・2000年)